Tag: 作業療法

工程はActivityに語らせる


重度の認知症のある方でも
Activityを行える方はたくさんいます。

初めて行うActivityを紹介する時には
まず最初に完成品を見ていただき
完成品の用途を説明します。

ここで興味を持った方には
作り方の説明を実演しながら行います。
実演する時は通常通りに最初から行います。


 
例えば
幅広い状態像の方に適用可能なのが毛糸モップ
毛糸モップを例にとって説明していきます。

 

1)ハンガーの下に毛糸をくぐらせる

2)糸先を輪っかの中に入れる

3)糸先を引いて毛糸をハンガーに結びつける

 ここの工程をあえて省くことも多々あります。
 認知機能が低下している場合には省いたようが理解しやすいケースが多いです。
 自分がやることだけを覚える、余分なことは説明しないという意味です。
 ここを誤解している職員が大勢います。
 丁寧に説明しようと思って説明しすぎてしまうと
 認知症のある方に入力刺激が多すぎて混乱させてしまいます。

 認知症のある方へのわかりやすい説明とは接遇を尽くすことではないのです。

 

 

認知症のある方に実際にやってもらうことを通して
工程を説明していきます。
ここで最も重要なことは工程の最後から体験学習するということです。

 

1)糸先を輪っかの中にいれておき、糸先を引き絞る動作をしてもらう

まず、この工程を繰り返し体験してもらいます。
迷うことなく糸先を引き絞る動作ができるようになったことを確認してから
次の工程にうつります。

 

2)毛糸の糸先をハンガーの下からくぐらせてから
  糸先を輪っかの中に入れ引き絞るという2工程の動作をしてもらう

 

この2工程を迷うことなく行えることを確認したら
ひとつ遡って、毛糸をとるという工程を追加します。

3)毛糸をとる、ハンガーの下をくぐらせる、輪の中に糸先をいれ引き絞る
  という3工程を行なってもらいます。

この3工程を繰り返し行なってもらい
迷うことなく行えることを確認したら
次に糸先をそろえるという工程を追加します。

4)毛糸を取る、糸先をそろえる、ハンガーの下を潜らせる、輪の中に糸先を入れ引き絞る
  という4工程を行なってもらいます。

 * ここは細かく段階づけをしていきます。

 

   まず、糸先はそろえて、隙間を開けて置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   糸先をズラして、糸の隙間も開けて、置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸を少し丸めた状態で置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸を一本そのままの状態で置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   3本ほどの毛糸をまとめて置いておき
   そこから1本取って行えることを確認します。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸をまとめた状態にして置いておきます。
   ここまでできたら、困っていないか時々確認する程度の見守りをします。

 

 

  ちなみに
  アクリル毛糸同士ではなくて
  モヘアや綿とアクリル毛糸の異素材の組み合わせも素敵です。

  ただし、モヘアは軽くて細くてつまんでいる感覚が分かりにくいので
  そのあたり大丈夫な方が対象となります。

認知症のある方あるあるなのが
最初はできていたのに
途中で混乱してわからなくなってしまうケースです。
  
  その方にとって、何か注意をそらせるようなことがあった時に起こりやすい
  なので、私はあまりAct.中には話しかけないようにしています。
  一般的に「楽しく!」という思い込みによって
  「わいわいした雰囲気」を作り出そうとしたり
  おしゃべりをするケースも散見されますが
  そのような場面は実は注意集中を妨げやすい場面設定でもあります。
  もちろん、そのような場面設定でも注意集中が可能であれば良いのですが
  重度の認知症のある方の場合には周囲の環境という場面設定によって
  本来の能力発揮が妨げられることのないようにしたいものです。

途中で混乱してしまったり
トイレなどでいったん手を止めた後で
できなくなってしまった場合には
迷いなくできる工程まで戻ります。
この時に工程の最初に戻るのではなくて
工程の最後から確認していくことがポイントです。

工程の最後から
「こうしたらできる」
「こうやってできた」
という体験を繰り返し行うことで
できる、できた、という再認をすることが可能となります。

その上で1工程ずつ増やしていきます。
増やす工程そのものは「くぐらせる」「手にする」「そろえる」などの
かつて必ずどこかで行なってきた手続き記憶です。
その手続き記憶を新たな体験に統合する作業をしてもらうことを意味しています。

だから、段階づけは細かく行いますし
混乱したり、不安になったり、わからなくなってしまった時には
「できる」工程に戻って再認してもらっています。

ここまで、1回のリハの時間に行えたとしても
次に来る時には忘れてしまうことも現場あるあるです。

なぜなら、時間経過という時間干渉と
その間、さまざまな動作をしていたという動作干渉という二重の意味で
認知症のある方が忘れやすい状況に置かれるからです。

つまり、忘れてしまうのは仕方ないことなのです。

むしろ、初めてのActivityの工程を覚えているということ自体
素晴らしい能力発揮なのです。

手工芸をしていた方は、このような体験の統合が容易なことが多くあります。
たとえ、1−2分前の会話を忘れてしまう方でも
Activityの工程を覚えられることは本当にたくさんあります。

仮に、せっかく工程を教えたのに
忘れられてしまったからとがっかりする必要は全くありません。

忘れてしまったとしても
その方の行動パターンはこちらが把握できているので
工程のどこまで戻ったら良いのかの判断基準は手にしています。

もちろん、認知症のある方の体調変動によって多少の誤差はありますが
判断基準があるので提供するこちらの負担は初回ほど多くありません。

 

私は、Activityの工程を丁寧に言葉で説明を尽くし
「一緒にやるから大丈夫」とつきっきりで
安心させるような場面設定はしていません。
 
Activityの工程はActivityそのものに語らせるような場面設定をする工夫をして
認知症のある方が安心できるような場面設定をしています。
手も口も出しませんが、目だけは離さずにいる場面設定をする方が
認知症のある方自身の達成感を促しやすく
また、メタ認知やメタ体験としての達成感も得やすくなります。
そしてそのような体験ができるリハ場面そのものが
ポジティブな再認の場となるのでリハやActivityへの拒否が少なくなります。
 

