Tag: コミュニケーション

忘れられがちな1手間:帰宅要求

「対応に困った時にすべきこと」
ポイントほど見落としたり見間違える
と書きましたが
実際の対応についても
ポイントほど忘れられがち、実践され損なうものです。

認知症のある方が
「家に帰りたいんです。帰してください。」
と言った時に
私は基本的には復唱しています。
「家に帰りたいんですね」
復唱することで、あなたの気持ちを確かに受け止めました
と伝えることができます。

復唱するための所要時間は3秒ほどですが
復唱しないですぐに話を逸らそうとして
話題を切り替える人の方が圧倒的に多いと思います。

「家に帰りたいんです。帰してください。」
(でも外は雨が降りそうだし)
(もう遅いから明日にしませんか?)
(ちょっと待ってて。今お茶を入れますから。)
(タオルを畳んでいただけますか?)

文字にされたものを見ると
話を逸らされた、誤魔化された
訴えたことを聞いてもらえない。。。
という印象を持ちませんか?

認知症のある方は
ただでさえ、不安になって困惑して必死になって帰宅要求をしています。
そこで話題を切り替えられたら
もっとちゃんと聞いてもらおうと思って
言語能力が高ければ、
あの手この手で帰らなければならない理由を訴えるでしょうし
言語能力が低下していれば、
もっと大きな声で繰り返し訴えるようになるでしょう。

つまり
帰宅要求のある方に対して
すぐに話題を切り替える対応は
火に油を注ぐようなものなのです。
そして
無自覚にしているから自身の対応が油を注いでいるとは考えられず
もっと上手に話をそらせようと必死になって油を注ぎ続けるのです。。。

その上
自身の対応の結果として起こっていることがわからない職員は
「帰宅要求がひどい」「執拗な帰宅要求」とレッテルを貼るのです。。。

悪循環になっています。。。

認知症のある方も職員も
どちらにとってもストレスにしかならず辛いだけで良いことがありません。

「家に帰りたいんです。帰してください。」と言われたら、
(家に帰りたいんですね?)
まず、復唱してみてください。

この一言で
「あ、自分の話を聞こうとしてくれてる」
ということが伝わります。

その方にとっての
「帰りたいと思った」必然を聴く入り口に立つことができます。

その方の障害や困難、能力と特性を踏まえて
その時のその方の感情を観察・洞察しながら
「何を」「どんな風に」尋ねようかその都度判断していきます。

  ハンス・オフトの言う「状況把握・判断・行動」の実践です。

気をそらせる対応というのは
帰りたい必然を聴く入り口から遠ざけているのです。
認知症のある方だけでなく、自分自身をも。

帰りたいと思った必然を聴く
中がどうなっているのかわからない入り口のドアを開けるのは
勇気がいることです。
心身のエネルギーも使います。
そして何よりも難しい。。。
だから、回避したり否定したりして
その代替としての気をそらせる対応が
ケアの常識のように継承されてしまったのでしょう。
以前の記事 で書いたように、気をそらせる対応が必要な場面はあるでしょう。
でも、本質的な対応ではあり得ません。

本質的な対応ができるようになるためには
時間がかかります。
技術ですから。
でも、技術であれば習得可能です。

まずは、復唱してみませんか?
そこから観察の道が始まります。

 

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技術のトレーニング

NHKの奇跡のレッスン「ハンス・オフト 答えはすべて基礎の中に」 を見ました。

以下、オフト語録です。

「シンプルにパスを出したらすぐフォロー」
「トライアングルを意識しながらフォロー」

「シンプルなプレー?わかっているよ。と言いつつも
本当は基礎の大切さをわかっていないことがある。」

  そうなんだよ〜
  「評価してるに決まってるじゃん」
  「観察だってちゃんとやってるし」
  と言う人は、もっと広くて深い評価や観察があることを
  知らないのです。

  私の講演を聞いたことのある人から
  「自分ではちゃんと評価してるつもりだったけど
   まだまだだと思った」
  という感想を寄せられることがよくあります。

  その度に
  伝えることができて良かったと思います。
  かつて、中井久夫は
  「医者が治せない病気はあるが、看護できない病気はない」
  という言葉を残しました。

  認知症は治すことができない病気ですが
  リ・ハビリス(再び適する)できない病気ではありません。

オフトの指導は、とても参考になりました。

サッカー以外のトランプでも特性を確認したり
基礎を説明した後に、実際に活用させる場面設定の工夫
狭い空間の中でのパス回しから広い場所、大人数でのパス回しへという段階づけ
混乱したら前の場面設定へ戻って再体験

意図が明確で子供たちをよく観てる。
場面設定に工夫があるから、
短時間でも頭と身体を使うハードトレーニングになってる。

常に状況を把握する。
状況を把握した上で判断・行動する。
ボールコントロールの技術があれば、それだけ注意を状況把握に向けることができる。
フェイントとかドリブルとか華麗なテクニックは注目されやすいけれど
基礎があってこそ有効に発揮される。
動きのある場面で発揮することが要請される能力は
動きのある場面でトレーニングしていく。
要素を分割して行うのではなく
実践の中で基礎能力を高められるように行う
そのための場面設定の工夫が本当に細やか。

状況は常に流動的だからこそ
状況を把握・判断・行動することをセットでトレーニングしていく。

変化が大前提になっているし
自らが変化の構成因子となることで局面を変化させていく
認知症のある方への対応にも通底すると感じました。

「時間がかかるでしょう。でもそれで良いのです。」
「自分で考えることが明日につながる。」
「シュートはパスと一緒なんだ。」

確かに「習得」には時間がかかるし
自分で考えなければ行動変容は起こらない。

  私がバリデーションを学んだのは
  ビッキー・デクラーク・ラビンというオランダ人だったけど
  (オフトもオランダ人だとのこと)
  受講者全員のバリデーションの実践をビデオで見あうという機会もあった。
  任意のテーマを異なる対象者に対して異なる受講者が実践するから
  現れ方は違ってもテーマの意味や目的を繰り返し観察することによって
  理解が深まることを体験学習したことを思い出しました。

卒業試験?としての意味もあったのでしょう。
番組では昨年負けた強豪校との試合が設定されていました。
前半で2得点。
後半は押されたけれど辛抱してもう一度自分たちのリズムを取り返していました。

たった1週間でもこんなに変わる。
そして、これからも変わり続けるのでしょう。
自分自身で常に状況判断・行動という基礎を体験学習できたのだから。。。

指導者によってこんなにも子供たちが変わるんだ。。。

  かつて、肢体不自由児施設で紀伊先生や古澤先生のデモンストレーションを
  見た時のことを思い出しました。

すごい技術とかすごい指導を見ると
本当に勇気づけられます。

 

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対応に困った時にすべきこと

認知症のある方の言動のあれこれに対して
どう対応したら良いのか
困ってしまうことってあると思います。

そんな時にどうしていますか?

