「言ってくれなきゃわからない」

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私の大好きな「ゲド戦記」に
コケばばが語るこんな言葉があります。

「(略)
いいですかね、もしわしの顔にちゃんと目がありゃ、わしにはおかみさんに目があるのがわかる。
そうじゃないですかね。もし、おかみさんが目が見えなくても、わしにはそれとちゃんとわかる。
もし、おかみさんがあの子みたいにひとつしか目がなくても、反対に三つ目があっても、それもこっちにはわかる。
だけど、わしのほうに見る目がなかったら、相手に目があるかどうかは言ってくれなきゃわからない。
(略)」
ー ゲド戦記 最後の書 帰還 p.81より ー

相手に言葉にして尋ねることも言葉にして確認することも大切で必要だけれど
言葉だけに頼ったり強調されたりするのは、臨床的な意味でどうかと思う。

1つには言ってもらわないと、わからないのはどうかと思うし
もう1つは言葉以外の聴き方や確認をとりこぼしてしまうおそれがあると思います。

そういうことって
もう既に起こっているように感じられてなりません。

私たち作業療法士が扱う作業の本質としてのoccupationは
言葉によって分離されたものではない。
言葉も言葉以外のものもすべて包含した「場」のことです。

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臨床あるある(昔とった杵柄は要注意3)

ちょっと待った

もうひとつ、根本的に見落とされていることがあります。

人は明確に「やりたいこと」を希求して生きている人ばかりではない
ということです。

人によっては
「求められていること」をやることに重点を置くタイプの方もいますし
「生きること」「暮らすこと」に必死だった方も大勢おられます。

そういった方に
「やりたいことを尋ねる」だけでは、たとえこちらが意図していなかったとしても
その方の生き方を結果として否定してしまうことにもなりかねません。
少なくともそのように受けとめられる可能性については事前に十分に考慮しておく必要性があります。

こういうことを言うと
「認知症のある人は、そんなことわかんないでしょう」と言う人が出てくるものですが (^^;
そう言う人は認知症という病気の理解ができていないから、そんな風に言えるんです。

認知症のある方ご本人が「バカになった」という言い方をよくされますが
決して「バカ」になったのではありません。
あくまでも「障害」として、
新しいことが覚えられなくなったり、遂行機能障害が出てくるだけで
「判断力」の全てを喪失したわけではありません。

「やりたいことは何ですか?」と尋ねて答えられない方に対して
「やりたいこと」を想起しやすいような工夫は必要です。
そうすることによって答えられるようになる方もたくさんいるでしょう。

でも一方で
暗黙の前提要件となっている
「人は、やりたいことを明確に希求して生きるものだ」という命題は
本当に吟味されてきたのでしょうか?

この前提となっている命題は、本当に万人に当てはまるものなのでしょうか?

そもそも
「やりたいことをやる」のは何故なんでしょうか?
「作業をすることで元気になる」のは何故なんでしょうか?

「やりたいことができるようになって嬉しい」ということは
単に表面的な意味だけなのでしょうか?

活動・参加に大きく旗が振られるようになった今
「何をするのか」という根拠が求められています。
その1つに本人のやりたいことをもってくることは、よくわかります。
いろんな意味で。

でももう一歩深く考えてみれば、
目をつぶってきた本当には、わからないことがあったりするのではないでしょうか。

もしかしたら、必死になって「やりたいこと」を探すことによって
もう1つの本質的な問いかけを避けていたりはしないでしょうか。

「やりたいことはない」
この答えにその方の一端が現れてもいます。
それなのに、やりたいこと探しから始めるのでしょうか。。。

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講演@日本シーティングコンサルタント協会

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10月15日(土)に
東京都北区にある北とぴあにて日本シーティングコンサルタント協会さんの主催で開催された
「認知症の理解とシーティング」にて講演と意見交換会に出席してきました。