 

もし良かったら是非お試しください。

ポイントは
・言葉だけに頼らず視覚的説明を活用する
・工程は最後から体験を通して理解してもらう
ということです。

認知症のある方への介助、援助、支援とは
接遇を尽くすということとは異なるのだと考えています。

  蛇足になりますが
  こう書くと必ず「接遇を否定した」と誤読する人がいるので念の為。
  私は接遇そのものは対人援助職として必要だと考えてはいますが
  接遇を尽くすことで認知症のある方の生活障害やBPSDが
  改善されることにはならない。
  私の主張は評価に基づいて対応を判断すべきということです。

 

 

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Activity導入や誘導への工夫

アルツハイマー型認知症のある方は
どれだけ集中してどれだけ綺麗にActivityを遂行していたとしても
次の時には忘れてしまうことがよくあります。

言葉で具体的なエピソードを伝えても
再認できないことも多々あります。

そのような場合には
前回行っていた作りかけの作品や以前に仕上げた作品を持参して
「続きをやりましょう」と誘導するようにしています。

作品を見る、視覚情報として提示することで
過去の体験を思い出していただく試みです。

病状が進行すると視覚的な再認も困難になってきますが
少なくとも今目にしている、これをやるんだということは伝わります。
何をどうするのかわからない状態で誘導するのではなくて
これから行うことは今見ていることなのだと
視覚的に理解していただくことで
余分な不安を減らすことができます。

認知症のある方の誘導というのは難しいものです。
病棟からリハ室への誘導は、
リハスタッフ自身が行うところと看護介護職が行うところがあると思います。
リハスタッフ自ら行うところで働いている人は
誘導の大変さを実感していると思います。

逆に、看護介護職が誘導しているところでは
感謝の気持ちを忘れてはいけないと思います。
現場あるあるなのが
「誘導には拒否を示すけど
 行ってしまえば抵抗どころかノリノリで楽しむことができる」
というケースです。
入浴などでもよく見られることです。
「今いるところと異なる場所へ行く」ことへの不安を抱く認知症のある方はたくさんいます。
言葉での説明が説明にならず、言われたことが理解できない方や
言われても再認できないから自分ごとと思えずに拒否する方は大勢います。

認知症の症状や障害について
例えば近時記憶障害やエピソード記憶の低下、場の見当識障害、視空間認知障害といった言葉を知っているだけでは十分ではありません。
暮らしの中の場面場面においてどんな風に反映されているのかを観察することができて初めて知識が知識としての意味を持ちます。

そうでないと
「OT室でこんなに楽しそうにしているのに誘導に拒否を示すのは誘導の仕方が良くないからでは?」と誤認してしまいます。
そういうこともあるかもしれませんが、もし誘導の仕方が良くないのだとしたら
良い誘導をやって見せなくては。
やって見せてから
「〇〇という誘導のここが良くない。△△という誘導のここが良い。」
ということを説明できなければ。

なにごとも事実に基づくことが大事
認知症のある方へのリハやケアの分野では
旧態依然とした思い込みによって「今まで為されてきたことを検証することなく漫然と行う」ことが多々あります。
漫然とした対応から脱却するためには、事実を観察・洞察することと、それらが行えるようになるためには知識の習得が必須です。
ここで言う習得とは聞いたことがある、と言う意味ではありません。
概念の意味理解をきちんとできていると言うことが肝要です。
 (たとえば、幻視と錯視を混同している作業療法士はたくさんいます。
  そのような人の話はたいてい説得力がありません。
  私が尊敬する岩崎清隆先生は用語の定義をきちっとされています。
  細部をおろそかにしない人の話は説得力があります。)
概念の意味理解ができなければ見れども観えず、になってしまい
観察・洞察し損ね、その方の状態像把握をし損ね、適切な対応ができないどころか不利益になってしまうことすら起こり得ます。
臨床では、とても大切なことなのに疎かにしている人が多くて残念に思っています。

概念を理解した知識があれば
今目の前にいる方が誘導を拒否する必然を洞察できるようになります。
そうすると、
「無理矢理誘導する」ことも
「誉めておだてて言いくるめて誘導する」ことも、できなくなります。

  昨今の状況から、さすがに無理矢理誘導するような人は
  少なくなっていると思いますが
  その逆に褒めておだてて言いくるめるような方法はまだまだ多いと思います。
  やっていることは真逆のようでいて、その実ふたつの対応は
  「認知症=わからない」と思っている点ではどちらも同じです。

誘導に限りませんが
認知症のある方に言葉だけで対応の工夫をしようとすることには限界があります。
視覚的理解に働きかけることはかなり有効ですが、
あまり取り入れられていないようで本当にもったいないなと感じています。

  また、選んでいただく という時にも視覚情報を提示するようにしています。
  言葉だけで尋ねると
  「なんでもいいわ」「あなたが選んでよ」となってしまいがちです。

  毛糸モップの仕上げに使うリボンの色を選んでいただくときに
  「何色が良いですか?」と言葉で聞くのではなくて
  実際に複数のリボンを提示して毛糸モップの毛糸に合わせながら
  どの色が良いですか?と尋ねると
  「考える」「迷う」「判断する」ことができるようになります。

