Tag: 状態把握

結果から状態を観察し必然を洞察する:食事介助

非麻痺側のべた足歩き

私が他の人と違うところがあるとしたら観察の深度だと思う。

例えば
「ためこんで飲み込んでくれない」と質問する人は多いけれど
ためこみって、結果として起こっていることなんです。

食事をためこんでしまう方は
食べたくないからためこむ訳ではなくて
食べたくて食べようとして、でも食べられないケースが圧倒的に多いものです。

なぜ
ためこんでしまうのか、食べようとして食べられないのか
というと、圧倒的に多いのが舌の硬さです。
まるで、かまぼこ板のように舌がガチガチに硬くなっていることが多々あります。

舌が硬くなっているという状態の結果、
スムーズに送り込みができなくなり、ためこみという結果となって現れているのです。
じゃあ、なぜ、舌がそんなに硬くなってしまうのかというと
これは、十中八九、誤介助が理由です。
対象者の方に本質的な問題があるわけではないのです。
だとしたら、正の介助を行えば正の学習が生じます。
私たちが適正な介助を行えば良いだけなのです。
  
ところが、多くの人が「ためこみ」に困ると言いながら
「ためこみ」につながるようなスプーン操作、たとえば
スプーンを口の中に突っ込んだり、
上の歯でこそげ落としたり、
多すぎる1口量を口の中に「入れてあげる」等の誤介助をしているのです。

対象者の方は
食べにくさを感受しながらも必死になって食べようとした結果
過剰努力によって舌が硬くなり、
舌のしなやかな動きがなくなるので食塊再形成や送り込みができなくなる
食べたくても食べられず、結果としてためこんでいるのです。

誤解が生じないように敢えて書きますが
私は改訂水飲みテストを否定しているわけではありません。
実際、必要であれば改訂水飲みテストを行なっています。
でも、改訂水飲みテストはあくまでも「食べ方の評価」を構成する1検査に過ぎません。
同じ意味で嚥下造影や嚥下内視鏡も「食べ方の評価」の下位項目としての1検査に過ぎません。
検査は必要で意義もありますが、すべてではないのです。
(MMTをとっただけで歩行状態の評価ができるわけでないのと同じです)

その証拠に
上記の検査をしても、「どのように介助したら良いのか?」という問いが
解消されることはないのではありませんか? 

  「知は力なり」は真実だと思うけど
   こと、人に対しては「無知は力なり」じゃないの?って
   思ったことが何度もありましたっけ。。。
   でも、ちゃんと見ててくれる人もいたから救われました。

結果だけ見ているから、ハウツーを当てはめることしかできないし
結果を引き起こしている状態を観察できたとしても、知識がなければ
状態を引き起こす必然を洞察することはできないのです。

逆に言えば
状態を観察できるように知識を習得し
イマ、ナニが起こっているのかを洞察できるように観察すれば良いだけです。

食べようとして食べられずに困惑して
必死になって食べようとしているのに
その努力を不合理としか判断してもらえなかったり誤認されるだけで
的確に援助してもらえる人に出会えず苦しい思いをしている方が
今もまだたくさんいるだろうと思います。
そういう人が一人でも少なくなりますように。

そして、コトは食事介助に限らないのです。

 

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必要なのは過程における自己承認

イメージ_木立の陽射し

学ぶということは変わるということ
変わり方は人それぞれ、その時それぞれであっても

一人前のセラピストとは
過程において自己承認ができて
結果において目標達成できる

ことだと考えています。

だから極論すると
臨床経験1年目から一人前のセラピストになることも可能だし
臨床経験30年の人でも一人前のセラピストとは言えない人だっていると思います。

多くの場合に
私たちは過程において自己承認ができるようには教わっていないから
一時的に他者承認が必要な時期もあると思う。
でもそれは将来、自己承認ができるようになるための前段階として。

いつまで経っても自身の考え方や実践に
「見通しが持てないなかでやってる」
「これで本当に良いのか不安」
と言ってるようではプロとは言えないと思う。
それってカタチを変えれば
予算立案の際に
「このくらいの予算でいいんじゃないかと思うんだけど自信がない」
って言ってるのと同じだからです。

予算立案と目標設定の類似性については
_前の記事「見通しが立たないからこそ目標を設定する」_に記載しました。

漠然と根拠もなしに「このくらいかな?」では自信がなくて当たり前です。
自信がないのは、「予算の確かさ」ではなくて
「予算の根拠」なので、ある意味自信がなくて当たり前です。
テキトーな根拠に自信を持たれたら困ります。
一つ一つの事柄をきちんと調べて確認してから
必要経費を計上していれば
「このような活動をこれだけの人数で行えばこのくらいの予算が必要」
と明確に言えるものです。