連絡の窓口となってくださったOさんはじめ社会局のみなさま
どうもありがとうございました。

秋晴れ、行楽日和の中を参加してくださったみなさま、お疲れさまでした。

熱心で前向きな方が多くてびっくりしました。
大勢の参加者の前で質問をしたり、感想を話すことは緊張すると思いますが
最後の意見交換会では、たくさんの方の手が挙がり
あっと言う間に時間が過ぎてしまった感じがしました。
とても良い雰囲気で楽しかったです (^^)
司会を務められたHさんの導入のお言葉が効果的でしたよね。

講師を務められたOさん、Tさん、Mさんのご講演を聴くことができたことも
雑談の中でお話ができたこともとても勉強になりました。

日本シーティングコンサルタント協会さんが
シーティングの知識と技術向上のために系統的に運営されていることに感銘を受けました。
ふだんの臨床もされて、その他の社会的な役割も担当されて、
その上にこのような形での運営を為さっていることに感服です。
単発的な研修会の運営でも大変ですから、系統的な枠組みの中で個々の研修会を企画・運営し
参加者の状況も確認・管理されるのですから。。。
頭が下がります。

これだけのことを為さっているので
中堅・若手の方もどんどん育っていくし
フロアーの方も発言しやすい雰囲気・土壌があるのだろうと感じました。
本当に素晴らしい。
でも誰にでもできることではないとも感じました。

講師として招かれて勉強になることはたくさんありますが
こんな風にして、今までの自分の仕事圏内では出会うことができなかった素晴らしい方々と
出会うことができるのは、本当に役得ですね。

充実感いっぱいの気持ちで帰宅しました (^^)

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臨床あるある(昔とった杵柄は要注意2)

ちょっと待った

臨床上、圧倒的に多いアルツハイマー型認知症のある方は記憶の連続性が低下していきます。
病状の進行に伴い、遠隔記憶が保たれていても近時記憶は低下していきます。
いわゆる、昔のことは覚えていても最近のことは覚えられないという状態像になります。

認知症のある方に
「何かやりたいことはありますか?」
「得意なこと、好きなこと、趣味は何ですか?」
そう尋ねられて答えるのが、かつて若い頃に得意だったこと、好きだったこと、趣味だったりしますし
「今は何もできないから」「今は何もしていないし」
そう答える認知症のある方に「かつて」のことを尋ねる作業療法士だっているでしょう。

こんな風に尋ねることそのものは悪いことではありません。
でもその答えをそのまま鵜呑みにしてActivityを提供するのは考えものです。

「かつて」は、好きだった、得意だった、趣味だったことが
「今」も、同じようにできるとは限らない。からです。

アルツハイマー型認知症のある方は
多くの場合、当初は記銘力低下が主体で構成障害や遂行機能障害は目立たないことがよくあります。
ある程度、病状が進行するとそれらの障害も進行してきます。
そうすると「かつて」できていたことも「今」できなくなる、混乱することになってしまいます。
基本的なADLが自立していても、このような状態像になってくることが少なくありません。
つまり日々それなりに内心不安を抱えながらも巧みに回避しながら暮らせていたのに
何か作る段になって明確に失敗体験に直面してびっくりしてしまう。ことになりかねません。

また、提供者側が構成障害や遂行機能障害について無頓着であると
こういった失敗体験の意味がわからないまま「優しく」「丁寧に」「怒らないで」対応しようとして
かえって傷を広げてしまうことにもなりかねません。

同じ脳の病気によって障害が起こる脳血管障害後遺症を考えるとおわかりいただけるかと思います。
動かない右手で、かつてしていた趣味を提供してみたら、できなかった方に対して
どんなに優しく、丁寧に、怒らないで接したとしても、できないという状況は何も変わりません。
こんな時にそのまま提供し続けるでしょうか?
方法を変えることが容易であれば、「異なる方法」で行うという選択肢もありますが
認知症が進行していると「新たな方法」つまり「同じことを違う方法で行う」ことを学習することは困難です。
このような状態でも、そのまま提供し続けられますか?

