Tag: 臨床あるある

観察力を磨くトレーニング

観察・洞察の重要性については
このサイトはもちろん、色々なところで繰り返し述べています。

でも「よし、わかった!観察力を磨こう!」と思っても
思うだけでは観察力を磨くことはできません。

小さな子どもが注意された時に
「これから気をつけます」
と答えるのと一緒です(苦笑)
気をつけようという気持ちはあっても
どこをどう修正するのか具体的に明確になっていないと
行動を修正することは難しい
ものです。

じゃあ、どうしたら良いのか

答えは日々の臨床にあります。
カルテにその日の記録をする時に
形容詞・副詞を使わずに記録するように心がけます。

転倒などのインシデント・アクシデントレポートを書くときに
転倒を発見した時の肢位を記載しようと思って
「あれ?どっちの手だっけ?」
「あれ?四肢はどんな風だっけ?」と
書けそうで書けない体験をしたことがあると思います。
「書けない」んじゃなくて「見れども観えず」だから
結果として書けない。
書くに値するほど観察できていないんです。

書くことで
観察できていないことを自覚し
具体的に観察し損ねていた部分を明確化できるので
結果として観察力を磨くことになります。

そして、この時にポイントがあります。

それは、形容詞・副詞は使わず
名詞と動詞中心に記録することです。

形容詞・副詞を使うと
なんとなくわかってるような、できてるような気分にはなっても
曖昧だから伝わらないし
現実問題として、自分自身が明確化できていない時に
形容詞・副詞を使いたくなるものなんです。
「きちんと記録できるようにしっかり観察します」とか。

現場あるあるなのが
「ムセないようにゆっくり食事介助する」
という文言です。

「気をつけて食事介助をします」という気持ちはわかりますが(苦笑)
ゆっくりとは何に照らしてゆっくりなのか
どのくらいのゆっくりさが適正なのか
どこをゆっくりするのが良いのか
全然わかりません(苦笑)

実際、そういう人は気持ちはあるのでしょうが
実践として、行動としては、適切な食事介助はできていないものです。

何を判断根拠とするのか明示されないと
どこをどう観察して判断するのかわからないから
自己判断・自己修正ができないからです。

「ムセないようにゆっくり食事介助する」
ではなくて
「2回目の喉頭挙上を確認してから次の食塊を介助する」
これなら、誰にでも観察すべきポイント、
どういう状態になったら次の介助をするのかということが明確に伝わります。

これって、カタチを変えていろいろなところで散見される状況ではないですか?
その他にも「優しく接する」「丁寧に接する」
ヤマほどありますよね?

明確化するのに
一番適しているのは言語化することです。
 
言語化する時に、形容詞・副詞を使わないように気をつけることで
抽象論・総論から脱却し、具体的・個別的に明確化するように
思考と観察力を磨くことができるようになります。

高いお金を払ってセミナーなんかに行かずとも
たった一人でも、今すぐに、始めることができます。

やってみると
今までいかに自分が
「わかったつもり」「やっているつもり」になっていたのか
わかるようになると思います。

私が実習生の時のデイリーノートには
対象者ごとに詳しく記録をするように求められていました。
主観と客観を区別して書くように指導されていました。

最近の実習では
デイリーノートの簡素化が進み
技術の体験に比重が置かれるようになりました。

実習の過剰な負担を減らすことは必要かもしれませんが
「書く」ことによって、「思考や観察の曖昧さを自覚させる」
というトレーニングにはなっていたと思います。
そのトレーニングの機会がなくなってしまいました。

臨床家として、最も基本的・本質的であり、かつ重要な資質なのに。

負担を減らすというメリットを得た代わりに
臨床家としての基本的・本質的・重要なトレーニングを代替させる場について
どれだけ議論と対応が為されてきたのか疑問に感じています。

「ちゃんと書く」「ちゃんと観察する」のは
誰でもできることではありません。
きちんとトレーニングが必要です。

「ちゃんと書く」「ちゃんと観察する」のは
願えば誰でもできるようになることではありません。
気をつけようと思えば、気をつけられるものではありません。
実践としてのトレーニングが必要です。

もしも指導者がそのことを身に染みてわかっていないのであれば
残念ながら、その人は抽象的総論的曖昧な実践しかしてこなかった
ということを意味しています。

だから
自身の未熟を対象者のせいにして
「認知症だから仕方ない」
「認知症だから希望は聞かない」
「認知症だから。。。云々」
と言えてしまうんじゃないでしょうか?

