Category: よっしーずボイス(ブログ)

工程はActivityに語らせる


重度の認知症のある方でも
Activityを行える方はたくさんいます。

初めて行うActivityを紹介する時には
まず最初に完成品を見ていただき
完成品の用途を説明します。

ここで興味を持った方には
作り方の説明を実演しながら行います。
実演する時は通常通りに最初から行います。


 
例えば
幅広い状態像の方に適用可能なのが毛糸モップ
毛糸モップを例にとって説明していきます。

 

1)ハンガーの下に毛糸をくぐらせる

2)糸先を輪っかの中に入れる

3)糸先を引いて毛糸をハンガーに結びつける

 ここの工程をあえて省くことも多々あります。
 認知機能が低下している場合には省いたようが理解しやすいケースが多いです。
 自分がやることだけを覚える、余分なことは説明しないという意味です。
 ここを誤解している職員が大勢います。
 丁寧に説明しようと思って説明しすぎてしまうと
 認知症のある方に入力刺激が多すぎて混乱させてしまいます。

 認知症のある方へのわかりやすい説明とは接遇を尽くすことではないのです。

 

 

認知症のある方に実際にやってもらうことを通して
工程を説明していきます。
ここで最も重要なことは工程の最後から体験学習するということです。

 

1)糸先を輪っかの中にいれておき、糸先を引き絞る動作をしてもらう

まず、この工程を繰り返し体験してもらいます。
迷うことなく糸先を引き絞る動作ができるようになったことを確認してから
次の工程にうつります。

 

2)毛糸の糸先をハンガーの下からくぐらせてから
  糸先を輪っかの中に入れ引き絞るという2工程の動作をしてもらう

 

この2工程を迷うことなく行えることを確認したら
ひとつ遡って、毛糸をとるという工程を追加します。

3)毛糸をとる、ハンガーの下をくぐらせる、輪の中に糸先をいれ引き絞る
  という3工程を行なってもらいます。

この3工程を繰り返し行なってもらい
迷うことなく行えることを確認したら
次に糸先をそろえるという工程を追加します。

4)毛糸を取る、糸先をそろえる、ハンガーの下を潜らせる、輪の中に糸先を入れ引き絞る
  という4工程を行なってもらいます。

 * ここは細かく段階づけをしていきます。

 

   まず、糸先はそろえて、隙間を開けて置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   糸先をズラして、糸の隙間も開けて、置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸を少し丸めた状態で置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸を一本そのままの状態で置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   3本ほどの毛糸をまとめて置いておき
   そこから1本取って行えることを確認します。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸をまとめた状態にして置いておきます。
   ここまでできたら、困っていないか時々確認する程度の見守りをします。

 

 

  ちなみに
  アクリル毛糸同士ではなくて
  モヘアや綿とアクリル毛糸の異素材の組み合わせも素敵です。

  ただし、モヘアは軽くて細くてつまんでいる感覚が分かりにくいので
  そのあたり大丈夫な方が対象となります。

認知症のある方あるあるなのが
最初はできていたのに
途中で混乱してわからなくなってしまうケースです。
  
  その方にとって、何か注意をそらせるようなことがあった時に起こりやすい
  なので、私はあまりAct.中には話しかけないようにしています。
  一般的に「楽しく!」という思い込みによって
  「わいわいした雰囲気」を作り出そうとしたり
  おしゃべりをするケースも散見されますが
  そのような場面は実は注意集中を妨げやすい場面設定でもあります。
  もちろん、そのような場面設定でも注意集中が可能であれば良いのですが
  重度の認知症のある方の場合には周囲の環境という場面設定によって
  本来の能力発揮が妨げられることのないようにしたいものです。

途中で混乱してしまったり
トイレなどでいったん手を止めた後で
できなくなってしまった場合には
迷いなくできる工程まで戻ります。
この時に工程の最初に戻るのではなくて
工程の最後から確認していくことがポイントです。

工程の最後から
「こうしたらできる」
「こうやってできた」
という体験を繰り返し行うことで
できる、できた、という再認をすることが可能となります。

その上で1工程ずつ増やしていきます。
増やす工程そのものは「くぐらせる」「手にする」「そろえる」などの
かつて必ずどこかで行なってきた手続き記憶です。
その手続き記憶を新たな体験に統合する作業をしてもらうことを意味しています。

だから、段階づけは細かく行いますし
混乱したり、不安になったり、わからなくなってしまった時には
「できる」工程に戻って再認してもらっています。

ここまで、1回のリハの時間に行えたとしても
次に来る時には忘れてしまうことも現場あるあるです。

なぜなら、時間経過という時間干渉と
その間、さまざまな動作をしていたという動作干渉という二重の意味で
認知症のある方が忘れやすい状況に置かれるからです。

つまり、忘れてしまうのは仕方ないことなのです。

むしろ、初めてのActivityの工程を覚えているということ自体
素晴らしい能力発揮なのです。

手工芸をしていた方は、このような体験の統合が容易なことが多くあります。
たとえ、1−2分前の会話を忘れてしまう方でも
Activityの工程を覚えられることは本当にたくさんあります。

仮に、せっかく工程を教えたのに
忘れられてしまったからとがっかりする必要は全くありません。

忘れてしまったとしても
その方の行動パターンはこちらが把握できているので
工程のどこまで戻ったら良いのかの判断基準は手にしています。

もちろん、認知症のある方の体調変動によって多少の誤差はありますが
判断基準があるので提供するこちらの負担は初回ほど多くありません。

 

私は、Activityの工程を丁寧に言葉で説明を尽くし
「一緒にやるから大丈夫」とつきっきりで
安心させるような場面設定はしていません。
 
Activityの工程はActivityそのものに語らせるような場面設定をする工夫をして
認知症のある方が安心できるような場面設定をしています。
手も口も出しませんが、目だけは離さずにいる場面設定をする方が
認知症のある方自身の達成感を促しやすく
また、メタ認知やメタ体験としての達成感も得やすくなります。
そしてそのような体験ができるリハ場面そのものが
ポジティブな再認の場となるのでリハやActivityへの拒否が少なくなります。
 

