Tag: 作業療法

「普遍性という名の幻想」を読んだ

片付けをしていて見つけました!
「普遍性という名の幻想 日本の作業療法における文化的コンテクストの重要性」
20年以上前の論文ですが、この論文の内容は今も色褪せることはありません。

2003年に発刊された、OTジャーナルVol.37No.4に掲載されています。
著者は、Michael K Iwama 氏
英題は、Illusions of Universality The Importance of Cultural Context in Japanese Occupational Therapy

著者は、日本生まれのカナダ育ち
そして、太平洋の東西それぞれでOT学生を教えた経験をもとにして記された論文です。
「東洋と西洋は根本的に文化が異なる」
「西洋で開発された理論は西洋文化を基盤としている」
「日本は西洋由来の理論を型だけ導入して意味を見失っている」
「日本の文化に立脚して理論を変容させるべき」
といったところが要旨でしょうか。

まさしく!まさしく!

西洋と東洋の違いについて、そして今後の展望としてその融合について、かつて河合隼雄も述べていました。

私自身も大人になってから、ちょこっとだけ英会話を習った時に強烈に感じたことがあります。
例えば、「そこにリンゴがあるから食べな」と家族に伝える時に
日本人であれば、そこに幾つのリンゴがあるかは言明しません。
1個だろうが、2個だろうが、個数に触れることはありません。
ところが、英語では「There are two apples. 」と個数を言明します。
英語は、見たまま事実を言語化するんだ。。。と感じました。
日本語では、リンゴが幾つあるのかは見ればわかることだからそこには触れない。
「あんた、食べな」に言葉の力点が置かれていて、言語に省略しかも無自覚の省略がある。

例えば、同じことは臨床場面でも起こっています。
OTが何かしらのActivityの工程を説明する時に多くの人が
「ここをこうしてこうやって」と説明しているのではないでしょうか?
ここがどこなのか、こうするとはどうすることなのか、こうやるとはどうすることか
言葉では何も説明せず、動作で説明をしています。
つまり、相手がきちんと工程を見ているということを暗黙の前提として説明を行い
かつ、相手も説明を受け入れています。

つまり、動作的説明が先行し、言語的説明が後に回っている。
もっというと、視覚情報主体の説明をしている。
言葉に対する力点の置き方が違っています。

大昔、ちょっとした知り合いがアメリカでSEをしていた時に
「超能力者じゃないか」って言われたそうです。
言葉で説明していないことも理解する。。。そう思われても納得できます。

また、会話中に関係性の中で言語化するのが日本語ですが、
関係性に関わらず、自身の表明として言語化するのが英語です。
例えば、「昨日、この本を買わなかった?」「Did’nt you buy the book?」という問いかけに対して
日本語では「うん、買わなかったよ」「ううん、買ったよ」
英語では「Yes,I bought the book.」「No,I didn’t buy the book.」

言葉には発話する人の意思や思考過程が反映されます。
私は海外に旅行したことも留学したこともないので西洋文化を知りませんが、
根本的なところで日本とは違うのだろうと推測はしています。

かつて、日本では西洋に追いつけ追い越せ精神で、西洋技術を果敢に取り入れ、しかも、日本流にアレンジして活用するのが得意だったと聞いてきました。
でも、この論文の著者は「OTは違う」と言明しています。
北米発祥の理論を型だけ導入して、理解できないまま臨床で扱って困惑していると述べています。

その具体例として、OTの定義を挙げています。
OTの定義をスラスラと答える人はたくさんいたけれど、定義を丸暗記しているだけだったと。
この具体例は本当によくわかります。
かつての私もそうでした。
特に学生時代には、高校の部活の仲間によく尋ねられたものです。
「今、何の勉強してるの?」「作業療法って何?」
そこで定義を答えるという。。。しかも、違うんだよなぁと思いつつ。。。
そして尋ねた人も「これ以上は聞いちゃいけない」と暗黙のうちに察してそれ以上は突っ込まないでくれたという。。。
今の私なら、「その人の良い面を良い方向に活かすことを通して暮らしの困難を解決する援助」と言えます。
「OTは難しい」「OTって何だろう?」とOT同士で語り合いたがる人は少なくありませんが
そんなことしたって答えは出てきません。
答えは日々の臨床の中で結果を出すことを積み重ねることで導き出されるものだからです。
(この問題は後日改めて記載します)

話をもとに戻しますが、
自分の仕事を自分の言葉で語れない
もっと言うと本質的には
語るに足る実践ができている人が少ない
ということが大問題のなのだと思います。
定義を丸暗記して答える、丸暗記するくらいですから真面目なのはわかります。
でも答えてはいますが、表面的で型どおり。
聞いた人だってわかったようでわからない。
その言葉には、目の前にいる人の血肉が通っていないからです。

海外からの知識を輸入する時も同様のことが起こっていると著者は言っています。

まさしく!まさしく!

