Category: ホントにあった体験談

結果から状態を観察し必然を洞察する:食事介助

非麻痺側のべた足歩き

私が他の人と違うところがあるとしたら観察の深度だと思う。

例えば
「ためこんで飲み込んでくれない」と質問する人は多いけれど
ためこみって、結果として起こっていることなんです。

食事をためこんでしまう方は
食べたくないからためこむ訳ではなくて
食べたくて食べようとして、でも食べられないケースが圧倒的に多いものです。

なぜ
ためこんでしまうのか、食べようとして食べられないのか
というと、圧倒的に多いのが舌の硬さです。
まるで、かまぼこ板のように舌がガチガチに硬くなっていることが多々あります。

舌が硬くなっているという状態の結果、
スムーズに送り込みができなくなり、ためこみという結果となって現れているのです。
じゃあ、なぜ、舌がそんなに硬くなってしまうのかというと
これは、十中八九、誤介助が理由です。
対象者の方に本質的な問題があるわけではないのです。
だとしたら、正の介助を行えば正の学習が生じます。
私たちが適正な介助を行えば良いだけなのです。
  
ところが、多くの人が「ためこみ」に困ると言いながら
「ためこみ」につながるようなスプーン操作、たとえば
スプーンを口の中に突っ込んだり、
上の歯でこそげ落としたり、
多すぎる1口量を口の中に「入れてあげる」等の誤介助をしているのです。

対象者の方は
食べにくさを感受しながらも必死になって食べようとした結果
過剰努力によって舌が硬くなり、
舌のしなやかな動きがなくなるので食塊再形成や送り込みができなくなる
食べたくても食べられず、結果としてためこんでいるのです。

誤解が生じないように敢えて書きますが
私は改訂水飲みテストを否定しているわけではありません。
実際、必要であれば改訂水飲みテストを行なっています。
でも、改訂水飲みテストはあくまでも「食べ方の評価」を構成する1検査に過ぎません。
同じ意味で嚥下造影や嚥下内視鏡も「食べ方の評価」の下位項目としての1検査に過ぎません。
検査は必要で意義もありますが、すべてではないのです。
(MMTをとっただけで歩行状態の評価ができるわけでないのと同じです)

その証拠に
上記の検査をしても、「どのように介助したら良いのか?」という問いが
解消されることはないのではありませんか? 

  「知は力なり」は真実だと思うけど
   こと、人に対しては「無知は力なり」じゃないの?って
   思ったことが何度もありましたっけ。。。
   でも、ちゃんと見ててくれる人もいたから救われました。

結果だけ見ているから、ハウツーを当てはめることしかできないし
結果を引き起こしている状態を観察できたとしても、知識がなければ
状態を引き起こす必然を洞察することはできないのです。

逆に言えば
状態を観察できるように知識を習得し
イマ、ナニが起こっているのかを洞察できるように観察すれば良いだけです。

食べようとして食べられずに困惑して
必死になって食べようとしているのに
その努力を不合理としか判断してもらえなかったり誤認されるだけで
的確に援助してもらえる人に出会えず苦しい思いをしている方が
今もまだたくさんいるだろうと思います。
そういう人が一人でも少なくなりますように。

そして、コトは食事介助に限らないのです。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/5026

必要なのは過程における自己承認

イメージ_木立の陽射し

学ぶということは変わるということ
変わり方は人それぞれ、その時それぞれであっても

一人前のセラピストとは
過程において自己承認ができて
結果において目標達成できる

ことだと考えています。

だから極論すると
臨床経験1年目から一人前のセラピストになることも可能だし
臨床経験30年の人でも一人前のセラピストとは言えない人だっていると思います。

多くの場合に
私たちは過程において自己承認ができるようには教わっていないから
一時的に他者承認が必要な時期もあると思う。
でもそれは将来、自己承認ができるようになるための前段階として。