ここって、ものすごく誤解が多いところです。

ひとつは
どうしたら良いのか、考えたり話し合ったりすること

  きちんと観察・洞察ができていれば
  どうしたら良いのかは自然と浮かび上がってくるものです。

もうひとつは
認知症のある方の困りごとではなく
私たちスタッフの困りごとを改善しようとすること

  根本的なところで、すり替えが起こっているのです。

私は
認知症のある方が困っている場面そのものの観察に立ち返ります。
自身の関与も観察しなおします。

 自身の観察に自信がなければ言語化・文章化する
 いったん、自分の頭の中を外に出して(まさしく)見える化すると
 良いと思います。

不思議なもので(まさにだからこそ、と言うべきか)
一から観察し直してみると、見落としていた箇所に気がつけて
そこからブレークスルーの道が開けてきます。
後になってわかるのですが
実は、ポイントほど見落としていたり、見間違えているものなのです。。。

認知症のある方のBPSDや生活障害は
認知症のある方ご自身にとっても
ご家族やスタッフにとっても困りごとではありますが
同時にその困りごとそのものに解決へのヒントが存在しています。

一見、困りごとというカタチで表れる事象には
障害や症状や困難だけではなくて、同時に、能力も反映されているからです。

反映されている障害、症状、困難と能力を観察するのです。
(そのために知識の習得・概念の本質の理解が必要なのです)

そうすると
私の言語・非言語の関与も含めた環境に対して
認知症のある方がどのように感受し、判断し、応じていたのかを洞察することができます。

ここまでできれば
じゃあ、どうしたら認知症のある方と私たちが
お互いに困ることなく
能力を発揮しあって
イマ、ココという「場」で過ごせるのか
ということは自然と浮かび上がってくるものなのです。

対応の工夫は、考えることではないのです。

イマ、ココで何がその方に起こっているのか は
同じ方でもその時々で異なります。
言葉にして聞いてみないとわからないこともある一方で
言葉では表せないことや
言葉によって迎合や追従を無自覚に要請してしまうこともあります。

観察って
カンタンに思われているし
科学的ではないと思われていて
蔑ろにされがちですが
観察ほど、観察者の能力が求められるものはありません。
観察者の静かでかつ能動的な関与が求められるからです。
知識がなければ、見落としたり見間違えたりしてしまいます。
自身の言動に無自覚であったりコントロールできなければ
認知症のある方の能力を引き出すことは難しくなります。

同じ場面でも観察者が異なれば、得られる情報の量も深みも異なります。

観察は「客観性に欠ける」「科学的ではない」と言われがちですが
本当にそうでしょうか?
認知症のある方の状態はその時々で変動します。

検査やバッテリーをとった時といつも同じ状態ではありません。
検査やバッテリーは、確かに施行時の障害を明確に示してはいますが
施行時以外の状態像の異なる他の場面に検査結果を適用・援用することのほうが
現実的な根拠に欠けるのではありませんか?
 

実際には、検査・バッテリーは実施はしても、
その結果を対応に活用することは少ない。
検査・バッテリーはすべきことだからしているだけで
検査は検査、実践は実践と乖離している。
実践に活かすための検査とはなっていない。
例えば、
HDS-Rはとっても
その結果を対応に活かしてはいない
五角形模写課題はしたけれど
その結果をどう対応に活かすかは考えていない
というパターンだって多いのではありませんか?

私たちは評論家ではない
援助職なのに。。。

おそらく
無自覚には本当は感じている、わかっているのだと思います。
観察・洞察の有効性と実践の困難さを。
だからこそ否定する。

きちんと観察することの重要性や
観察するに値する知識の習得、本質の理解の必要性
自身の言動が無自覚に伝えてしまうことの意識化の重要性も
そのためには日々の地道な努力の蓄積が必要なことも

本当はわかっているけれど
大変なことだから、努力が必要なことだから、無意識に回避しているのでは?

観察が客観性や科学性に欠けるのではなく
欠けると言っている人の観察力が客観性や科学性に劣っているのであって
観察そのものが客観性や科学性に劣るものではないのです。
精度の高い観察を知らなかったり実践できない人が否定しているのです。

  いわゆる、抵抗と防衛です。

人文科学としての作業療法は
検査やバッテリーをとることで科学的であろうとするのではなくて
長い職業人生を賭けて
観察・洞察の確かさ、客観性、科学性を磨いていくのが本筋なのではないでしょうか?

そういった本当に地道な努力の蓄積よりも
各種の検査やバッテリーを数多く行うことのほうが
簡単だし、カッコ良いし、最先端をいってるように見えるし。。。
とか。。。?

認知症のある方の対応に困った時
結果として、表面的に現れる生活障害やBPSD
例えば、「歩けないのに立ち上がる」「帰宅要求が激しい」といった表現では
観察しているとは言えないのです。

観察とは
「歩けないのに立ち上がる」「帰宅要求が激しい」のは
どのような環境で
何をしようとしているのか
スタッフの関与はどのような非言語で
どういった言葉で関与したのか
を踏まえて
それらの言動に反映されている、
記憶や見当識やコミュニケーション能力、遂行機能などの障害や能力や特性を
まさしく観て察することです。

多くの人は、この過程をすっ飛ばしています。

表面的な事象への対処、つまり、
「どうしたら、立ち上がらなくなるか、帰宅要求がなくなるのか」を
考えています。

その時、その場での、その関係性の中での認知症のある方 を観察せずに
スタッフの困りごとをなくそうとして考えるのです。
だから、ハウツー的対処がはびこります。。。

「帰宅要求があったら、タオルたたみをさせる」
「お茶を飲ませる」etc。。。

これらは、気をそらせる対処にすぎません。
確かに、気をそらせた結果、帰宅要求を忘れてしまい、帰宅要求がなくなる
というケースはあるでしょう。

でも、こういった方法論に走ると
「いかに気をそらせるか」ということを
無自覚のうちに目的とするようになり
どれだけ上手に気をそらせるかを考えるようになり
上手に相手を騙すことや言いくるめることが良いケアということになってしまいます。
そんなバカなことがあるはずがありません。

認知症のある方に寄り添ったケアという理念の真逆の対応を追求することになり
非常に大きな矛盾した働き方をスタッフに要請することになります。
誠実で良心的なスタッフほど、辛い日々を送ることになります。。。

あちこちの現場で起こっていることではありませんか?