最新の理論を知っている、複数の理論を知っていることがさもOTとして優秀であるかのように振る舞う人も少なくありませんが、目の前にいる対象者に対して結果を出す方が先です。
認知症のある方に対して、生活障害やBPSD・食事介助・ポジショニング・身体リハ・Activityについて
既存の理論が使えた試しがありません。
臨床で使えない理論を有り難がったって意味ないし。

同じコトが違うカタチで起こっているのが目標設定です。
養成校の教員や実習の指導者で目標設定を明確に教えられる人がどれだけいるでしょうか?
教えられないということは、自分が実践できていないということを表しています。
臨床で適切に目標を設定できるために教えるんじゃないのかな?
そのために目標の概念を教えるんじゃないのかな?
いくら目標の概念を諳んじることができたって
臨床家としては使えなきゃ意味がないのでは?
知っている風を装ったって実践で活かせなかったら意味がないのでは?
目標設定で困る学生は山ほどいますし
教えられなくて困っている指導者も山ほどいます。
困っている人のことをちゃんと見ていないから目標の概念をたくさん教えることにエネルギーを注いだりするんじゃないかな?
そしていつの間にか、目標設定に困っている自分自身から目を逸らし
「認知症だから目標設定ができない」なんて平気で言えちゃうようになってしまうんじゃないだろうか?

まさしく、この論文で著者が指摘したことは、
定義、目標設定、実際の臨床場面とカタチを変えてあちこちで今も起こっているのです。
著者は20年以上前に危機意識を持ってこの論文を書いたそうですが
実際には状況はもっと悪化しているのではないかと感じています。

「意味のある作業」を大合唱するOTもいますが、あまりに表層的過ぎます。。。
本来、意味のない作業なんてありません
賽の河原の石積みだって、シーシュポスの神話にだって、虚しい作業という意味があります。
「意味のある」という言葉に託された深みをどれだけ理解して使っているのでしょうか。。。

最後に
著者の記した言葉を記載してこの記事を終わりにします。
  
「OTはクライアントの社会的コンテクストを重視し、彼らがその中でoccupationの新たな意味を発見することを援助することを生業としている」
 
「日本の作業療法に緊急に必要なのは、西洋から導入した理論やモデルを批判的に評価し、日本で使えるように適応、変化させるのと同時に、日本人にとって意味のある新しいモデルを作ることである。臨床現場、クライアントの文化的コンテクストより理解された情報からボトムアップで浮かび上がった新しいパラダイムが必要である。」

 

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認知症のある方へのActivity 現場あるあるの誤解その1

「認知症だから何かさせないと進行してしまう」
「徘徊しないように何かできることない?」
「やりたいことを尋ねたら何もないって言われた」
「やりたいことを提供したのにできなくなっていた」
「できないところは一緒にやるから大丈夫」

これらの言葉を
聞いたことのないOTも
言ってしまったことのないOTも
少ないのではないでしょうか?

私は未熟な時に、最後の言葉を言ってしまったことがあります。。。

認知症のある方で構成障害があると
隣で善意のOTが「ここをこうしてこうやって」と見本を見せても
再現できないケースが多々あります。
構成障害のある方に対して
「ここをこうしてこうやって」と見比べさせるのは
できないことを要請しているという非情な在り方です。
見本を見せてもできない認知症のある方に
動作介助をして何か作品が完成したとしても
認知症のある方に本当に達成感を感じていただけたことになるのでしょうか?
OTの脳みそが認知症のある方の手を動かしているに過ぎないのではないでしょうか?

大切なことは
構成障害を含めた障害像を把握し
代償という不合理な発揮も含めた能力を洞察し
「ここをこうしてこうやって」と言わなくても
認知症のある方が遂行できるActivityを選択・提供・環境調整できることであり
そして、目の前にいる認知症のある方自身にとっての意義を
傍にいるOTが感受し理解できることだと考えています。

認知症のある方へのActivity提供に関して
現場あるあるの誤解・課題について記載していきます。

 

 

 

 

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卒後養成の課題

イメージ_猫

実習がクリニカルクラークシップ(CCS)に移行したことに伴い
今後就職先での卒後養成をどう組み立てていくかということが
ますます問われるようになると考えています。

資格のない学生が
安心して安全に体験学習が行えるようにするために
卒前の実習がCCSへ移行するのは理の当然なのでしょう。

一方で
従来型の実習に比し、どうしても主体的な取り組みとはなりにくい構造でもあります。
つまり、学生としての体験学習はしたが
一人の療法士としての体験学習をしていない人を
どのように職場で従事させるか、養成していくかという問題が起こります。

職場によっては
かなりシステマチックに卒後養成に取り組んでいる施設もあるようですが
今後卒後養成の充実度のばらつきが顕在化してくるのではないでしょうか。

今はどの分野の人も忙しい日々を送っている人ばかりだと思います。
一方で働き方改革が進められ(このこと自体はもっともなことですが)
皮肉にもより一層時間的制約が厳しくなったと感じている人もいるのではないでしょうか。

私が就職した頃に比べると
論文をオンラインで読めるようになったり
本も多数出版されるようになり、動画も付属していたり
研修会も協会や士会以外の民間の研修会主催団体が多数出てきて
学ぶ環境はものすごく豊かになってきたと感じています。

学ぼうとする人はどんどん学べるような環境が整ってきている一方で
そうでない人もますます増える構造にある。。。

  どんな世界もピンキリですし
  2:6:2の法則もありますし
  自己責任ですから言ったってキリがないし
  
組織として、専門職としての最低限担保したいラインを
どこに置くのかが
問われるようになってきたのではないでしょうか。
もう既に作業療法士は居てくれればありがたいという職種ではなくなっています。

大きな規模の施設にも、小規模の施設にも
個々それぞれの課題が顕在化されつつあるのではないでしょうか。

あちこちで開催される研修会の大多数が机上の知識伝達型です。
専門職として、知識の習得は必須ではありますが
「聞いたことがある」レベルにとどまってしまうようでは
臨床家として実践に活用できているとは言えません。

