Tag: リハビリテーション

勝ちに不思議の勝ちあり

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。」

プロ野球の野村克也監督の言葉だそうですが
実は原典があって
「勝ちには偶然の勝ちがあり、負けには偶然の負けはない」という言葉は
江戸時代の剣豪、松浦清(松浦静山)の言葉の引用なのだそうです。

そこから
「失敗は必然、成功は偶然」という言葉も広く使われているとか。

ふと、そんな言葉を思い出しました。

このことは以前のブログにも書いてあります。

認知症のある方への対応についても同じコトが言えるように感じています。

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目標設定の研修会無事終了☆

昨日、作業療法総合研究所さん主催の研修会
「対象者と恊働して良い目標を設定できる作業療法士になろう」
を無事に終了することができました。

参加してくださったみなさま
準備・運営を担当された会長のTさん、事務局長のSさん
お手伝いしてくださったふたりのIさん
お世話になりました。
どうもありがとうございました。

目標を目標というカタチで設定できることがなぜ重要なのか
今現在、すでに起こっている問題と
活動・参加に焦点を当てたリハが推進されていく過程において
起こりうる逆効果をどう防ぐことができるのか
そして根本的に作業療法とは何か
ということについてお伝えする機会をいただけたこと
とても感謝しています。

「人は作業をすることで元気になれる」

そう語るのはよいですが
なぜなんですか?
作業の何がそうさせるのですか?
そして
本当にパワーの強いものは逆の目が出た時の悪影響も強く出てしまう
それをどうやったら防ぐことができるのですか?

納得のいく答えを携えている人が何人いるのだろう?
これらの答えを携えずにただ語っているだけでは信頼されないと感じています。

そして、作業Occupyと目標がどう関係するのか
とても大きく深く関係しているということについてもお伝えしました。

たぶん、参加されたそれぞれの方がお勤めされている分野を超えて受けとめていただけたと思う。
受けとめ方の深度は人それぞれであったとしても。

来年は学生さん向けの目標設定の企画が動いています。
もう少し演習の時間を増やした内容に少し練り変えて再挑戦 (^^)
楽しみです!

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目標設定の研修会ver.2にどうぞ☆

11月12日(日)に
作業療法総合研究所さんの主催で
「対象者の方と恊働して良い目標が設定できる作業療法士になろう!」が開催されます。

締切が11月10日(金)17:00までとなっております。
これからお申込になる方はどうぞお早めに。

講演後など、いろいろなところで尋ねられます。
「認知症は難しい」
「どうしたらいいのでしょう?」「何をしたらよいのでしょう?」

気持ちはわかります。
かつて、私もそのような思考回路をしていましたもの (^^;
でも、このようなパターンで問う。ということは
このようなパターンで考えている。ということを示しているのです。

これは、本質的に非常に危機的な状況だと考えています。

認知症というカタチで現れてはいますが
問題の本質は、認知症ではない。と考えています。
他の疾患でも実は評価や目標設定が明確にできていないけれど
なんとなく教科書的に、なんとなく周囲に言われたことを当てはめている。
自分の知っているパターンに目の前にいる方を当てはめている。
他の疾患では何とかなるけど、認知症ではそうはいかない。
それで困ってしまって、認知症は難しい。
という現れになっているということなのではないでしょうか。

パターンはあります。
でもあくまでも結果としてパターンがあるのです。
目の前にいる方をパターンに当てはめても「うまくいく」はずがありません。

このような対人援助職の在りように対して、危機意識を抱いています。

一方で希望を失っているわけではありません。

多くの対人援助職の人たちが、限られた時間で一生懸命に目の前にいる方に対して向き合っている
そのような人たちとたくさん出会っています。

ただ、残念ながら学んでいないことがある。
学んでいないために、プロとしての良心や心意気を
目の前にいる方に適切なカタチで表現できないでいるのなら
学ぶ場があればいいだけのこと。