自分の実践に見通しが持てなかったり、不安ばかり募るというのは
結果的に生じている
ことで
本来、フォーカスすべきは、状態像の把握ができていないということなんです。
  やるべきことをやっていないのですから、不安で当然です。
  やるべきことをやっていないのに自信を持てる人は傲慢であり
  そのようなあり方は科学的態度から最も遠い在り方です。
  不安や困難を自覚している人はまだ成長の可能性があります。
  自身の不安や困難を否認して自身が困らないことを優先する人は

  どうしようもありません。
つまり、論点のすり替えが起こっていることに無自覚なことが問題なんです。
だから、自己修正ができない。
問題設定の問題なのです。

予算を立案するために、一つ一つの事柄をきちんと調べて確認するのと同様に
対象者の状態像を把握するために、障害と能力を一つ一つ明確化していけば良いだけなのです。

ところが、
障害と能力の明確化という過程を
案外、ちゃんと教わってこなかった、学んでいなかった
 ということに
ここにきて初めて気がつく人もいるでしょう。
いくら、すべきと教わった検査をしても
それだけでは状態像の把握に結びつかないことに直面する
からです。
愕然とすると思います。
じゃあ、どうしたら良いのか?

障害に関する基礎知識を学び直し
今、できていないことがどんな風に困難なのか
今、できていることがどんな風にできているのかを
よく観察することです。
  状態像の把握ができていない人は十中八九、観察ができていません。
  できていると思っている人でも実はポイントほど見逃しているものです。
今は良いデバイスがありますから、
対象者と職場の許可を得て録画しましょう。
そして何回も繰り返し見直すのです。

本当は、ここでちゃんと教えてくれる人がいると良いのですが。。。
 この行為は、こういう能力があるからできる
 一方で、こういう障害を代償している側面もある
 この発言は、こういう能力があるからこそ出てくる
 一方で、こういった障害の恐れもある
などとちゃんと解説してくれる人がいると一番良いのですが
近くにいなければ、覚悟を決めて自分でやるしかありません。
「読書百遍義自ずから通ず」は、本当です。
繰り返し録画を見て観察しましょう。

最初は
「何を」「どこまで」観察するのか皆目見当もつかないかもしれません。
自分が何に困っているのかわからないから
観察のポイントもわからないのです。
そんな時に助けになるのが目標設定です。
目標を目標というカタチで設定できるまで観察します。
その過程において確認すべきポイント、
今まで自分が曖昧にしていたのに気がつけないでいたポイントに
自分で気がつけるようになります。

観察できるようになれば
目の前にいる対象者の方に「イマ」「ナニが」起こっているのかを
洞察することができるようになります。
障害がどのように現れ、その障害を代償しようとした結果
能力が不合理に発揮されていることが手に取るように分かるようになります。
だから、どうしたら良いのかが「結果として」浮かび上がってくるのです。
過程をすっ飛ばして「結果」が得られることはありません。
無意識には本当はわかっているからこそ、不安になるのではないでしょうか。

真摯に向き合っているからこそ
「対象者の方に」どうしたら良いのかという悩みが出てくると思います。
でも本当は
「自分が」どうしたら良いのか悩むべきなのです。
ここでも問題設定の問題が起こっているのです。

目標設定について
定義や自己トレーニングの方法について
こちらのサイトにまとめてあるので良かったらご参照ください。
 
遠回りになるかもしれませんが
逆に言えば、遠回りしたからこそ深く知見を習得することも可能と言えます。
逆に、教えてくれる人がいたとしても、
その人の技量が未熟であれば不適切な知見を得る恐れだってあります。

「ちゃんと教えられる人」って実はそうそういないのが現状でもあります。
もし身近に「ちゃんと教えてくれる人」がいたら
その人は本当に良い人です。
良い人に出会えたことを感謝して大切にしてください。

そうでない人は
「ちゃんと教えられる人」がいないのが通常だと思って
覚悟を決めて自分で自分をトレーニングしていきましょう!
そして自分自身が誰かに「ちゃんと教えられる人」になりましょう。

曖昧な部分を自分が自覚できるからこそ
曖昧な部分の明確化が可能になります。
(まさしく、予算立案と一緒です。)

一つ一つの明確化、地道な努力の積み重ねによって
根拠の確からしさを説明できるようになれば
結果として、過程における自己承認ができる
ようになってきます。

繰り返しますが
手段と結果として起こることを混同してはいけないのです。
自身の実践に見通しを持てなかったり、不安を抱いている場合に
実は問われるべきは実践の確からしさではなくて実践に至る過程での明確化なのです。

より良いOTになるために
より良いOTを育成するために
最も重要なメタ過程というべきこれらの過程を
卒前卒後でどのようにして連携しながら養成していくのか
私たちは大人ですから、個々の課題だとも言えますが
そうも言っていられない現状もあるのではないでしょうか?
  