認知症の分野で言えば
基礎的な知識提供型や実践紹介などは数多くあれど
それらを結びつける一番肝心な
知識をどのように活かすのか
知識と実践を結びつける臨床思考解説型の研修会は
とても少ないのが現状です。

知識の伝達は知識伝達
ハウツー的実践はハウツーとして
乖離された伝達がなされがちな現状があります。

ポジショニングしかり、食事介助しかり、Activityしかり。。。

また
先の記事 でも書いてきたように
問題設定の問題というのは認知症の分野で頻出していますし
おそらくOTの関与する他の分野でも潜在しているはずです。

臨床家は
結局のところ、OJTで育っていくものと感じています。
知識と技術は、その時々で深め広げていくもの。

限られた時間とエネルギーの中で
どうしたら、良い作業療法士を育成できるのか
問題設定の問題に絡め取られずに
手段と目的の混同やすり替えに自覚的になれるようにするために
どうしたら良いのか

あるあるなのが
スローガンを立てることですが
混同しないようにしましょう、すり替えないようにしましょう
といくら唱えても改善できるはずがありません。

混同していない人、すり替えない人は
混同やすり替えをしている人がすぐにわかりますが
混同している人は、混同していない人との区別ができません。
混同しないことがどういうことかわからないので
行動を修正することもできません。

まさしく、混同するなと言うのではなく
混同しないように指導することが必要なのです。

メタ認識の問題ですが
現場で切実に必要なのに
研修会で教えてくれることはありません。
それどころか、研修会で混同の具体例を開陳されることのなんと多いことか。。。

私が
どの分野にも共通する、臨床家として
最低限必須の、これだけは習得させるべきと考えているのは
目標設定です。

目標設定さえ、目標というカタチで設定できれば
なんちゃってOTにならずに
自分で自分を育てていける
対象者の不利益を回避することができると考えています。

目標設定は
学校で習ったけど、わかったようなわからないような。。。とか
実習中に指導者に尋ねても
「そのうちわかるよ」
「頭ではわかっているけど言葉にできないだけだから気にしないでいいよ」
などと励まされてるんだか、誤魔化されてるんだかわからない。
いった体験をしてきた。。。とか
実は、自分の目標設定って自信がない。。。とか
後輩や学生に教えるのに困ってる。。。という人でも
目標を目標というカタチで設定できるように
自分でトレーニングをすれば良いだけです。

しかも、目標を目標というカタチで設定できるようになるということは
目標設定の上達と同時に
概念の本質を理解し、実践に活かすという
メタ認識・メタ能力を向上させる
ことにもなります。

メタ認識・メタ能力そのものをトレーニングすることは難しいけれど
目標設定の過程を通して
メタ認識・メタ能力をトレーニングすることは可能です。

若手作業療法士には、一石二鳥!
超オススメですよ (^^)

本当に概念の本質を理解し、実践に活かすことができる人は
目標となんちゃって目標の区別ができます。

リハやケアの分野で蔓延している
「一見正しそうで、よくよく考えるとおかしなこと」にも
気がつけるようになります。
本来はどうすべきだったのか、わかるようになります。
そして、おかしなことなのにどうして広まってしまったのか
ということもわかるようになります。

でも、概念の本質を理解し、実践に活かすことをしていない人は
「みんなが言ってるからおかしくないじゃん」
「言葉遊びなんじゃないの?」
としか、思えないのです。
そして、目標となんちゃって目標の区別がつかないのです。

私としては、
卒後養成のいの一番に、目標設定のトレーニングをオススメします。
仮に、組織として取り組みがなかったとしても
たった一人、自分一人だけでもトレーニングすることが可能です。

目標設定やそのトレーニング法については、
すでに記事にしてありますので
あちこち検索してみてください。

 

 

 

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他部門連携:ポジショニングのちょっとした工夫

他職種に
ポジショニングを説明する時に
設定した時の写真をとって
設定方法を書いて
注意事項も書くのですが
お部屋に掲示しても複数のクッションがあると
設定部位を間違えられてしまいます。

そこで
「対象に工程を語らせる」

クッションに
「どの部位にどう設定するのか」
書いたものをテプラで貼付してみました。

臥床時は赤色のテプラ、離床時は青色のテプラ
と色も変えて混同しないように工夫しました。

これでも間違えられることはありますが
頻度は激減しました。

設定方法について
質問したり確認してくれる人は良いのですが
「設定を間違える」という時点で
設定とその人の実践とに乖離があることがわからない
もしくは
乖離がきたすマイナスがわからない

ことを意味しているので
間違えるなと、言うのではなく
間違えにくいように、方法を提示する

ようにしています。

以前に何かの記事で
「施錠を忘れないように気をつけましょう」と言うのではなく
「施錠を忘れないような仕組みを考える」

という記事を書きましたが、その一例です。
 
再現性の担保についての工夫を
ポジショニングを例に紹介しました。

さて、
お気づきの方もいると思いますが
「対象に工程を語らせる」とは
認知症のある方への対応と同じことをしています。

そのココロについては、別の記事でお伝えします。

 

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私が行っている集団リハ@認知症治療病棟


 
私が集団を運営する時には
並行集団を活用しています。
同じ場所、時間を共有するけれど
人によって何をするかは違う。。。という集団です。

課題集団(全員が同じことをする)を用いる時には
参加形態に許容性のある体操や音楽鑑賞を行います。

認知症のある方に対して
レク的にゲーム的なActivityを導入しようと
することが多いようですが
ゲームって難しいんですよね。

どんな簡単なゲームでもゲームにはルールがあります。
ゲームを楽しむことができるためには
 1)ルールの説明を理解でき
 2)理解したルールを覚えておき
 3)覚えたルールに則って行動する
という能力が要請されます。
近時記憶障害が重度な認知症のある方には、実は最も苦手な課題なんです。
だから、私はゲームは行っていません。