  考えてみれば当たり前ですよね。
  同じピンクでも緑でも、色の明度や彩度が違えば
  見た目の印象は全く変わってきます。

  選んでいただく時には、具体的に選べるようにしています。

誘導する際に再認に働きかける方法が有効であるためには
リハ室やOT室での体験をその方にとって有意義なものにする必要があります。

ちょっと痛い思いはしたけど終わったら身体がとてもラクになったとか
Activityに集中できて心地よい充実感を感じられたとか
なんだか居心地が良かったとか

再認は、ポジティブにもネガティブにも働きますので
ネガティブな体験しかできないリハ室やOT室であったとすると
導入する際に拒否するのは正当な意思表示でしかありません。

認知症だから忘れるだろう・忘れてるだろう・わからないだろう
なんてたかをくくっている人がいるかもしれませんが
とんでもないことです。
感情記憶は蓄積していきます。
体験を通して再認できる方もたくさんいます。
HDS-R3点の方でも視覚的情報の提示で再認できることもありました。

認知症のある方の能力低下なのか
能力を観ることのできない私たち職員の側の問題なのか

現場では、混同され、すり替えられ、思い込みによって誤認されがちです。

目の前で起こっていることを事実として観察する
「曇りなき眼で見定め」ることができれば
混同することも、すり替えることもなく
認知症のある方の能力を困難とともに目にすることができるようになります。

 

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Activityを拒否された時にどうするか:生活歴の聴取

2)マンツーマンで生活歴を聴取する
  :話をしやすいように事前の情報収集と聞き方に工夫をする
ということについて記載していきます。

完全にマンツーマンで対応するところで
ラジオ体操といっても実現困難なこともあるかもしれませんし
認知症のある方によっては、ラジオ体操でも拒否する方もいるでしょう。

そんな時には
生活歴を聴取すると良いと思います。

通常、私たちが認知症のある方に出会う場合に
事前に何らかの情報があることが圧倒的に多いです。
事前情報については必ず目を通しておきます。

現住所、出生、家族構成、職歴
これだけわかるだけでも会話の糸口になります。

現病歴だけでなく既往歴も重要です。
リハ中に体調不良の兆候を察知し即応できるためも必要です。
認知症が進行してくれば、てんかん発作が起こることもよくあります。
気構えがあるだけで対応がスムーズになります。

どこで生まれて
どんな風に暮らしてきたのか
小さな頃どんな風に遊んで
若い頃の趣味や仕事はなんなのか

ここでもポイントがあって
何をしていたのか尋ねるだけではなくて
どんな能力を要求されていたことなのか
を意識しながら聞いています。

目の前にいる方がどんな風に暮らしてきたのか
イメージできることがポイントになります。

そのためにも事前に
当時の時代背景や風物詩、ニュースや流行していたものを
知識として知っているかいないか、ということは大きな違いになります。
まずは、それらを事前に調べておく
その方の出身の名所・名産品などを調べておく
そんな努力は今すぐにできます。
その上で尋ねると、具体的に尋ねることが可能となります。

今はネットで知りたい情報にアクセスするのが容易です。
「認知症のある方でもできるレク」
なんて情報を知るために努力するのではなくて
(一時凌ぎ、時間稼ぎとしては、アリかもしれませんが)
根本的な情報収集にこそ努力する方が
短期的には手間かもしれませんが、長期的にはよっぽど有効です。
そうやって調べた情報が回り回って他の方にも適用できたりします。
そのような努力を蓄積していけば多面的に知識を増やせることになり
さまざまな方への対応に有効活用できます。

対話に際して、伝わり具合の実感の差となって滲み出るものです。

  認知症のある方に
  「昔はそういうものだったじゃない?」
  「みんな、そうだったよね?」
  「なぁ?」
  などと同意が返ってくることを確信されたようなお言葉を頂戴するたびに
  (えー私はその時まだ生まれていないんだけど)
  と思いつつも、内心ちょっとは嬉しかったものです。

その方のバックボーンに触れながら話を聞く
時には視覚的に情報を提供しながら話を聞く
(例えば、当時のニュース場面や風物の写真などを見せながら)
そうすると、いきいきと話をしてくださったり
広がりと深みのあるお話を聞くことが可能となります。

そして得られた情報は
今、この時、私自身が活用できる根拠となると同時に
認知症のある方が次に移る施設のスタッフにとっても有効活用できる根拠となります。

もしも、
認知症のある方にActivityを提供して拒否された時に
折り紙とか塗り絵とか手当たり次第に
漫然と「何かしている風」を装って「何かをさせる」のではなくて

人間としては、拒否されたことによるショックは受け止めても
プロとしては、拒否を情報収集の機会と捉えて次の手を打つ
ということが大切だと考えています。

何かする、していることが良いわけじゃない

していることに充実感を感じられるような
そして、することそのものに
自分が自分であることを再体験・再認識できるような
そんなActivityが提供できると
「できることをやらせる」
「徘徊しないようにできることを探す」なんてことはできなくなります。

そして
Activityの意味をその都度、対象化・抽象化・概念化する努力を重ねていると
作業療法とは何ぞや
ということを実感を伴って理解することができるようになっていきます。

  作業療法とは何だろう?
  それは考えることではなくて実践することです。
  結果を出してから、何がどう良かったのかという意義を
  固有のケースごとに具体的に考えることです。
  誰かと語り合うものではありません。

  パイロットがパイロットとは何だろう?
  なんて考えているでしょうか?
  同僚と語り合っているでしょうか?
  それぞれの考えは考えですけど
  まずは、自分の技量を高めることに日々努力しているのではないでしょうか?

Activityは本当に大きなパワーを持っています。
大きなパワーを持つものは、逆効果となった時のマイナスの作用も大きいものです。

認知症のある方に良かれと思って提供したけれど
結果的にであったとしても傷つけてしまったということはありませんか?