 

もし良かったら是非お試しください。

ポイントは
・言葉だけに頼らず視覚的説明を活用する
・工程は最後から体験を通して理解してもらう
ということです。

認知症のある方への介助、援助、支援とは
接遇を尽くすということとは異なるのだと考えています。

  蛇足になりますが
  こう書くと必ず「接遇を否定した」と誤読する人がいるので念の為。
  私は接遇そのものは対人援助職として必要だと考えてはいますが
  接遇を尽くすことで認知症のある方の生活障害やBPSDが
  改善されることにはならない。
  私の主張は評価に基づいて対応を判断すべきということです。

 

 

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敬語奨励では解決できない問題

問題設定の問題、手段の目的化、手段と目的の混同って
リハやケアの分野で往々にして起こっていることです。

その一つが敬語問題だと感じています。
先の記事に絡めて少し補足を。

声かけの工夫について講演で説明すると
「よっしーさんのお話はその通りだと思うんですけど
 敬語を使わないと叱られるんです」という声をよく聞きます。

そのたびに
あぁ、またか。。。とガッカリします。

敬語を使うのは手段であって
敬意を示す、伝えることが本来の目的ですよね?

  もちろん、そういう方針の施設は
  「良かれ」と思っての善意からの方針なのだと思います。
  ですが!
  「地獄への道は善意で敷き詰められている」
  「地獄には善意が満ちているが、天国には善行が満ちている」
  という言葉がある通りに善意ほど恐ろしいものはありません。。。

認知症のある方に対して、
幼児に対するような声掛けをしないために
敬語を使いましょうという考え方はわからなくはありません。

でも、問題は2つあります。

ひとつは
幼児のような声掛けは確かに失礼なことではありますが
もしかしたら無自覚のうちに認知症のある方の言語理解力の低下を感受した職員が
分かりやすいように単語中心の声掛けを重ねていた
ただし、無自覚に行なっていたことなので説明できなかった可能性について
検討したことのある施設がどれだけあるのかという問題

もうひとつは
確かに敬語を使うように指導するのは
今すぐにできることの一つなのでしょうけれど
敬語を使うことを奨励するのではなく
敬意を自然と抱けるように職員を養成することについて
検討したことのある施設がどれだけあるのかという問題です。

問題設定を的確に行えないと
得てして解決策も表面的になりがちです。
そして、解決策が有効でないという結果になりがちです。
ここできちんと現実を観察・洞察できなければ
すでに起こっている問題を見逃してしまうことすら起こり得ます。

敬語を使うように奨励するだけでは問題の本質的な解決につながらない
という事象がすでに起こっているはずだと思います。
つまり、声かけが有効に機能しない、意思疎通困難な事例が増えたように見える
という事象です。
優秀な人は、この現実に気がついていると思いますが、
敬語使用によって問題が惹起されてしまうこともあるのだとは
認識できていないのではないでしょうか?

敬語の特徴として
婉曲な表現、長い文章表現という特徴
があります。

  「御御足を上げてくださいませ」という声掛けで理解できなかった方が
  「足、上げて」でちゃんと足を上げられた
   というケースがありました。
 
   丁寧に長い文章で伝えたのに
  「そんなに長ったらしく言われたってわかんないんだよ!」
   と怒鳴られたことがありましたって教えてくださったご家族もいました。

敬語は認知症のある方に理解しにくい言葉となってしまうこともあるのです。
(もちろん、理解できる認知症のある方も大勢いらっしゃいます)

また、
言葉としては確かに敬語を使ってはいても
強い口調で早口で大声で話す職員もいます。
当然、認知症のある方は怒りますが
 
  言葉ではなく、口調や早さや声量が伝えてしまう
  本当の感情、本音に対して怒り、理不尽さを感じているのです。
  言葉が伝えるコトとノンバーバルが伝えてしまうコトとの乖離に
  混乱する方だっているでしょう。

 
当の職員は(敬語を使っているが故に)
自身のノンバーバルな表現のマズさを自覚せず
認知症だからわからないという自身の誤認を強めてしまう。。。
現場あるあるではないでしょうか?

言葉は伝わって初めて言葉として機能します。
敬意を伝えるどころか
伝わらない敬語に、
言葉としての意味、声かけとしての意味が
どれだけあるのでしょうか。

真に検討すべきは
普通だったら幼児に対するような声掛けをするはずのない大人が
なぜそんな声掛けをしたのかについて
ひとつひとつの場面で具体的に本当は何が起こっていたのかを
事実を事実として振り返り検証する作業だったのではないでしょうか。

私の実践と提案です。

敬意は敬語を使わなくても伝わります。
敬意は言葉以外のノンバーバルな表現で伝えます。

  ノンバーバルな表現の伝える影響力については
  メラビアンの法則ですでに言われていることです。

 
その代わり、明確に伝えたい事柄はその方の理解力に応じて
必要であれば単語中心で伝えます。

もっというと
敬意の伝え方を意識するよりも
認知症のある方の能力を見出せるようになれば
どれほど頑張っているのかがわかり

自然に敬意を抱けるようになり
幼児扱いなんてできなくなります。
こちらの方が本来の在り方ではないでしょうか?