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見通しが立たないからこそ目標を設定する

目標設定が難しいのは、
「対象者の状態像がよくわからない」とか
「やってることの見通しが立たない」から
と言う人もいるようですが、それはまったくの誤解です。
  
「よくわからない」
「確信が持てない」
だからこそ、目標を設定するのです。

目標こそが羅針盤なのですから

予算を立てるのと一緒なんです。

私はかつて
神奈川県作業療法士会の県学会の広報部長をしたことがあります。
そこで、まず最初に予算案を立案するように言われました。
それを聞いてまず思ったことは
「学会の仕事なんてやったこともないのに予算なんて立てられない」でした。
でも、それは間違いだったんです。
やったことがないからこそ、予算を立案するんです。
(別に記事にしますが、通常、納期と予算のない仕事はありません)
  
予算を立てるためには「このくらいかな?」というような当てずっぽうではなくて
ちゃんと正当性のある見立てが必要です。
学会そのものの目標として参加者数の設定がありましたから
それだけの方に来ていただくために
どんな広報活動を展開するか、
どこでどんなことをするか、
その活動に必要な人数と物品は何か
具体的に考えて、一つ一つを確認して
(例えば活動してくれる人の交通費を確認する)
具体的に明確化していく作業が必要です。
これって、カタチは違えど、まさに目標設定の過程そのものです。
突発的なこと、新たに新規活動を組み込む必要が生じた場合などは補正予算を組みます。
想定外で状態像や環境の変更が生じた場合には目標を設定しなおすのと同じです。

つまり
適切に目標を設定しようとする過程において
自分がするべきことが明確化され、実践することが要請される

ということなのです。

目標とは
その人に「必要」で「達成可能」であり「行動」で示される
ものです。

必要」なことを明確化することは難しくないと思いますし
(身体面なのか認知面なのか情緒面なのか環境設定の工夫なのか)
行動」で表現するということは明らかにセラピスト側の技術の問題ですので
これはセラピスト側がトレーニングによって解決すべき部分です。
問題は「達成可能」というところです。
ここは、『現在の』障害と能力を明確化できないと判断できません。

誤解している人が多いのですが
いくら検査をしてもそれだけでは『現在の』障害と能力を把握することはできません。
検査と評価は違うのです。
ところが、「検査=評価」と誤認している人はヤマほどいます。

適切に目標を設定しようと意図した時に
あるいは、目標を適切に設定できているかどうか確認しようとした時に
根拠となるのは目標の定義であり
目標というカタチになっているかということになります。

 
必要なことを行動で表現しようと意図すれば
達成可能かどうか、現在の障害と能力を把握する上で
自信が未確認な箇所や曖昧にしていた箇所が浮かび上がってきます。

予算を設定する時とまったく同じなのです。
あとは、浮かび上がってきた曖昧な箇所を明確にすれば良いだけです。

適切に目標設定することができないという場合
「なんとなくわかってるんだけど言葉にするのは難しくて」
という言い方をする人は多いのですが
本当は、「言葉にするのが難しい」のではなくて

「対象者の現在の障害と能力がなんとなくしかわかっていない」
「自身がわかっていない箇所がわかっていない」のです。
だから、先へ進めない。
だとしたら、曖昧な箇所を明確化すれば良いだけです。
その時に力になるのが、目標という『カタチ』で設定することなのです。

   このような現状を招いた一つとして
   皮肉なことに「やること」の知見が集積されてきたことの

   マイナスの側面があると思います。
   脳血管障害後遺症の方には、〇〇と△△をやる
   大腿骨頸部骨折術後の方には、〇〇と△△をやる
   廃用の方には、〇〇と△△をやる
   帰宅願望に対しては、気持ちを逸らす
   といったような言説は巷にあふれています。
   そしてまた、それらの結果、

   できなかったことができるようになったりするので
  「やってよかった」という判断になり、

   振り返りが為されにくいという状況が生まれます。
   だから、ハウツー的思考回路や方法論に対象者を当てはめるような思考回路
   評価と治療が乖離している現状が生まれるのだと思っています。

『現在の』障害と能力を明確化するところで
自身が行き詰まっているということがはっきりしたのだから
自身の行き詰まりを明確化する
わかっていることとわかっていないことを明確化し
わかっていないことをわかるようにすれば良いだけです。

   余談になりますが
   現在の実習指導CCSで最も欠けているのがこの過程です。
   臨床で最も重要なメタ過程とでもいうべき
   自身の思考過程の明確化という体験学習ができない
   という点が非常に大きな問題だと考えています。

ところが、多くの人はその過程に立ち戻ることをせずに
(実習で体験していないからできようはずがないとも言えます)
放置したり(目標と方針と治療内容が同じ文言)
対象者のせいにしたり(認知症のために目標の共有困難)
言い訳をするのです(そのうちわかるよ)