どうしたらそのようなマイナスとなることを回避できるか
 
「まず第一に患者を傷つけないこと」
ヒポクラテスの言葉の最初に書かれていると日野原重明は言っていました。
「患者は患者であるというだけで傷ついている」
そこから出発する。

認知症のある方に嫌がられたけど
この20分、どうしたらいいんだろう?
無理矢理させることはしたくない
そうしたら、何もできないで終わってしまった。。。
こんなので良いとは思えないけど
どうしたらいいのか、わからない
先輩に聞いてもわかったようなわからないような。。。
なんだか誤魔化されたような気がして納得できない

どこかでそんな悩みを抱えている人の力になれますように。。。
かつて一人でもがいていた過去の私が欲しかった答えです。

もうひとつ
生活歴を聴取する時には
マンツーマンでしっかり時間をとって聴取するだけでなく
ちょっとした時間でも良いから
何か体験をした後で、話しかけると良いのです。
体験の後で、その体験と関連するようなことを聞いてみます。

体験した後だと、再認しやすくなるので
関連する過去の体験を話しやすい状態になっています。

たとえば
ラジオ体操第一をした後に
「体操、お上手でしたね。
 お若い頃は運動得意だったんですか?」
そこで
「そんなこともないけど、陸上の選手だったんだよ」
と答えが返ってくれば
「選手に選ばれるなんてすごいじゃないですか!
 何の選手ですか?長距離?短距離?」
と話を広げながら聴くことができます。

もしも
「運動は苦手だったんだよ」
と答えが返ってきたら
「学生時代に得意だったのはどんなことですか?」
と聞いてもいいし
「学生時代に好きだったことは何ですか?」
と聞いてもいいし。

懐メロ鑑賞だったら
もっと話を広げやすいと思います。
「今の歌手は、〇〇ですよね」
と問いかけてその反応によって
「お好きですか?どんなところがお好きですか?」
「代表曲は△△と◇◇だそうですけど、お好きな歌はなんですか?」
と聞いたり、あるいは
「お好きな歌手は誰ですか?」
あるいは
「この歌、流行した歌だそうですけど聞いたことはありますか?」
と別の歌を視聴していただいてもいいですよね。
そうすると、歌にまつわる思い出を教えてくれるかもしれません。
そこに、その方らしさが反映されています。

また、
毛糸モップを作った後に
「お若い頃は編み物をなさっていたんですか?」と尋ねると
「そうよ。母がよくやってたから私もね。
 こたつの上掛けとか編んでたのよ。」とお答えしてくれたりします。
ここまで答えてもらえたら、いろいろと聞くポイントがありますよね。

スティーブ・ジョブズは、市場調査はしなかったけれど
モニタリングは、重要視していたそうです。
ユーザー体験の情報にはきちんと耳を傾けていたとか。

よくわかります。
心の底から同意します。

どんなActivityをしたいか尋ねるよりも
検討したActivityを提供してみてその結果を確認する
遂行の仕方、表情、Activityの結果、直後の感想 etc.eto.
ジョブズ風というわけではありませんが
私も「事後」を重要視しています。

 

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Activityを拒否された時にどうするか:戦略的待機

それでは、まず最初に
1)戦略的に時間稼ぎをする
  :拒否なく応じていただける別のActivityに誘導して機会を待つ
ということについてご説明していきます。

認知症のある方が拒否するにはするだけの必然がある
必然であって原因ではありません
ここが共感できることが大切です。

スティーブ・ジョブズは「意図こそが重要」と言いましたが
まさしくその通りで
本質を突く言葉は普遍的だと常々感じています
私たちの側の問題解決のために認知症のある方に何かさせようとすることと
  (無自覚であったとしても、
  診療報酬や介護報酬上20分間何とかうまくやれているようにしなくては。
  等のセラピスト側の焦りを解決しようとすることは多々ある)
認知症のある方が「たとえ認知症になったとしても自分自身は変わらない」
ということを再体験できた結果としてActivityに取り組めることは
見た目同じように見えてその実内面への働きかけのベクトルは真逆です。

そしてこの内面への関与のベクトルの向きこそが
無意識に伝わり作用していると感じています。

だから、困ることを恐れない
自分が困らないように、困ることを回避して言葉巧みに言い繕っても
その場は良いかもしれませんが
長期的にはメリットがないどころか、逆効果となってしまいます。

困っている自分に正直に向き合うことができて初めて
認知症のある方の予期不安にも共感できるようになります。
そこがスタート!
 
このスタート地点を間違えると自己修正ができなくなります。
経験を重ねた人の話でも、有名な人の話でも
抽象論ではいいことを話しても、具体論でいい加減な話をされると
納得できないですよね?
神は細部に宿る。とは本当にその通りだと感じています
 
そうなりたくなければ、スタート地点を揺るがせにしないことです。
人間だから諸般の事情で揺るがせてしまうことだってあるでしょうけれど
そうした自分を誤魔化さずに自覚することができれば
スタート地点に必ず戻ることができます。

くどいようですが、本当に大切で
なおかつ、臨床現場で揺るがせてしまうことあるあるなので記載しました。

そのスタート地点に立ってから
認知症のある方が拒否せずに行えそうなActivityから導入していきます。
その方の特性と能力から、〇〇というActivityが適切だろうなと判断があっても
その方が拒否されるようであれば決して無理矢理誘導したりしません。

この記事では詳しく触れませんが、
 認知症のある方の場合に「やりたいことをやってもらう」というのは
 困難なことが多々あります。
 詳細はこちらのブログでも過去に記載したことがあるので検索してみてください

その代わりに
次善の策として拒否なく行えるActivityに誘導して
そのActivityの遂行の仕方を観察・洞察・確認していきます。

たとえば
ラジオ体操第一は、認知症のある方にとって
手続き記憶として保たれていることが多いものです。

できれば
オープングループで(誰でも参加可能で出入りも自由な場)
体操の場を構築しておくと
認知症のある方が集団に埋もれることもできるので
失敗が目立たない、できなくても目立たないと感じることができて
誘導が容易で拒否されることも少ないものです。

