前提となる根本的な条件が共有できない

12/1(木)の記事「行為という自発的な場面の観察を」の続きです。

http://kana-ot.jp/wp/yosshi/176

どの疾患による認知症であれ

時や場の見当識が低下してしまった方は

自分がいるここがどこで何をするところなのかが

わからなくなったり、とりちがえてしまいます。

また、リハビリというのは

ある目標達成のために

ある目的をもって

ある一定時間、特別の場で特別のことを

対象者と作業療法士が恊働しておこなうもので

これら二重の前提条件の理解の上に

体操しましょう、歌を歌いましょう、これを作ってみませんか

…ということが成り立つわけですが。

ところが、この前提条件が共有できていないのに

表面だけ、何かしましょう…と言っても

「今はそれどころじゃない」となってしまいます。

もちろん、上手い具合に?取り違えてくれている場合もありますが。

大切なことは

単に、「なじみの関係」づくり…というのではなくて(^^; 

障害としての見当識の低下という状態と

その代償を、何を使ってどのようにおこなっているのか

ということを、こちらが適切に把握できているかどうか…であって

どうやったら、リハビリにノってくれるかどうか

…などではないと思うのです。 

 

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