いつまで経っても自身の考え方や実践に
「見通しが持てないなかでやってる」
「これで本当に良いのか不安」
と言ってるようではプロとは言えないと思う。
それってカタチを変えれば
予算立案の際に
「このくらいの予算でいいんじゃないかと思うんだけど自信がない」
って言ってるのと同じだからです。

予算立案と目標設定の類似性については
_前の記事「見通しが立たないからこそ目標を設定する」_に記載しました。

漠然と根拠もなしに「このくらいかな?」では自信がなくて当たり前です。
自信がないのは、「予算の確かさ」ではなくて
「予算の根拠」なので、ある意味自信がなくて当たり前です。
テキトーな根拠に自信を持たれたら困ります。
一つ一つの事柄をきちんと調べて確認してから
必要経費を計上していれば
「このような活動をこれだけの人数で行えばこのくらいの予算が必要」
と明確に言えるものです。

自分の実践に見通しが持てなかったり、不安ばかり募るというのは
結果的に生じている
ことで
本来、フォーカスすべきは、状態像の把握ができていないということなんです。
  やるべきことをやっていないのですから、不安で当然です。
  やるべきことをやっていないのに自信を持てる人は傲慢であり
  そのようなあり方は科学的態度から最も遠い在り方です。
  不安や困難を自覚している人はまだ成長の可能性があります。
  自身の不安や困難を否認して自身が困らないことを優先する人は

  どうしようもありません。
つまり、論点のすり替えが起こっていることに無自覚なことが問題なんです。
だから、自己修正ができない。
問題設定の問題なのです。

予算を立案するために、一つ一つの事柄をきちんと調べて確認するのと同様に
対象者の状態像を把握するために、障害と能力を一つ一つ明確化していけば良いだけなのです。

ところが、
障害と能力の明確化という過程を
案外、ちゃんと教わってこなかった、学んでいなかった
 ということに
ここにきて初めて気がつく人もいるでしょう。
いくら、すべきと教わった検査をしても
それだけでは状態像の把握に結びつかないことに直面する
からです。
愕然とすると思います。
じゃあ、どうしたら良いのか?

障害に関する基礎知識を学び直し
今、できていないことがどんな風に困難なのか
今、できていることがどんな風にできているのかを
よく観察することです。
  状態像の把握ができていない人は十中八九、観察ができていません。
  できていると思っている人でも実はポイントほど見逃しているものです。
今は良いデバイスがありますから、
対象者と職場の許可を得て録画しましょう。
そして何回も繰り返し見直すのです。

本当は、ここでちゃんと教えてくれる人がいると良いのですが。。。
 この行為は、こういう能力があるからできる
 一方で、こういう障害を代償している側面もある
 この発言は、こういう能力があるからこそ出てくる
 一方で、こういった障害の恐れもある
などとちゃんと解説してくれる人がいると一番良いのですが
近くにいなければ、覚悟を決めて自分でやるしかありません。
「読書百遍義自ずから通ず」は、本当です。
繰り返し録画を見て観察しましょう。

最初は
「何を」「どこまで」観察するのか皆目見当もつかないかもしれません。
自分が何に困っているのかわからないから
観察のポイントもわからないのです。
そんな時に助けになるのが目標設定です。
目標を目標というカタチで設定できるまで観察します。
その過程において確認すべきポイント、
今まで自分が曖昧にしていたのに気がつけないでいたポイントに
自分で気がつけるようになります。

観察できるようになれば
目の前にいる対象者の方に「イマ」「ナニが」起こっているのかを
洞察することができるようになります。
障害がどのように現れ、その障害を代償しようとした結果
能力が不合理に発揮されていることが手に取るように分かるようになります。
だから、どうしたら良いのかが「結果として」浮かび上がってくるのです。
過程をすっ飛ばして「結果」が得られることはありません。
無意識には本当はわかっているからこそ、不安になるのではないでしょうか。