その「場」がこちらです。

おそらく、今の日本で
目標設定についてこれだけ明確に言語化して学べる場
その臨床的意義について明確に実感できる場
というのは、そんなに多くはありません。

平成26年7月20日に第1回目の目標設定の研修会が開催された時には
臨床家、学生あわせて100名近い方が参加され
終了後のアンケートは
「とても良かった」臨床家75%学生100%
「とても良かった+良かった」臨床家92%
という結果でした。
つまり、実際に臨床でたくさんの人が困っているということの現れでもあります。

実習で目標設定が難しかった学生さん
実習で学生さんに目標設定をわかりやすく教えられなかった若手作業療法士さん
すごくラクになります。
そして日々の臨床が変わってきます。

まず、目標を目標というカタチで設定できること

これができるようになれば
評価を評価として行えるようになるし
評価が行えるようになるだけの情報収集をすることができるようになるし
情報収集できるようになるために必要な知識が何なのか探しやすくなります。

PDCAは、対象者のためだけではなくて、自分の成長のためにも必要なんです。

迷っているなら、騙されたと思って参加してみてください。

「私、後悔させないので」

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手間をかけるから手間を減らせる

認知症のある方だって
できることはたくさんあります。

ただ、自分1人では難しい
誰かの目や手や諸々の工夫は欠かせないかもしれません。

ここに誤解があります。
根本的な誤解。

誰だって
相互関係の中に生きています。

環境との相互作用の影響の強さ

不適切な移乗介助をすれば
発揮できる能力だって異なってくる。

不適切な食事介助をすれば
発揮できる能力だって異なってくる。

まったく同じことが生活障害やBPSDへの対応の工夫全般に言えるだけです。

適切に手間をかければ
結果として手間は減ってくる。
ただ、ゼロにはならない。

適切な1手間であれば
将来の3手間を予防することができる。
今の1手間を0.5手間にとどめることもできる。

下肢で自重を支えられるのに
その能力を使わないような
しかも体幹の前傾を使えないような
移乗介助をしていたら
最初立てていた方が立てなくなるのも当たり前。

でも多くの場合に
移乗能力低下って言われてしまう。。。

移乗介助の時に
できるだけ長く能力発揮していただけるように
下肢で自重を支えるように
体幹の前傾を促すように
1手間をかけるから移乗動作の維持ができる。

自立支援とは
「がんばってやらせる」ことではなくて
私たちが適切な1手間をかけられるように
「適切さ」を問い直すことだと考えています。

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声のトーンが大事

声のトーンにはものすごく気をつけています。

声かけにおいて
「何を」言うのか検討されることは多いかもしれませんが
「どんな口調で」言うのかは、あんまり検討されないことが多いのかな?

声のトーンが伝えてしまうコトってものすごく多いです。

職員の苛立ちって結構トーンに現れます。
認知症のある方が
言葉ではなくて声のトーンに反応してることって結構あります。

そんなトーンで話したら怒るにきまってる。。。
そう感じることも多々あります。

職員だって人間だから
時にはイライラすることだってあると思う。
大切なことは、認知症のあるAさんが怒っていた時に私の口調もキツい口調だった
と自覚できることだと考えています。
自分の表出表現を横において
Aさんの表出表現だけをアレコレ言うのは
公正公平じゃないもの。

自覚できるから、コントロール、トレーニングを考えられるようになる。

イライラした感じ
甘えたような、おもねるような感じ
硬い感じ
表面的な感じ

どれも「感じの良い声」ではありません。

おだやかな
深みがあって
聴き取りやすい声

言うは易し、行うは難し。ではありますが (^^;