このような対応は
リハやケアの本質ではありません。
ただし、暮らしに近い場面ほど
時間稼ぎとして、その場しのぎとして
一時的に用いざるを得ない場面は出てきます。
時間稼ぎ、その場しのぎの引き出しを多く持っているにこしたことはありません。
ただ、やる方が
「今は本質的な対応はできない」
「時間稼ぎとして、お茶をにごすことをしている」
「本質的な対応ではなく、しのいでいる」
という自覚を持ってその場しのぎをすべきです。

ところが
いつの間にか、その場しのぎと本質とを混同したりすり替えている。。。
関与するスタッフ自身が何をしているのかわからなくなってしまっているのが
1番の問題だと思います。

ピンチはチャンス

対応に困った時ほど
実は、自らの成長の機会でもあります。

今までの自分の在り方をもう一段高め深めるチャンスなんです。

観察・洞察は技術です。
技術であれば習得可能です。
技術であるから「感受」が関与しますが、

「伝達」も可能ですし「指導」もすべきです。
ただし、その技術が凄ければ凄いほど、習得には時間がかかります。
習得までの過程でイヤというほど自身のできなさに直面させられるでしょう。
でも、その先があるのです。

生活障害やBPSDというカタチの現れを
認知症のある方が
能力をより合理的に発揮できるようになった結果として解消されていく時には
認知症のある方だけでなく
必ず、スタッフの側にも行動変容が起こります。

そうやって、職業人として鍛えられ、高められていきます。

 

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グループワークの功罪

グループワークには、グループワークの良さがあるし
「三人寄れば文殊の知恵」もあるとは思います。

他者の視点や考え方を知り
自身の思考を再構築することにもなりますし
協働作業を通して課題を達成するという体験も貴重です。

でも、それはベースに
参加メンバーに知識が教授・共有されているという前提があってこそ
成り立つ話だと思います。

以前にあるところで
認知症に関する一般の入門者向けの研修で
徘徊している方への対応をグループワークで検討させるように
みたいなほんわかとした依頼があって
その時は、依頼先におかしなことだと意見提出したことがあります。

一般の入門者向けの研修なんだから
きちんとした知識を提供することが最優先だということ
「徘徊している方」といっても、その方なりの徘徊する必然は千差万別で
話しかけ方とかも千差万別でひとくくりにはできないこと
適切な対応は自然と浮かび上がってくるもの
どうしたら良いのかは本来考えるものではない。
どうしたら良いのかわからない時は観察に立ち戻る
こちらが勝手に「あぁなのかな?」「こうなのかな?」と
勝手に推測するのは一番やってはいけないことだと。

グループワークって、偽の達成感を味あわせることもできてしまうんですよね。

達成すべき課題が明確で
ファシリテーターが優秀であれば
有意義なグループワークも可能
ですが
やってみたらわかるけど、案外難しいものです。
そうでないことも多々あります。。。

ましてや入門者同士が何を話し合えるというのでしょう?
知らない人同士が楽しく会話できてなんとなく達成感があって。とか
日頃の愚痴や不安を共有できた。とか
というパターンもあるのか、グループワークは楽しい!なんて人もいますが
達成すべき課題の達成度はどうだったのでしょう?
成果物は抽象論にとどまり明確には出せなかったけど
いろんな人と話せて楽しかったなんて本末転倒です。

たぶん、根本的な問題は
教えるべきことを教えられないという現状があるのだと思う。

そこには、二つの問題があって
認知症は脳の病気なんだから、
本来は、まず知識と技術で解決すべきことを解決しなければ
その人に寄り添うなんて大それたことはできないということが理解できていない。
だから、心意気、真心、優しさなんて
よくわからない、曖昧な、でも耳障りの良いことで対応できると思われている。
 
もう一つは
普段、現場でハウツー的対応しかしていないから
抽象化・言語化できないので他者に的確に伝達できないし
その自覚もできていないこと

徘徊している見知らぬ人に遭遇したら
警察通報の一択です。
警察官が来るまでの間、安全なところで待っていただけるように
余計な不安感を抱かせないように
してはいけないことは明確にあります。
望ましい対応は、その方その方によって異なりますから
それは会話をしながら探らなくちゃいけない。
その探り方は、基本の実践ができた次の段階で学ぶものです。
よく知りもしない人同士が話し合うようなことではないんです。。。
例えて言うならば、
道路で倒れている人がいました。
どうしたら良いのかを教えるのではなくて
どうしたら良いのかを考えましょうというグループワークを
救命救急の初心者コースを受講しにきた人にやらせるようなものです。
怖い、怖い。。。

対人援助職を養成する立場にいる人が監修していた部分でしたが
こういう人に教えてもらうんじゃ、学生も本質を理解することができなくて当然
現場に出てから困るだろうな。。。と思いました。

ずいぶん昔ですが
老健に実習に来た介護学生に
学校で認知症のことをどんな風に教わったのか尋ねたところ
「否定しちゃいけないって教わりました」と言われました。
そのほかは?って尋ねたけど
「それだけです」って。 
  
(まぁ、学生の言うことですから教えてもらっても
 咄嗟には答えられなかったということもあるかも知れませんので
 いくつか確認しました。)
近時記憶障害とは?
4大認知症とは?
ということも教えてもらっていなかったということがありました。
それじゃあ、現場に出てから困るよね。
どうして良いかわからなくて当然だと思いました。

