Tag: 状態把握

介助は三項関係を意識する



認知症のある方は能力を発揮しながら暮らしている
という認識に立つと考えを新たにすることが多々ありました。

無自覚のうちにしていた援助を明確に見直すことができるようになりました。

たいていの人は
介助をする時には、介助者への協力を得るということを前提として考えています。

多分多くの人は違和感や疑問を感じないんじゃないかな。
私も前は何にも感じず考えずにもいたことです。
そこが実は対応の工夫を検討する上で問題になってくるところなんだと考えています。

認知症のある方は
環境を常に感受しています。
介助者の存在は環境を構成する1因子として認識しています。

でも
介助する側の人は、私の介助に抵抗しないで、協力してほしい
と暗黙のうちに考えその上で声をかけている。

認知症のある方は
認知機能障害が重度になればなるほど
同時並行的な対象の認識が困難になるから
対象と介助者と同時に認識して対応するのは難しいことなのです。

例えば
食事介助の時には、私は黒子役
食塊認識を明確に促すために、必要最小限の関与しかしません。
声かけも必要最小限。
私への反応がある時には応答する程度にとどめます。

服を着る時にも
感受・認識して欲しいのは、「服」であって「私」ではない。

認知症のある方にとって
今、すべきことの「対象」(食塊とか服とか)が主役で私は黒子役

三項関係を意識して
認知症のある方が対象を感受・認識・関与しやすいように
私が関わる

本質的なこと、
認知症のある方は能力が低下していると捉えるか、能力の不合理な発揮と捉えるか
この違いによって、引き起こされてくる在りようは非常に大きくて
じゃあどうしようという具体的な方法論はその次に成り立つことなんだけど
巷間、話題になるのは枝葉の部分ばかりのように感じられてなりません。

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観える現実が異なる



認知症のある方への対応として
いろいろ言われていますが
職員がどんな視点で関与しているのかによって、観える現実が異なってくる
という前提に関する議論・検討が少ないように感じています。

能力が低下しているから
と観るか
能力によって代償・適応しようとしているか
と観るか

同じ現実に対して、異なる視点で異なる現実を見ている。
だから、どうしたらいいか、意見も違ってくる。

意見の違いは、はっきりわかりやすいから認識しやすいし
現実に必要と迫られていることも相まって、論点としてすり替えられがちです。

視点の違いは、認識しにくい。
そもそも自分がどんな視点を持って観察しているのかということに無自覚な場合が圧倒的に多いです。

「意図こそが重要」

これは、スティーブ・ジョブズの言葉ですが
正しく!
視点によって関与の在りよう、意図が決まってくる。

まずは
視点によって観える現実が異なっている
という本当は当たり前のことから始めると
問題設定の問題に対して、クリアに検討できるようになると考えています。

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カタチとハタラキ



様々な分野で
リハの知識と技術の蓄積が進んでいるのは本当に素晴らしいことだと思う。

たくさんの方の地道な日々の臨床の積み重ねの恩恵を
私も手にし、そして、次の世代へ手渡せる過程に関与できることに感謝しています。

同時に
蓄積と伝承が良い面だけで起こっているわけではないことを危惧しています。

私は認知症のある方を対象にして働いていて
食事をはじめとするADLやコミュニケーションについて
目の前の事実に対して観察と洞察と実践とその後の考察を重ねてきました。
その結果、確実に言えることがあります。

カタチにはハタラキが反映されている。

そのハタラキを観察し洞察することが治療的環境として作用する。

カタチだけを見て
正常から逸脱したカタチを問題として認識して
カタチを修正・正常化しようとするような関与の在りようは
たとえ、善意からであったとしても
結果的には反治療的環境として作用してしまいがちです。

私たちは常に「関与しながら観察」しています。
傍観者として関与することも可能だし
こちらに合わせることを要請する者として関与することも可能だし
本来の意味での援助者として関与することも可能です。

そして、その「関与」の在りように応じて
対象者の方も応答するから
在りようというのは観察の入り口として
本来は、どれだけ重要視されてもおかしくないことです。

私が食事介助において
適切な食形態を選択することと
適切なスプーン操作をすることの重要性を言っているのは
それらができて初めて、対象者の方の本来の食べる能力を
観察するための入り口に立てるからなんです。