遠回りのようでいて
一番確実な方法だと思います。

認知症のある方への話しかける時の姿勢や距離の取り方や
間合い、声量、口調、早さ、表情。。。
ノンバーバルな表出には
敬意もそうでない感情も滲み出てしまいます。
そして、その感情は確実に認知症のある方に伝わっています。

逆に言えば
表面的に敬語にこだわりすぎる人は
肝腎要の敬意を抱いていないという本音を覆い隠そうとしているのでは?
という疑念を抱いてしまいます。
どこまで自覚的かはともかくとして。

そういう意味で考えると
施設の責任者が「敬語を使いなさい」と指導するのもわからなくはありません。
施設としての最低ラインを担保しようとしている表明にはなります。

ただし
働いている職員が敬意を抱けないのに表面的に敬語を使うのは
抑圧であり矛盾です。
現行不一致を要請しても長続きはせずに必ず感情が滲み出てしまいます。

敬語を奨励するのは対人援助職としての入り口としては良いと思いますが
敬語を使えばそれでよし。となってしまうとおかしなことになってしまいます。

誤解を避けるために敢えて書きますが
私は敬語を使うなと言っているわけではありません。
理解できる方には敬語を使っていますし
分離礼を用いて挨拶することもあります。
ただし、敬語を使えば問題が解決するわけではないし
敬語を使うことによって本質的な問題の抑圧・隠蔽につながりはしないか?
敬意を伝えるカタチを指導するのではなくて
敬意を抱けるような養成が先ではないのか?という指摘です。
 
諸般の事情で
敬意を抱けるような養成が先送りになっている場合に
施設としての最低ラインを担保するための敬語指導であったとしたら
ゴールではなくスタートとして課題設定する
次の課題として将来的に敬意を抱けるような養成について考えていて欲しいものです。

管理者が話を聞いてくれる人であれば
率直にそのあたりを提案してみるのも良いのではないでしょうか。

問題設定の問題、手段と目的の混同とすり替え
いろいろなカタチで現れています。

その具体例が
「なじみの関係を作って誘導に応じてもらう」という考え方・実践であり
「敬語を奨励する」という考え方・実践だと感じています。
「褒めてあげることが大事」というのもそうですね。

おかしいなと感じた時には
問題設定の問題に立ち返る
手段と目的を明確にすることで
問題の本質を把握し、真の解決への道を見つけられると考えています。

プロフェッショナリズムは実践でしか身につかない

プロフェッショナリズムは実践によって磨かれる

 

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○?✖️?誘導の声かけ

リハへの誘導に際して困っているという場合には
実は、認知症のある方の状態が把握できていないという
職員側の問題が「認知症のある方が誘導に応じてくれない」というカタチで
現れているというケースが圧倒的に多いのです。

認知症のある方の
体調(睡眠、疲労、覚醒リズム)はもちろん
近時記憶、見当識、視空間認知、言語理解力、特性などなどの把握

声かけの工夫をするに際して、最も重要なのは言語理解力の把握です。

  接遇は対人援助職として大切ではありますが
  ホテルマンのような対応が認知症のある方に適切というわけではありません。
  脳血管障害後遺症のある方にどんなに敬語を尽くしても
  それだけで機能が良くなるわけでもADLが改善されるわけでもありません。
  認知症も脳の病気ですから敬語を使用するだけで
  BPSDや生活障害が改善されるわけがないのです。
    
  敬語を使うのも大切ですが、敬語というのは得てして

  婉曲な表現、長い文章表現となりがちで
  認知症のある方には理解しにくいこともよくあります。
  言葉は届いてこそ、言葉。
  「敬語=良い」という思い込みは卒業しましょう。

ところが、案外現場で確認されていないのも言語理解力です。

言語理解力には量的側面と質的側面があります。
量的側面とは、一度に受け取る言語の多さ・長さ
質的側面とは、「援助の言葉と意思表明の言葉」の違いであり
       「目的の言葉と手段(方法)の言葉」の違いです。

   これらについては既に記事にしてありますので検索してみてください

目の前にいる認知症のある方が
どんな言葉であれば理解しやすいのか把握したうえで
意図的に言葉を選び、使い分けることが必要です。

当然のことながら
声をかける時には、どちらの耳が聞き取りやすいのか確認する
そして、聞き間違いも多いので明瞭に発音する
ことに気をつけるのは言うまでもないことです。

また、何を言うかだけでなく
自身の口調や声の大きさ、視線などのノンバーバルな表出もコントロールすべきです。

そのうえで
先の記事でご説明したように
その方が再認しやすいように
キーとなる言葉を探したり、視覚的情報を提供します。

つまり、誘導時の声かけとは
すべてがその方の状態に応じて
評価にもとづいて選択されるものです。

私が提唱しているのは
「認知症のある方がリハへ行くための援助」です。
決して、「認知症のある方をリハへ行かせるための方法」ではありません。

認知症のある方がリハへ行くための援助ですから
どのような援助が必要なのか
その根拠はその方の状態像、つまり、評価をもとに判断できます。
評価とは上記の工夫と表裏一体のものです。

そのような評価なしに
「毎朝訪室してなじみの関係を作ろう」として
良い結果が出なかった、誘導に応じてもらえなかった体験をしている人は
少なくないはずです。

しかも、どんな言葉を選ぶのか、その言葉をどんな風に伝えるのか
意図的に選択したうえで使い分けていなければ
効果が出ないどころか、逆効果になってしまいます。
「何か言ってるけど何言ってるかわからない」
このような体験を再認する人は「うるさいからもう来るな!」と言うかもしれません。
そして易怒的とレッテルを貼られる。。。
リハを拒否すれば「意欲低下、やる気がない」とレッテルを貼られる。。。
認知症のある方の状態も改善されず
一生懸命毎朝訪室していた職員もガックリして落ち込んでしまう。。。
誰にとっても良いことがありません。

ただし、今まで漫然と為されていた方法論が継承されてきたのには
きっと継承されるに足る、それなりの理由があったのだろうと思います。
例えば「なじみの関係を作る」であれば
軽度で職員に配慮できる方だから効果があったように見えた、ザイオンス効果という論拠がある、情報収集や評価に手間をかけずにすむ、、、などなどの。

そして
仮にあなたが「なじみの関係を作ったら誘導に応じてもらえた」としても
単なるハウツーとして用いるのであれば
短期的には良くても長期的には望ましいことはありません。
認知症のある方にとっても、あなたにとっても。

一事が万事
他の事象に対してもハウツー的な表面的な対応をする思考回路になってしまいます。
認知症のある方は表面的な拒否というカタチに
反映されている意思や能力や困難を読み解いてもらえず
表面的に従うように要請されることを受け入れることになってしまいます。

認知症のある方にとっても、
職員にとっても、
もっと良い対応があるのだから
リハへの誘導のために毎朝訪室して挨拶するなどの漫然とした方法は
もう卒業しませんか?