OTだけじゃなくて、
ポジショニングも、食事介助もそうですけど
対人援助職の養成・教育・伝達の問題って本当に大きいと思います。

このことに関連して最近見つけたサイト
ふくしま国語塾の「指導」には
はっきりと書かれています。

  昨今の教育界では、「教えない教育」なるものが流行っています。
  知識・技術を与えない。しかし個性は求める。
  その結果、たとえば感想文を書かせれば、
  面白かったです、悲しかったです、など
  没個性の文章ばかりになる。
 
  知識・常識。型・技術・方法。
  これがあればこそ、
  自己表現と他者理解が可能になります。
  表現力や読解力を身につけさせたければ、
  まず、知識・技術を与えること。
  与えることをためらわない。
  その先でこそ、個性は輝きだすのです。

分野は違えど
知識・技術を教えることの必要性は共通しています。
知識と技術がないのに、どうやってちゃんと対応しろと言えるのか
本当に理解できません。。。

「認知症のある方に少しでも力になりたい」と
願うならば、その願いを支えるに足る知識と技術がなければ
役に立てるどころか、逆効果や迷惑になることすら起こり得ます。

  昔だったら
  実習の時に、
  「気持ちだけじゃダメなんだ」「知識と技術がなければダメなんだ」
  と自分の未熟さを痛切に体験・実感させられたものです。
  今は学生に成功体験を求められ求めさせるから
  学生はかりそめの成功体験を学んでしまう。。。
  就職して社会人として、一人の職業人として
  初めて自身の未熟さに向き合うことになり
  それはその人にとっても、周囲にとっても大変なことだと思います。

脳卒中後遺症のある方に少しでも力になりたいと
願う人がいくら願ったとしても、知識と技術がなければ逆効果になります。
かつては、過剰に安静をとらせて寝たきりになってしまった。
その反動もあって、過剰にがんばらせすぎて今度は痛みや拘縮を起こしてしまった。
寝たきりがいけないからと離床が推奨され、今度は座らせきりという問題が起きた。
それらを踏まえて、適切なリハが提供できるように
専門家としてのリハ職が要請されるようになった。

同じ脳の病気である認知症にも同様のことが起こっています。
昔は「恍惚の人」が代表するような時代もあった。
その反省も踏まえて、反動のように、優しく否定しないような対応が推奨された。
それだけでは対応しきれないということがわかってきていて
適切な対応とは何か?ということが問われるようになってきている。
 
今はまだ水面下での動きに留まっていて表面化してはいないけれど
「優しい対応をしてもそれだけでは認知症の問題は解決できない」
ことが誰の目にも明らかになってきているのではないでしょうか?
本当の専門家としての対応が要請されるようになってきている。

歴史から学ぶことって、とても大切なのではないでしょうか?

 

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「帰りたい」と言われたご家族は

認知症のある方に
「帰りたい」と言われたご家族は
「まだ帰れないのよ!」と答えることが多いようです。

ご家族も困ってしまって、
あるいは病院や施設に迷惑をかけないようにと慮ってか
なんとか言って聞かせようと思ってのことなのかもしれません。

私はそんな時には
「まだ帰れないんだって」と答えてください
と伝えています。

「まだ帰れないのよ」という言葉は
認知症のある方の立場に立ってみると
ご家族が施設・病院職員の側に立ってしまったように感じられて
認知症のある方VS施設・病院職員+ご家族みたいな構図として受け取られて
疎外感を感じてしまうんじゃないかなーと思っています。
言い方によっては
「まだ帰れるわけないじゃないの。
 どうしてそれがわからないの?」
というニュアンスを伝えてしまうかもしれません。

「まだ帰れないんだって」という言葉は
ご家族の判断ではなく、帰れないのは施設・病院の判断なのだ
というニュアンス
を伝えることができます。
(実際に判断するのは施設・病院の側ですし)

認知症のある方が「ご家族は自分の味方」だと感じられるように
現実問題としてはご自宅に帰るのが難しかったとしても
「まだ帰れないんだって」と言うことで
気持ちは認知症のある方の側にあるのだと
暗黙のうちに伝えてほしいと思います。

 

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声かけ再考:感覚ー判断ー行動

イメージ_紫陽花

認知症のある方に対してトイレ誘導をする時に
どんな声かけをしていますか?

「トイレに行きましょうか?」と尋ねた時に
認知症のあるAさんが「ううん、行かない」と答えたから
トイレ誘導しなかったのに
別の職員が「おしっこ出る?」と尋ねたら
Aさんが「出る」って答えて誘導されてた。
さっき尋ねた時には「行かない」って言ったじゃん。なんで?
みたいな経験をしたことはありませんか?

答えは
感覚ー判断ー行動  を踏まえた声かけの有無です。

認知症のある方によって、その時々によって
違和感を感じる ー 尿意と判断できる ー 尿意を解消するための手段としての行動
もぞもぞする  ー おしっこ     ー トイレに行く(連れて行って)
のどの段階で理解できるのか、表現できるのかが異なります。

その方が理解できる言葉の段階を踏まえて尋ねることが重要です。

その方が「もぞもぞする」ことしかわからないのに
トイレに行きましょうか?では理解できなくて断られて当然です。

この時に大切なことは
「よろしければお手洗いにご案内いたしましょうか?」
と敬語で丁寧な言葉使いで尋ねることではないのです。

そして多くの場合に
認知症のある方の言語理解力は変動します。
昨日は理解できていたことが今日は理解できなかったということもありますし
尿意を訴えなくなってしまった方が再び尿意を訴えるようになることもあります。

変動の幅、その方の最大能力と困難な時の能力とを踏まえて
イマ、ココでの能力を確認しながら声かけを選択する

その時その時で
声かけの理解の段階を把握した上で意図的に選択した言葉で尋ねる

ということができるかどうかが重要なのです。

認知症のある方に対して
声かけの重要性を否定する人はいないと思います。
ただ、声かけについては
接遇的な意味合いでしか捉えていないのではないでしょうか。

私は、接遇的な意味合いではなくて
(接遇を否定しているわけではありません)
障害と能力の観点から
声かけについて捉え直すこと
ここでは、概念の階層性を確認しながら対応する
ことを提案しています。

クリスティーン・ブライデン氏の言った
「私たちとあなた方の世界に橋をかける」
ということを
「あなた方の立場」からも
少しでも現実化・具現化していきたいと思っています。

 