 

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スプーン操作を見直すべき兆候

対象者の方に下記のような兆候が見られたら
それは介助者がスプーン操作を見直すべき兆候でもあります。

<開口した時>
・舌が奥に引っ込んでいる
・舌が硬くなっている

<食塊をとりこむ時>
・顎が上がっている
・上唇を丸めずに閉じている
・口角から食塊がこぼれ落ちる
・引き抜いたスプーンに食塊が残っている
・正面ではなく介助者の側に頭部を回旋している

<食塊が口腔内にある時>
・咀嚼・送り込みに時間がかかる

<食塊を嚥下する時>
・喉頭が完全挙上しない
・喉頭が複数回挙上する

これらは、見ようと思えば今すぐに誰にでも観察できることですが
たいていの場合に、上記兆候は観察されず
「見れども観えず」
視界に入っているはずなのに意識化されていません。

上記兆候は
介助する側の人の不適切なスプーン操作が原因となって
引き起こされたり、増悪されたりしている兆候です。

つまり、改善可能な状態像なのに
見落とされていて対処されていないのが現状です。
 
食事介助の時には
ムセの有無しか確認していない人がとても多いのが現状です。

しかも、
強く激しくムセるとすぐに食事中止を指示する職員がとても多いという問題もあります。

ですが、このような対処は合理的ではありません。
ムセとは何か?
身体の働きについて本質を知ることなく思い込みで対処しているだけです。

この問題については次の記事で。

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事実の子7:座る練習→立ち上がれる

こちらのブログにも
何回も書いてきましたが
ウソみたいな本当のハナシ。

静かにそっと音がしないように座る練習をすると
一人でスッと立ち上がれるようになります。

立ち上がりの練習を
「はい、頑張って!」と努力して立たせることはしません。

立ち上がりは
1)完全に全介助で 2)ご本人には努力させずに
ただし、3)重心の移動方向にだけ気をつけて 行います。

座る時に、
1)音がしないように  2)ソッと  3)体幹の前傾を十分に保ちながら
場合によっては、4)体幹が伸展しないように腰や背中を支えながら 座っていただきます。

一人ではスッとスムーズに立ち上がれなくて
何回もお尻を持ち上げようと努力してようやく立ち上がれたり
何かにつかまって身体を引っ張り上げるようにしてようやく立てる
あるいは、どうしても一人では立ち上がれない
という人に対しては
立ち上がりの練習をするのではなくて
座る練習をした方が早く立ち上がれるようになります。

お試しあれ〜⭐︎

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言葉の取り扱い

ちょっと待った

「アルツだから」

先日、こんな言葉を聞いてびっくりしました。
いわゆるギョーカイ用語のつもりなのでしょうか?

他にもよく聞くのが
「認知だから」
「認知の人」
「認知のある方」

その流れで「アルツ」なんだとは思いますが。

少なくとも
私の周囲でそんな言葉を使う人で
行動観察がしっかりしていて
知識もきちんともっていて
論理的に考えるような人には出会った試しがない。

当たり前だと思いますが (^^;
だって言葉は概念を表すものだもの。

言葉の取り扱いに気をつけるということは
概念の取り扱いにも気をつけているということだもの。

とりわけ
リハスタッフは
末梢からの情報入力に関与することによって
中枢の回路を組み替えるという仕事をしているわけだから
リハスタッフが一番言葉の取り扱いに鋭敏にならざるを得ないと思うのですが。

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臨床あるある(座る練習>立ち上がり)

我慢のしどころ

騙されたと思って、やってみてほしい。です。

ご自身で立ち上がりができない方に対して
立ち上がりの練習をする時に
まず、最初は
頑張って立ち上がりを練習するのではなくて
座る練習をする
立ち上がりは全介助で重心の移動方向に注意しておこなう
という方法です。

以前にこのブログのどこかに書きましたけれど
随分前なので、探すのも大変だと思います。
(そんなワケで今書いています ^^;)

この方法はいくつかポイントがあるのですが
肝心なことは、
過剰努力をさせるから
立ち上がりの練習をしているのに立ち上がれるようにはならないし
できるけれど腰痛を発症するとか回数を重ねるとできなくなってしまうので
過剰努力をさせないということと
できることのでき方を良くすると、できないことができるようになる
というところにあります。

(続く)

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臨床あるある(昔とった杵柄の意味)

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スティーブ・ジョブズは言いました。
「人は形にして見せてもらうまで自分のほしいものがわからない」

だから、アップルは他社とは違って
敢えて、商品開発のための事前の市場調査を行っていなかったんだそうです。
そのかわり、発売した製品の使い勝手などのモニタリングは徹底して行ったとのこと。