真摯に向き合っているからこそ
「対象者の方に」どうしたら良いのかという悩みが出てくると思います。
でも本当は
「自分が」どうしたら良いのか悩むべきなのです。
ここでも問題設定の問題が起こっているのです。

目標設定について
定義や自己トレーニングの方法について
こちらのサイトにまとめてあるので良かったらご参照ください。
 
遠回りになるかもしれませんが
逆に言えば、遠回りしたからこそ深く知見を習得することも可能と言えます。
逆に、教えてくれる人がいたとしても、
その人の技量が未熟であれば不適切な知見を得る恐れだってあります。

「ちゃんと教えられる人」って実はそうそういないのが現状でもあります。
もし身近に「ちゃんと教えてくれる人」がいたら
その人は本当に良い人です。
良い人に出会えたことを感謝して大切にしてください。

そうでない人は
「ちゃんと教えられる人」がいないのが通常だと思って
覚悟を決めて自分で自分をトレーニングしていきましょう!
そして自分自身が誰かに「ちゃんと教えられる人」になりましょう。

曖昧な部分を自分が自覚できるからこそ
曖昧な部分の明確化が可能になります。
(まさしく、予算立案と一緒です。)

一つ一つの明確化、地道な努力の積み重ねによって
根拠の確からしさを説明できるようになれば
結果として、過程における自己承認ができる
ようになってきます。

繰り返しますが
手段と結果として起こることを混同してはいけないのです。
自身の実践に見通しを持てなかったり、不安を抱いている場合に
実は問われるべきは実践の確からしさではなくて実践に至る過程での明確化なのです。

より良いOTになるために
より良いOTを育成するために
最も重要なメタ過程というべきこれらの過程を
卒前卒後でどのようにして連携しながら養成していくのか
私たちは大人ですから、個々の課題だとも言えますが
そうも言っていられない現状もあるのではないでしょうか?
  

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/5023

見通しが立たないからこそ目標を設定する

目標設定が難しいのは、
「対象者の状態像がよくわからない」とか
「やってることの見通しが立たない」から
と言う人もいるようですが、それはまったくの誤解です。
  
「よくわからない」
「確信が持てない」
だからこそ、目標を設定するのです。

目標こそが羅針盤なのですから

予算を立てるのと一緒なんです。

私はかつて
神奈川県作業療法士会の県学会の広報部長をしたことがあります。
そこで、まず最初に予算案を立案するように言われました。
それを聞いてまず思ったことは
「学会の仕事なんてやったこともないのに予算なんて立てられない」でした。
でも、それは間違いだったんです。
やったことがないからこそ、予算を立案するんです。
(別に記事にしますが、通常、納期と予算のない仕事はありません)
  
予算を立てるためには「このくらいかな?」というような当てずっぽうではなくて
ちゃんと正当性のある見立てが必要です。
学会そのものの目標として参加者数の設定がありましたから
それだけの方に来ていただくために
どんな広報活動を展開するか、
どこでどんなことをするか、
その活動に必要な人数と物品は何か
具体的に考えて、一つ一つを確認して
(例えば活動してくれる人の交通費を確認する)
具体的に明確化していく作業が必要です。
これって、カタチは違えど、まさに目標設定の過程そのものです。
突発的なこと、新たに新規活動を組み込む必要が生じた場合などは補正予算を組みます。
想定外で状態像や環境の変更が生じた場合には目標を設定しなおすのと同じです。

つまり
適切に目標を設定しようとする過程において
自分がするべきことが明確化され、実践することが要請される

ということなのです。

目標とは
その人に「必要」で「達成可能」であり「行動」で示される
ものです。

必要」なことを明確化することは難しくないと思いますし
(身体面なのか認知面なのか情緒面なのか環境設定の工夫なのか)
行動」で表現するということは明らかにセラピスト側の技術の問題ですので
これはセラピスト側がトレーニングによって解決すべき部分です。
問題は「達成可能」というところです。
ここは、『現在の』障害と能力を明確化できないと判断できません。