また、懐メロ鑑賞も有用です。
歌わなくていい、聞くだけでいいところがポイントです。
歌は言葉にならない感情を喚起し味わうことが可能です。
聞いたことがある、思い出せたことがあるという体験ができるので
比較的拒否されにくいActivityでもあります。

体操も懐メロ鑑賞も
カタチに残るActivityではありませんが
運動する、見る、聞くという体験も立派なActivityです。
手工芸だけがActivityではありません。

ちなみに
一昔前には、「認知症=ゲーム、レク」みたいな風潮がありましたが
進行した認知症のある方にゲームは難しいActivityとなります。
ゲームを楽しむためには
1)説明されたルールを理解する
2)理解したルールを覚えている
3)ルールに従って行動できる
という条件をクリアできて初めて楽しむことができます。
アルツハイマー型認知症では近時記憶が低下していきますから
難しいですよねぇ。。。

私が今いる病棟では風船バレーも難しかったです。
どう動くかわからない風船を目でしっかり追い続ける
ということが困難な方が多いので
風船バレーの大前提が成り立たないのです
もちろん、軽度の方やゲームによっては遂行可能なものもあるでしょうけど
作業療法士としては、どんなゲームがどんな能力を必要とするのか
作業分析ができていれば、遂行の可否についても見当がつきます。

いずれにしても
対象者の方の特性と能力と、Activityとのマッチングがポイントです。

それから、大切なことは
「あぁ良かった。できることがあった」で終わらせずに
事後の情報収集が大切。
体操や懐メロ鑑賞の場面での参加の仕方をきちんと観察・洞察していきます。

自分の判断したActivityを直接は提供していなくても
間接的に適否の判断根拠の一つとなります。

異なるActivityは異なる能力を要求するので
遂行の可否や遂行の仕方に違いは生じて当たり前ですが
同時に、メタ能力というか、下支えしている能力は通底するものなので
どのように行うのか
という部分は、その方の特性と能力の大きな判断材料となります。

そして、その方自身が
「できた!」という体験を蓄積していくと
その方に応じて
「やってみようかな?」と思う気持ちが生まれてきます。
この機会をとらえ、逃さずに、働きかけます。

そういった関与がしやすいのが並行集団です。

おそらく、身障系の病院では期せずとも並行集団というカタチで治療がなされていると思います。
 同じ時間に同じ場所を共有していても
 個々の人によって異なることをしている
並行集団の中に身を置くことで
いろんな人がいるな、いろんなことをやるんだな
ということを見聞きすることを体験できます。
実際には認識されにくいようですが
この期間を猶予として担保できることも大切です。

他の人がやっているActivityを眺めるようになったり
やたらセラピストと眼が合うようになったりしたら
変化の兆しです。

他の人がやっているActivityの難易度が高すぎて
対象者には難しいと思われた時にも
該当Activityの多様な側面をよく認識して
当該対象者がそのActivityのどのような側面を好んでいるのかを判断すると
その方の特性に合致していて、しかも混乱せずに遂行できるように場面設定にも工夫した
Activityを選択・提供できるようになります。

最初からピンポイントで適切なActivityを選択できなくても良いのです。

認知症のある方が拒否するに足る必然があるように
私たちにもその時それぞれでの能力の限界があります。

自分自身のその時々での能力の限界を正直に受けとめられれば
認知症のある方の気持ちの揺れを受けとめ
その時その場でのその方の遂行を協働することが可能となります。

その都度のActivityが
私たちが理解の過程にあることを認知症のある方に象徴として伝えてくれます。

適切なActivityを選択し提供することができれば
その方の良い面を良い方向に理解し受けとめた象徴としてActivityが機能します。

関与のベクトルの向きさえ間違わなければ

経験が経験として蓄積されていきます。

Occupyを取り扱い、治療的に活用する作業療法士には
言葉以外のコト、行動や体験といったコトが
表現し、伝える、伝わる、ということに関して、
もっと明敏であることが求められていると思います。

 

・・・

次の記事では
2)マンツーマンで生活歴を聴取する
  :話をしやすいように事前の情報収集と聞き方に工夫をする
についてご説明していきます。

 

 

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Activityを拒否された時にどうするか:はじめに

先の記事で
「拒否は情報収集のチャンス」という記事を書きました。

認知症のある方が
拒否するには拒否するに値する必然があります。
(原因ではなくて必然です)

その中でも最も多いのが
「できない」
「わからない」
という予期不安から
Activity遂行を尻込みしてしまうというケースです。

私たち作業療法士が
認知症のある方に出会った時点で既に認知症のある方は
たくさんの失敗体験・喪失体験を蓄積してきています。

生活する、暮らすだけでも
失敗する。混乱する。不安になる。
どうするんだっけ?と朝起きてから夜寝るまでの間
考えながら暮らしていらっしゃいます。
 
私たちが考えなくても自動的に当たり前にできること
例えば、朝起きたら間違えることなくトイレに行き
パジャマの下衣を下げ、下着を下ろし、排泄し、清拭し、下着を上げ、下衣を上、手を洗い。。。

ある方は排尿後に
「ちゃんと出たね」とおっしゃいました。

私はトイレで「ちゃんと出た!」とは思いません。
ちゃんと出るかどうか迷ったり不安に思ったりしません。
確信を持って排尿しています。

また、ある方は
「カラオケ?私カラオケ好きよ。だって考えなくてもいいんだもの。」
とおっしゃいました。

あぁ、そうか。。。言葉にしなくても
暮らすだけでたくさんのことを考えながら暮らしているんだ
と思いました。

その都度その都度考えなくてはならないとしたら
「やる」ことに必死で楽しむどころじゃないでしょう。
「これ以上困ることなんてやりたくない」
と感じるのは当たり前なんじゃないかなと思います。

