Tag: 状態把握

おまけの追加

毒にもならないものは薬にもならない…と思っている私ですが

作業療法は、その特性上

使役とすりかわってしまいやすい運命をもっているからこそ

取り扱いに用心が必要なのだと思っています。

なんとか、リハにノせなくては…などという態度は

認知症のある方に対して

使役と化してしまうおそれのある態度でもあります。

 

特定の枠組みを共有できないのだとしたら

相手をどう枠組みにのせるか考える…のではなくて

相手のおこなえる枠組みにこちらがのっていけばいいのです。

それが行為という自発的な場面の観察を

ということでもあるのです。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/187

リスク回避としての意味

12/1(木)の記事の続きです。

なじみの関係というのは

言葉はきれいですけど

要するに相手の情に訴えるわけで(^^; 

それもいいですけど

でも、あんまり相手頼みじゃありません?

そういうことがモノを言う場面だってありますが

下手すると

無自覚であったとしても

「リハビリをやらせる」ために相手の情に訴えていた、利用した

…ということにもなりかねないわけで。

こちらが設定した枠組みしか使えないとなると

どうしたって避けては通れない課題となってしまいます。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/185

前提となる根本的な条件が共有できない

12/1(木)の記事「行為という自発的な場面の観察を」の続きです。

http://kana-ot.jp/wp/yosshi/176

どの疾患による認知症であれ

時や場の見当識が低下してしまった方は

自分がいるここがどこで何をするところなのかが

わからなくなったり、とりちがえてしまいます。

また、リハビリというのは

ある目標達成のために

ある目的をもって

ある一定時間、特別の場で特別のことを

対象者と作業療法士が恊働しておこなうもので

これら二重の前提条件の理解の上に

体操しましょう、歌を歌いましょう、これを作ってみませんか

…ということが成り立つわけですが。

ところが、この前提条件が共有できていないのに

表面だけ、何かしましょう…と言っても

「今はそれどころじゃない」となってしまいます。

もちろん、上手い具合に?取り違えてくれている場合もありますが。

大切なことは

単に、「なじみの関係」づくり…というのではなくて(^^; 

障害としての見当識の低下という状態と

その代償を、何を使ってどのようにおこなっているのか

ということを、こちらが適切に把握できているかどうか…であって

どうやったら、リハビリにノってくれるかどうか

…などではないと思うのです。 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/184

豊かな場

12/1(木)の記事「行為という自発的な場面の観察を」の続きです。

http://kana-ot.jp/wp/yosshi/176

私には忘れられない体験があります。

こちらが提供する活動に関しては、いつもやんわりとおことわり…。

後のほうの席で見学常連。

こういう方に対して、えてして職員側は

「なにかできることない?」

と現状を否定的にとらえがち。

「活動的になるように」対応策を考えよう

…なーんてことも少なくないんじゃないかしら?

でも、この方はとてもゆったりと中庭を眺めていらっしゃいました。

「鳥がなにかついばんでるから雨があがったんだな…と思って」

そう答えたその方のその時の表情を今でも覚えています。

豊かな場…というのは、1人1人違う。

こちらが設定した枠組みでは見落としてしまうことがある。

詳細はこちらに ↓

県士会サイト>  作業療法の魅力を語る> 作業療法を語る> 「私たち自身の在りようをみつめる」

http://kana-ot.jp/wpm/essay/post/20

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/180

行為という自発的な場面の観察を

食事には、

その人の能力と困難と特性が投影されるように

他の行為にも、

その人の能力と困難と特性が投影されてる。

自発的な場面だからこそわかることがある。

こちらが設定したリハやレクの場面では

わからないことがいっぱいある。

だから病棟にいりびたっています(^^) 

ふだん対象者の方が過ごす場面を大切にしてる。

病棟の何気ない日課の流れの中で

何にも規制がない場面において、どんな風に応答するのか。

リハやレクの場面では

どうしたってこちらが枠を設定するのだから

設定した枠そのものが

規定する応答というものが存在する。

OTは、その前提をもとに観察してる。

無自覚であったとしても。

でも、それだけじゃ、見落としてしまうことがいっぱいあるのよね。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/176

総体として全体を同時にとらえる

個々の機能を別々にとらえているだけでは

改善へのきっかけがつかみにくくなってしまいます。

遊び食べをする

…という「結果として表面にあらわれている」ことの中には

たとえば

綺麗好きで口のまわりがちょっとでも汚れたり

食べこぼしたものがちょっとでもあると

すぐに手でぬぐおうとしたり

なんとかスプーンですくおうとして

適切に巧みに手指を動かすことができずに

かえって汚れてしまう

最初はその汚れをなんとかしようとしていたのに

いつのまにか、動作の目的を忘れてしまって

同じ動きを繰り返す…という場合もあります。

手遊びするから、とすぐに全介助と対応方法を決めるのではなくて

「何が起こっていたのか」

をきちんと観察することで

綺麗好きであるとか、食べこぼしを気にする人という

能力や特性をとらえることもできるし

上肢の操作性や手指の協調性が低下しているという困難も把握でき

手遊びのきっかけを作らないですむように

汚れたらすぐに介助者がふきとる…とか

食べこぼさないですむように

スプーンや食器やトレーに工夫をしてみる…などという

具体的現実的に対応の工夫ができるようになります。

私たちは

すぐに『どうしたらいいのか』という対応を求めてしまいがちですが

『何が起こっていたのか』という現実の中に

解決へのヒントも含まれているように感じています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/151

箸で線引くように

ある方は箸で線を引くようにしてご飯を食べていました。

お茶碗に残ったご飯は見事に一直線を示しています。

( 几帳面な方だったのかも… )

そう言えば、

挨拶する時にもきちっとした身のこなしで挨拶してる。

言葉使いも礼儀正しい。

えてして

食事場面は自立してるかどうか、ムセや食べこぼしはないか

という観点でみられても

特性をあらわす食べ方に注目する人は少ないようですが

「食事」という場面は本当に豊かな場面です。

対象者の能力も困難も特性も投影される貴重な場面なんです。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/141

5本箸

5本箸5本箸でお食事…つまり、手づかみで食べてしまう方も中にはおられます。

Eさんも、ご多分にもれず5本箸を使用中。
ですが、Eさん、手づかみで食べながらも
左手はちゃんと手で受けるように口もとに添えています。
しかも、その手の添え方は指をそろえていて、とても優雅な仕草です。
一瞬、みとれてしまいました。

Eさんは、挨拶される姿も優雅です。
ちょこっと、小首をかしげ、手を口もとに添えて
「こんにちはー」「おほほほー」とにこにこされます。

もしかしたら、Eさんは、ものすごいお嬢様だったのかしら
…などと感じました。

5本箸…といっても
人それぞれ
千差万別のあらわれ方が見られます。

食事…という場面は本当に大切

生命に直結しているし
最後まで残るADLだし
だからこそ、対象者の方の能力と困難と特性があらわれやすい

対象者の方にとっては、能力発揮の最後の砦
私たちにとっては、その方の状態を把握できる最後の砦

食事という場面を
もっと、多くの人に
もっと、大切にしてほしいな…と常々感じています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/68