誤解している人が多いのですが
いくら検査をしてもそれだけでは『現在の』障害と能力を把握することはできません。
検査と評価は違うのです。
ところが、「検査=評価」と誤認している人はヤマほどいます。

適切に目標を設定しようと意図した時に
あるいは、目標を適切に設定できているかどうか確認しようとした時に
根拠となるのは目標の定義であり
目標というカタチになっているかということになります。

 
必要なことを行動で表現しようと意図すれば
達成可能かどうか、現在の障害と能力を把握する上で
自信が未確認な箇所や曖昧にしていた箇所が浮かび上がってきます。

予算を設定する時とまったく同じなのです。
あとは、浮かび上がってきた曖昧な箇所を明確にすれば良いだけです。

適切に目標設定することができないという場合
「なんとなくわかってるんだけど言葉にするのは難しくて」
という言い方をする人は多いのですが
本当は、「言葉にするのが難しい」のではなくて

「対象者の現在の障害と能力がなんとなくしかわかっていない」
「自身がわかっていない箇所がわかっていない」のです。
だから、先へ進めない。
だとしたら、曖昧な箇所を明確化すれば良いだけです。
その時に力になるのが、目標という『カタチ』で設定することなのです。

   このような現状を招いた一つとして
   皮肉なことに「やること」の知見が集積されてきたことの

   マイナスの側面があると思います。
   脳血管障害後遺症の方には、〇〇と△△をやる
   大腿骨頸部骨折術後の方には、〇〇と△△をやる
   廃用の方には、〇〇と△△をやる
   帰宅願望に対しては、気持ちを逸らす
   といったような言説は巷にあふれています。
   そしてまた、それらの結果、

   できなかったことができるようになったりするので
  「やってよかった」という判断になり、

   振り返りが為されにくいという状況が生まれます。
   だから、ハウツー的思考回路や方法論に対象者を当てはめるような思考回路
   評価と治療が乖離している現状が生まれるのだと思っています。

『現在の』障害と能力を明確化するところで
自身が行き詰まっているということがはっきりしたのだから
自身の行き詰まりを明確化する
わかっていることとわかっていないことを明確化し
わかっていないことをわかるようにすれば良いだけです。

   余談になりますが
   現在の実習指導CCSで最も欠けているのがこの過程です。
   臨床で最も重要なメタ過程とでもいうべき
   自身の思考過程の明確化という体験学習ができない
   という点が非常に大きな問題だと考えています。

ところが、多くの人はその過程に立ち戻ることをせずに
(実習で体験していないからできようはずがないとも言えます)
放置したり(目標と方針と治療内容が同じ文言)
対象者のせいにしたり(認知症のために目標の共有困難)
言い訳をするのです(そのうちわかるよ)

でも、本当は
そのような自分自身に内心忸怩たる思いを抱えているのではないでしょうか。
ただ、どうしたら良いのかわからなくて
次の一歩を踏み出せないのではないでしょうか。
モヤモヤした気持ちを抱えながら、なんちゃって目標を設定するというのは
相当辛いことだと思います。
辛いからこそ、今度は「目標なんて臨床ができさえすれば関係ない」とばかりに
表面的に為すとされたことだけしていく
現行流布している方法論にしがみつく
という在り方に舵を切るしかないのかもしれません。。。

だけど、それは砂上の楼閣なんです。
ことは目標設定にとどまらない。
セラピストとしての在り方の根幹に関わる
ことなんです。
困難に遭遇した時に
「そのような状態は対象ではない」
「認知症が重度だから無理」
「言動に迎合し再学習に向き合わない」
といった対応をするということと全く同じです。
概念の本質を理解しようとせずに表面的な対応に終始する。
「個性尊重」「その人らしさ」を声高に唱えながら
やってることはハウツーに当てはめてるだけ。。。
まさに、一事が万事というわけです。