今日は
精神科病院の認知症治療病棟で
2時間の精神科作業療法を重度の認知症のある方に対して
どのように組み立てて実践しているのか、お伝えします。

最初に音楽鑑賞を行います。
音楽鑑賞の導入では、誰もがよく知っている有名な懐メロを流して
私が主導権をとった進行をして集団凝集性を高めるようにしています。
その後、「私がしている音楽鑑賞の進行」で書いたように
参加者ごとにリクエストを尋ねていきます。

音楽鑑賞後には水分補給を行います。
水分摂取しながら鑑賞を継続できるように
オートで曲を流していきます。
この時に飲み物の準備や配膳・下膳を行います。
お一人お一人のペースで水分摂取していただきます。
それはメリットでもあるのですが、
どうしても集団凝集性が下がってしまうので
もう一度集団凝集性を高めるために体操をします。
手続き記憶を活用できるように
ラジオ体操第一とみんなの体操を行っています。

その後、後半は鑑賞とActivityを並行して行います。
Activityは個人ごとに提供しています。
(書字やスクラッチアート、塗り絵、ちぎり絵、毛糸モップ、指編み、間違い探し等)

  役割分担してみんなで大きな作品を作る
  ということは、考えがあってやっていません。
  いずれ別の機会に説明します。

16名の集団に対して
音楽鑑賞とActivityを並行して提供し
Activityも個人ごとに提供するという二重の並行集団を作っています。
(今は半数の8名の方がActivityを実施しています)
16名の中には帰宅要求で落ち着かない方や
注意散漫な方や訴えの多い方もいますし
立ち上がって歩き出したら転倒のリスクのある方もいますし
褥瘡予防のために途中で除圧を目的とした介助立位の機会を設けたりと
私にも同時並行課題、注意分散能力を要求されるので大変ではありますが
だいぶ鍛えられてきました (^^;

最後は今日の流れを振り返った後に
締めくくりとしていつも同じ曲を流しています。
毎回同じ曲を流すことで「終わり」を印象付けることもできますし
スーパーでレジが立て込んできたら
ビートルズの「Help」が流れるのと同じように
看護介護職員へ「終わったからお迎えお願い」という合図にもなっています。

個人ごとに異なるActivityを提供するという並行集団を
円滑に運営するためのポイントは、準備をきちんと行うということです。
「段取り8割」ってよく言いますけど
まさしくその通りで
その方が遂行しやすいように
Activityの遂行方法を言葉ではなく場面に語らせる・対象に語らせる
ように準備しておく
 ということです。
(詳細はあちこちで書いていますので検索してください)

人によっては、
1分前のことも忘れてしまう方や
HDS-R実施困難な方でも

遂行方法を場面に語らせるように準備をしておけば
介助や声掛けをせずとも一人でActivityに取り組めることは多々あります
というか、それを念頭に考えています。。。

現場あるあるの誤解は
「HDS-RやMMSEの得点が低いからゲームに参加してもらったけど
 ペットボトルボーリングや輪投げや風船バレーもできない
 やっぱり認知症が重度だからしょうがないね」
というものです。

重度の方にゲームをさせたら、できなくて当然です。
仮に、できたとしても
一つひとつ何をするか指示されて、
その通りにしただけで、意味がわからなければ
その場褒められたとしても本当に達成感があるものでしょうか?

近時記憶障害が重度でも
手続き記憶の活用や遂行機能障害を的確に評価することによって
自身で行えるような場面設定の工夫の余地は生まれます。

 もしも、マンツーマンで個別で対応できるのであれば
 選択肢はもっと広がります。

 このあたりは、老健に勤務していた時に身体面認知面それぞれの
 自主トレ立案・提供を頑張ってきたことが
 下地となって役立っていると感じています。
 
並行集団でActivityを行えば
他人と比べる、比べられることがないので
実施に際して不安感が少しは減るのも良いところじゃないかな
と感じています。

 そもそも、並行集団って社会そのものなんですよね。
 いろいろな人がいる。
 いろいろなことをしている。
 ひととき、同じ時間と同じ場を共有している

Activityを導入するときに
多くの方がおっしゃいます。
「難しいことはできない」「私はバカだから」「不器用だから」

そう感じるに足るだけの失敗体験を積み重ねてきているのです。
だからこそ、Activityの仕上がりの綺麗さには留意していますし
ましてや、幼稚な下絵の塗り絵や輪投げなど
見た目が幼児向けのような課題を提供することは決してありません。

なお、この記事は
精神科病院の認知症治療病棟に勤務している作業療法士が
たった一人でどうやって
「集団」で
「2時間」の間
「対象者の方に有意義な作業療法」を
実施・提供・運営するかという観点で書いたものです。

職場環境や施設特性や対象者の状態像が変われば
また異なる方法論の方が適切ということになります。

 

 

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視覚的手がかりを増やす:書字の工夫

歌詞を書き写すというActivityも行っています。

「読む」時には、黙読する人が多いと思います。
過去によく歌った歌や聴いたことのある歌なら
その記憶が読むことを助け、
書き写す時に歌詞を思い出し黙読を助けると考えています。