なるほどー。と思ったものです。

Mac OSやi Macやi Phoneが世に出て初めて
「こんなのがあったらいいなーと思ってたんだよ」とは言えても
商品化される前に具体的なイメージができていた人は圧倒的に少なかったと思います。

作業選択だって、そういう場面にはよく遭遇しています。
だって、重度の認知症のある方には
昔とった杵柄をそのまま適用はできませんもの。

「かつて」好きだった、得意だったことが
「今も」そのままできるとは限らない。からです。

でも、昔とった杵柄がそのままできないからといって
まるきり、意味がなくなるわけでは決してありません。

昔とった杵柄と同じ要素を違うカタチで提示するといいんです。

初めて行う作業であったとしても
集中して行えるし
綺麗にできるし
満足感も高いし
何よりも重度の認知症のある方自身が
自分で在ることの意義を言葉ではなくて体験を通して再確認できる。

Re-Habilis の体験をすることができる。

それら一連の過程を言葉ではなくて
体験を通して確認・恊働することができる。

その援助ができるのが、作業療法士の作業療法士たる所以なのだと感じています。

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「言ってくれなきゃわからない」

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私の大好きな「ゲド戦記」に
コケばばが語るこんな言葉があります。

「(略)
いいですかね、もしわしの顔にちゃんと目がありゃ、わしにはおかみさんに目があるのがわかる。
そうじゃないですかね。もし、おかみさんが目が見えなくても、わしにはそれとちゃんとわかる。
もし、おかみさんがあの子みたいにひとつしか目がなくても、反対に三つ目があっても、それもこっちにはわかる。
だけど、わしのほうに見る目がなかったら、相手に目があるかどうかは言ってくれなきゃわからない。
(略)」
ー ゲド戦記 最後の書 帰還 p.81より ー

相手に言葉にして尋ねることも言葉にして確認することも大切で必要だけれど
言葉だけに頼ったり強調されたりするのは、臨床的な意味でどうかと思う。

1つには言ってもらわないと、わからないのはどうかと思うし
もう1つは言葉以外の聴き方や確認をとりこぼしてしまうおそれがあると思います。

そういうことって
もう既に起こっているように感じられてなりません。

私たち作業療法士が扱う作業の本質としてのoccupationは
言葉によって分離されたものではない。
言葉も言葉以外のものもすべて包含した「場」のことです。

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臨床あるある(昔とった杵柄は要注意3)

ちょっと待った

もうひとつ、根本的に見落とされていることがあります。

人は明確に「やりたいこと」を希求して生きている人ばかりではない
ということです。

人によっては
「求められていること」をやることに重点を置くタイプの方もいますし
「生きること」「暮らすこと」に必死だった方も大勢おられます。

そういった方に
「やりたいことを尋ねる」だけでは、たとえこちらが意図していなかったとしても
その方の生き方を結果として否定してしまうことにもなりかねません。
少なくともそのように受けとめられる可能性については事前に十分に考慮しておく必要性があります。

こういうことを言うと
「認知症のある人は、そんなことわかんないでしょう」と言う人が出てくるものですが (^^;
そう言う人は認知症という病気の理解ができていないから、そんな風に言えるんです。

認知症のある方ご本人が「バカになった」という言い方をよくされますが
決して「バカ」になったのではありません。
あくまでも「障害」として、
新しいことが覚えられなくなったり、遂行機能障害が出てくるだけで
「判断力」の全てを喪失したわけではありません。

「やりたいことは何ですか?」と尋ねて答えられない方に対して
「やりたいこと」を想起しやすいような工夫は必要です。
そうすることによって答えられるようになる方もたくさんいるでしょう。

でも一方で
暗黙の前提要件となっている
「人は、やりたいことを明確に希求して生きるものだ」という命題は
本当に吟味されてきたのでしょうか?

この前提となっている命題は、本当に万人に当てはまるものなのでしょうか?

そもそも
「やりたいことをやる」のは何故なんでしょうか?
「作業をすることで元気になる」のは何故なんでしょうか?

「やりたいことができるようになって嬉しい」ということは
単に表面的な意味だけなのでしょうか?

活動・参加に大きく旗が振られるようになった今
「何をするのか」という根拠が求められています。
その1つに本人のやりたいことをもってくることは、よくわかります。
いろんな意味で。

でももう一歩深く考えてみれば、
目をつぶってきた本当には、わからないことがあったりするのではないでしょうか。

もしかしたら、必死になって「やりたいこと」を探すことによって
もう1つの本質的な問いかけを避けていたりはしないでしょうか。

「やりたいことはない」
この答えにその方の一端が現れてもいます。
それなのに、やりたいこと探しから始めるのでしょうか。。。

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