対人援助職は
意思として援助者として関与したいと願っていながらも
結果として、無自覚のうちに要請者として関与してしまっている、
そうすり替わってしまう危険性を内在している職種なのだということに対する警鐘が為されにくい

たとえば
食事介助に関して言えば
本来の食べる能力を観察する前に
何とかして食べさせよう、飲み込んでもらおうと考えてしまうことにすり替わってしまう。

すり替えは容易に起こりやすく自覚しにくい
ということが潜在する大きな問題だとも感じています。
このことについては、別の記事で考えをまとめてみるつもりでいます。
今は、カタチとハタラキに絞って書いていきます。

カタチには、その方の能力も障害も反映されている。

ところが、現実には目に見えるカタチを見て、正常なカタチと比較し
異なるカタチを正常化しようと取り組んではいるけれど
目に見える通常とは異なるカタチに反映されているその方の能力を観察・洞察し
その能力をより合理的に発揮できるように方法や環境を調整・適合・提供し
能力の発揮「過程」を観察・洞察しようとしている人は少ないと感じています。

立ち上がりができない方に
立ち上がりを練習させることはあっても
座り方を練習させるセラピストは少ない。

現実には
立ち上がりができない方は
往々にして、座り方も巧みにはできない場合が多い。

けれど、多くの場合に
立ち上がり方を見てはいても
その同じ場面で起こっている座り方は見れども観えずになってしまっている。

実は、その座り方に、そして立ち上がれないけれど立ち上がろうとしているそのハタラキにこそ
その方が立ち上がれるようになるための能力が反映されているのに。

認知症のある方が
口を開けてくれない、溜め込んでしまう、飲み込んでくれないという場合に
なんとか、口を開けてもらおう、飲み込んでもらおうという在りようで接してしまうと
そもそも、どのように食塊を認識し、こちらのスプーン操作に適応しているのか
見れども観えずになってしまい
食べる過程において、嚥下の機能解剖に沿った観察ができずに
口を開けてくれなさ、飲み込んでくれなさに現れている能力を
結果として、見落としてしまうことになってしまいます。

口腔ケアで
開口に協力してもらえないと
ケアを断念してしまうか、無理やりケアをしようとするか、可能な範囲にとどめておくか
にとどまってしまい
協力してもらえなさに反映されている、その方の能力と障害を見れども観えずになってしまって
次へ進めるはずのステップに踏み出せなくなってしまう。

同じコトが違うカタチで現れている。

皮肉なことに
知識と技術の蓄積が進むほど
本来、その蓄積を支えてきたはずの観察・洞察という過程が抜け落ち
表面的なハウツーというカタチでの伝承になってしまう。。。

「〇〇という状態像の方がいるんですけれど、どうしたらいいでしょうか」
このような問いというカタチは、そのような思考過程で臨床に臨んでいるというハタラキの表れでもあります。

カタチにはハタラキが反映されている

ハタラキを知るためにカタチを観察・洞察する

対象者の方にとっても
私たち対人援助職にとっても

私たちは常に相互関係の場に存在している。
だからこそ、ICFという相互関係論に依拠した実践によって
相互にハタラキを変え
結果として、カタチすら変わることが可能なんだと考えています。

 

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食事介助で意思疎通が改善



意思疎通困難な方によくあるのが
食事介助のスプーンに、うまく協力しながら食べ物を取り込むことが難しかったり
立ち上がり介助の時に、介助者に協力しながら動くことが難しかったりする
というケースです。

口を閉じるタイミングがズレたり
立ち上がる時に車椅子のアームレストにしがみついたり
多分、誰もが一度や二度は、そういう場面に遭遇していると思う。

結局のところ、同じコトが違うカタチで現れているだけなんだと実感しています。

相手やスプーンという対象や環境に
自らの身体をうまく適合させる
ということが難しい。

このような場合に
通常の方法をどれだけ繰り返してもできるようにはならない
「ちゃんと食べてね」と言ったり
「ちゃんと立ってね」と言ったりすることは
善意からの発言であったとしても、結果的には、むしろ逆効果になってしまうと感じています。

