Tag: リハビリテーション

結果としてできるように:「足を大きく前に」?

結果としてできるように
ということを考えています。

どういうことかというと
直接的には「させない」という意味です。

例えば
歩幅が狭いから歩幅を広く歩くように
「足をもっと前に出すように」とは「言わない」

「後に残っている脚の膝の裏側を伸ばすように」意識しながら歩いてもらいます。

つまり
大腿四頭筋を意識して使うのではなくて
ハムストリングスを動きの中で使うように促します。

「え?」と思った方は試してみて。
結果として足が前に出やすくなり
結果として歩幅が広くなるから。

廃用や低運動の問題として
「筋力低下」ってよく言われるけれど
私は疑問に感じています。

筋力低下は結果として起こっている
筋力低下をきたす必然がある
主要問題は身体の使い方、身体の働きの低下であって
筋力低下は二次的に起こっている。

ところが
現行の多くの方法論では
身体の働きを高めずに筋力を強化するから
筋力で過剰代償させてしまっているから
身体の働きを高めるどころか、低めてしまう。

その場の「やった感」「がんばった感」はあっても
動作の改善にはつながらず、身体を痛めてしまうから続けることが難しい。

何回も書いていますが
立ち上がり100回なんて百害あって一利なしですよー。

二次的に起こっていることに対して
表面的な対応だけしてしまうと
(そしてその対応は表面的にでも、見えているからこそセラピストも本人も必要だと誤認しやすい)
一時的には改善したように見えても
それは代償しているだけだから
本質的な改善にはつながらなくて
長期的には逆効果になってしまう。

不適切なスプーン操作にすら適応して誤学習が生じるのと
全く同じことが違うカタチで現れているだけ。

人間の身体は本当に凄い

環境を意識的・無意識的に感受し
総体として常に適応しようとしている。

 

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「あれ?立てた」6

能力を発揮しながら身体を硬くせずに
立ち上がり・立位保持ができるようになるために私が行っていること

1)股関節周囲筋の可動性を上げる
2)骨盤帯と体幹の分離を高める
3)体幹の抗重力伸展活動を高める
4)体幹と肩甲帯の分離を高める
5)骨盤帯と体幹が分離した立ち上がり体験
6)肩甲帯と体幹が分離した立ち上がり体験
7)以上の要素を総合的に含めた立ち上がり-立位保持体験

動ける身体を作る
動けるようになった身体に動かし方を伝える
実際の動作場面の中で動かし方の実践を総合的に行う

何かの動作ができる
ということは、動作遂行に必要な機能・働きができるという
結果として動作ができる。ということを意味します。

結果として起こることを
表面的に何回もやらせるだけでは「結果」につながらないし
結果につながるように「働き」を高めることが必要です。

ROMは結果として広がっていくので
ROM-Ex.だけやっても働きが高まるとは言い難い面があります。
評価のもとにきちんとROM-Ex.をやらないと逆効果になってしまいます。

生活期の方においては
私はあんまりROM-Ex.は行いません。
ポジショニングとかリラクゼーションはやるし
ROMの確認はしてるけど。

本当にお身体がガチガチになってしまっている方が多いです。

ガチガチの身体では動きたくても動けないし
寝ても休息できないから筋疲労も脳疲労も解消されず
余計に身体が動けない状態になってしまっています。
まずはそこから改善し
動ける身体になってから
身体の使い方を再学習しながら動作練習をしていきます。

そして
必要なのは実際の場面そのもので再学習しながら練習することと
その時に失敗や不全感を抱かせないように場面設定することです。

前の記事(「あれ?立てた」シリーズ)で書きましたが
体験を通して再認できる認知症のある方は大勢います。

「できた」「ラクに動ける」という再認をしながら
体験学習ができることが肝要です。

「立ち上がらせてる」と立ち上がれなくなります。
「食べさせてる」から食べられなくなる
のと全く同じ構図が違うカタチで現れているだけです。

「立ち上がる援助」をすれば、立ち上がれるようになり
「食べる援助」をすれば、食べられるようになる

「意図こそが重要」(スティーブ・ジョブズ)

見た目は同じに見えるかもしれません。
認知症のある方の移乗動作をしている
認知症のある方の食事介助をしている

同じ場面で真逆のことは起こり得る

ADL介助、とりわけ、立ち上がりは
1日に何回も繰り返し行われる動作です。

常にチャンスもピンチも起こり得る

課題も解決への道筋も内包している

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「あれ?立てた」5

トランスファーの場面で
膝も股関節も屈曲してしまい
全身に過剰に力が入って硬くなってしまう方だと
重介助になってしまいます。

その方、ベッドで端座位をとって靴の脱ぎ履きをする時に
コロンと後方にひっくり返りそうになりませんか?