認知症のある方の状態を把握することに慣れていないうちは時間がかかります。
それは仕方のないことなのです。
今までやったことのないことをやるんですから。
どんなことであれ、誰であれ、
モノゴトを習熟するには時間が必要です。
(ただし、意図的な反復体験こそが必要で
 単に経験年数が多ければ良いということではない)

まず、自分のできなさから目を背けないことです。

近くにいる先達は
「こうすればちゃんとできるよ!」とやってみせることです。
そのうえで何をどうしていたのか言語化して伝えることです。

未熟な時は辛いけど
その時にきちんと一つ一つをおろそかにせず
経験を経験として積み上げていけば
  (ここをはしょると、なんちゃってOTになる)
必ず自分自身の評価の能力すなわち観察力も洞察力も
量的にも質的にも高まっていきます。

知識は必要だし、検査やバッテリーも必要だけど
対人援助職として生涯をかけて研鑽すべきは観察力であり洞察力です。

ナイチンゲールの言葉を紹介します。
「経験をもたらすのは観察だけなのである。
 観察をしない女性が、50年あるいは60年
 病人のそばで過ごしたとしても
 決して賢い人間にはならないであろう」

 

 

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Activity導入や誘導への工夫

アルツハイマー型認知症のある方は
どれだけ集中してどれだけ綺麗にActivityを遂行していたとしても
次の時には忘れてしまうことがよくあります。

言葉で具体的なエピソードを伝えても
再認できないことも多々あります。

そのような場合には
前回行っていた作りかけの作品や以前に仕上げた作品を持参して
「続きをやりましょう」と誘導するようにしています。

作品を見る、視覚情報として提示することで
過去の体験を思い出していただく試みです。

病状が進行すると視覚的な再認も困難になってきますが
少なくとも今目にしている、これをやるんだということは伝わります。
何をどうするのかわからない状態で誘導するのではなくて
これから行うことは今見ていることなのだと
視覚的に理解していただくことで
余分な不安を減らすことができます。

認知症のある方の誘導というのは難しいものです。
病棟からリハ室への誘導は、
リハスタッフ自身が行うところと看護介護職が行うところがあると思います。
リハスタッフ自ら行うところで働いている人は
誘導の大変さを実感していると思います。

逆に、看護介護職が誘導しているところでは
感謝の気持ちを忘れてはいけないと思います。
現場あるあるなのが
「誘導には拒否を示すけど
 行ってしまえば抵抗どころかノリノリで楽しむことができる」
というケースです。
入浴などでもよく見られることです。
「今いるところと異なる場所へ行く」ことへの不安を抱く認知症のある方はたくさんいます。
言葉での説明が説明にならず、言われたことが理解できない方や
言われても再認できないから自分ごとと思えずに拒否する方は大勢います。

認知症の症状や障害について
例えば近時記憶障害やエピソード記憶の低下、場の見当識障害、視空間認知障害といった言葉を知っているだけでは十分ではありません。
暮らしの中の場面場面においてどんな風に反映されているのかを観察することができて初めて知識が知識としての意味を持ちます。

そうでないと
「OT室でこんなに楽しそうにしているのに誘導に拒否を示すのは誘導の仕方が良くないからでは?」と誤認してしまいます。
そういうこともあるかもしれませんが、もし誘導の仕方が良くないのだとしたら
良い誘導をやって見せなくては。
やって見せてから
「〇〇という誘導のここが良くない。△△という誘導のここが良い。」
ということを説明できなければ。

なにごとも事実に基づくことが大事
認知症のある方へのリハやケアの分野では
旧態依然とした思い込みによって「今まで為されてきたことを検証することなく漫然と行う」ことが多々あります。
漫然とした対応から脱却するためには、事実を観察・洞察することと、それらが行えるようになるためには知識の習得が必須です。
ここで言う習得とは聞いたことがある、と言う意味ではありません。
概念の意味理解をきちんとできていると言うことが肝要です。
 (たとえば、幻視と錯視を混同している作業療法士はたくさんいます。
  そのような人の話はたいてい説得力がありません。
  私が尊敬する岩崎清隆先生は用語の定義をきちっとされています。
  細部をおろそかにしない人の話は説得力があります。)
概念の意味理解ができなければ見れども観えず、になってしまい
観察・洞察し損ね、その方の状態像把握をし損ね、適切な対応ができないどころか不利益になってしまうことすら起こり得ます。
臨床では、とても大切なことなのに疎かにしている人が多くて残念に思っています。

概念を理解した知識があれば
今目の前にいる方が誘導を拒否する必然を洞察できるようになります。
そうすると、
「無理矢理誘導する」ことも
「誉めておだてて言いくるめて誘導する」ことも、できなくなります。

  昨今の状況から、さすがに無理矢理誘導するような人は
  少なくなっていると思いますが
  その逆に褒めておだてて言いくるめるような方法はまだまだ多いと思います。
  やっていることは真逆のようでいて、その実ふたつの対応は
  「認知症=わからない」と思っている点ではどちらも同じです。

誘導に限りませんが
認知症のある方に言葉だけで対応の工夫をしようとすることには限界があります。
視覚的理解に働きかけることはかなり有効ですが、
あまり取り入れられていないようで本当にもったいないなと感じています。

  また、選んでいただく という時にも視覚情報を提示するようにしています。
  言葉だけで尋ねると
  「なんでもいいわ」「あなたが選んでよ」となってしまいがちです。