そう考えていくと
Activityへの導入も慎重にならざるを得なくなってくる

失敗体験、混乱体験、不安な体験とならないように
声かけや場面設定にも細心の配慮をしようと思うようになってくる

私たちの仕事は
「何かをさせる」ことではなくて
「何かをする」ことが目的でもなくて
「何かをした」ことは手段であって
「何かをした」ことで認知症のある方がプラスの体験ができる
ことにあると考えています。

「拒否されてどうしたら良いのかわからない」
という気持ちはわかりますが
これは問題設定の落とし穴なんです。

拒否されてどうしたら良いのかわからない
というのは私たちの側の問題であって認知症のある方の問題ではない。

私たちは認知症のある方の困難を改善するために仕事をしているので
解決すべきは私たちの困りごとではありません。
ここがいつの間にかすり替えられてしまうのが、臨床あるあるです。
問題設定が悪いから適切な答えが出てこないというのも、現場あるあるです。
だとしたら、適切に問題設定ができるようになれば良いだけなので
そこに立ち戻るべきなんです。
でも、なかなかそうはならない。。。

このあたりの混同・すり替えは、
いろいろなところでいろいろなカタチで起こっています。
あまりにも蔓延っているので、きちんと指摘できる人も少ないし
指摘した上で解決できる方策を示せる人もまた少ないので
善意はあってもモノゴトが解決できずに真摯な人ほど悩みまくる
という構図があちらこちらで散見されているのではないでしょうか。

認知症のある方の立場にたてば
何かをするより、しない方が自分にとってはプラスの時間
という意思表示なんです。

だとすると
目の前にいる方にとって
提案したActivityが

プラスの時間になると、
私たちが確信できるものを提案する

ということが前提条件となります。

  認知症のある方の場合
  「やりたいことをやる」というのが良い方向に作用しないことも多々あります。
  これも以前に書いていることですので検索してみてください。

ところが
この前提条件をクリアするよりも
「いろいろなことをやる方が良い」
「何もしないよりした方が良い」
「何かさせないと」
という思い込みがあって
「することのマイナス」については、あんまり検討されなくて
とにかく、できることを何でもいいから、させるように焦ってしまったり。。。
それで、塗り絵やら折り紙やらを提示したり。。。
しかも、幼稚な下絵で。。。
(この問題もすでにあちこちで指摘済みです。検索してみてください。)

  ちょっと話はズレますが
  認知症のある方の精神的疲労について
  あんまり検討されなくて、できるからって難易度を上げてしまったり。。。
  特に通所系の施設では、自宅での暮らしが豊かになることが本来の目的なので
  手段と目的を取り違えないように、
  質的にも量的にも頑張らせすぎないことが大切だと考えています。
 
なんとなく提供したActivityをやってもらえたりすると
あぁ良かったで終わってしまいがちですが
(本当は良い結果が出た時こそ、何がどう良かったのか検討する意義がある)
拒否されたら考えるようになるので
本当にチャンスなんです。

ただ、多くの場合に先輩に相談しても
「昔とった杵柄」や「毎朝の挨拶作戦」「なじみの関係づくり」「褒めてあげる」など
なんとなく継承されてきたことを言われるだけで
納得できたわけじゃないけど
自分では納得できる解決案が思いつかないのでそれ以外に術がなく
心の奥ではこんなんじゃいけないのに。。。と思いつつも
多忙な日々に流されていく。。。という人もいると思います。

4月からは先輩として後輩指導にあたることになって
内心ドキドキしている人もいると思います。

「破綻の危機は成長へのチャンス」
という中井久夫の言葉は、本来統合失調症のある方に向けた言葉だと思いますが
もっと広く一般化しても通用する言葉だと思います。

困ることは成長へのチャンスなんだからいいことなんです。
困ることすら、できない人になっちゃいけないんです。

作業療法士として
まずは、その方に有益だと確信できるActivityを選択できること
(具体的には、こちらでもたくさん記事を書いてきたので検索してください)
その努力から始めましょう。

その上で、提案したActivityを拒否された時にどうしたら良いのか
私がしているのは次の二つです。
 
1)戦略的に時間稼ぎをする
  :拒否なく応じていただける別のActivityに誘導して機会を待つ
2)マンツーマンで生活歴を聴取する
  :話をしやすいように事前の情報収集と聞き方に工夫をする

次からの記事でご説明していきます。

 

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関与しながらの観察:よっしーver.

「関与しながらの観察」とは
精神科医 Harry Stack Sullivan (1892-1949)によって提唱されました。

「現代精神医学の概念」 中井久夫・山口隆訳   みすず書房

 

評価とは
関与しながら観察することによって為され
治療とは
観察しながら関与することによって為される
と考えています。

 

そのためには
自分が何を観察しようとしているのか明確化できている
観察できる場面設定を行える(除外すべき条件がわかる)
意図的に選択された対応が行える(言語・非言語ともに)
起こっている事象を洞察できるだけの知識がある

ということが前提要件として求められます。

作業療法士の業界の一部では
検査と評価の混同や
目標を目標として設定できない
という臨床能力の育成に関して根本的な問題があると考えています。

多くの先達の努力のおかげで臨床知見の相当な蓄積が為されている昨今
そのメリットもあればデメリットもあって
該当障害の対象者に対しては
為すべきとみなされた検査項目を行い
為すべきとみなされた治療項目を行う
この過程において詳しく多数の検査項目を知っていることが優れた作業療法士である
というような誤解があるように感じられてなりません。
この間提唱されたEBMが誤解に拍車をかけたようにも感じています。
つまり標準化された作業療法の実践が本来の目的達成のために用いられるのではなくて手段の目的化に過ぎなくなってしまっているということです。
だから知見の集積の乏しい認知症という分野において
「どうしたら良いかわからない」「認知症は難しい」という訴えとなって現れているに過ぎないと考えています。