仰向けに寝ていても
全身がまるで一本の丸太のようにガチガチになっていませんか?
骨盤と肩甲帯の間で分離運動ができていない状態ではありませんか?

このような状態像の方は
「筋力低下のために移乗動作全介助」と誤認されることが多いものですが
表面的に関節可動域訓練や大腿四頭筋の筋力強化などをしているだけだと
逆効果になってしまい本当に筋力低下を起こし寝たきりになってしまう恐れが非常に高いケースです。

そのような方法は
ご本人にとっても介助する人にとっても良いコトがありません。
今現在も将来にわたっても。

もしも膝や股関節に屈曲拘縮を起こしていて
トランスファーの時に足が伸びなかったとしても
ベッドに寝ていただいた時に伸展制限がマイナス30度くらいであれば
トランスファーの自立度が向上し介助量軽減できる可能性が高いです。
立ち上がりの時の身体の使い方が改善し
立位保持の時に下肢で自重を支えられるようになる可能性が高いです。

どうするかというと。。。(続く)

 

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「あれ?立てた」4

「どうせムリでしょ」と対人援助職が内心思っていながら
表面的に笑顔を取り繕い「頑張りましょう」と表面的に「言う」ことは
最も重要で最も必要な過程を通り越して
結果だけを表面的になぞっている
つまり、手段の目的化をしているだけです。

当然、そのような対応では効果が出るはずもありません。
ところが手段の目的化をしている人は
「私はこんなに頑張ったんだけど効果が出ないのは
やっぱり認知症だから仕方ないよね」
と誤認しがちです。

頑張りどころも頑張り方も
私に言わせればズレてるけれど、
当人にとっては頑張っている(まさしく)ので
結果として誤認するしかないというのも理解はできます。
賛成できないけど。

そういう人には
異なる体験が必要です。

「重度の認知症のある方でも変わるんだ」

そういう体験ができた後で
認識と対応を変えられる人もいる。

変えられない人は
どこまで自覚できているかはともかく
変えたくない、自分は変わりたくないという強い思いと
その思いに至る必然性があるということ。

単にラクして良い目を見たいという人もいるかもですが (^^;
それはないよね。
ラクして良い目を見られるのは
対象者の状態が軽度で心身ともに余力がある方だと思う。

それにしたって
対象者に負担がかかっているわけで。。。
今「問題が表面化しない」からといって
「問題がない」わけではない。

そこを見据えたうえで
いろいろな事情を総合的に勘案して
「問題を先送りする」という判断は有りだとは思いますが
誤認・混同・無自覚とは全然違います。

手段の目的化は
ケアの現場のあちらこちらで散見されています。

それはきっと今に始まったことではなくて
ずっと潜在化していたことなのだろうと感じています。

必要に迫られて作ったマニュアルが次のマニュアルを生む
ということにならないように

目の前に起こることに誠実に対処していく
そこから地道に積み重ねていく

課題も解決への道も
常に目の前に展開されている
そう感じています。

 

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「あれ?立てた」3

体験を通して
「立てるようになるかも」
と実感していただけることが肝要と考えています。

例え、全介助の時からでも
「あれ?」「なんか違う」「楽に動けた」
という体験そのものがまず必要で
その蓄積をしていくと本当に変わってきます。

誤学習を長期間積み重ねてしまった方には
異なる身体の使い方を習得するまでには時間がかかりますが
その過程においても「エラーレスラーニング(誤りなし学習)」を
蓄積することが肝要です。

認知症のある方は体性感覚を通して感受することができます。
再生(自分から思い出す)できなくても
再認(正解を提示されれば思い出せる)できる方はとても多い。
特に体験を通して再認できる方は重度の認知症のある方でも大勢います。

身体に直接働きかけるADLの介助は
その都度再認という能力に働きかけられる貴重な場面
重度であるほど認知症のある方にとって重要な場面と言えます。

でも、実際は逆になって考えられていることがあるんじゃないかな?
「どうせわからないから」
って対応されてしまうことがあるのではないでしょうか?