民謡や懐メロ、唱歌や演歌など
好きな歌は人それぞれなので
題材としては、無限のバリエーションを作ることができます。

また、段階づけも細かく設定できます。
白紙の紙でもきちんと行替えして書き写すことができる方もいれば
行だけはあったほうが書きやすい方もいますし
見本と全く同じマス目の方が書きやすい人もいます。

特に前頭側頭型認知症のある方の場合は
見本通りに模写することは得意です。
視覚的被影響性亢進という症状がプラスに機能しているのだと考えています。

  実際の作品をお示しできませんが
  塗り絵で本当に細かな模様まで見本通りに色を塗っていた方もいました。

症状が進行すると
上記のようなマス目でも書けなくなってしまいます。
字が書けないのではなくて
どこまで書き写しているのか
どこから書いたらいいのかわからなくなってしまうようです。

そのような時には
視覚的手がかりを増やすと効果的です。

文字以外を薄く塗りつぶしておくことで
どこまで書いてどこから書いたら良いのか
視覚的探索をする際のヒントになります。

他にも
行の一番上のマス目だけ色を変えていくとか、二重枠にするとか
状態に合わせて工夫をしてみると良いと思います。

 

 

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私がしている音楽鑑賞の進行

音楽鑑賞というActivityについて
個々の方それぞれの能力と特性を発揮できるような援助をするために
私がしている工夫をご紹介します。

歌はもちろん人それぞれ好き嫌いがありますし
歌の楽しみ方も人それぞれ
音楽の世界に浸ってしんみりと聴き入りたい方もいれば
ワイワイ盛り上がるのが好きな方もいます。

集団で音楽鑑賞をする場合には
進行する人の中で、ある一線を明確化しておくと
参加している認知症のある方もいろいろな歌とその楽しみ方を
お互い許容してもらえるように感じています。

それでは実際の進行ですが
まず最初は
こちらからいろいろな曲目を提示します。
だいたい有名どころの懐メロや流行歌を提示します。
そこで曲の聴き方に注目して観察します。
好きな曲や聞き覚えのある曲は
前のめりになって聞いたり、表情も違っています。

この段階では
集団の凝集性を高めることと
参加された方の心身の状態の確認をします。
(もちろん事前に情報収集してありますが、最新の状態確認をします)
私が主導権をとった進行をします。

次に、あらかじめ作っておいた歌手一覧を見せながら
この中だったら誰の歌を聴いてみたいですか?とお一人ずつ尋ねます。
具体的に選べるように視覚情報として提示しながら尋ねていきます。
この時に、進行を止めないように、いろいろな歌をオートで流すようにしています。
 
  今は私一人で最大16名の方を対象に
  精神科作業療法として集団活動を実施していますから
  歌を視聴する流れを止めて、一人ずつ尋ねると
  せっかく高めた集団凝集性がなくなってしまい
  注意集中も保たれず
  不安になって帰宅要求などの訴えが出てきて
  集団活動が成り立たなくなってしまいますから
  このような工夫をしています。

この時に
「聞きたい歌を教えてください」と言葉で尋ねても
思い出せないから答えられない方でも
歌手名を提示されれば、名前から歌手を想起できる方は大勢います。

つまり、再生ではなく再認に働きかけています。
なおかつ、聴覚情報ではなく視覚情報として提示しています。

曲は、歌手名から検索した3曲くらいを
言葉で提示してその中から選んでいただいています。
曲名を聞けばどんな歌かイメージできる
再認できる方が多くいらっしゃいます。

最初にこちらからランダムに提示した時に
特に聞き入っていた歌手や曲があればこの時に追加で提示することもあります。

人によっては
お気に入りの歌手のお気に入りの曲がありますから
そのような時には、こちらから歌手名や曲名を提示せずに
オープンクエスチョンで
「聞きたい歌手は誰ですか?」
「聞きたい歌があれば教えてください」
と尋ねるようにしています。
再生可能な方にはなるべく再生を促す尋ね方をしています。

毎回、同じ歌手の同じ歌を選ぶ方もいれば
その時々で違う歌手の違う歌を選んだり
90歳代の方がキャンディーズや松田聖子を知っていたり
70歳代の方がピンクレディーを毎回必ずリクエストされることもあります。

こちらの問いかけに答えていただくことで
自然に会話の機会を設けることもできます。
ただし、近時記憶が低下している方が多い場合には
会話で長く時間を取ってしまうと注意集中が途切れてしまうので
集団を構成する方たちの状態に応じて
問いかけの仕方や回数にも注意しています。

また近時記憶が低下していると
(当院では1分前のことも忘れてしまう方が大勢います)
画面に映った歌手の名前や曲名を聞いてはいても忘れてしまいますから
曲の間奏の時には必ず歌手名と曲名を伝えるようにしています。
「あ、そうそう、この歌手だった」「この歌だった」
と思い出していただけるように。
これも再認に働きかける工夫です。

歌手や曲にまつわるエピソードを伝えるか
どの程度どんな風に伝えるかも
その時に集団を構成する方たちの状態に応じて判断しています。
基本はあんまり余分に私が話さないようにしていますが
近時記憶がもう少し保たれている方や注意集中が可能な方が多ければ
曲のイントロや終了直後にエピソードを伝えると
再認できることの幅が増えたり
その方が知っているエピソードを語ってくれたり
思い出話をしてくれたりなどの良い面もあると思います。