また
目標を目標というカタチで設定できず
方針や目的との混同が多々みられており
しかもそのことに自覚がないというケースにたびたび遭遇しています。
養成校の作業療法学科教授でも目的なのに目標として設定しているケースに複数遭遇しています。
受け取るリハサマリーでも目的を目標として設定されているケースも少なくありません。
 
このような現状では自家撞着に陥り自己修正ができようはずもありません。
だから「作業療法は説明するのが難しい」「作業療法は理解してもらいにくい」などと自己憐憫に陥るか、真逆の方向に「作業療法は素晴らしい」と自画自賛することで目の前の現実に向き合うことから逃避しているのではないかと勘ぐりたくなってしまいます。

現状改善への提案の一環として
目標設定に関しては
作業療法総合研究所において研修会で講師を務めました。

良い作業療法士になるために−目標を目標として設定できる

対象者の方と協働して良い目標が設定できる作業療法士になろう!

良い目標が設定できる作業療法士になろう!−概念編

認知症のある方への対応、作業療法の実践に関しては
作業療法学会で発表したり
各種研修会講師を務めたり
依頼された原稿を寄稿したり
こちらのブログで情報発信をしてきましたが
それらの集大成として「OT佐藤良枝のDCゼミナール」を作成・公開しました。

作業療法は実践の科学なのですから
最も重要なことは日々の臨床において結果を出すことです。
結果を出すということは対象者の方が良くなることです。
対象者の方が良くなるということは目標を達成できることです。
だからこそ、目標を目標というカタチで設定できなければならない意味がここにあります。
目標を目標というカタチで設定できずに、目的や方針や治療プログラムと混同していれば結果が出たかどうかがわからないということを意味しています。

結果を出せるためには
いろいろな検査ができることでもなく
いろいろな理論を知っていることでもなく
大学院を卒業しているとか、論文をどれだけ読んだり発表しているとか、それなりの職位にあるとか、ましてや経験年数の多寡とは何の関係もありません。
目の前で起こっている事象をプロとしてきちんと観察できることから始まります。

ところが
知識がなければ、プロとしての観察が行えません。

食事介助において
「口を開けてくれない」
「飲み込んでくれない」

ちゃんと声をかけたのに
突然怒り出すなんて怒りのスイッチがわからない

といった、表面的なことしか見ることができないのであれば
近所のおじさんおばさんと何の違いがあるのでしょうか?

口を開けてくれない、飲み込んでくれない
突然怒り出した
といった表面的な事象には
認知症のある方の困難(症状や障害)とともに能力も反映されています。
その、反映されている困難や能力を観察することができるから、プロなのです。

そして
その表面的な事象は
その時その場の状況や相対した作業療法士の関与も大きく影響しています。
その影響についても観察でき、影響の意味が洞察でき、影響をプラスの方向にコントロールできるから、プロなのです。

関与しながらの観察という言葉、概念は
昨今では、あまり教えられていないようで
学生や若手作業療法士に尋ねても
「教わらなかった」という答えが返ってくることが多くなってしまいました。

かく言う私も学生の頃に言葉として聞いたことはありましたが
その意味の理解ができていたかと言うと、やっぱりわかっていなかったと思うし
当然、実践もできてはいませんでしたが
知っているということはモノゴトのスタートになります。
(もちろん、知っていることと理解できることと実践できるということそれぞれの隔たりの大きさは十分わかっていますけれど)

観察する時には、何らかのカタチでの関与を必ずしています。
そしてその関与の在りように応じて観察の視点も広さも深度も変わってきます。

対象者を自身の意向に従わせようとしているのか
対象者の困りごとを少なくしようとしているのか
対象者は何もわからないと仮定しているのか
対象者は何とかしようと努力していると仮定しているのか
自身の関わりを吟味・検討せずに無自覚な声かけをしているのか
自身の関わりを吟味・検討した結果、意図的な声かけをしているのか

同じ事象を観察しても
人によって異なる観察結果が生じる所以です。
だから観察結果の相違を論じても仕方ない
前提となっている無自覚の関与の相違をこそ、論じるべきだと考えています。

関与の在りように応じた観察をしている

このことは、どんなに強調しても強調しすぎることはないと感じています。

「 ゲド戦記 IV 帰還 」のコケばばの言葉のように
「だけど、わしの方に見る目がなかったら、相手に目があるかどうかは言ってくれなきゃわからない。」記事「深きは深きを知るもので」より)
ということになっているのではないでしょうか。

 

だから
研修会で、観察と評価の重要性を説明しているにもかかわらず
「〇〇という人がいるんですけど、どうしたらいいんでしょうか?」
というカタチの質問があちこちの研修会で繰り返し起こるのだと感じています。
思考過程がもうガチガチにハウツー(思考ですらない)に染まっている証左なんだと感じています。

認知症のある方にどうしたらよいのか、
わからない時には評価に立ち返る
評価が曖昧な時には観察に立ち返る
観察する時には、認知症のある方を援助するという立ち位置に繰り返し立ち戻る

「関与しながらの観察」
この言葉に込められた意味は
とてつもなく広く深く
対人援助の実践に直結している
と感じています。

 

 

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対人援助の困難

関係性の中で能力が見出されていく

目の前にいる方の困りごとをなんとか手助けしたい。
その意志を支え、具現化するためには知識と技術が必要です。
 
そして手にした知識と技術は
「相手を変える、コントロールする」ためではなく
「相手を助ける」ために適用
するのだという認識こそが重要です。
ここが入れ替わってしまっている人に遭遇することも多々ありますが
対人援助職として、
いくら自戒しても自戒し過ぎることのない難しい側面なのだと感じています。