混乱せずに入力しやすいように
刺激の量と質を調整させながら環境調整する(声かけや介助方法を工夫する)
ことが肝要だと考えています。

食事介助をして
食べられなかった方が食べられるようになると
意思疎通も改善されていく
口腔ケアをして
ケアに協力できるようになると
意思疎通も改善されていく
というケースをたくさん経験していますが
同じコトが違うカタチで起こっているだけなんだと感じています。

食事介助や口腔ケアは
工程がシンプルで結果が明白だから
自分の関与のフィードバックが得られやすい
何がどう良くて、何がどう悪いのか、PDCAを回しやすい

過程において
特性も能力も把握しやすい

この方は
こっちの奥歯で噛むから
Kポイントは反対側を使おう
口腔ケアのブラッシングは奥歯の上面をブラッシングすると開口しやすい
といったことをこちらが把握できているというのは、多分、相手にも伝わっている

把握した上で介助しているのと
把握せずに介助しているのとでは全然違う。

普通に話していても
こちらの話を深く理解して聞いてくれているのか、そうでないのか
って、かなりわかるんじゃないかな。
それと同じだと思う。

口腔ケアという場面での
介助する・されるという相互体験・相互作用を経た上で
「歯磨きします。口を開けてください」という声かけで
スムーズに開口してくださるようになったのだと思う。

「こうすれば開口スムーズ」というハウツーではなくて
その場面において、相手の状態を把握し援助するという「体験」は
目に見えるのは「口腔ケア」だけれど
まさしく、ノンバーバルコミュニケーションの過程そのもの

ADLは、カタチとしての項目の下支えとしてノンバーバルコミュニケーションがある
二重構造になっている。

認知症のある方に
その人らしさを発揮してもらおうと
何か、Activityに取り組んでもらうのも良いけれど
特別なことをしなくても
ADLそのものを援助することが、同時にその人らしさを発揮してもらうことにもなっていると感じています。

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評価とは何か@暮らしの支援4

ここにいていいんですか?

そのためには、常にPDCAを回し続ける
その中でも、最も重要なのは「C」なのだと考えています。

私たち専門家と呼ばれる人は、それなりの根拠と自負を持ってPlanし、Doしているはずです。
想定通りに適切だったか否かを確認することも大抵の人はしていると思います。

ただ、ここで落とし穴がふたつあって
ひとつには
現在の診療報酬の体制上
急性期、回復期、生活期といったそれぞれの期においては
多くの対象者の状態像をみることはできても
ひとりの対象者の「状態の変化」を継続的に長期的にみることは難しい現状があるという
暗黙の前提要件を自覚しにくいということがあります。

ふたつめには
「常識として定着しているものには異議を唱えづらい」
「常識として定着しているものには疑問を抱きにくい」
ものなので
目の前に厳然として存在している人よりも常識として提唱されているものに依拠してしまうと
「見れども観えず」
になってしまいがちです。

私は
立ち上がれるようになる、あるいは維持するためには
まずは座り方を練習することが重要だと考えていますが
そう提唱・実践している人に会ったことがありませんでした。

スプーン操作によって食べ方が変わる
食べ方は、介助者のスプーン操作と食形態の選択によって異なってくる。

認知症のある方の能力は
介助者が適切な声かけをすることによって見出されもするし
そうでなければ見過ごされてもしまう。

過剰代償による立ち上がり困難や食べ方の困難
生活障害やBPSDという場面にも能力が反映されていることがわからないと
たとえ善意の意思を持っていたとしても
能力を発揮させられないだけでなく
結果として、廃用や誤用にリハ職が関与することになってしまいます。

援助は関係性の中で行われる。
関係性の中で起こってくるコトを
関係性を吟味しないで対象者の状態像として切り取ってしまうという視点が
援助から使役へと反転させてしまうことの大きな要因だと考えていますが
その点に関して、検討がもっと必要なのではないでしょうか。