場面設定の基本として
重度の認知症のある方でも注意集中が保ちやすいように
集団の中で症状や障害が目立ちにくいように
と考えています。

音楽鑑賞ですから、途中で集中が途切れても目立たないし
口ずさみながら聞いても不自然ではないし
参加形態に幅があり自由度があるのが良いなぁと思っています。

誘導する時にも
「リハビリ」「OT」「活動」という言葉は使わずに
「歌を聞く会」「五木ひろしの歌を聞く」「美空ひばりの歌を聞く」
というように具体的にイメージしやすいように声かけしています。
その方が大好きな歌手や曲があれば、その歌手名や曲名を言って誘導しています。

「歌の会」というと
「歌は好きだけど、人前で歌うのは絶対イヤ」と拒否されることも多々あります。
「歌わない、聞くだけ」と歌わなくて良いことを担保していますし
そのイメージが伝わるように、あえて前の席ではなく後方の席へ誘導することもあります。
もちろん、歌いたくなったら口ずさんでもいい
(今はコロナ渦なのでマイクをお渡しすることはなくなりましたが)
歌いたい方には前に出てきてマイクを持って歌っていただいていました。

同時に
訴えの多い方への対応や
歩行不安定な方の立ち上がりや
帰宅要求のある方への対応なども行いますが
できるだけ場の円滑な運営が行えるように
どうしたらその方たち一人一人が集中できるようになるのか
何かコトが起こってから対応するのではなく
コトが起こる前に、起こらないように、予防対応的に考えています。
(これについては、長くなるので別の記事でお伝えします)

同じ時間、同じ空間を共有するけれど
個々の方それぞれの能力と特性を発揮できるような援助をするために
私がしている工夫をご紹介しました。

  2時間の精神科作業療法を音楽鑑賞だけでなく
  他の要素も組み合わせ、個人ごとのActivity提供という
  並行集団としての展開もしていますが

  長くなるので、こちらも別の記事でお伝えしていきます。

私としては、こういった意図と配慮のもとに
音楽鑑賞の場面を運営・進行しているのですが
人によっては「ただ歌を聞かせてるだけ」「誰でもできる」と思うようで
実際、そう言われたことがあり
その時の態度がちょっとあんまりで
私もその時は若かったし、ちょうど良いきっかけもあったので
進行を変わってもらったことがあります。
そしたら、今まであんなに歌いまくっていた方たちが
(当時はコロナ渦ではないので)
まったく歌わなくなり、一気にシーンとしてしまって
その人は「あれ?あれ?」と言っていました。
 
前の記事「多訴の方への対応」で書いた通り、
実践している人には
「何をしているか」「何が起こっているのか」わかるけれど
実践していない人には
皆目わからないということが起こっているのです。

歌を聞かせるだけの人には
さまざまな配慮のもとに複数の意図を持って進行しているのを
目の前で見せてもらってもわからないのです。
  「OTの不安への答え」で書いたように
  紀伊克昌先生や古澤正道先生のデモンストレーションを見ても
  過去の私には何をしているのか、さっぱりわからなかったように
でも、実践している人には一目瞭然で何をしているのかわかる。

このことは、
生活期にある方への食事介助やポジショニング設定、立ち上がり・歩行介助
認知症のある方への対応全般について言えることです。
同じコトが違うカタチで、ありとあらゆるところで起こっているんです。

たかが音楽鑑賞、されど音楽鑑賞
その場をどれだけ豊かにできるかどうか
運営する人の意図によって全然違ってきます。

耳タコかもしれませんが
スティーブ・ジョブズの言うとおり
「意図こそが重要」なんです。

「歌わせる」「聞かせる」のか
歌を聞くことを通して能力発揮の援助をしたいのか
表面的には同じように見えて
その意図のベクトルは真逆です。
そしてその意図こそが伝わっているのです。

他のActivityでも、まったく同じことが違うカタチで起こっています。

どのActivityが良いのか、という問題ではないのです。
「何をやらせようか」という言葉が出た時点で答えは決まっています。
  (野村克也の言う「負けに不思議の負けなし」というわけです)
「何をしていただいたら良いかしら?」と言葉だけを丁寧な表現にしても
中身は同じですから答えも決まっています。

もちろん、悩む人は、日々のリハやActivityに困るから悩んでいるわけで
仕事に対して、いい加減な人ではないからこそ、出てくる悩みです。
でも、悩み方を間違えているんです。
 
対象者の状態像と特性が把握できれば
どんなActivityが適切なのか、それはなぜなのかが
明確に浮かび上がってきます。

浮かび上がってこない時には評価が曖昧なんです。
だから、評価に立ち戻れば良いのです。

でも、多くの人は
評価、状態把握に立ちもどることをせずに
「Aが良いか、Bはどうだろう?何が良いかしら?」と
悩むのです。。。
そこは本来悩むところではなくて、実行するところなんです。
状態把握、評価を。

認知症のある方のActivityの選択が難しいのではなくて
状態把握、評価が難しいと自身の現状に向き合うところなんです。

自身の評価困難という現状に向き合うことを回避して
認知症のある方のActivity提供の困難さに
問題設定をすり替えてしまう。。。OTの現場あるあるです。

評価と検査を混同する。
評価を状態像把握ではなくて、
MMSEやHDS-Rや立方体透視図模写テストなどのバッテリーをとる
検査をすることと混同・すり替えてしまうのも
OTの現場あるあるです。
 
「OTの不安への答え」にも書いたとおりで
こういったすり替えや問題設定の問題は
リハやケアの現場であらゆる場面で起こっています。
 

 