能力が見出される体験を重ねるたびに
援助という在り方を磨かされるように感じています。

認知症のある方も関係性を感受しています。
相手を変える、コントロールしようとする人に対する反応と
相手を助けようとしている人に対する反応と異なっていて当たり前です。

関係性の中で能力は発揮され、見出すことができる
その逆もあり得ます。

イチ臨床家として思うことは
普段の臨床にこんなにも直結することだから
学生や若手OTに対して
リスク対策として
臨床家として援助が的確に行えるように
対人援助職の厳しさと困難を伝えるべきなんじゃないかと考えています。

そうでないと
かつてある医師が
「作業療法は作業療法士によって潰される」
と言っていた未来が実現してしまいかねないと思っています。

その医師は、
作業療法のチカラを本当にわかっていたからこそ
作業療法士に期待していたからこそ
そう言っていたのだと思います。

その意味をわからない人たちが表面的に批判するという
なんとも言えない皮肉な様相が見られていました。。。

援助を具現化するためには
知識と技術が必要で
それらを適用する際には
援助の視点をぶらさない強さが求められるということの厳しさ
対人援助職の落とし穴、罠、表裏一体の困難
として
思いを深めるとともに
学生や若手OTにあらかじめ伝えておくことの必要性を強く感じています。

接遇とか理論とか客観性とかEBMとか
それらもいいけど
それらは、本質でも根本でもなくて
土台として、このことが分かった上での
接遇であり、理論であり、客観性であり。。。

何のための接遇か、理論か、客観性なのか、EBMなのか
ということをよく考えてみれば
あくまでも的確な援助をするための手段にしか過ぎない
ということがわかると思う。

何が本質で
何が手段なのか

混同していたら、的確な援助は難しくなります。

重要なことは
対人援助というのは
援助の名のもとに使役やコントロールに容易にすり替わり得る

ということを自分ごととして
きちんと自覚していることだと考えています。
 
ところが、現実には経験を重ねるごとに鈍感になっていく人も少なくないんですよね。。。
本来は経験を重ねるごとに、わかりかたが深まっていくはずなのに。。。

 

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なんちゃって目標からの脱却を

真贋を見分ける眼について考えていて
岩崎清隆先生の文章を思い出しました。

「骨董屋の丁稚には真贋を見分けられるように偽物は見せない」
といった内容だったと記憶しています。
「本物には本物だけが持つ品の良さがある。
 本物にしか触れていなければ偽物に出会った時に違和感を抱くことができる。」

ネットで検索してみたら
「くらしのくら」というサイトに
「職人の弟子には本物だけを見せる」という記事がありました。

私は作業療法は実践の科学、
いわば作業療法士は職人だと思っていますから
知識と技術の伝承という問題はずっと考え続けていることの一つです。

そんな時に、なんちゃって目標が記載されているサマリーを受け取りました。
明らかに目的やリハ内容であって目標じゃないのに目標として記載されています。

そうなんです。
なんちゃって目標によく遭遇するんです。。。
養成校の教授がなんちゃって目標を発表しているケースに遭遇したことも一度ならずあります。

これはもう明らかに養成の問題です。

OTもカリキュラムが変わって教えるべき内容が深く広くなってきていることや
臨床実習においてもハラスメント防止の観点から
時間内に学生を帰らせないといけないので指導時間が限られていることや
実習形態も変更しなくてはならないから
教員の先生方も実習指導者も今までにも増してご苦労があるのだとは思います。

でも、最初に「目標とはなんぞや」ということを
はっきりと教えれば良いだけですし
目的や方法との違い、その見分け方もちゃんと教えれば良いだけです。
つまり、概念をきちんと教えれば良いだけです。 
 
実習地では、実際のケースをもとに
教えられた概念を個別に具現化していく作業なので
「うん、良い目標だね」
「これはね、目標じゃなくて目的だよ」「こう考えたら目標になるよ」
具体的に現実的に教えれば良いだけです。

目標の概念を学び、具現化した体験があれば
なんちゃって目標に遭遇した時にすぐにわかります。
なんちゃって目標を本物の目標に修正するための方策も
概念として学び、具現化した体験があれば実践できるようになります。

なんちゃって目標から脱却できないと
漫然としたリハの提供から脱却することが難しくなります。
対象者に対して適切なリハを提供するための自己修正ができないからです。
自分の方針や目的、治療内容を目標として設定していれば
手段の目的化となり、自己正当化するだけとなってしまいます。

理論だ、OT科学だ、といろいろなことが言われていて
OTの発展のために必要なことかもしれませんが
現場最前線で働いているイチOTとしては
もっと足元を見直すことが必要な気がしてなりません。

よくわかっていない指導者が発する言葉に
「頭の中ではわかってるんだよね。
 ただ言葉にできないだけだから気にしなくていいよ。」
「今は学生だから難しいけど、働けばそのうちわかるようになるよ。」
といったものがあります。

そんなことはあり得ません。
臨床に出て働き出せば、実習生の時にように
目標設定の適否について指摘する人がいなくなるだけです。
困ることに直面させられる機会が減るだけで
目標設定の能力が向上したわけではありません。

だから
初めて新人を教育する立場や実習指導者の立場になった時に
目標設定の難しさや指導することの困難に遭遇するのではないでしょうか?

先輩や上司に相談しても
的確な答えを教えてもらえず
悶々とした気持ちを抱えつつも
どうしたら良いのかわからずになんとなく流され
そのうちに悶々とした気持ちも忘れて
「それでいいんだよ」と言うしかなくなってしまった。
そんな自分に心の奥底でチクッと胸が痛みつつ。。。
違うかな?

目標とは何ぞや
なんちゃって目標からの脱却方法についての
「 ご提案 」をしています。
興味のある方はぜひご参照ください。

 

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