でも、本当は
そのような自分自身に内心忸怩たる思いを抱えているのではないでしょうか。
ただ、どうしたら良いのかわからなくて
次の一歩を踏み出せないのではないでしょうか。
モヤモヤした気持ちを抱えながら、なんちゃって目標を設定するというのは
相当辛いことだと思います。
辛いからこそ、今度は「目標なんて臨床ができさえすれば関係ない」とばかりに
表面的に為すとされたことだけしていく
現行流布している方法論にしがみつく
という在り方に舵を切るしかないのかもしれません。。。

だけど、それは砂上の楼閣なんです。
ことは目標設定にとどまらない。
セラピストとしての在り方の根幹に関わる
ことなんです。
困難に遭遇した時に
「そのような状態は対象ではない」
「認知症が重度だから無理」
「言動に迎合し再学習に向き合わない」
といった対応をするということと全く同じです。
概念の本質を理解しようとせずに表面的な対応に終始する。
「個性尊重」「その人らしさ」を声高に唱えながら
やってることはハウツーに当てはめてるだけ。。。
まさに、一事が万事というわけです。

目標設定そのものが適切に行えるということ自体、重要なのですが
その過程を通して、下支えしているメタ認識のトレーニングにもなっている
という二重の意味で重要なのです。

目標は「その人がやりたいこと」を設定すれば
目標設定の困難さが解消されるわけではありません。
(やりたいことを尋ねることには意義がありますが)
むしろ、問題の本質をすり替えられ抑圧され
短期的には問題が軽減したように見えて
長期的にはさらなる困難を作ってしまった
ように思えます。
  
事実、認知症のある方の場合に
「やりたいこと」を言語化できなかったり
「やりたいこと」ができなくなっているケースは多々あります。
   疾患特性から「同じコトを違うやり方でする」工夫は
   成立しないどころか更なる混乱を引き起こしますし
   表立った混乱がなかったとしても
   「セラピストの脳が認知症のある方の手を動かしている」という
   事態を引き起こすことは多々あります。

   結果として「できた」かもしれませんが
   本当に「意味のある」体験だと言えるでしょうか?

   
目標設定で悩んでいるセラピストは本当はたくさんいるはずなんです。

卒前の養成過程では提供すべきとされた知見が激増し
卒後の養成過程では報酬請求と書類記載と出席すべき会議の量に忙殺され
資格取得をゴールと考える人たちが増えてきている状況において
現状改善のためにどうしたら良いのか?
と真摯に悩む人もまた人知れずいるのだと思います。

目標設定で悩んでいる方は、_目標設定_ をご参照ください。
必要であれば、研修会講師をご依頼ください。

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目標設定は技術である

目標設定は技術です。
技術なので、トレーニングが可能ですし、習得も可能です。

「目標設定をうまく教えられない」という人は
1)概念が理解できていない
2)技術をトレーニングするために必要な要素を明確に認識できていないのだと思います。
だとすれば、明確に認識するようになれば良いだけですし
自分でトレーニングしようとする人は意識すれば良いだけです。

1)については、_前の記事_で示したので
ここでは2)について記載していきます。

ポイントは、段階づけと反復学習です。

骨折術後の人に歩行練習をするに際して
いきなり、杖歩行を練習したりはしないと思います。
段階を踏んだ、リハプログラムを提供すると思います。
子どもに料理を教えようとして
いきなり、材料を提示して「ほら、作ってみな」とは言わないと思います。
まずは、工程の少ない献立を選んで
一緒に作るという場を共有し説明しながら作ると思います。

まず、最初に
「目標設定は思っていた以上に難しいものだ」
「自分はちゃんと設定できていない」
という事実に向き合うこと、認識を共有化する
ことから始めます。
 
次に、概念の理解を細かく段階づけしながら体験学習をしていきます。
判断の根拠は、目標の定義
です。

   「周囲の人がそう言うからそうだと思う」
   「以前に先輩がそう言っていたから」ではなくて
    自らが納得して判断できるように根拠としての定義を示すことが大切です。

 
その都度、目標の定義に立ち戻って体験学習を進めていきます。
教える過程において、細かく段階づけができるということは
教える側がどれだけ概念を明確に理解しているかということと関連
します。
概念の本質を理解するということは大切で大変なことだと認識している人は
これらの一連の過程を丁寧に提供することができると思います。
逆に、概念の本質を理解することをすっ飛ばして
手っ取り早く実際的な事例をもとに目標設定させようとする人は
教える側が「自分はよくわかっていない」と言っているも同然なのです。
そして、そういう人が目標と目的と方針と治療内容を混同させて設定したりするのです。
それを聞いた人は、頭の中が「?」マークでいっぱいになっても
どこをどう尋ねたら自身の疑問が解消されるのかがわからないから
質問することもできず、わからないからわかるように教えて欲しいと言えず
次のステップに進まされ表面的に課題をクリアすることを考えるようになってしまいます。
これが現状なのではないでしょうか?