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私がしている音楽鑑賞の進行

音楽鑑賞というActivityについて
個々の方それぞれの能力と特性を発揮できるような援助をするために
私がしている工夫をご紹介します。

歌はもちろん人それぞれ好き嫌いがありますし
歌の楽しみ方も人それぞれ
音楽の世界に浸ってしんみりと聴き入りたい方もいれば
ワイワイ盛り上がるのが好きな方もいます。

集団で音楽鑑賞をする場合には
進行する人の中で、ある一線を明確化しておくと
参加している認知症のある方もいろいろな歌とその楽しみ方を
お互い許容してもらえるように感じています。

それでは実際の進行ですが
まず最初は
こちらからいろいろな曲目を提示します。
だいたい有名どころの懐メロや流行歌を提示します。
そこで曲の聴き方に注目して観察します。
好きな曲や聞き覚えのある曲は
前のめりになって聞いたり、表情も違っています。

この段階では
集団の凝集性を高めることと
参加された方の心身の状態の確認をします。
(もちろん事前に情報収集してありますが、最新の状態確認をします)
私が主導権をとった進行をします。

次に、あらかじめ作っておいた歌手一覧を見せながら
この中だったら誰の歌を聴いてみたいですか?とお一人ずつ尋ねます。
具体的に選べるように視覚情報として提示しながら尋ねていきます。
この時に、進行を止めないように、いろいろな歌をオートで流すようにしています。
 
  今は私一人で最大16名の方を対象に
  精神科作業療法として集団活動を実施していますから
  歌を視聴する流れを止めて、一人ずつ尋ねると
  せっかく高めた集団凝集性がなくなってしまい
  注意集中も保たれず
  不安になって帰宅要求などの訴えが出てきて
  集団活動が成り立たなくなってしまいますから
  このような工夫をしています。

この時に
「聞きたい歌を教えてください」と言葉で尋ねても
思い出せないから答えられない方でも
歌手名を提示されれば、名前から歌手を想起できる方は大勢います。

つまり、再生ではなく再認に働きかけています。
なおかつ、聴覚情報ではなく視覚情報として提示しています。

曲は、歌手名から検索した3曲くらいを
言葉で提示してその中から選んでいただいています。
曲名を聞けばどんな歌かイメージできる
再認できる方が多くいらっしゃいます。

最初にこちらからランダムに提示した時に
特に聞き入っていた歌手や曲があればこの時に追加で提示することもあります。

人によっては
お気に入りの歌手のお気に入りの曲がありますから
そのような時には、こちらから歌手名や曲名を提示せずに
オープンクエスチョンで
「聞きたい歌手は誰ですか?」
「聞きたい歌があれば教えてください」
と尋ねるようにしています。
再生可能な方にはなるべく再生を促す尋ね方をしています。

毎回、同じ歌手の同じ歌を選ぶ方もいれば
その時々で違う歌手の違う歌を選んだり
90歳代の方がキャンディーズや松田聖子を知っていたり
70歳代の方がピンクレディーを毎回必ずリクエストされることもあります。

こちらの問いかけに答えていただくことで
自然に会話の機会を設けることもできます。
ただし、近時記憶が低下している方が多い場合には
会話で長く時間を取ってしまうと注意集中が途切れてしまうので
集団を構成する方たちの状態に応じて
問いかけの仕方や回数にも注意しています。

また近時記憶が低下していると
(当院では1分前のことも忘れてしまう方が大勢います)
画面に映った歌手の名前や曲名を聞いてはいても忘れてしまいますから
曲の間奏の時には必ず歌手名と曲名を伝えるようにしています。
「あ、そうそう、この歌手だった」「この歌だった」
と思い出していただけるように。
これも再認に働きかける工夫です。

歌手や曲にまつわるエピソードを伝えるか
どの程度どんな風に伝えるかも
その時に集団を構成する方たちの状態に応じて判断しています。
基本はあんまり余分に私が話さないようにしていますが
近時記憶がもう少し保たれている方や注意集中が可能な方が多ければ
曲のイントロや終了直後にエピソードを伝えると
再認できることの幅が増えたり
その方が知っているエピソードを語ってくれたり
思い出話をしてくれたりなどの良い面もあると思います。

場面設定の基本として
重度の認知症のある方でも注意集中が保ちやすいように
集団の中で症状や障害が目立ちにくいように
と考えています。

音楽鑑賞ですから、途中で集中が途切れても目立たないし
口ずさみながら聞いても不自然ではないし
参加形態に幅があり自由度があるのが良いなぁと思っています。

誘導する時にも
「リハビリ」「OT」「活動」という言葉は使わずに
「歌を聞く会」「五木ひろしの歌を聞く」「美空ひばりの歌を聞く」
というように具体的にイメージしやすいように声かけしています。
その方が大好きな歌手や曲があれば、その歌手名や曲名を言って誘導しています。

「歌の会」というと
「歌は好きだけど、人前で歌うのは絶対イヤ」と拒否されることも多々あります。
「歌わない、聞くだけ」と歌わなくて良いことを担保していますし
そのイメージが伝わるように、あえて前の席ではなく後方の席へ誘導することもあります。
もちろん、歌いたくなったら口ずさんでもいい
(今はコロナ渦なのでマイクをお渡しすることはなくなりましたが)
歌いたい方には前に出てきてマイクを持って歌っていただいていました。

同時に
訴えの多い方への対応や
歩行不安定な方の立ち上がりや
帰宅要求のある方への対応なども行いますが
できるだけ場の円滑な運営が行えるように
どうしたらその方たち一人一人が集中できるようになるのか
何かコトが起こってから対応するのではなく
コトが起こる前に、起こらないように、予防対応的に考えています。
(これについては、長くなるので別の記事でお伝えします)

同じ時間、同じ空間を共有するけれど
個々の方それぞれの能力と特性を発揮できるような援助をするために
私がしている工夫をご紹介しました。

  2時間の精神科作業療法を音楽鑑賞だけでなく
  他の要素も組み合わせ、個人ごとのActivity提供という
  並行集団としての展開もしていますが

  長くなるので、こちらも別の記事でお伝えしていきます。

私としては、こういった意図と配慮のもとに
音楽鑑賞の場面を運営・進行しているのですが
人によっては「ただ歌を聞かせてるだけ」「誰でもできる」と思うようで
実際、そう言われたことがあり
その時の態度がちょっとあんまりで
私もその時は若かったし、ちょうど良いきっかけもあったので
進行を変わってもらったことがあります。
そしたら、今まであんなに歌いまくっていた方たちが
(当時はコロナ渦ではないので)
まったく歌わなくなり、一気にシーンとしてしまって
その人は「あれ?あれ?」と言っていました。
 