  毛糸モップの仕上げに使うリボンの色を選んでいただくときに
  「何色が良いですか?」と言葉で聞くのではなくて
  実際に複数のリボンを提示して毛糸モップの毛糸に合わせながら
  どの色が良いですか?と尋ねると
  「考える」「迷う」「判断する」ことができるようになります。

  考えてみれば当たり前ですよね。
  同じピンクでも緑でも、色の明度や彩度が違えば
  見た目の印象は全く変わってきます。

  選んでいただく時には、具体的に選べるようにしています。

誘導する際に再認に働きかける方法が有効であるためには
リハ室やOT室での体験をその方にとって有意義なものにする必要があります。

ちょっと痛い思いはしたけど終わったら身体がとてもラクになったとか
Activityに集中できて心地よい充実感を感じられたとか
なんだか居心地が良かったとか

再認は、ポジティブにもネガティブにも働きますので
ネガティブな体験しかできないリハ室やOT室であったとすると
導入する際に拒否するのは正当な意思表示でしかありません。

認知症だから忘れるだろう・忘れてるだろう・わからないだろう
なんてたかをくくっている人がいるかもしれませんが
とんでもないことです。
感情記憶は蓄積していきます。
体験を通して再認できる方もたくさんいます。
HDS-R3点の方でも視覚的情報の提示で再認できることもありました。

認知症のある方の能力低下なのか
能力を観ることのできない私たち職員の側の問題なのか

現場では、混同され、すり替えられ、思い込みによって誤認されがちです。

目の前で起こっていることを事実として観察する
「曇りなき眼で見定め」ることができれば
混同することも、すり替えることもなく
認知症のある方の能力を困難とともに目にすることができるようになります。

 

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Activityを拒否された時にどうするか:生活歴の聴取

2)マンツーマンで生活歴を聴取する
  :話をしやすいように事前の情報収集と聞き方に工夫をする
ということについて記載していきます。

完全にマンツーマンで対応するところで
ラジオ体操といっても実現困難なこともあるかもしれませんし
認知症のある方によっては、ラジオ体操でも拒否する方もいるでしょう。

そんな時には
生活歴を聴取すると良いと思います。

通常、私たちが認知症のある方に出会う場合に
事前に何らかの情報があることが圧倒的に多いです。
事前情報については必ず目を通しておきます。

現住所、出生、家族構成、職歴
これだけわかるだけでも会話の糸口になります。

現病歴だけでなく既往歴も重要です。
リハ中に体調不良の兆候を察知し即応できるためも必要です。
認知症が進行してくれば、てんかん発作が起こることもよくあります。
気構えがあるだけで対応がスムーズになります。

どこで生まれて
どんな風に暮らしてきたのか
小さな頃どんな風に遊んで
若い頃の趣味や仕事はなんなのか

ここでもポイントがあって
何をしていたのか尋ねるだけではなくて
どんな能力を要求されていたことなのか
を意識しながら聞いています。

目の前にいる方がどんな風に暮らしてきたのか
イメージできることがポイントになります。

そのためにも事前に
当時の時代背景や風物詩、ニュースや流行していたものを
知識として知っているかいないか、ということは大きな違いになります。
まずは、それらを事前に調べておく
その方の出身の名所・名産品などを調べておく
そんな努力は今すぐにできます。
その上で尋ねると、具体的に尋ねることが可能となります。

今はネットで知りたい情報にアクセスするのが容易です。
「認知症のある方でもできるレク」
なんて情報を知るために努力するのではなくて
(一時凌ぎ、時間稼ぎとしては、アリかもしれませんが)
根本的な情報収集にこそ努力する方が
短期的には手間かもしれませんが、長期的にはよっぽど有効です。
そうやって調べた情報が回り回って他の方にも適用できたりします。
そのような努力を蓄積していけば多面的に知識を増やせることになり
さまざまな方への対応に有効活用できます。

対話に際して、伝わり具合の実感の差となって滲み出るものです。

  認知症のある方に
  「昔はそういうものだったじゃない?」
  「みんな、そうだったよね?」
  「なぁ?」
  などと同意が返ってくることを確信されたようなお言葉を頂戴するたびに
  (えー私はその時まだ生まれていないんだけど)
  と思いつつも、内心ちょっとは嬉しかったものです。

その方のバックボーンに触れながら話を聞く
時には視覚的に情報を提供しながら話を聞く
(例えば、当時のニュース場面や風物の写真などを見せながら)
そうすると、いきいきと話をしてくださったり
広がりと深みのあるお話を聞くことが可能となります。

そして得られた情報は
今、この時、私自身が活用できる根拠となると同時に
認知症のある方が次に移る施設のスタッフにとっても有効活用できる根拠となります。

もしも、
認知症のある方にActivityを提供して拒否された時に
折り紙とか塗り絵とか手当たり次第に
漫然と「何かしている風」を装って「何かをさせる」のではなくて

人間としては、拒否されたことによるショックは受け止めても
プロとしては、拒否を情報収集の機会と捉えて次の手を打つ
ということが大切だと考えています。

何かする、していることが良いわけじゃない

していることに充実感を感じられるような
そして、することそのものに
自分が自分であることを再体験・再認識できるような
そんなActivityが提供できると
「できることをやらせる」
「徘徊しないようにできることを探す」なんてことはできなくなります。

そして
Activityの意味をその都度、対象化・抽象化・概念化する努力を重ねていると
作業療法とは何ぞや
ということを実感を伴って理解することができるようになっていきます。

  作業療法とは何だろう?
  それは考えることではなくて実践することです。
  結果を出してから、何がどう良かったのかという意義を
  固有のケースごとに具体的に考えることです。
  誰かと語り合うものではありません。

  パイロットがパイロットとは何だろう?
  なんて考えているでしょうか?
  同僚と語り合っているでしょうか?
  それぞれの考えは考えですけど
  まずは、自分の技量を高めることに日々努力しているのではないでしょうか?