ハリー・スタック・サリヴァンの「関与しながらの観察」
スティーブ・ジョブズの「意図こそが重要」
彼らの言葉の重みを噛みしめています。

PDCAを回すときに
最も重要なのは「C」のCheckであり、また困難なのも「C」だと考えています。

「C」を行なっているようでも
表面的に陥りがちであり
「C」が的確に行えないと
「A」を有効に設定することもできなくなってしまいます。

つまり、自家撞着に陥ってしまう。
PDCAが機能しているように見えて機能していない。
自己検証が曖昧になっていることを自覚できなくなってしまう。

最初から誰でも「C」を的確にできるわけではないけれど
そうしようという「意図」を抱いていなければ習熟するようにはならない。
習熟するようになると、ますます「C」の重要性を否応でも認識するようになります。

より広く深く細やかに「C」ができるようになることで
評価の的確さを担保できる。

私が実習で感じた職業人としての怖さは
判断とその責任を負うということでした。
当時はこんな風に言語化できなかった。
もっと漠然とした曖昧な怖さで、何をどう気をつけたら良いのかわからなかった。

PDCAを回し続ける
「C」を機能させられるようになる。ということの重要性

「もののけ姫」の中でアシタカが言った
「曇りなき眼で見定め決める」
この言葉を言い切ったアシタカの強さを繰り返し思い出しています。

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評価とは何か@暮らしの支援3

ここにいていいんですか?

同じコトが違うカタチで現れている。

例えば
高齢者によくある「立ち上がり問題」
こちらのブログでも過去に何度か記載してきましたが
片麻痺のある方、整形疾患などのある方で生活期で暮らしの困難を抱えている方や高齢者では
歩けるけれど自分ではなかなか即座に立ち上がれない
立ってしまえば立てるけれど自分では立ち上がりができない
という方がとても多くいらっしゃいます。

現状では
低運動→筋力低下→立ち上がり困難 という判断がなされ
筋力強化→筋力復活→立ち上がり可能 という仮説に依拠して
足腰の筋力強化や立ち上がり100回 という方法でのトレーニングが提供されている
ということがよくあるパターンだと思います。

私は、この考え方と方法論にはずっと違和感がありました。
なぜ、赤ちゃんは歩けなくても立ち上がれるのに
お年寄りや身体障害のある方は、歩けるのに立ち上がれないのだろう?
赤ちゃんは筋力強化をしなくても立ち上がれているのに。

私は長く老健に勤務していましたが
老健では積極的な離床と活動的な生活を提供しています。
さらにその上で専門家による個別のリハも提供しています。
それなのに、今まで立ち上がれていた方が立ち上がれなくなってしまう。
こういった現実に対し、為すべきことをしているにもかかわらず
低下してしまったのだから「本人の老化、能力低下」という判断が為されがちです。

ところが、
筋力強化をしても自力で立ち上がりができなかった方が
座る練習をしただけで自力で立ち上がれるようになった方がたくさんいらっしゃいます。

本人の能力低下ではない。ですよね?
再び立ち上がれるようになったのですから。

変わったのは、リハだけです。
ということは、リハの判断と方法論が不適切だった。ということになります。

これらの事実が示している新たな判断は
筋力低下によって立ち上がり困難になったかもしれないが
それは原因ではなくて、きっかけだったのではないか
ということです。

きっかけがなくなれば
立ち上がり困難という状態像も表面化しなくなる
という意味で筋力強化が有効だったケースもあるでしょう。
それを因果関係論であるICIDHの観点に立ったまま
一般化してしまった、そしてPDCAを回し検証されることなく
継承してしまい、適合させてしまった
というところに問題があると考えています。

相互関係論であるICFの観点に立てば
1)本人の病気・障害そのもの:老化による筋の弱化
2)能力による過剰代償:使える筋(主に背筋群)
3)不適切な介助への過剰適応:介助者や手すりを使用した引っ張り上げに呼応した背筋群の過剰使用
という悪循環が過去から長い間の蓄積として生じていて
表面的には「立ち上がれる」状態であったとしても
1)〜3)のバランスが崩れるほんのちょっとしたきっかけによって
「立てなくなってしまう」状態に陥ってしまう。