そうすると
認知症のある方には
「立てない」と思われつつ介助されてるということが伝わり
立ち上がりの場面で
「あ、これは前も立てなかったことだ」と再認し
どう身体を動かしたら良いのかわからないまま動かされることに
頑張って力を入れて適応しようとして
(実際には誤介助誤学習となってしまっている)
結果として、「やっぱり立てない」という再確認にしかならない。。。

介助者も認知症のある方も
双方が「立てない」という認識を強化しあってしまう。。。

そんな現実から脱却していくためには
「エラーレスラーニング(誤りなし学習)」で
異なる体験に基づいた異なる認識を積み重ねることです。

「あれ?」
「立てるかも?」
「立てそう」
と感受しながら
「この前はラクだった」と再認しながら
「できるかも」を積み重ねていく。。。

その第一歩は
認知症のある方の能力を的確に見出すことができる、対人援助職の意思と洞察力です。

そして次に
どう身体を動かしたら良いのかを実地に伝えることができる
そして、動くだけの身体に変化させられる、対人援助職の技術です。

たった一人でも
そのような対人援助職がいれば
認知症のある方は、重度な方でも持っている能力に応じて変わります。

まずは
最初の一人になれるように。。。

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「あれ?立てた」2

「あれ?立てた」

この言葉がスッと出てきたということは
立てないものだと、認知症のある方自身が思っていた
ということを意味しています。

その前提として
立てない体験がずっと続いていたということも容易に推測できます。

さらにその前提として
職員も暗黙のうちに「立てない」として対応していたということが推測できます。

認知症のある方も職員も「立てない」と思い込んでいる。

立ち上がりという日常の中で頻回に行われる動作場面において
体験するたびにその思い込みが強化されてしまっている
まるで催眠にかけられたかのように

こうなると悪循環

どんなに機能アップを意図して大腿四頭筋の筋力強化をしても
実際の場面では真逆の体験をして
思い込みを強化しあってしまっているので
立ち上がれるようにならない
ということになってしまいます。

じゃあ、どうしたら良いのか

別の体験もしくは擬似体験が必要

「あれ?立てた」

そこから次の展開に持ち込める第一歩が始まります。
展開のキーワードは「エラーレスラーニング(誤りなし学習)」です。
なぜかというと。。。

 

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「あれ?立てた」

筋力低下は結果として起こっていて
本当は身体の使い方の問題だった
ということってすごく多くみられています。

お年寄りや
認知症のある方が
歩けても立ち上がれないような時に
「立てない=筋力低下」
という図式的な理解が広まっていますが
声を大にして言いたい。

立てない=身体の使い方が不適切なだけ

身体の使い方のトレーニングをすれば、立ち上がれるようになる

身体の使い方のトレーニングをせずに
大腿四頭筋の筋力強化だけをしても効果がない
表面的に立ち上がりを何回繰り返しても効果がない

立ち上がれるだけの身体の使い方ができているから
回数を重ねられるのであって
立ち上がれるだけの身体の使い方ができていないのに
回数だけやったって無意味どころか逆効果になってしまいます。

頑張ろうと思っても
効果が実感できなければ
自信を喪失してしまいます。

やってみたら効果が実感できた
やってみたら身体が動いた
という体験があるからこそ、
結果として、もう一度頑張ろうと思える。

結果の前提である体験なしに
「頑張れ」と言っても相手には届かない。
手段の目的化の声かけをしているだけだから。

「食べる」こともそうですが
「立ち上がり」も乳幼児期から繰り返し行なってきた
究極の手続記憶でもあります。

全介助でも立位保持できない
両膝が屈曲してしまい、股関節も屈曲してしまい
過剰に力が入っているので移乗時に介助者の負担も大きい方がいました。
(こういうケースは非常に多い)

硬くなっている筋肉のリラクゼーションをして
座り方を何回も繰り返すことによって
身体の使い方をトレーニングしたら
全介助でラクに立ち上がり、股関節・膝関節伸展位で立位保持できるようになりました。

「あれ?立てた」

その時のご本人の言葉です。

私にとって衝撃の言葉でした。
なぜなら。。。(続く)

 

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ADL介助はコミュニケーション

ADL介助はコミュニケーション

結果として起こっている
できる、できないを見て
できないところを介助してそれで終わってしまうのは
本当にもったいない。

ADL
食事にせよ、更衣にせよ、排泄にせよ
認知症のある方は、必ず環境を感受し、その方なりに認識し、関与しようとしている。
一見、不合理であったとしても。

その一連の過程を
私たちが把握することが叶えば
表面に見えなくなっていただけの、能力を観ることにつながる。

能力を把握できれば
私たちの介助も自然と変わる。

「親切に」「優しく」「怒らずに」
というスローガンを唱えずとも
認知症のある方の現状を把握できた結果として
自然と「親切に」「優しく」なり、「怒らない」ようになる。

コミュニケーションだから
双方向に影響をしあう。

たとえ
今すぐに認知症のある方の能力を観ることが出来ないにしても
観ようとしている意思があるということが大切。

コミュニケーションだから
その意思は伝わっている。

コミュニケーションが始まっている。

 

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