Activityは本当に大きなパワーを持っています。
大きなパワーを持つものは、逆効果となった時のマイナスの作用も大きいものです。

認知症のある方に良かれと思って提供したけれど
結果的にであったとしても傷つけてしまったということはありませんか?

どうしたらそのようなマイナスとなることを回避できるか
 
「まず第一に患者を傷つけないこと」
ヒポクラテスの言葉の最初に書かれていると日野原重明は言っていました。
「患者は患者であるというだけで傷ついている」
そこから出発する。

認知症のある方に嫌がられたけど
この20分、どうしたらいいんだろう?
無理矢理させることはしたくない
そうしたら、何もできないで終わってしまった。。。
こんなので良いとは思えないけど
どうしたらいいのか、わからない
先輩に聞いてもわかったようなわからないような。。。
なんだか誤魔化されたような気がして納得できない

どこかでそんな悩みを抱えている人の力になれますように。。。
かつて一人でもがいていた過去の私が欲しかった答えです。

もうひとつ
生活歴を聴取する時には
マンツーマンでしっかり時間をとって聴取するだけでなく
ちょっとした時間でも良いから
何か体験をした後で、話しかけると良いのです。
体験の後で、その体験と関連するようなことを聞いてみます。

体験した後だと、再認しやすくなるので
関連する過去の体験を話しやすい状態になっています。

たとえば
ラジオ体操第一をした後に
「体操、お上手でしたね。
 お若い頃は運動得意だったんですか?」
そこで
「そんなこともないけど、陸上の選手だったんだよ」
と答えが返ってくれば
「選手に選ばれるなんてすごいじゃないですか!
 何の選手ですか?長距離?短距離?」
と話を広げながら聴くことができます。

もしも
「運動は苦手だったんだよ」
と答えが返ってきたら
「学生時代に得意だったのはどんなことですか?」
と聞いてもいいし
「学生時代に好きだったことは何ですか?」
と聞いてもいいし。

懐メロ鑑賞だったら
もっと話を広げやすいと思います。
「今の歌手は、〇〇ですよね」
と問いかけてその反応によって
「お好きですか?どんなところがお好きですか?」
「代表曲は△△と◇◇だそうですけど、お好きな歌はなんですか?」
と聞いたり、あるいは
「お好きな歌手は誰ですか?」
あるいは
「この歌、流行した歌だそうですけど聞いたことはありますか?」
と別の歌を視聴していただいてもいいですよね。
そうすると、歌にまつわる思い出を教えてくれるかもしれません。
そこに、その方らしさが反映されています。

また、
毛糸モップを作った後に
「お若い頃は編み物をなさっていたんですか?」と尋ねると
「そうよ。母がよくやってたから私もね。
 こたつの上掛けとか編んでたのよ。」とお答えしてくれたりします。
ここまで答えてもらえたら、いろいろと聞くポイントがありますよね。

スティーブ・ジョブズは、市場調査はしなかったけれど
モニタリングは、重要視していたそうです。
ユーザー体験の情報にはきちんと耳を傾けていたとか。

よくわかります。
心の底から同意します。

どんなActivityをしたいか尋ねるよりも
検討したActivityを提供してみてその結果を確認する
遂行の仕方、表情、Activityの結果、直後の感想 etc.eto.
ジョブズ風というわけではありませんが
私も「事後」を重要視しています。

 

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Activityを拒否された時にどうするか:戦略的待機

それでは、まず最初に
1)戦略的に時間稼ぎをする
  :拒否なく応じていただける別のActivityに誘導して機会を待つ
ということについてご説明していきます。

認知症のある方が拒否するにはするだけの必然がある
必然であって原因ではありません
ここが共感できることが大切です。

スティーブ・ジョブズは「意図こそが重要」と言いましたが
まさしくその通りで
本質を突く言葉は普遍的だと常々感じています
私たちの側の問題解決のために認知症のある方に何かさせようとすることと
  (無自覚であったとしても、
  診療報酬や介護報酬上20分間何とかうまくやれているようにしなくては。
  等のセラピスト側の焦りを解決しようとすることは多々ある)
認知症のある方が「たとえ認知症になったとしても自分自身は変わらない」
ということを再体験できた結果としてActivityに取り組めることは
見た目同じように見えてその実内面への働きかけのベクトルは真逆です。

そしてこの内面への関与のベクトルの向きこそが
無意識に伝わり作用していると感じています。

だから、困ることを恐れない
自分が困らないように、困ることを回避して言葉巧みに言い繕っても
その場は良いかもしれませんが
長期的にはメリットがないどころか、逆効果となってしまいます。

困っている自分に正直に向き合うことができて初めて
認知症のある方の予期不安にも共感できるようになります。
そこがスタート!
 
このスタート地点を間違えると自己修正ができなくなります。
経験を重ねた人の話でも、有名な人の話でも
抽象論ではいいことを話しても、具体論でいい加減な話をされると
納得できないですよね?
神は細部に宿る。とは本当にその通りだと感じています
 
そうなりたくなければ、スタート地点を揺るがせにしないことです。
人間だから諸般の事情で揺るがせてしまうことだってあるでしょうけれど
そうした自分を誤魔化さずに自覚することができれば
スタート地点に必ず戻ることができます。

くどいようですが、本当に大切で
なおかつ、臨床現場で揺るがせてしまうことあるあるなので記載しました。

そのスタート地点に立ってから
認知症のある方が拒否せずに行えそうなActivityから導入していきます。
その方の特性と能力から、〇〇というActivityが適切だろうなと判断があっても
その方が拒否されるようであれば決して無理矢理誘導したりしません。

この記事では詳しく触れませんが、
 認知症のある方の場合に「やりたいことをやってもらう」というのは
 困難なことが多々あります。
 詳細はこちらのブログでも過去に記載したことがあるので検索してみてください