前の記事「多訴の方への対応」で書いた通り、
実践している人には
「何をしているか」「何が起こっているのか」わかるけれど
実践していない人には
皆目わからないということが起こっているのです。

歌を聞かせるだけの人には
さまざまな配慮のもとに複数の意図を持って進行しているのを
目の前で見せてもらってもわからないのです。
  「OTの不安への答え」で書いたように
  紀伊克昌先生や古澤正道先生のデモンストレーションを見ても
  過去の私には何をしているのか、さっぱりわからなかったように
でも、実践している人には一目瞭然で何をしているのかわかる。

このことは、
生活期にある方への食事介助やポジショニング設定、立ち上がり・歩行介助
認知症のある方への対応全般について言えることです。
同じコトが違うカタチで、ありとあらゆるところで起こっているんです。

たかが音楽鑑賞、されど音楽鑑賞
その場をどれだけ豊かにできるかどうか
運営する人の意図によって全然違ってきます。

耳タコかもしれませんが
スティーブ・ジョブズの言うとおり
「意図こそが重要」なんです。

「歌わせる」「聞かせる」のか
歌を聞くことを通して能力発揮の援助をしたいのか
表面的には同じように見えて
その意図のベクトルは真逆です。
そしてその意図こそが伝わっているのです。

他のActivityでも、まったく同じことが違うカタチで起こっています。

どのActivityが良いのか、という問題ではないのです。
「何をやらせようか」という言葉が出た時点で答えは決まっています。
  (野村克也の言う「負けに不思議の負けなし」というわけです)
「何をしていただいたら良いかしら?」と言葉だけを丁寧な表現にしても
中身は同じですから答えも決まっています。

もちろん、悩む人は、日々のリハやActivityに困るから悩んでいるわけで
仕事に対して、いい加減な人ではないからこそ、出てくる悩みです。
でも、悩み方を間違えているんです。
 
対象者の状態像と特性が把握できれば
どんなActivityが適切なのか、それはなぜなのかが
明確に浮かび上がってきます。

浮かび上がってこない時には評価が曖昧なんです。
だから、評価に立ち戻れば良いのです。

でも、多くの人は
評価、状態把握に立ちもどることをせずに
「Aが良いか、Bはどうだろう?何が良いかしら?」と
悩むのです。。。
そこは本来悩むところではなくて、実行するところなんです。
状態把握、評価を。

認知症のある方のActivityの選択が難しいのではなくて
状態把握、評価が難しいと自身の現状に向き合うところなんです。

自身の評価困難という現状に向き合うことを回避して
認知症のある方のActivity提供の困難さに
問題設定をすり替えてしまう。。。OTの現場あるあるです。

評価と検査を混同する。
評価を状態像把握ではなくて、
MMSEやHDS-Rや立方体透視図模写テストなどのバッテリーをとる
検査をすることと混同・すり替えてしまうのも
OTの現場あるあるです。
 
「OTの不安への答え」にも書いたとおりで
こういったすり替えや問題設定の問題は
リハやケアの現場であらゆる場面で起こっています。
 

 

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多訴の方への対応

「認知症のある方の訴えが多くて困る」という声もよく聞きます。
 
確かに
認知症のある方の中には
同じ訴えを繰り返す方も少なくありません。

しかも、同じ訴えを繰り返す方の声は
たいてい、悲痛な声なので
「同じ訴えを繰り返す」という表現をしていますが
実は、あんな声を聞くのはイヤというのが本音だったりします。

職員だって人間ですから
ナマの感情として、そのように感じる
という現実を否定はできません。

だからといって
イヤイヤな内心をそのまま表現してしまったり
あるいは隠そうとはしても隠しきれずに
認知症のある方にぶっきらぼうに対応するのは
プロとしてどうなんだろう?とも思いますよね。

じゃあ、どうしたら良いのか
  
たいていの人は
「どうしたら訴えをなくせるのか」
と考えます。

   そのように問題設定を考える人は
   表面的に訴えをしないように説得したり抑圧しようとしがちです。
   言葉は丁寧でも口調は強く大きな声で
   従わざるを得ない雰囲気を醸し出しています。
   認知症のある方は空気を読み取る能力があるから
   従わざるを得ないという。。。
   そして「訴えなくなった→良い対応だった」と判断されるという。。。
   単に我慢を要請し、抑圧しているだけなのに。
   このような対応は、仮にその場は良くても長期的には逆効果になります。
   抑圧させているだけなので、
   抑圧しなくても良い場面あるいは
   抑圧することができなくなった時に一気に吹き出してきます。
   それを症状悪化と呼ぶという。。。
   現場あるあるです。
   こういったことは、同じコトが違うカタチでいろいろと起こっています。

ここがすでに問題設定の問題になっています。

「どうしたら訴えをなくせるのか」という問題設定は
誰にとっての問題を意味しているのでしょうか?

認知症のある方の困りごとの解決を援助するという立場に立てば
繰り返し同じ訴えをするという行動に
反映されているコトは何なのだろうか?
という問題設定になるのではないでしょうか?

