Category: よっしーずボイス(ブログ)

信頼の重み

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もしも
受け入れるチカラが
自分と他者への信頼にもとづくものであるならば
信頼の重みを改めて思う。

「認知症のある方は忘れちゃうから」「わからないから」
ごまかしたり、ウソを言ったりするケースもあるようですが
なんだかなーと思ってしまいます。

モチロン、そうせざるを得ない事情があったのでしょうし
それ以外の方法論が思いつかなかったからなのでしょう。

今のその場しのぎを
その場しのぎと自覚して行うのなら、まだしも
本来は推奨されるようなものではなくて
推奨すべきは、その場しのぎをしなくてもすむように
より適切な方法論を模索し提案できるようになることだと
考えています。

誰かを信頼する
信頼される
その関係性を継続するには努力がいるけど
失うのは一瞬
そして修復できる時間が残されていない場合だってある。

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信頼と受け入れ

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「ゲド戦記」のゲドが言ったんだと思うけど
「持つべき力は、受け入れる力」という言葉がある。
(そのゲドだって、苦闘したことが描かれてる)

受け入れるチカラって
究極は自分と他者への信頼にもとづくチカラのような気がする。

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もう1つの言葉

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認知症のある方とのコミュニケーションや対応の工夫において
言葉にだけ、頼らないことが大切

もう1つの言葉である「行動」と「声」

身体が発している言葉
身体で伝える言葉

もっと吟味されて
もっと洗練されて
もっと活用される余地がたくさんあると感じています。

どんな病気による認知症のある方でも
体性感覚は、かなり最後まで保たれているから。

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言葉には思考、声には感情

ちょっと待った

言葉には思考が
声には感情が
投影される。

ときどき、自分の使った言葉や声にドキッとすることがある (^^;

そんな風に思ってたんだ?私?
って (^^;

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多様性を育て受け入れる

我慢のしどころ

認知症予防の本質的な対策というのは
実は、自分の中に多様性を育て受け入れるチカラを
涵養していくことなんだと考えています。

病理学的には、脳の中にアルツハイマー変性があるのに
症状がまったく表面化しなかったという修道女のケースは
規則正しい生活や不摂生をしない等生活習慣病から遠い生活だった
ということもあるとは思う。

でも、本質的には
修道女として
他者の多様性を積極的に自らの内に取り入れ
寛容であることの意味を問い直す実践を通して
多様性を育て受け入れてきた
…脳の回路の多様化なんだと思う。

私にバリデーションを教えてくださった
ビッキー・デクラーク・ルビン先生が
「たくさんの鍵盤を弾くこと」とおっしゃっていたのと
同じ意味だと思う。

脳の萎縮や変性、損傷などは
長い人生で避けられないけれど
ひとつの回路が機能しなくなっても他の回路で代替できるように

でも
これは「言うは易く行うは難し」そのものだとも思う。
凡人の私にとっては、すごく難しい…。

それでもなお
対人援助職として
本質的に求められている在りようなんだ
とも思っています。

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能力に働きかければ能力を発揮できる

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さまざまな生活障害やBPSDは
結果として起こっていることだから
困難というカタチで現れているコトに
能力も障害も投影されている。

生活障害やBPSDという名前で呼ばれている
それぞれの行動だけをきりとって
どうしたら、それらをなくせるのか考えるのではなくて

生活障害やBPSDという名前をつけずに
それぞれの行動をよく観察して
投影されている能力と障害を把握すると
「イマ、ココ」をどんな風に認識しているのか
予想がつく

今ある能力に
どんな「環境」(場面設定、伝え方の工夫)を補ったら
認知症のある方と
私たちが
「イマ、ココ」を共有できるようになるのかを考える

その「環境」の工夫を
私と認知症のある方のいる「イマ、ココ」にそって
考えられるためには
何よりも先にまず障害と能力の把握が必要

そして
認知症のある方の能力に働きかける工夫を考える

私たちは援助することしかできない

能力に働きかければ
能力を発揮できる

その意味を
「イマ、ココ」にそって
具体的に考える努力って
実は、あんまり為されてこなかったと感じています。
だからこそ、これからの課題だと考えています。

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混乱なくできるように

我慢のしどころ

生活障害やBPSDの改善や
Activityの選択にしても
骨折後のリハや
食事介助においても
認知症のある方が混乱なくできるように
そういう方策を考えると
「結果として」諸々の困りごとが少なくなっていく。

過剰努力をさせない
できた!これでいいんだ!と実感できることをする
できることのできかたを良くしていく

そういう積み重ねが大切

いつだって
誰だって
能力は状況と程度によりけり発揮される。

要求されるコトの枠組みの中で
できることを模索する
混乱なくできるようになったら
できることのできかたがさらに良くなるように模索する

それは
時には辛いこともあるけれど
認知症のある方の
能力を探し、見いだし、発揮することの援助だから
とても嬉しく励まされる過程なんだよね。

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綺麗事だから回る

ちょっと待った

本当に凄い人は、本当に謙虚。

昔あるところで骨董屋を営んでいて
錚々たる人たちとおつきあいがあったという人が言っていた言葉
そして、私もその通りだと思う。

「心・技・体」
「真・善・美」

たぶん、どれかを追求すると
必然的に他の部分も引っ張り上げられるんじゃないかと思う。

時には、援助の視点でできないことがあったとしても
その立脚点を忘れさえしなければ
適切な対応というのに、近づいていけるんだと思う。

当たり前のように
「そんなの綺麗事で現実的じゃない」
って言う人もいるけど
それはその人が
綺麗事を追求したことがないから
体験したことがないだけの話。

本当に目の前にいる方の行動変容が起こる時には
「使役」じゃなくて「援助」の観点から
きちんとした評価に基づいた方法で関与した時。

綺麗事だって回る。
綺麗事だから回る。

目の前にいる方に真摯に向き合おうとしているのに
眼を閉じて耳をふさいでいる人から
閉鎖的な体験をもとに否定されて
辛い思いをして
自分自身も
目の前にいる方の可能性も
信じられなくなりそうになっている人にこそ
伝えたいし
伝えられるようになりたい。

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