その代わりに
次善の策として拒否なく行えるActivityに誘導して
そのActivityの遂行の仕方を観察・洞察・確認していきます。

たとえば
ラジオ体操第一は、認知症のある方にとって
手続き記憶として保たれていることが多いものです。

できれば
オープングループで(誰でも参加可能で出入りも自由な場)
体操の場を構築しておくと
認知症のある方が集団に埋もれることもできるので
失敗が目立たない、できなくても目立たないと感じることができて
誘導が容易で拒否されることも少ないものです。

また、懐メロ鑑賞も有用です。
歌わなくていい、聞くだけでいいところがポイントです。
歌は言葉にならない感情を喚起し味わうことが可能です。
聞いたことがある、思い出せたことがあるという体験ができるので
比較的拒否されにくいActivityでもあります。

体操も懐メロ鑑賞も
カタチに残るActivityではありませんが
運動する、見る、聞くという体験も立派なActivityです。
手工芸だけがActivityではありません。

ちなみに
一昔前には、「認知症=ゲーム、レク」みたいな風潮がありましたが
進行した認知症のある方にゲームは難しいActivityとなります。
ゲームを楽しむためには
1)説明されたルールを理解する
2)理解したルールを覚えている
3)ルールに従って行動できる
という条件をクリアできて初めて楽しむことができます。
アルツハイマー型認知症では近時記憶が低下していきますから
難しいですよねぇ。。。

私が今いる病棟では風船バレーも難しかったです。
どう動くかわからない風船を目でしっかり追い続ける
ということが困難な方が多いので
風船バレーの大前提が成り立たないのです
もちろん、軽度の方やゲームによっては遂行可能なものもあるでしょうけど
作業療法士としては、どんなゲームがどんな能力を必要とするのか
作業分析ができていれば、遂行の可否についても見当がつきます。

いずれにしても
対象者の方の特性と能力と、Activityとのマッチングがポイントです。

それから、大切なことは
「あぁ良かった。できることがあった」で終わらせずに
事後の情報収集が大切。
体操や懐メロ鑑賞の場面での参加の仕方をきちんと観察・洞察していきます。

自分の判断したActivityを直接は提供していなくても
間接的に適否の判断根拠の一つとなります。

異なるActivityは異なる能力を要求するので
遂行の可否や遂行の仕方に違いは生じて当たり前ですが
同時に、メタ能力というか、下支えしている能力は通底するものなので
どのように行うのか
という部分は、その方の特性と能力の大きな判断材料となります。

そして、その方自身が
「できた!」という体験を蓄積していくと
その方に応じて
「やってみようかな?」と思う気持ちが生まれてきます。
この機会をとらえ、逃さずに、働きかけます。

そういった関与がしやすいのが並行集団です。

おそらく、身障系の病院では期せずとも並行集団というカタチで治療がなされていると思います。
 同じ時間に同じ場所を共有していても
 個々の人によって異なることをしている
並行集団の中に身を置くことで
いろんな人がいるな、いろんなことをやるんだな
ということを見聞きすることを体験できます。
実際には認識されにくいようですが
この期間を猶予として担保できることも大切です。

他の人がやっているActivityを眺めるようになったり
やたらセラピストと眼が合うようになったりしたら
変化の兆しです。

他の人がやっているActivityの難易度が高すぎて
対象者には難しいと思われた時にも
該当Activityの多様な側面をよく認識して
当該対象者がそのActivityのどのような側面を好んでいるのかを判断すると
その方の特性に合致していて、しかも混乱せずに遂行できるように場面設定にも工夫した
Activityを選択・提供できるようになります。

最初からピンポイントで適切なActivityを選択できなくても良いのです。

認知症のある方が拒否するに足る必然があるように
私たちにもその時それぞれでの能力の限界があります。

自分自身のその時々での能力の限界を正直に受けとめられれば
認知症のある方の気持ちの揺れを受けとめ
その時その場でのその方の遂行を協働することが可能となります。

その都度のActivityが
私たちが理解の過程にあることを認知症のある方に象徴として伝えてくれます。

適切なActivityを選択し提供することができれば
その方の良い面を良い方向に理解し受けとめた象徴としてActivityが機能します。

関与のベクトルの向きさえ間違わなければ

経験が経験として蓄積されていきます。

Occupyを取り扱い、治療的に活用する作業療法士には
言葉以外のコト、行動や体験といったコトが
表現し、伝える、伝わる、ということに関して、
もっと明敏であることが求められていると思います。

 

・・・

次の記事では
2)マンツーマンで生活歴を聴取する
  :話をしやすいように事前の情報収集と聞き方に工夫をする
についてご説明していきます。

 

 

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Activityを拒否された時にどうするか:はじめに

先の記事で
「拒否は情報収集のチャンス」という記事を書きました。

認知症のある方が
拒否するには拒否するに値する必然があります。
(原因ではなくて必然です)

その中でも最も多いのが
「できない」
「わからない」
という予期不安から
Activity遂行を尻込みしてしまうというケースです。

私たち作業療法士が
認知症のある方に出会った時点で既に認知症のある方は
たくさんの失敗体験・喪失体験を蓄積してきています。

生活する、暮らすだけでも
失敗する。混乱する。不安になる。
どうするんだっけ?と朝起きてから夜寝るまでの間
考えながら暮らしていらっしゃいます。
 
私たちが考えなくても自動的に当たり前にできること
例えば、朝起きたら間違えることなくトイレに行き
パジャマの下衣を下げ、下着を下ろし、排泄し、清拭し、下着を上げ、下衣を上、手を洗い。。。

ある方は排尿後に
「ちゃんと出たね」とおっしゃいました。

私はトイレで「ちゃんと出た!」とは思いません。
ちゃんと出るかどうか迷ったり不安に思ったりしません。
確信を持って排尿しています。

また、ある方は
「カラオケ?私カラオケ好きよ。だって考えなくてもいいんだもの。」
とおっしゃいました。

あぁ、そうか。。。言葉にしなくても
暮らすだけでたくさんのことを考えながら暮らしているんだ
と思いました。

その都度その都度考えなくてはならないとしたら
「やる」ことに必死で楽しむどころじゃないでしょう。
「これ以上困ることなんてやりたくない」
と感じるのは当たり前なんじゃないかなと思います。