  先日、とても面白いYouTubeを見ました。
  「バレーボールでレシーブの技術を磨く」
  「どうしたら素早くボールの下に入れるか」
  というテーマで、課題分析とトレーニング方法について説明していました。
  知識提供→できることのステップアップ→遂行困難→一つ前の課題をトレーニング
  という展開でとても納得できる説明でした。
  判断の基となる「見る」ことから始めて
  必要な能力の統合を丁寧に段階的に練習していく方法でした。
  新規事象の学習において、あるいは再学習において
  頭でわかったつもりでも実行できないということは必ず起こります。

  私たちは対象者の行動変容を促すことが仕事なので
  この過程を自身でも体験しておくことは有意義なことだと思います。
  知るー理解するーできる は違います。
  納得できたからといって、すぐに習得できるわけではなく
  地道な反復練習が必要ですが
  「そうだったのか!」「やってみよう」と希望を抱くことができる内容でした。
  コメント欄も「知らなかった」「すごくわかりやすかった」「やってみる」
  というコメントであふれていました。

  バリデーションを学んだ時にも反復練習の重要性を体感しました。
  課された課題を自身と対象者で実践、ビデオに撮ったものを
  受講生で観ながら講師のコメントを聞くという展開がありました。
  同じテーマを異なる対象者と異なる実践者で幾つものパターンを観ることで
  テーマの理解が深まることを実感しました。

 

目標設定のトレーニングも同じです。
概念を明確に言語化して提示
概念を知る→理解する→使える と段階づけて体験学習
していきます。
最初から、リハのケースを使ってトレーニングしない方が良いです。
概念を明確に理解できた後で、実際にリハでよく遭遇する事例をもとに体験学習していきます。
すると、この過程において、実際的な疑問が生じます。
実際的な疑問は、実は概念をより深く理解することと関連していますので
(例えば、基準と条件がどう違うのか?など)
その観点に立って、説明し体験学習するように促します。

詳細は、_目標設定_のページをご参照ください。

つまり、
目標設定を適切に行える
目標を目標というカタチで設定できる
ということは、徹頭徹尾、目標の概念理解ができているかどうか
が問われるので
段階づけてトレーニングすることが必要
ということを意味しています。

行動のカタチで表現できるようになるためには
行動とは何かという概念理解が必要で
その上で段階づけたトレーニングが必要
です。

言い換えれば
段階づけたトレーニングができるためには概念の明確な理解が必要で
概念を明確に理解するためには段階づけたトレーニングが必要なのに
現状では
これら一連の過程をすっ飛ばして
目標の定義を伝え
次に仮想事例で目標を設定させ
当然、的確なフィードバックがなされない。。。
これで「ちゃんと目標設定しろ」という方が無理でしょう。
問題の本質は、技術をどう習得させるか、という『トレーニングの問題』でもあります。
つまり、
対象者の行動変容の促し方」そのもの、
『リハの臨床能力そのものの土台』の問題
でもあります。

目標設定が適切にできるということは、二重の意味で重要なのです。

目標設定は本来「ちゃんとできる」人が教えるべきですが
残念なことに臨床家でも教育家でも
ちゃんと目標設定できる人は少ないのが現実です。
ですが、自己学習も可能です。
_目標設定_のページで自己学習の方法も展開していますし
第6回神奈川県臨床作業療法大会が12月8日(日)に開催されます。
そこで_「なんちゃって目標からの卒業ー自分自身に問い直すー」_
をテーマにお話をさせていただきます。
まずは、一度お話を聞いてみてください。
眼からウロコ、モヤモヤがスッキリすることが多々あると思います。
また、大会そのものが斬新な取り組みを多数検討されているようですし
ぜひ、ご参加をオススメします!
詳細は、公式ウェブサイトの他、XやInstagramをご確認ください。

さて、臨床家にとって大切な目標設定
対象者の状態の見通しがわからない、ということとは別問題
むしろ、わからないからこそ、目標設定することに意義があります。
これは次の記事で述べていきます。

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説明の仕方・説明の受け方

ある時、道に迷ってしまったので尋ねました。
「この道をまっすぐ行くとバス通りに出るからそこを左折」
私は初めての場所だったので『バス通り』がわかりません。
そんな気持ちが顔に出たのでしょうか、隣にいた少し年配の方が
「この道をまっすぐ行って一つ目の信号を左折」と教えてくださいました。

あーなるほどなー。と思いました。
相手の状態を把握し、理解しやすい言葉を使えるかどうか。
最初に教えてくれた人も間違った説明をしたわけではありません。
その説明で理解できて助かった人だっていると思います。

説明が上手というのは
相手の状態に応じて適切な言葉を選べる
か、どうかということなんだなーと
説明を受ける立場になって再確認。

同じ日に全くの別件で説明を受ける機会があり
その人の説明の仕方とその根幹にある思考過程に触れることになりました。
聞き手・尋ね手の立場として、
説明者の状態に応じて適切な質問のカタチで尋ねることの重要性
を再確認させられました。