目標設定そのものが適切に行えるということ自体、重要なのですが
その過程を通して、下支えしているメタ認識のトレーニングにもなっている
という二重の意味で重要なのです。

目標は「その人がやりたいこと」を設定すれば
目標設定の困難さが解消されるわけではありません。
(やりたいことを尋ねることには意義がありますが)
むしろ、問題の本質をすり替えられ抑圧され
短期的には問題が軽減したように見えて
長期的にはさらなる困難を作ってしまった
ように思えます。
  
事実、認知症のある方の場合に
「やりたいこと」を言語化できなかったり
「やりたいこと」ができなくなっているケースは多々あります。
   疾患特性から「同じコトを違うやり方でする」工夫は
   成立しないどころか更なる混乱を引き起こしますし
   表立った混乱がなかったとしても
   「セラピストの脳が認知症のある方の手を動かしている」という
   事態を引き起こすことは多々あります。

   結果として「できた」かもしれませんが
   本当に「意味のある」体験だと言えるでしょうか?

   
目標設定で悩んでいるセラピストは本当はたくさんいるはずなんです。

卒前の養成過程では提供すべきとされた知見が激増し
卒後の養成過程では報酬請求と書類記載と出席すべき会議の量に忙殺され
資格取得をゴールと考える人たちが増えてきている状況において
現状改善のためにどうしたら良いのか?
と真摯に悩む人もまた人知れずいるのだと思います。

目標設定で悩んでいる方は、_目標設定_ をご参照ください。
必要であれば、研修会講師をご依頼ください。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/5021

目標設定は技術である

目標設定は技術です。
技術なので、トレーニングが可能ですし、習得も可能です。

「目標設定をうまく教えられない」という人は
1)概念が理解できていない
2)技術をトレーニングするために必要な要素を明確に認識できていないのだと思います。
だとすれば、明確に認識するようになれば良いだけですし
自分でトレーニングしようとする人は意識すれば良いだけです。

1)については、_前の記事_で示したので
ここでは2)について記載していきます。

ポイントは、段階づけと反復学習です。

骨折術後の人に歩行練習をするに際して
いきなり、杖歩行を練習したりはしないと思います。
段階を踏んだ、リハプログラムを提供すると思います。
子どもに料理を教えようとして
いきなり、材料を提示して「ほら、作ってみな」とは言わないと思います。
まずは、工程の少ない献立を選んで
一緒に作るという場を共有し説明しながら作ると思います。

まず、最初に
「目標設定は思っていた以上に難しいものだ」
「自分はちゃんと設定できていない」
という事実に向き合うこと、認識を共有化する
ことから始めます。
 
次に、概念の理解を細かく段階づけしながら体験学習をしていきます。
判断の根拠は、目標の定義
です。

   「周囲の人がそう言うからそうだと思う」
   「以前に先輩がそう言っていたから」ではなくて
    自らが納得して判断できるように根拠としての定義を示すことが大切です。

 
その都度、目標の定義に立ち戻って体験学習を進めていきます。
教える過程において、細かく段階づけができるということは
教える側がどれだけ概念を明確に理解しているかということと関連
します。
概念の本質を理解するということは大切で大変なことだと認識している人は
これらの一連の過程を丁寧に提供することができると思います。
逆に、概念の本質を理解することをすっ飛ばして
手っ取り早く実際的な事例をもとに目標設定させようとする人は
教える側が「自分はよくわかっていない」と言っているも同然なのです。
そして、そういう人が目標と目的と方針と治療内容を混同させて設定したりするのです。
それを聞いた人は、頭の中が「?」マークでいっぱいになっても
どこをどう尋ねたら自身の疑問が解消されるのかがわからないから
質問することもできず、わからないからわかるように教えて欲しいと言えず
次のステップに進まされ表面的に課題をクリアすることを考えるようになってしまいます。
これが現状なのではないでしょうか?