「やりたいことを尋ねる」ことは必要不可欠です。
でも、認知症のある方の場合に
その尋ね方が言葉に頼り過ぎていると、結果として逆効果になってしまうこともあります。
認知症という病態に起因することなので、十分に気をつけることが求められます。

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役得です…m(_ _)m

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私は、こちらでいろいろ書いているように
研修会の講師として依頼されることもあれば
逆に企画・運営の中心的な仕事もしたり
参加者としていろんな研修会に出席したりもしています。

思い起こせば
今みたいに、講師の依頼がほとんどない頃から研修会に参加するたびに
どんな風に伝えたらよいのか、講師のお話の内容だけでなく表現についてや
企画・運営する人の動きなども参考にしていました。

その時には、まさか自分が
今のようにたくさんのご依頼を受けることになるとは考えてもいなかったのですが
たぶん、高校の時の部活の影響もあるのだろうと思います。

高校の時には
児童文化部といって、人形劇や影絵を作って地域の保育園や幼稚園に訪問していたのです。
そして、その活動がきっかけとなって作業療法士を目指すことになるのですが
児童文化部で活動している時にもまさかこの活動がきっかけとなって
将来の職業を選択することになるとは思ってもいなかったのですから
人生とはわからないものです (^^;

その部活で演出を担当することになり、先輩やOBから何度も指導されたことがあります。
それは
「演出が動くな。演出は常に全体をみて状況を把握し的確に指示出ししろ。」
ということでした。

全体を把握する
クチで言うのはカンタンですが、実行するのは大変でした。
でも、今思えば本当に良いトレーニングをさせてもらったものです。

作業療法士として仕事をしていても
まず、レクを企画・運営する時には、そのまま応用できることでしたし
おそらく、今私が提唱している「自分を含めた場面全体を把握する」
ということにも繋がってきているんじゃないかと思います。

そして今
講師としての立場、企画・運営側の立場、参加者の立場と
いろいろな立場でのお仕事をさせてもらうにあたり
それぞれの視点や感想を、異なる立場に反映できるというのは、1つ私の強みだと感じています。

お互い忙しい中で、トラブルを事前回避するためにどうしたらよいか。とか
より明確に伝えるための工夫とか
これは、他山の石としようとか (^^;
実感をもって考えられます。

それに
普段のお仕事では到底お会いすることが叶わないような方と接することができて
とても勉強になります。
明解、丁寧できめ細やか。
凄い人のお仕事への向き合い方に接することができるのは役得以外の何者でもありません。

仕事の報酬は仕事

本当にそのとおりだと感じました。

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臨床あるある(昔とった杵柄は要注意1)

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多かれ少なかれ経験している人は少なくないと思います。

昔とった杵柄
手続き記憶の活用
としてActivityを選択する。
あるいは認知症のある方から「やってみたい」「昔は好きだった」と言われて提供する。

ところが、実際にやってみたら
上手にできない。ほとんどOTRがやっている。表情も険しくなる。怒り出す。。。etc. etc.

認知症の状態が軽い方であれば、こういうことは少ないかもしれませんが
ある程度進行している認知症のある方には要注意なんです。
昔とった杵柄は意味がないというわけでは決してありませんし
病状が進行した認知症のある方はActivityができないというわけでもありません。
(HDS-R0/30点の方でも、いわゆる「意味のある作業」が遂行可能な方もいます。
個人的にはあんまり使いたくない言葉ですけど ^^;)

ただし、「要望を聞く」「やりたいと言ったことをやる」という観点でしか対応できないと
結果として、認知症のある方に逆効果を招きかねません。
(認知症という病態を考えれば当たり前のことなんですが。。。
このことに関しては後日詳述します)

認知症のある方は
一日暮らすだけでも、日々さまざまな困難に遭遇し
失敗体験や喪失体験を重ねていることも少なくありません。

プラスアルファとしてのActivityで
失敗体験や喪失体験の反復・強調体験を
たとえ、結果的にであったとしても、させてしまうことだけはないように
どんなに気をつけても気をつけ過ぎることはないと感じています。