説明と同意は、介護保険サービスや医療を提供する時にも受ける時にも必須の過程です。
双方の立場で説明の場にたくさん立ち会ってきました。
さすがだなーと思ってパクらせてもらった説明の仕方もありますし
そうなるよなー仕方ないよねと思ったこともありますし
それはマズイでしょうと思ったこともあります。

説明と同意という過程が形骸化してしまうというのは
いろいろな因子が関与していると思いますが、 日本的でもある と感じました。
 

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「普遍性という名の幻想」を読んだ

片付けをしていて見つけました!
「普遍性という名の幻想 日本の作業療法における文化的コンテクストの重要性」
20年以上前の論文ですが、この論文の内容は今も色褪せることはありません。

2003年に発刊された、OTジャーナルVol.37No.4に掲載されています。
著者は、Michael K Iwama 氏
英題は、Illusions of Universality The Importance of Cultural Context in Japanese Occupational Therapy

著者は、日本生まれのカナダ育ち
そして、太平洋の東西それぞれでOT学生を教えた経験をもとにして記された論文です。
「東洋と西洋は根本的に文化が異なる」
「西洋で開発された理論は西洋文化を基盤としている」
「日本は西洋由来の理論を型だけ導入して意味を見失っている」
「日本の文化に立脚して理論を変容させるべき」
といったところが要旨でしょうか。

まさしく!まさしく!

西洋と東洋の違いについて、そして今後の展望としてその融合について、かつて河合隼雄も述べていました。

私自身も大人になってから、ちょこっとだけ英会話を習った時に強烈に感じたことがあります。
例えば、「そこにリンゴがあるから食べな」と家族に伝える時に
日本人であれば、そこに幾つのリンゴがあるかは言明しません。
1個だろうが、2個だろうが、個数に触れることはありません。
ところが、英語では「There are two apples. 」と個数を言明します。
英語は、見たまま事実を言語化するんだ。。。と感じました。
日本語では、リンゴが幾つあるのかは見ればわかることだからそこには触れない。
「あんた、食べな」に言葉の力点が置かれていて、言語に省略しかも無自覚の省略がある。

例えば、同じことは臨床場面でも起こっています。
OTが何かしらのActivityの工程を説明する時に多くの人が
「ここをこうしてこうやって」と説明しているのではないでしょうか?
ここがどこなのか、こうするとはどうすることなのか、こうやるとはどうすることか
言葉では何も説明せず、動作で説明をしています。
つまり、相手がきちんと工程を見ているということを暗黙の前提として説明を行い
かつ、相手も説明を受け入れています。

つまり、動作的説明が先行し、言語的説明が後に回っている。
もっというと、視覚情報主体の説明をしている。
言葉に対する力点の置き方が違っています。

大昔、ちょっとした知り合いがアメリカでSEをしていた時に
「超能力者じゃないか」って言われたそうです。
言葉で説明していないことも理解する。。。そう思われても納得できます。

また、会話中に関係性の中で言語化するのが日本語ですが、
関係性に関わらず、自身の表明として言語化するのが英語です。
例えば、「昨日、この本を買わなかった?」「Did’nt you buy the book?」という問いかけに対して
日本語では「うん、買わなかったよ」「ううん、買ったよ」
英語では「Yes,I bought the book.」「No,I didn’t buy the book.」

言葉には発話する人の意思や思考過程が反映されます。
私は海外に旅行したことも留学したこともないので西洋文化を知りませんが、
根本的なところで日本とは違うのだろうと推測はしています。

かつて、日本では西洋に追いつけ追い越せ精神で、西洋技術を果敢に取り入れ、しかも、日本流にアレンジして活用するのが得意だったと聞いてきました。
でも、この論文の著者は「OTは違う」と言明しています。
北米発祥の理論を型だけ導入して、理解できないまま臨床で扱って困惑していると述べています。

その具体例として、OTの定義を挙げています。
OTの定義をスラスラと答える人はたくさんいたけれど、定義を丸暗記しているだけだったと。
この具体例は本当によくわかります。
かつての私もそうでした。
特に学生時代には、高校の部活の仲間によく尋ねられたものです。
「今、何の勉強してるの?」「作業療法って何?」
そこで定義を答えるという。。。しかも、違うんだよなぁと思いつつ。。。
そして尋ねた人も「これ以上は聞いちゃいけない」と暗黙のうちに察してそれ以上は突っ込まないでくれたという。。。
今の私なら、「その人の良い面を良い方向に活かすことを通して暮らしの困難を解決する援助」と言えます。
「OTは難しい」「OTって何だろう?」とOT同士で語り合いたがる人は少なくありませんが
そんなことしたって答えは出てきません。
答えは日々の臨床の中で結果を出すことを積み重ねることで導き出されるものだからです。
(この問題は後日改めて記載します)

話をもとに戻しますが、
自分の仕事を自分の言葉で語れない
もっと言うと本質的には
語るに足る実践ができている人が少ない
ということが大問題のなのだと思います。
定義を丸暗記して答える、丸暗記するくらいですから真面目なのはわかります。
でも答えてはいますが、表面的で型どおり。
聞いた人だってわかったようでわからない。
その言葉には、目の前にいる人の血肉が通っていないからです。

海外からの知識を輸入する時も同様のことが起こっていると著者は言っています。

まさしく!まさしく!