たとえば
よくある訴えが排尿関係の訴えです。
「おしっこが出ちゃう」と言って頻回にトイレに行きたがります。
実際にトイレに行ってみても出ないか、あるいはごく少量しか出なかったり。。。
そのような方の場合には
実はしっかりと排尿しきれず残尿感があるために尿意を感じ続ける
というケースが少なくありません。
であれば「トイレに行きたい」と繰り返し同じ訴えをするのは
正当な訴えということになります。
だとすると考えるべきは
いかに「トイレの訴えを減らすか、なくすか」ではなくて
「どうしたら残尿を減らせるか」という技術的な問題になります。

あるいは
何か集中できるActivityをしている時にはトイレ希望がない
というケースもよくあります。
このようなケースに対しては表面的に
「何か気持ちをそらせることをやらせましょう」という対応になりがちです。
そのような場合によくあるのが
「おしっこが出たい」のではなくて
「おしっこで失敗したくない」
 →「失敗したくない気持ちの具体例がおしっこを漏らしたくない」
ということもよくあります。
つまり、尿意は本当の問題ではない。
根底にあるのは、自身の不全感への不安であって
その不安が排泄の訴えとして現れている場合です。
このような場合に単純に気持ちを紛らわせることばかり考えて
認知症のある方の能力よりも高度なActivityをやらせて
かえって不全感を強めてしまい
「トイレ」「トイレ」と訴えが増えてしまうこともよくあります。

  現場あるあるなのが
  認知症のある方の遂行機能や構成障害などの能力や障害が把握できていないのに
  「これなら簡単だからできるだろう」と提供する職員がとても多いことです。
  毛糸モップは段階付けが多様に行えるので
  幅広い状態の方に適用できるActivityではありますが
  決して遂行が容易ではなくて、
  構成障害のある認知症のある方にとっては
難しいこともよくあります。
  
自身の不全感への不安が根底にある場合に
達成感や安心感を内的に感受できるような体験が
Activityを通して体験できて、その体験を蓄積できるようになると
トイレの訴えがなくなったり、減ることはあり得ます。
ただし、近時記憶が低下しているので体験している場面ではよくても
体験以外の場面では難しいこともあります。
体験を忘れてしまうから日常生活全般への汎化は難しいのです。
 
逆に言えば、Activity以外でも達成感や安心感を感受できれば良い
ということになります。
  
  ちょっと話はそれますが
  特定の方に用事がある時に食堂やホールなど複数の方が集まる場所に出向く時には
  用事がない方にも必ずアイコンタクトをして会釈だけはするようにしています。
  「今はあなたに用事はないけど、あなたのことを気に留めています」
  ということを伝えるためです。
  用事のない方の前を見向きもせずに通り過ぎる人も多いけれど
  それって「あなたには用事も関心もない」と態度で言っているも同じです。

  また、この対応をしているおかげで
  実際に体調不良の方の早期発見をしたこともあります。

  このような対応をしている人って案外少ないんです。。。
  他の対応全般と同様に、実践している人にはわかっても
  実践していない人には「何をしているかわからない」「見れども観えず」
  となっていて、しかもその自覚がないのです。。。

  多くの人は、自分にとっての問題というカタチでモノゴトが表面化した時に
  どうしたら良いのか?と考えます。
  対応が後手に回っているし、視点が自己中心ということに無自覚なのです。
  だから的確な対応が浮かぶはずがないのです。。。

  リハ室に来た方が
  「あーここに来るとホッとする」と言われると私もホッとします。
  そういう場所を作れて良かったと思います。
   
  問題が起こってから対応を考えるのではなくて
  問題が起こる前に環境づくりの一環として
  お金もかけず、エネルギーも使わずに私たちができることはまだまだあります。
  
  施設方針として敬語を奨励するなら
  「用事のない方の前を黙って通り過ぎない」
  「用事のない方の前を通り過ぎる時には会釈する」
  ということを奨励した方がよっぽど建設的だと思っています。
   
達成感や安心感をイマ、ココで感受できるから結果として訴えが減る
こういった事象を表面的にしか捉えられない人は
「やっぱり気持ちをそらせるべき」という判断になりがちですが
似て異なるもの、それは違うのです。

  これは私の推測ですが。。。
  アルツハイマー型認知症のある方は
  今よりもずっと社会的規範が明確にあり
  それらに従うことを要請され
  躾の厳しい時代を過ごしてこられました。
  両親から厳しい躾をされたり
  あるいは自己防衛から自主的に内面化し
  不安感を抱えた幼少期を過ごした方が
  高齢になり、近時記憶障害があるために、

  今までは抑圧できていた不安が抑圧しきれなくなり
  現在の不安感というカタチで表現されている
  可能性もあるのではないかと考えています。
  現在の不安や心配を抱いた時に、
  それらの「感情」を抱いた過去の記憶が蘇り
  余計に不安になってしまうと考えています。

だからこそ
イマ、ポジティブな体験をすることに意義があります。
HDS-R3点の方でも、1分前のことを忘れてしまう方でも
再認することができる方もいます。
現在の安心感という「感情」をきっかけとして
過去の安心感を抱いた体験を想起することも起こり得ます。

再認は、ポジティブにもネガティブにも働きます。
イマ・ココでポジティブな体験をするために
体験構成の一因子である私たち職員の関与の質が問われます。

訴えが多い方に私がよくしていることは
ひとつには、不安や心配な気持ちの表出を促すことです。
不安や心配な気持ちを誤魔化したり気持ちをそらせるのではなくて
そう感じても良いのだと
何が心配なのか語ってもらいます。

  ここは バリデーション の出番です。
  (バリデーションのことは記事にしてありますから検索してみてください)

もう一つは、不安の表明があってから対応するのではなくて
不安の表明がない時でも常に大丈夫なのだと、よく頑張っているのを知っていると
最小限の言葉と、表情と声のトーンと態度という非言語の両面で伝え続けることです。

「どうしたら良いの?」「これで良いの?」と言葉で不安を訴える方には
訴えがあってから対応するのではなくて
訴えがない時から、アイコンタクトや笑顔、うなづきやハンドサインやジェスチャー
という非言語な表現を多用して、言葉以外で伝えます。
同じくアイコンタクトやうなづきやハンドサインでお返事をしてくれるようになれば
「悲痛な声」を聞かなくて済むこともあります。

「どうしたら良いの?」と悲痛な声で繰り返されると職員も疲弊してしまいますが
お茶目なハンドサインで表現が返ってくれば「悲痛な声」を聞くこともなくなるので
その方とのコミュニケーションをポジティブな気持ちで提供できるようになります。
その結果、情緒的に安定し、結果として訴えが減少することもあります。

  訴えが多い方に対して「依存的」と判断する職員は多いようですが
  若い時から困ったら自身で解決するのではなく誰かに助けてもらっていた
  内在する不安を誰かに分かち合ってもらってきた
  という行動パターンがもともとあった方かもしれません。
  であるならば、そのような基本的な行動パターンを変えるように要請しても
  困難なのではないでしょうか。
  むしろ、その行動パターンはそのままに
  応答手段としてのコミュニケーションを非言語に切り替えれば

  周囲も受け入れやすくなります。
  (余談ですが、不思議なもので
  「依存的」と判断したり、我慢を要請する職員に限って、
   受け入れやすい行動へ変容した時には
   打って変わって、ニコニコと接するようになります。。。)
  
ここでのポイントは
訴えの根底にある不安感からくる確認行動を否定せず
「多訴」「依存的」という行動を修正・改善することを考えるのではなくて

確認せざるを得ないというニーズに基づいた表現手段を
悲痛な声で表出する(つまりそれだけ切実なのです)言語から
周囲が受け入れやすい非言語へと行動変容を促すことにあります。

かつて
「ねぇ」と繰り返し発言する方がいました。
理由を尋ねても答えず(答えられず)ということが続くと
だんだん職員の対応も遠ざかってしまいます。
そうすると「ねぇ」だけが頻回に大きな声で繰り返されてしまいます。

大きな声で繰り返される「ねぇ」は本当に治療されるべきBPSDでしょうか?

