Category: よっしーずボイス(ブログ)

流行り廃りに飲まれない

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私が子どもの頃には
買い物に同行するお父さん
ゴミ捨てするお父さん
運動会を見に来るお父さんは殆どいなかった。

でも、今お父さんでそういうことをしないという人は
少ないんじゃないでしょうか?
スーパーでは、若い男性だけでなく
家族連れや女性と一緒の中高年の男性も
よく見かけるようになりました。

私が若い時には
女性が一生働くのは当たり前のことじゃなかった。
結婚退職がまだ多い時代だった。
契約社員って
むしろ経済的に余裕がある女性が選べる働き方だった。

本当に時代は変わる。

リハの世界にだって、流行り廃りはある。
でも、その中で生き残るものって本質的なもの。

私が学生の時に主流だったもので
今はほとんど活用されていないものが複数ある。
今、主流となっているもので
将来も活用されているかどうかなんて、わからない。

逆に言えば
何十年か後の将来にも活用されているように
時代の吟味に耐えられるような
本質的な考え方と方法論を見いだして磨き上げていくことが
求められていることなんだと感じています。

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ツールは活用する

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世にさまざまな方法論がありますが
ツールはツールなのに
ツールが万能であるかのように喧伝されるのはどうかと思う。

世の中の多くの動きと同じように
リハの世界にも、流行り廃りがある。

ツールをツールとして活用できることは大切だけど
ツールを目の前の人に当てはめちゃいけない。

目の前にいる人の困難に遭遇した時に
自分の手にしているツールでは対応できないからといって
眼を背けていいのかな?

私は完全には困難の解消ができなくても
困難が少しでも少なくなるような方法を考えたいと思った。
そのツールで目の前にいる人の困難が軽減できないのであれば
軽減できるツールを求めたいと思った。
そして、その過程において
自分の目的としている在りようとの自己検証を繰り返した。

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できかたを良くする

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できることのできかたを良くする

認知症のある方の
さまざまな生活障害やBPSDへの対応の工夫を考える時に
私が重要視している視点です。

生きている限り、必ず能力はあるから
まず、能力を見いだす。
見いだした能力を活用できるように考える。
できることのできかたを良くしていくように考える。

認知症のある方の
手続き記憶を思い出し再学習する
その人自身の能力と特性を否定しない
使役ではなく援助
相互関係論であるICFと矛盾しない
等々の基本的な在りようと
具現化するための視点と方法論として
相互検証を繰り返して
耐え残ったものなのです。

単に良かった、結果が出た…ということではなくて
どこがどんな風に意義があったのか考え続けてきました。
自分はそうしたかった
もっと言うと
自分自身の在りようとして
納得した上で仕事をしたかったんです。

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食べさせても、食べられるようにはならない

我慢のしどころ

食べさせても
食べられるようにはならないどころか
逆効果にしかなりません。

無理矢理食べさせられたことによる
ネガティブな感情だけは積み重なっていくし
より一層誤った食べ方を身につけてしまいます。

今まで
さまざまな食べ方の困難を抱えた方に出会ってきました。

口を開けてくれない
ためこむ
吐き出す
口のまわりが食べこぼしで汚れる
うまく口の中に食塊を入れられない…etc.etc.

このような方に
どうやって「食べさせる」のかを考えても
「食べられる」ようにはなりません。

どうしたら「食べる」ことの援助ができるのかを考えれば
「食べられる」ようになります。

栄養をとっていただくために
脱水にならないように
そのための技術が
「食べさせる」「飲ませる」しかなければ
必死になってそうするしかないのだと思う。
「食べることの援助」「飲むことの援助」
という知識があれば
援助という知識と技術を求めることができる。

食事介助の困難改善の第一歩は
自分がどっちを向いているのか
軸足を、視点を、今一度明確に自覚する
…ことから始まります。

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講演@特養ほなみ

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今日は小田原市内にある
介護老人福祉施設 芳徳の郷 ほなみ さんで
「食事介助」に関する講演をしてきました。

介護老人福祉施設 芳徳の郷 ほなみ さんのサイトはこちら。
http://www.shofukai.com

昨年の「認知症のある方への対応の工夫」に引き続き
今年もお招きくださいまして、どうもありがとうございます。

私は、食事介助には本当にリキ入れて関わっていますし
1人でも多くの方に伝えていきたいことなので
このような機会を作っていただけたことに
深く感謝申し上げます。

勤務終了後のお疲れの時間帯にも関わらず
参加してくださったみなさま、お疲れさまでした m(_ _)m
みなさまがすごく集中してお話を聴いてくださったので
私もお話のしがいがありました。

認知症のある方の
介入前後のお食事中の動画を見ていただくことは叶いませんが
本当にたくさんの方の食べ方が良くなるので
そのことは是非1人でも多くの方に知っていただきたいと
思っています。

本当はスプーン操作の実技ができると一番良いのですが…。

特定の施設や団体の主催ではなくて
どなたでも参加できるような研修会が開催される時には
こちらでも告知しますので、是非ご参加をご検討ください m(_ _)m

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雷が好き

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どーでもいー話ですが (^^;

私は雷が好き。

稲光の光るさまを見たり
雷鳴が轟くのを聞くのが好き。

近くで雷が鳴ると
部屋の灯りを消して
カーテンを開けて見入っています (^^;

血沸き肉踊る…というか
エネルギーに溢れる…というか
雷鳴轟く中、稲妻光る空を見上げて雨に打たれたいくらい好き。
(絶対危ないから、絶対しないけど)

私が子どもの頃に比べると
雷の回数が減ってるような気がしてちょっと残念。

ひじょーに
どーでもいー話。でした m(_ _)m

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正しさではなく適切に

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認知症のある方への対応で
誤解されていることは諸々あれど
たとえば
「正しいケア」「正しい介助」

正しい…って、いったい何に照らしての正しさなんだろう?

正義や常識は
時代によって場所によって
異なっているし変化もする。

正しいケアでも
目の前の人に不適切な対応になることって
幾らでもある。

たとえば
「おみ足を上げてくださいませ」
という言葉は丁寧な言葉で
敬語で接するという意味では正しいかもしれないけど
生活歴の中で「おみ足」という言葉を
聞いたことがなかった人にとって
その言葉は適切だったんだろうか?

大切なことは
目の前にいる方の役に立つことであって
スローガン通りに実践できるようになることとは違う。

正しい=適切
というケースだってあるだろうけど
教科書に書いてある、あるいは研修で言われた正しいケアを
目の前の人に当てはめることではない。

適切かどうかは
その時その場のその関係性において
関わっている人が判断するしかない。

それだけの厳しさを対人援助職は背負っている。

その厳しさから逃れるために
正しさというお題目にすがってはいけない。

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理解ではなく表現を促す

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認知症のある方が大声を出したり落ち着かない時に
どういう気持ちなのか理解しようとする

そんな対応が多いようですが
あんまり効果的じゃないと感じていませんか?

実は
理解するよりも先に
どういう気持ちなのか
相手に表現してもらう方が先
なんです。

その結果
私たちが理解することができる。
ということなんです。

フツーに考えてみてください。

言いたいことが思うように言えない
という気持ちを抱えている時に
勝手に推測された対応をされることが嬉しいですか?
なんだかなぁ…とは思いながらも
相手に悪くてそれ以上は黙ってしまったり
ということがありませんか?

言いたいことが
言えるように
言いやすいように
聞いてもらった方が嬉しくないですか?

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