Tag: 評価

声かけの工夫 距離(ココロの巻)

昨日の記事の続き。
そのココロは…のココロの巻です (^^)

遠くから指し示した椅子に座れる
…ということは
たくさんのモノの中から
椅子に注意を焦点化することができ
それを覚えていられて
なおかつ、椅子にたどり着いた時に
「座る」という動作を遂行することができる
…という能力があることを表しています。

目的地まで歩く+座る
という同時並行課題ができる
目的地を明確化できる
目的地を忘れずに覚えていられる
…ということです。

目的地の椅子のところまでお連れして
その場で「座る」こと「だけ」を 説明する。
そうすればできる方も大勢いらっしゃいます。

物理的距離の遠近によって
必要とされる能力も異なってくる。

ご本人の能力は必ず任意の環境下で発揮されるものなのですから、環境とペアで語られるべき性質のものです。
そこにこそ、私たちの介入・対応の工夫の余地がある。
ところが、現実には、この部分が あまりにも自覚されていないように感じられてなりません。

「対応の工夫」というモノが
いろいろなところでいろいろに囁かれていますが
結局のところ、『ご本人の能力』と 『対応の工夫』とは、一対のものであって切り離しては語れない。

まず、評価があって、初めて工夫を語ることができるのだと感じています。

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声かけの工夫 距離

指差しながら
「あそこの赤い椅子に座ってください」
で、赤い椅子に座ることができる方もいるけれど

赤い椅子のところまできて
「ここに座りましょう」と手で指し示して
ようやく座れる方もいる。

距離…って大事。

そのココロは…明日!

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能力を把握するための評価を

私たちが用いる「テストバッテリー」は
通常は「障害」を明らかにするために用いられている。
そして「障害」を軽減するためにリハを行っている。

でも、認知症のある方に対して
「障害」を明らかにするためにテストをしても
効果的な援助には結びつかない。

臨床で必要なのは、
「能力」を把握するための「評価」だから。

その過程において
「障害」を把握することで
「能力」が把握できることはあっても

認知症という病気は
その定義上、不可逆的な進行性の疾患だから
今、既にある「障害」を軽減するためのトレーニングは
できない。

大切なことは
今ある能力を発揮すること。
埋もれていて活用されていない能力を見いだすこと。
そのための「評価」ができるようになること。
「検査」ではなくて。

「認知症は難しい」という言葉をよく聞くけれど
難しいのは「認知症」じゃなくて
「検査」以外の「評価」が難しいんじゃないのかな?

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引き算で現状を指摘しない

もうひとつは…

現象をあるべき理想像から引き算で観ていろいろ指摘したって
対象者の方はよくはならない。

現象を対象者の方の目標にそって
足し算で積み重ねていく
今の次の状態をこちらが具体的にイメージできることが
対象者がよくなっていくことに結びついている。

次にどうなっていくのか
「具体的に」イメージできていないと
対象者の状態によらず
よくはならないと感じています。

昨日と今日の
この2つの問題は
とてもとても大きな根深い問題だと感じています。

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現象に投影されているコトを観る

現象をみて
その現象にいくら言葉を当てはめてみても
それは評価にはならない。

その現象に投影されている
能力や障害を観ることで初めて評価に結びつく。

ここを誤解している人が多いと思う。

そしてもうひとつは…また明日☆

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評価に基づいた家族支援

評価に基づいた家族支援自分としては、当たり前だと思ってやってきたことが
実は、当たり前ではなかったんだ…と思わされることがよくあります(^^;
家族評価もその1つ。

一時期、インフォームドコンセントでも話題になった説明のありかた。
最近はあんまり話題にならないような気がしますが
こちらが言いたいことを(医学上言うべきことを)ただ言うだけで本当によいのか?
という問題提起がかつて為されていました。

退院支援も同じだと思うんです。
とりわけ、認知症のある方には「対応の工夫」がとても大切だから。

でも、いろいろなご家族がいらっしゃいます。
…療法士だっていろいろな療法士がいますけどね (^^;

老老介護、認認介護という言葉も耳にしますが
キーパーソンが高齢の方だって少なくありませんから、ご家族の介護力の評価は必須だと考えています。

せっかく入院して良くなって退院されるのですから
できるだけ長く家で暮らしていただきたい
良い状態が続いてほしい
そう思えば、ご本人だけでなく、ご家族(心理的環境)と家(物理的環境)の評価は必然です。
家庭訪問は相手のテリトリーに入ることですから、家屋構造だけでなくご家族の状況の理解も進みます。
(ご家族だって病院という場よりも自分の家のほうが話しやすくなることも多いようです)
そんなわけで退院前の訪問指導は必ず行くようにしています。
また、当院はご家族の面会が非常に多いので、ふだんからなるべく状態報告も含めて積極的に声をかけるようにしています。

そういった一連の過程を通して、ご家族のできること、苦手なことなどを把握していきます。
つまり、家族評価…家族の能力と困難と特性の把握に努めています。
ご家族に何をどこまでどんな風に伝えるか、ということは、すごく気をつけています。

在宅生活は長期戦ですから、続けられなければ意味がありません。
ご家族にはご家族の生活だってあります。
介護者が倒れたら在宅生活だって破綻してしまいます。
そのあたりを念頭において、家族評価をおこないます。

話をして「はい、わかりました」と言ったから、このご家族は大丈夫…というような判断はとてもできません(^^;
きちんと「行動」を確認しています。
複数の異なる種類と難易度も違う課題を依頼して、その結果を確認します。
大切なことは、どんな風に…という質的な評価です。
必要であれば、評価をより明確にしぼりこむために「やりとり」を「使う」こともしています。
つまり、対象者の評価をするために場面設定や課題の種類、難易度を工夫するということと同じことをしているのです。
「家族評価は難しい」「そんなのわからない」という声も聞きますが、判断の範囲を狭めることは十分に可能です。

ないものねだりはできない。
できないことを要請したってお互いに苦しくなるだけです。
それよりも、できることをお互い努力する。
できないことでどうしても必要なことは次善の策を考える。

対象者に対しても、ご家族に対しても、チームの仲間に対しても言えることです。
現状を把握することができて初めて適切な対応を考えることができます。

今、できることをする。
そこからスタートする。
そのために私たちができる工夫はいっぱいあります。

障害を抱えた方は
自身の暮らしを変えざるを得ません。
ご家族も今までの暮らしを変えることを否応なく要請されます。
私たちは…?
私たちだって、工夫する…ということを要請されているのだと感じています。

対象者へのリハがオーダーメイドであるなら
家族支援だってオーダーメイドのはず。
どちらも肝心なのは「評価」です。
「評価」があって初めて適切な支援を行うことができます。

私たちの仕事は
対象者を「診断」することではなく「暮らしの援助」であるように
ご家族の介護力を揶揄することではなく「援助」なのですから。

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ゲームは慎重に…

認知症のある方に対して
レクの一環としてゲームをやるでしょう?

認知症のある方にしてみたら
本当に難しいことです。

ワーキングメモリが低下しているから
手続き記憶でないことを覚えることが困難です。

ゲームにはルールが存在する。

説明されたルールを理解し
ルールを覚え続けていて
ルールから逸脱しないように実践する。

この過程が可能であって初めてゲームを楽しむことができる。

にぎやかで楽しいはずのゲームの直後に
かえって混乱してしまう方は決して少なくありません。

私たちがたった○○するだけ
…と思っていることが
Aさんにとっては難しい。

そういうことを「評価を通して」共感できる
ということが大切なんだと考えています。

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