それでも、たぶん、声って、
トレーニング可能
コントロール可能なモノだと感じています。

だって、声の生成にも筋肉が関与しているんだもの。
感情も関与するけれど。

心身両面からトレーニング可能だと思うし
対人援助職としてトレーニングすべきモノのひとつだと思う。
そこからコントロールにつながっていく。

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視点の変換

能力を見いだし、能力にはたらきかける

単に今できることだけではなくて
目に見える、現象としての不合理な言動にこそ、能力が投影されている。

でも、その能力は観ようとしなければ観えないし
観ようとしても知識がなければ見そこねてしまう。

コップに半分の水が入っているとして
あと半分しかない。とみるか
まだ半分ある。とみるか

能力が低下して、いろいろなことができなくなったわけじゃなくて
能力は低下したけど、(コップ半分の水はないけれど)
残っている能力だって、いっぱいある。(コップに半分の水は残っている)

コップの水を増やすことを考えるんじゃなくて
コップにある残り半分の水でどうするかを考える
というか、
認知症のある方は、既に、残り半分の水でどうにかしようとしている。
それなのに、私たちは、そのことに気がつかずに水が足りないからと諦めたり
増やすことのできない水を増やそうとして困惑している。

認知症のある方が
残り半分の水でどうにかしようとしていることがわかれば
その次へ進める。

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記事掲載@POST

先日、「PT・OT・STのための働き方・学び方発見サイト」POSTさんに
「『ねぇ!』に隠された意図を捉える」という記事が掲載されました。

私たちは、どうしても言葉の表面にとらわれがちになってしまう。

表出言語としては、パターン化された数語の言葉しか表現できなかったとしても
内在する気持ちや意思がないわけじゃない。
行動というもう1つの言葉をやりとりするということは可能です。
そんなことを書いてみました。

本当は
多様性ということについても踏み込んで書きたかったんだけど
まだうまくまとめられなくて、それはまた今度。

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結果として起こることの目的化

結果として起こることの目的化
これも臨床あるあるな気がする。。。

たとえば
大昔に、「寝たきり老人ゼロ作戦」なるものがあって
確かに寝たきりはなくなったけど、でも座りきりが増えた
ってことがあった。

今、「活動と参加」の旗が振られ
確かに、何かしているようにはなったけれど
でも、私たちの脳みそがお年寄りの手足を動かしている
そんなことにはならなければいいけれど。。。と危惧してしまう。

たぶん、デイとか「何かする」ことが
ひとつの提供すべきサービスとして求められている場において
切実に現場の職員は困っていたりするんじゃないかしら?

ありていに言えば
「今日は何をしてもらおうか?」
一歩進めて
「これってこの人にとってどういう意味があるんだろう?」
「この人に本当にこれでいいのだろうか?」

そう思った時に
どう考えたらよいのか、という道しるべのような考え方って
案外、教わっていない。

希望を尋ねればいいじゃない?
って言われるかもしれないけれど
それは、病状が進行した認知症のある方に接していないから
そんな風に言えるんだと思う。

病状が進行すると
かつて好きだったことや趣味活動を言葉で答えることが難しくなるし
仮に言うことができたとしても
かつて熱中して行えていたことが
今は病気のためにできなくなってしまっている。

そんな時に対人援助職が言ってしまいがちなのが
「一緒にやるから大丈夫」という言葉だけれど
実際、一緒にやってみて、まるで私たちの脳みそが認知症のある方の手を動かしているような
気持ちになったりしないだろうか?

確かに作品は何かできあがったかもしれないけれど
これは、本当に認知症のある方がoccupyした結果、できあがった作品だろうか?

結果として起こることの目的化

これって、いろんな場面で起こってる。

美味しく食べていただきたいと願っていながらも
結果としては食べさせてしまったり

拘縮予防のためのポジショニングと言いながら
単に肘や膝を伸ばそうとしていたり

食べられるようになるのは結果として起こる
肘や膝が伸びるのも結果として起こる

結果として起こるように援助するのではなくて
結果を表面的にさせてしまう。。。

「ちゃんと食べてね」という声かけは、その最たるものだと思う。

私たちの仕事は、「言う」ことや「させる」ことではなくて
できるように援助すること。

結果として起こることの目的化は
援助とは、真逆のことだと感じています。

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