ヒポクラテスが言ったように
「まず、第一に患者を傷つけないこと」

良かれと思ってスタートするのではなくて
悪いことをしないように気をつけながらスタートする

これは私の流儀ですから、別に周囲は関係ないのですけれど
昨今の風潮を眺めていると、ちょっと声高に言いたくなる時もあったりします (^^;

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第36回近畿作業療法学会でお話します

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平成28年11月13日(日)に和歌山県民文化会館にて開催される
第36回近畿作業療法学会の教育講演で
「認知症のある方のもう1つの言葉〜能力と障害と特性の把握〜」というタイトルでお話をします。

実行委員の方々の準備も佳境を迎えているのではないでしょうか。
おつかれさまです m(_ _)m

詳細はこちら
http://kinot36.umin.jp/index.html

近畿地方のみなさま
是非、お越し下さい。

あー言われてみれば本当にその通りだ。。。と思っていただけると自負しています。

口はばったいことを言いますが
基本的な考え方と事例を通しての具体的な説明をここまで明確に言語化していたり
作業療法士としての視点を明確にして認知症のある方に関与している作業療法士は
そんなにたくさんはいないと感じています。

MCIの状態の方から最重度の状態の方まで経験しているからこそ、
わかることがあり、伝えることができるのだと感じています。

明日からの臨床にすぐに役立つ
と同時に、もう一度根本的な考え方を問い直す。そんなお話ができればと考えています。

お会いできることを楽しみにしています m(_ _)m

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臨床あるある(折り紙は難しい:認知面)

作業に語らせる:輪くさり

昨日に引き続き
「折り紙はお年寄りには難しい」今日は認知面についてご説明します。

輪ぐさりのことについては、こちらでも随分前に書いていますが、
今日はちょっと違う側面から書いてみましょう。

折り紙の第一の特徴は、平面から立体に形作られていく。ということです。

私なんかは素朴にこの発想と思考に感嘆してしまいますが
本当に素晴らしいアイデアですよね。
風呂敷という布1枚で立体的な品物を包む。とか
同じ1つの部屋を、ある時にはお食事用、ある時には団らん用、ある時には寝室用と使い分ける
という発想と根底にどこかで繋がっているような気もします。

輪ぐさりは、工程そのものは少ないのですが
それでも認知症のある方には、なかなか難しいものです。
一番難しい要素が入っていると言ってもいいかもしれません。

作業に語らせる:輪くさり

作業に語らせる:輪くさり

目の前でやってみせても
見本をおいておいても難しい。
(こういう場合には、むしろ、そういうことをするから余計に難しくなると考えています)
輪ぐさりというイメージは残っているから
そのイメージ通りに作ろうとしても作れていないということはわかりますから
「あれ?」と首をかしげながらも、上2つの写真のようになってしまいます。

構成障害といって
空間の中での部分と全体の関係性および部分と部分との関係性を認識し再現することの障害があると
折り紙はとても難しくなってしまいます。
平面という二次元での認識・再現と立体という三次元での認識・再現をいったりきたりする能力が必要です。

それに加えて
遂行機能も必要になってきますから、「あれ?」と思った時に
構成能力と遂行機能が保たれていないと適切に修正することが非常に難しくなってしまいます。

輪ぐさりは折り紙の中でも工程数は少ないActivityですが
要求される能力は意外に複雑です。

鶴や奴さんになると
もっと工程数は増えてくるので
工程を身体で覚えている方はよいのですが
忘れてしまっていて構成障害が重度な方になると
隣目の前で一緒にやってみせても
認知症のある方は「同じように折れない」ということになってしまいます。

モチロン、このあたりに大きな障害のない方もいらっしゃいます。

私たち作業療法士は「作業のプロ」として作業分析ができることが強みです。
その方の障害と能力と特性が把握できる。
同時に、「ある作業」が要求する能力を分析できる。
それは、いろいろな疾患が呈する障害の種類と程度との関連性において視点を変えながらも分析できる。
ということをも意味します。

作業療法士という「人」だからこそ
瞬時に適切な「マッチング」をすることができるのだと考えています。

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