そう考えていくと
Activityへの導入も慎重にならざるを得なくなってくる

失敗体験、混乱体験、不安な体験とならないように
声かけや場面設定にも細心の配慮をしようと思うようになってくる

私たちの仕事は
「何かをさせる」ことではなくて
「何かをする」ことが目的でもなくて
「何かをした」ことは手段であって
「何かをした」ことで認知症のある方がプラスの体験ができる
ことにあると考えています。

「拒否されてどうしたら良いのかわからない」
という気持ちはわかりますが
これは問題設定の落とし穴なんです。

拒否されてどうしたら良いのかわからない
というのは私たちの側の問題であって認知症のある方の問題ではない。

私たちは認知症のある方の困難を改善するために仕事をしているので
解決すべきは私たちの困りごとではありません。
ここがいつの間にかすり替えられてしまうのが、臨床あるあるです。
問題設定が悪いから適切な答えが出てこないというのも、現場あるあるです。
だとしたら、適切に問題設定ができるようになれば良いだけなので
そこに立ち戻るべきなんです。
でも、なかなかそうはならない。。。

このあたりの混同・すり替えは、
いろいろなところでいろいろなカタチで起こっています。
あまりにも蔓延っているので、きちんと指摘できる人も少ないし
指摘した上で解決できる方策を示せる人もまた少ないので
善意はあってもモノゴトが解決できずに真摯な人ほど悩みまくる
という構図があちらこちらで散見されているのではないでしょうか。

認知症のある方の立場にたてば
何かをするより、しない方が自分にとってはプラスの時間
という意思表示なんです。

だとすると
目の前にいる方にとって
提案したActivityが

プラスの時間になると、
私たちが確信できるものを提案する

ということが前提条件となります。

  認知症のある方の場合
  「やりたいことをやる」というのが良い方向に作用しないことも多々あります。
  これも以前に書いていることですので検索してみてください。

ところが
この前提条件をクリアするよりも
「いろいろなことをやる方が良い」
「何もしないよりした方が良い」
「何かさせないと」
という思い込みがあって
「することのマイナス」については、あんまり検討されなくて
とにかく、できることを何でもいいから、させるように焦ってしまったり。。。
それで、塗り絵やら折り紙やらを提示したり。。。
しかも、幼稚な下絵で。。。
(この問題もすでにあちこちで指摘済みです。検索してみてください。)

  ちょっと話はズレますが
  認知症のある方の精神的疲労について
  あんまり検討されなくて、できるからって難易度を上げてしまったり。。。
  特に通所系の施設では、自宅での暮らしが豊かになることが本来の目的なので
  手段と目的を取り違えないように、
  質的にも量的にも頑張らせすぎないことが大切だと考えています。
 
なんとなく提供したActivityをやってもらえたりすると
あぁ良かったで終わってしまいがちですが
(本当は良い結果が出た時こそ、何がどう良かったのか検討する意義がある)
拒否されたら考えるようになるので
本当にチャンスなんです。

ただ、多くの場合に先輩に相談しても
「昔とった杵柄」や「毎朝の挨拶作戦」「なじみの関係づくり」「褒めてあげる」など
なんとなく継承されてきたことを言われるだけで
納得できたわけじゃないけど
自分では納得できる解決案が思いつかないのでそれ以外に術がなく
心の奥ではこんなんじゃいけないのに。。。と思いつつも
多忙な日々に流されていく。。。という人もいると思います。

4月からは先輩として後輩指導にあたることになって
内心ドキドキしている人もいると思います。

「破綻の危機は成長へのチャンス」
という中井久夫の言葉は、本来統合失調症のある方に向けた言葉だと思いますが
もっと広く一般化しても通用する言葉だと思います。

困ることは成長へのチャンスなんだからいいことなんです。
困ることすら、できない人になっちゃいけないんです。

作業療法士として
まずは、その方に有益だと確信できるActivityを選択できること
(具体的には、こちらでもたくさん記事を書いてきたので検索してください)
その努力から始めましょう。

その上で、提案したActivityを拒否された時にどうしたら良いのか
私がしているのは次の二つです。
 
1)戦略的に時間稼ぎをする
  :拒否なく応じていただける別のActivityに誘導して機会を待つ
2)マンツーマンで生活歴を聴取する
  :話をしやすいように事前の情報収集と聞き方に工夫をする

次からの記事でご説明していきます。

 

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ADLは再認を強化しやすい場面

ADLは
特定の場面で特定の行動を繰り返し行う
再認を強化しやすい場面でもあります。

また
食べる・立ち上がる・歩く
といった行動は、誰でも赤ちゃんの時から
繰り返し行ってきた究極の手続き記憶でもあります。

ここに
認知症のある方とリハビリテーションの可能性があります。

ただし、
再認は

ポジティブにもネガティブにも働きます。

立ち上がりや食事介助、口腔ケアなどの場面で拒否がある場合に
対象者にとっての必然として拒否があるのですが
その必然を観察・洞察せずに
表面的に、「拒否されないように介助しよう」という視点では
対象者のネガティブな再認を強化することになってしまいます。

「拒否されないように介助しよう」という視点は
私たち介助する側の視点であって
認知症のある方の視点ではないからです。

逆に言えば
強い拒否をする方でも
拒否の必然を洞察できれば
本来のその方の能力と特性を引き出し
結果として、拒否の改善・消失に結びつけられることが多々あります。

拒否の強い方は
過去の不適切な介助を再認した結果の意思表示
ということが多々あります。

だからこそ
今、適切な介助を、体験を通して
ポジティブな再認の蓄積を図る
意味があります。

ピンチはチャンス!

 

 

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