最新の理論を知っている、複数の理論を知っていることがさもOTとして優秀であるかのように振る舞う人も少なくありませんが、目の前にいる対象者に対して結果を出す方が先です。
認知症のある方に対して、生活障害やBPSD・食事介助・ポジショニング・身体リハ・Activityについて
既存の理論が使えた試しがありません。
臨床で使えない理論を有り難がったって意味ないし。

同じコトが違うカタチで起こっているのが目標設定です。
養成校の教員や実習の指導者で目標設定を明確に教えられる人がどれだけいるでしょうか?
教えられないということは、自分が実践できていないということを表しています。
臨床で適切に目標を設定できるために教えるんじゃないのかな?
そのために目標の概念を教えるんじゃないのかな?
いくら目標の概念を諳んじることができたって
臨床家としては使えなきゃ意味がないのでは?
知っている風を装ったって実践で活かせなかったら意味がないのでは?
目標設定で困る学生は山ほどいますし
教えられなくて困っている指導者も山ほどいます。
困っている人のことをちゃんと見ていないから目標の概念をたくさん教えることにエネルギーを注いだりするんじゃないかな?
そしていつの間にか、目標設定に困っている自分自身から目を逸らし
「認知症だから目標設定ができない」なんて平気で言えちゃうようになってしまうんじゃないだろうか?

まさしく、この論文で著者が指摘したことは、
定義、目標設定、実際の臨床場面とカタチを変えてあちこちで今も起こっているのです。
著者は20年以上前に危機意識を持ってこの論文を書いたそうですが
実際には状況はもっと悪化しているのではないかと感じています。

「意味のある作業」を大合唱するOTもいますが、あまりに表層的過ぎます。。。
本来、意味のない作業なんてありません
賽の河原の石積みだって、シーシュポスの神話にだって、虚しい作業という意味があります。
「意味のある」という言葉に託された深みをどれだけ理解して使っているのでしょうか。。。

最後に
著者の記した言葉を記載してこの記事を終わりにします。
  
「OTはクライアントの社会的コンテクストを重視し、彼らがその中でoccupationの新たな意味を発見することを援助することを生業としている」
 
「日本の作業療法に緊急に必要なのは、西洋から導入した理論やモデルを批判的に評価し、日本で使えるように適応、変化させるのと同時に、日本人にとって意味のある新しいモデルを作ることである。臨床現場、クライアントの文化的コンテクストより理解された情報からボトムアップで浮かび上がった新しいパラダイムが必要である。」

 

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車椅子サイドガードの工夫

上の写真の緑色の矢印の部分に
足が挟まってしまうと聞いて
赤い星印のようなカバーを作りました。

認知症のある方は
じっとしていられなかったり
理解ができなかったり
かったるかったりといろいろな理由で
手足を動かす方もいます。

足が挟まってしまっては危ないので
挟まらないようにどうしようかと考えました。

まず考えたのは、板を設置することですが
実際に足を挟んだことがある以上、板では足が当たって痛いだろうし
板を認識できずに手で持ったり投げたりしたら危ないし

段ボールや発泡スチロールも考えましたが
手で持ったり投げたりするリスクは変わらないし
トランスファーのたびに、どけたり入れたりするのは手間がかかります。

毎回必ずしなければならないというのは
大した手間ではなくても毎回毎日続けなければならないのは
心理的な負担が増してしまうものです。

そこで考えたのが、フェルトカバー
フェルトなら触れた時の感触も柔らかいし
布とは違ってほつれることもないし
幸い、使用する方は食べ物などで汚染する可能性が少ない方だし
サイドガードを上げ下げしても、使用時に違和感はないし手間も増えない
フェルトが1枚だと伸びてしまうので
耐久性を考えてフェルトを3重に重ねて縫い留めました。

縫うのはもちろん手縫いだったので大変ではありましたが
赤い点線のところは部品ギリギリに2重に縫って
緑の実戦のところはアームレストの形状に沿って縫うことで外れにくいようにしています。

フェルトの色が目立つと手でいじってしまうので
色も目立ちにくいように車椅子本体の色、特にアームレストの色と揃えて黒にしました。

汚染の可能性が少ない方だからフェルトを選択しましたが
もしも、汚染の可能性が高い方なら交換の簡便性を優先して
ビニールクロスにガムテープか養生テープかな?
手で触られにくいように切り口は外側にしてテープで固定した後に
固定跡を隠すために同一のクロスを両面テープで留めておくとか?