なんにせよ、「できない」よりは「できる」ほうが良いでしょうけれど
「できれば良い」というわけではありません。

筋力強化や立ち上がりのリハを行ったとしても
その方法論が上記の2)や3)を増長させるような「やり方」であったとしたら
結果的に、立ち上がりができなくなることにリハ職が関与してしまうことにもなってしまいます。

「できる」ようになったら
将来を見越して、より安全によりラクにできる異なる方法でも「できる」ように

それは
Re-Habilis 再び適する:リハビリテーションの理念そのものの具現化ではないでしょうか。

対象者の適応、つまり心身の働き、使い方
脳の回路の多様性を信頼し援助する。
ということなのだと考えています。

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評価とは何か@暮らしの支援2

ここにいていいんですか?

評価について
「検査=評価」という誤解が多いと感じています。
(この問題については改めて触れていきたいと考えています)

検査は一連の評価過程の一部に過ぎず
検査結果は評価に統合されるべきものです。

評価とは何か
今の状態像を明確化することであり
それは、単に病気や障害を原因として正常からの低下と「みなす」
ということではないと考えています。

複合したカタチで現れている現実の合理的あるいは不合理な言動から
1)病気や障害そのものによる困難
2)困難を能力発揮して代償しようとした結果
3)過去から現在において周囲の関係性との中で起こる過剰適応の結果
の区別を明確にすることであり
とりわけ「能力」を見出すことがポイントになると考えています。

多くの場合に
認知症のある方の生活障害は
1)病気や障害そのものによる困難と考えられていますが
実際には
2)困難を能力発揮して代償しようとした結果
によって起こっていることもたくさんあります。

認知症という状態像は
慢性・進行性の疾患によって引き起こされるので
1)病気や障害そのものによる困難 は改善することが難しい。
けれど
2)困難を能力発揮して代償しようとした結果
3)過去から現在において周囲の関係性との中で起こる過剰適応の結果
については
能力の不合理な方向への発揮の結果なので
能力を合理的な方向へ発揮することの援助は可能だと考えています。

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ICFで対応する



対象者は
現在の横軸
過去からの縦軸
輻輳した関係性の中に「在る」

だからこそ
相互関係論である
ICFで評価・アセスメント・見立てをし
ICFにのって対応するということが必要なのだと考えています。

VFやVEによって
嚥下の状態を明確に把握できる機会が増えたということはとても良いことだと感じています。
ただ、「今、そうだ」ということは言えても
原因なのか、結果なのか
的確に判断することが必要だと考えています。

脳血管障害のようなエピソードがあれば原因と判断できても
特段のエピソードがない、高齢者や認知症のある方の場合には
原因ではなくて、結果であることが非常に多いという体験をしています。

認知症のある方の
能力低下が原因ではなくて
私たちの不適切なスプーン操作の結果として起こっている。
だからこそ、私たちが介助を変えれば
認知症のある方の食べ方も変わる。

主治医が「この方の大脳新皮質はコピー用紙1枚の厚さしかない」と言う方でも
食事介助の場面だけで食べ方が変わる。

誤嚥性肺炎を再燃せずに
摂取時間も大幅に短縮し
食べこぼしもなく
対象者の方も
介助する人も
お互いラクに行えるようになる。

このことは、もっとたくさんの方に知っていただきたいことですし
もっと重要なことは
「不適切な環境へ適応しようとした結果として起こる。過剰代償の結果として起こる」
ということが食事介助の場面でだけ起こっているわけではない
同じコトが違うカタチで現れていることがたくさんある。
ということを知っていただきたいと思っています。

どんなに良心的な職員でも
知識がないために
あるいはケアの常識に囚われてしまうと
「見れども観えず」になってしまっていることがたくさんあります。

観るポイントがわからなければ観ることはできません。
観ることができるように
このブログに具体的なポイントを記載していきますし
講演の時にはもっと明確にお伝えすることができます。
私の本の中にも記載してあります。

周囲にかけられたメガネを外して
目の前にいる人をまっすぐに観ることから始めれば
新たな発見がたくさんある。
常識として言われていたことは新たな概念のごく一部だった。
つまり今までの常識をさらに包含するような新たな概念を発見できることだってあります。

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