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OTの不安への答え

半年近く前になりますが
分野違いですけど、ある研修会に受講者の立場で参加しました。

そこで若い作業療法士の
「自分のやってることがこれでよいのか不安」
「見通しが立たない中で日々仕事をしている」
という声をたくさん聴きました。

思ったのは
これって「実習は楽しく!」という方針の弊害じゃない?ということでした。
養成校の先生も指導者も「楽しく」って本当によく言葉にしますよね。
結果として楽しい実習だった。なら良いと思いますが
目的として楽しい実習を目指すのは本末転倒
実習の時に体験すべきことは体験しておかないと
何よりも本人が就職してから大変な思いをすることになるし
課題の先送りをしてしまうと(実習中は問題が表面化しなくて楽でも)
卒後養成を本格的に整備・充実できずにいたら
「なんちゃってOT」が増えてしまって
OTの質が問われかねなくなり
結局は自分達で自分達の首を絞めることになりかねないと危惧しています。

私は実習の時に
「今は指導者がいるけど、将来は自分自身がこの選択・決定の責任を負うんだ」
ということに身も震えるような怖さを感じました。
自身の知識と技術のなさに直面させられ
習得への思いを新たにしたものです。
だから、実習は楽しいどころか、辛い思いをたくさんしました。

それは自分が未熟だったから仕方ないことだと受け入れるしかありませんでした。
そういうものでしょう?
事実に向き合い、乗り越える努力をする。
乗り越え方には幾多の方向性も方法もあるとしても。
仮に私が優秀な学生だったら、楽しく実習をすることができたかもしれませんが。。。

卒業してから必死になって勉強しました。
当時は限られた知見しかないし
今のように多数の研修会があるわけでもなかったのですが
それでも片っ端から本を買い、片っ端から研修会に出ていたので
パンの耳をかじり、素ラーメンを食べていて
突然尋ねてきた知人に笑われたものです (^^;
同期と勉強会を立ち上げましたが、そこで思ったのは
どんぐりの背比べじゃダメだ。良い指導者からちゃんと教えてもらわないと。
ということでした。

私が就職してすぐに勤めていた肢体不自由児施設には
ボバースアプローチの世界的権威の
紀伊克昌先生や古澤正道先生が年に1回きてくださり
デモンストレーションを目の前で見たことがあります。

普段誰がやってもできなかったことを
え?こんなこともできるの?というようなことまで
子供たちができるようになっていました。
しかも初めて会った人の手で。

ダメなのは子供たちじゃなくて私たちじゃん!
この子たちは本当はこんなことまでできるのに
もしかしたらもっとできるかもなのに。。。
と痛切に思い知らされたものです。

デモンストレーションで何が起こっているのか皆目わからず
当然再現することもできず
教えてもらうにも教えてもらうに値するだけのレベルに到達しないといけないと
強く思いました。

また、天と地ほどの技術の差がこんなにもあるにもかかわらず
診療報酬上、
同じ時間のリハを受け
同じお金を親御さんは払わなくちゃいけない
ということを思い知らされました。

今のままじゃいけないと思っても
当時は自分で自分をどうやって育てていけば良いのかわからなかった。。。

だから
「自分のやってることに自信が持てず不安」
「見通しが立たない中でやっていて不安」
という気持ちは、参加者の本当に正直な気持ちの吐露だと感じたし
かつての自分を思い起こしても共感できます。

でも
そういった気持ちを抱いているという時点で
結果が出てないことの表明だし
それは実は、状態把握・評価が曖昧で不十分ということの表明でもあります。

ここでも問題設定の問題、すり替えが起こっています。

人として、不安な気持ちには共鳴できるけれど
プロとして解決すべきは、
あなたの不安じゃなくて結果が出せていないことの方です。

結果が出せたから不安は解消されるのであって
結果が出せていないのに不安だけが解消されるわけがない。

360度の試行錯誤は、プロのお仕事じゃありません。
限界があったとしても、範囲を狭められる試行錯誤がプロのお仕事です。

かつて、試行錯誤という名の360度広角対応しかできなかった私でも
地道に研鑽を積むことで
本来の試行錯誤ができるようになってきました。
そしてほとんど試行錯誤せずに結果を出せるようになってきました。

大切なことは、観察・洞察です。
確かな知識に基づいた観察・洞察であり
観察・洞察に基づいた確かな技術の適用です。
そして何よりもまずは結果を出すことです。

臨床実践において理論は必要不可欠なものではありません。
ここは断言できます。
私は、いわゆる作業療法領域で紹介される理論を使っていませんが
  現実に認知症のある方に適用できないからです。
  除外要件が多すぎるものは本質ではないと考えています。
正確に言えば、よっしー理論とでもいうべきものはあり
重度の認知症のある方に対して
骨折後のリハや食事などのADL面でもActivityの領域でも
生活障害やBPSDへの対応に対しても通底している考え方です。
そして結果も出しています。
(もちろん対象者の状態によっては限界もあります)

ここが大切なところですが
なぜ結果を出せたかの言語化もできます。
つまり、今何が起こっているのか推測できるようになったし
これからどうなるかという見通しのもとで関与できるようになった
ということです。
ただし、それらはあくまでも推測であり見通しであり
不確定な要素が生じることもあるし
必ず確認するようにしています。

同時に
何をどうしたらマズイ。ということもはっきりわかるようになりました。
一般的抽象的なレベルではなくて
具体的現実的に
固有の〇〇さんのその時の状態の中で。という意味です。