そうすればサイドガードを上下させる時の操作の邪魔にはならないし
ちょっとした汚れは拭き取るだけで
しっかり汚れを落としたい時には全面交換になるけど
交換時の手間もさほどかからずにできます。

ちょっとした工夫ではありますが
考え方としては
乗車する対象者の方の安全確保を第一に
操作する職員の工程・手間を増やさないことを考え
汚染可能性について検討して素材を選択した
ということになります。

 

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誤学習できる=正学習できる

中核症状とBPSD

誤学習できるということは
正の学習もできるということを意味します。

学習はできる
その方向がプラスの方向か、マイナスの方向かの違いで
その違いは、食形態・食具・介助方法含めた食環境の適否にあります。

食事介助を拒否する方
食事中の大声が止まらない方
口を開けてくれない方
ためこんで飲み込んでくれない方
たくさんの方が食べられるようになりました。

私は食べ方の観察ができるようになりました。
食べ方に反映されている困難も能力も特性も洞察することができるようになりました。
だから、重度の認知症のある方でも正の再学習を援助することが叶います。

逆に言えば
「〇〇という状態の人にどうしたらよいでしょうか?」
というカタチの質問には答えられません。
〇〇という状態を直接見てみないとわかりません。
食事介助を拒否するといっても、拒否する必然は人によってまったく違うからです。

食事中の大声が止まらないといっても、大声が出てしまう必然はまったく違うからです。
Aさんは、オーラルジスキネジアがあることを介助者側がまったく気がついておらず
適切な介助ができていなかったからであり
Bさんは、ポジショニングの不適合によって顎がズレてしまっていたからでした。

かきこみ食べをするからと、小さなスプーンを提供されても結局、かきこみ食べをしています。
Cさんは、上肢操作能力を十分に発揮できずにいてその代償としてかきこみ食べをしていたし
(手の問題)
Dさんは、とりこみ方を誤学習していたために代償としてかきこみ食べをしていました。
(口の問題)

口を開けてくれないと言われていた方の中には
Eさんは、原始反射様の動きが出ていることを介助者側が気づかず、口の中に食塊を入れられ続けてきたので口を開けるタイミングを図ることができなくなっていたし
Fさんは、パウチ状の栄養補助食品を押されることで水分と栄養を摂取していたので開口すると舌がパウチの口の形状に合わせてUの字型になってしまっていましたし
Gさんは、口輪筋が硬くなっていたので自身では食べる意思はあっても、おちょぼ口のようになってしまい開口できませんでした。

ためこんで飲み込んでくれないと言われた方は
Hさんは、口腔期が長い方で食塊が口の中に残っているから口を開けないだけでしたし
Iさんは、誤介助誤学習のために舌が板のように硬くなり送り込みができなくなっていましたし
Jさんは、オーラルジスキネジアのために送り込みに時間がかかっていました。

Aさん〜Jさん皆さん20分程度で完食できるようになりました。
皆さん状態像はまったく違いますし
私の対応も人それぞれ、変化に応じた対応をしていきました。

「大声 → 声を出さなくなる対応」
「かきこみ食べ → 小さなスプーン」
「口を開けてくれない → 開けてもらえる声かけ」
「溜め込んで口を開けてくれない → 口を開けてもらうスプーン操作」
などの「〇〇という時には△△すれば良い」というようなハウツーは、あるわけがないのです。

かつて、養老孟司が人に対して「あぁすればこうなる」なんてものはない
と喝破しましたが、なぜか、認知症のある方に対してみんなが求めているのが「ああすればこうなる」です。
そして、あまたある本や研修で伝えられているのも「〇〇という時には△△する」です。
だから、結果が出せないし
仮に、結果が出せたように見えても、いつの間にか別の問題が出てくるのです。
そのようなケースを繰り返し繰り返し見聞きしているはずなのに、
自身の思考回路や対応に疑問を持てずにいるのです。

HDS-Rが0/30点だったり
検査すらできなかったり
その場の会話が成り立たなかったり
介護拒否や介護抵抗の強い方や
大声や暴言暴力のある方などの重度の認知症のある方でも能力を発揮しながら暮らしています。

ただ、その能力発揮が不合理なだけなので合理的に発揮できるように援助すれば良いだけです。
だから、食べることの困難を協働して克服し、もう一度食べられるようになるのです。

認知症のある方や生活期にある方の場合に
食べる困難の多くは、実際には不適切な食事介助に適応した結果つまり誤介助誤学習が原因です。
誤学習ができるということは、正の学習もできるのです。
たくさんの方がもう一度食べられるようになる過程を協働してきましたが
そのたびに思うことは、
どんなに重度の認知症のある方でも能力を発揮しながら暮らしているということです。

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