私は、その方の真正面に座りました。
「ねぇ」と言われた時には「はい」と答えました。
そうすると真っ直ぐに私の顔を見てすぐにうつむきます。
しばらくするとまた「ねぇ」と言います。
「はい」と答えました。
しばらく繰り返していたら
その方は無言で顔を上げ、私の顔を見るとまたうつむくことを繰り返すようになりました。
その方の正面の席を立っても遠くからでもその方に視線を送るようにしました。
その方は私を探してちゃんとアイコンタクトをとります。
その後、アイコンタクトが担保されたことが確信できたのか
「ねぇ」という声を聞くことは無くなりました。

この方は、「ねぇ」以外の言葉を発することができなかったので
推測することしかできませんが
「ねぇ」以外に言語表現力がなければ
何かを伝えたい時には「ねぇ」と言うしかありません。
そして伝えたい気持ちが強ければ強いほど
唯一言える言葉である「ねぇ」を繰り返し大きな声で言うしかなかったのだと思います。
近時記憶障害が高度であれば、1分前のことも忘れてしまいますから
結果として同じ訴えを繰り返すように見えます。
 
  説得に走る人がよく使う「さっきも言いましたけれど」と言う言葉は
  効果がないどころか逆効果にしかなりません。
  そう言う職員は対応のネタ切れに陥っているのだと思いますが
 「さっきも言ったけれど」と言うことは
  暗に「もう言うなよ」と思っている
から言える言葉です。

  そして、その感情は確実に伝わっています
  認知症のある方は、この人に言ってもムダだと感受します。
  だから言わなくはなります。
  (忘れてしまって繰り返すことはありますが、すぐに引き下がります)

  職員は自分にとっての問題を解決はしましたが
  (だから、自分のとった方法が良いと主張します)
  認知症のある方にとっての問題は解決されてはいません。
  我慢、抑圧
させられただけです。

また、2−3分前のことも忘れてしまうくらい近時記憶が低下している別の方がいました。
この方が繰り返し痛みを訴えるような時には悲痛な表情で悲痛な声で訴えられます。
(痛みの原因はわかっていて対症療法しかできないケースです)
対応する職員の中には、言葉は丁寧でもぞんざいな口調と表情で対応する人もいます。
そのような人は無自覚であっても、
非言語な表出に反映されている本音はちゃんと伝わってしまいますから
認知症のある方は、なんとか自身の辛さをわかってもらおうとして
もっと悲痛な表情でもっと悲痛な声で痛みを訴えるようになります。
そうした悪循環を作っているのは職員の側なんです。

よくよく観察すれば
痛みを訴えない時間と場面があって
その方は自身でなんとか自制しようとしていることを意味していると感じています。

  (このようなケースでは往々にして
   構ってほしいアピールなんだと判断する職員もいますが
   そのような職員と対象者の方が善き関係性を築いているケースを
   見たことはありません)

痛いは痛いけれど、なんとか辛抱しようとしている
辛抱できる時もある
でも辛抱しきれない時もある

ここに可能性があります。
私には痛みを減らすことはできませんが
その方の自制しようとする気持ちを支え続けることならできます。
 
こちらも悲痛な表情で悲痛な声で痛みを受け止めようとしていることを伝えます。
2−3分ごとに繰り返される訴えに、こちらもその都度同じことを繰り返します。
同時にその方が自制しやすい場面を確認していきます。
他者との交流なのか
自身が達成感を抱けるActivityなのか
ヒトなのか、モノなのか、コトなのか、多くの場合は複合しているものです。
それらを提供することによって痛みの訴えはゼロにならなくても
痛みとともに暮らしていけるようになっていきます。

訴えの多い方に対して
どうしたら訴えをなくすことができるのか考える
という対応は現場あるあるですが
この問題設定は、誰のための問題なのでしょうか?

私たちの仕事は
認知症のある方の暮らしの支援のはずですが
いつの間にか、私たちの問題と認知症のある方が抱える困難とを混同していないでしょうか?
  
抽象的総論的に良いことを語る人たちが
具体的現実的に解決策を提案できないというのも現場あるあるです。

  具体的現実的に解決できないから
  過剰に抽象的総論的に語ることで補償する
  自己防衛しようとしているのではないかと考えています。
  無自覚でしょうけれど。
  理想は語るものでも唱えるものでもなく具現化していくものです。
  ところが、残念なことに
  理想と実践の乖離が進んでいる側面もあるのではないでしょうか。
  乖離に疑問を抱かざるをえない真摯に地道に働く職員が辛い思いを抱え
  認知症のある方も余分な困難を抱え
  本当の問題が表面化しにくくなっているのではないでしょうか?
  だからこそ、私が具体的現実的な考え方と具体例を提案する、表明することに
  意義があると考えています。

問題設定の問題

正しく聞くことができないから
正しい答えが返ってこない
だとしたら、検討すべきは聞き方であって答えではない。

食事介助で
「口を開けてくれない方がどうしたら口を開けて食べてくれるようになるか」
という問題設定と全く同じコトが違うカタチで
対応の工夫全般でも起こっているだけなんです。

それは、問題設定が悪いからなんです。
認知症のある方への支援に携わっている人たちの現場には
問題設定の問題が蔓延っていることに気がつければ
問題設定に意識的に取り組めるようになり、改善への道を模索できるようになります。
ここに未来への希望があります。

 

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