私が臨床の現場で抽出してきたことは
「対象者の埋もれている能力を見出し
 より合理的に発揮できるように援助する」
「対象者の能力を信頼する」
「対象者の特性の良い面が良い方向に発揮できるように援助する」
「自分を含めたその時その場の状況・関係性の中で
 対象者の言動が表現されている」
「関与しながら観察する」
これらの概念を指針として大切にしているということです。

でも最初はまったくできませんでした。
本当に何も分かっていなかったと思う。。。
私はまだまだ未熟だけれど、少なくとも方向性を確立できた今になって
かつて、自分がいかにわかっていなかったかということは
はっきりとわかるようになりました。

  できない時には、できないからこそ
  「できる」ことがまったく認識できない
  できるようにならなければ、できない人とできる人との違いがわからない

  できるようになって初めて、
  できない人とできる人との違いがわかるようになるのだ
  ということもよくよくわかるようになりました。

私ができるようになったのは観察と
その観察を支えた知識のおかげで理論は無関係です。

バリデーションは有用なツールだと感じていますが
私は作業療法士として実践し、
バリデーションを適用することもありますが
バリデーションありきの実践をしているわけではありません。

理論はツールですから、活用するものに過ぎません。

誤解を避けるために敢えて書きますが
私は理論を否定はしませんし
論文の読み書きの意義もありますし
バッテリーを使用することに意味もありますが
それらと臨床能力とは直結はしていないと言っているだけです。
   
臨床能力、実践力は
理論とは別に実践力として涵養すべき種類のもので

そのために必要なのは解剖学・運動学・症候学などの基礎知識の習得と
自身の観察力・洞察力を磨くことです。

Twitterで同じことを言っている研究者のツイートを見かけました。
https://twitter.com/shinshinohara/status/1451563470495752199?s=21
ぜひ、前後のツイートも読んでみてください。

「勉強すればするほど落ち込む」という言葉を他のSNSでも見かけましたが
そりゃそうです。
上には上がいるのです。
上と自分との落差を明確に認識できたとしたら
それは良いことなので落ち込む必要はないのです。
スタートラインに立てたということなのだから。
むしろ、今までが幻想の中にいたのです。
自分が落ち込むことを回避するために困ることすらできない人に
なっちゃいけないのです。

学びは楽しいことです。
自分の変化・向上を実感することができる。

でも
対象者の立場にたてば

少しでも腕の良いセラピストに担当してもらいたいでしょう?
「実習は楽しく!」「仕事は楽しく!」
なんてことは言ってられないんじゃないかな?

敢えて書きますが
私は何も実習を苦しい辛いものにしろ。と言ってるわけじゃありません。

「辛かったけど、苦しかったけど、楽しかった」
という結果としての楽しさと
手段、目的としての楽しさを混同してはいないでしょうか?

私は学生の時の授業で
「君たちのような若造が人様の役に立とうだなんてとんでもない」
というようなことを言われたことがあって
ショックでしたけど、同時にその通りだとも思いました。
(多分今のご時世だったら言ってもらえない言葉でしょうけど)

実習という守られた環境で
セラピストとして働く、対人援助職として働くということの
心身両面の厳しさに対する心構えが全くできずに就職したとすれば
働き出してから、突然ひとりのセラピストとして在ることを要請されるわけで
それは非常にキツいことだと思います。
 
その矛先が
「認知症だから仕方ないよね」と対象者に向かったり
「理論の習得や論文の読み書き」と知的武装に向かったり
「多数のバッテリーを使用する」と検査と評価の混同
となってしまって
かんじんかなめの基礎知識の概念の本質を習得する
習得した知識を活用して観察・洞察するといった
自分自身の臨床能力を高めることに向き合う
ことを回避させてしまっているのではありませんか?
  
その代表例が目標を目標というカタチで設定できない
ということではないでしょうか?
  
「目標設定が難しい」という声もよく聞きますが
それは違うんです。

目標の概念が理解できておらず(目的や方針や治療内容と混同する)
対象者の状態像の把握ができていなければ
当然的確な目標設定ができるわけがありません。

ただし、ここに希望もあって、逆に言えば
目標の概念を理解すればいいし
対象者の状態像の把握ができるようになればいいだけなのです。

評価、状態像の把握が難しいという人もいるかもですが
目標を目標というカタチで設定できれば
設定の過程において
状態像の把握が要請されます。

つまり、目標設定を的確に行おうと意思することで
状態像の把握をも同時に要請されるのです。
(私の目標設定の講演を聞いたことのある人は
 深く納得してもらえると思います)

多くの人が
目標設定なんて地道なことよりも
手技や理論に走りますが
その焦る気持ちはわかるけれど
すり替えちゃいけないんです。

なんちゃってOTになりたくなければ
OTという職業を選んだ時点で
生涯続く厳しい地道な研鑽の日々を選んだも同然なのです。

冒頭に紹介した研修会では
ビデオも見せていただいて
講師が対応した時の対象者の表情と行動と
他のスタッフが対応した時の対象者の表情と行動は
同じ対象者なのに、まったく違っていたのです。

研鑽の蓄積とそれらを支えた在りようは
無意識のうちに伝わっているんだろうと思いました。

「学問に王道なし」

今私たち作業療法士がすべきことは
「OTは楽しい」
「OTは素晴らしい」
という呪文を唱えることではなく
楽しいOTを対象者が体験できるように
素晴らしいOTを対象者が体験できるように
作業療法士としての臨床能力を磨き、高める
そのためには地道な日々の実践とその継続しかないのです。

 

 

 

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