  先日、とても面白いYouTubeを見ました。
  「バレーボールでレシーブの技術を磨く」
  「どうしたら素早くボールの下に入れるか」
  というテーマで、課題分析とトレーニング方法について説明していました。
  知識提供→できることのステップアップ→遂行困難→一つ前の課題をトレーニング
  という展開でとても納得できる説明でした。
  判断の基となる「見る」ことから始めて
  必要な能力の統合を丁寧に段階的に練習していく方法でした。
  新規事象の学習において、あるいは再学習において
  頭でわかったつもりでも実行できないということは必ず起こります。

  私たちは対象者の行動変容を促すことが仕事なので
  この過程を自身でも体験しておくことは有意義なことだと思います。
  知るー理解するーできる は違います。
  納得できたからといって、すぐに習得できるわけではなく
  地道な反復練習が必要ですが
  「そうだったのか!」「やってみよう」と希望を抱くことができる内容でした。
  コメント欄も「知らなかった」「すごくわかりやすかった」「やってみる」
  というコメントであふれていました。

  バリデーションを学んだ時にも反復練習の重要性を体感しました。
  課された課題を自身と対象者で実践、ビデオに撮ったものを
  受講生で観ながら講師のコメントを聞くという展開がありました。
  同じテーマを異なる対象者と異なる実践者で幾つものパターンを観ることで
  テーマの理解が深まることを実感しました。

 

目標設定のトレーニングも同じです。
概念を明確に言語化して提示
概念を知る→理解する→使える と段階づけて体験学習
していきます。
最初から、リハのケースを使ってトレーニングしない方が良いです。
概念を明確に理解できた後で、実際にリハでよく遭遇する事例をもとに体験学習していきます。
すると、この過程において、実際的な疑問が生じます。
実際的な疑問は、実は概念をより深く理解することと関連していますので
(例えば、基準と条件がどう違うのか?など)
その観点に立って、説明し体験学習するように促します。

詳細は、_目標設定_のページをご参照ください。

つまり、
目標設定を適切に行える
目標を目標というカタチで設定できる
ということは、徹頭徹尾、目標の概念理解ができているかどうか
が問われるので
段階づけてトレーニングすることが必要
ということを意味しています。

行動のカタチで表現できるようになるためには
行動とは何かという概念理解が必要で
その上で段階づけたトレーニングが必要
です。

言い換えれば
段階づけたトレーニングができるためには概念の明確な理解が必要で
概念を明確に理解するためには段階づけたトレーニングが必要なのに
現状では
これら一連の過程をすっ飛ばして
目標の定義を伝え
次に仮想事例で目標を設定させ
当然、的確なフィードバックがなされない。。。
これで「ちゃんと目標設定しろ」という方が無理でしょう。
問題の本質は、技術をどう習得させるか、という『トレーニングの問題』でもあります。
つまり、
対象者の行動変容の促し方」そのもの、
『リハの臨床能力そのものの土台』の問題
でもあります。

目標設定が適切にできるということは、二重の意味で重要なのです。

目標設定は本来「ちゃんとできる」人が教えるべきですが
残念なことに臨床家でも教育家でも
ちゃんと目標設定できる人は少ないのが現実です。
ですが、自己学習も可能です。
_目標設定_のページで自己学習の方法も展開していますし
第6回神奈川県臨床作業療法大会が12月8日(日)に開催されます。
そこで_「なんちゃって目標からの卒業ー自分自身に問い直すー」_
をテーマにお話をさせていただきます。
まずは、一度お話を聞いてみてください。
眼からウロコ、モヤモヤがスッキリすることが多々あると思います。
また、大会そのものが斬新な取り組みを多数検討されているようですし
ぜひ、ご参加をオススメします!
詳細は、公式ウェブサイトの他、XやInstagramをご確認ください。

さて、臨床家にとって大切な目標設定
対象者の状態の見通しがわからない、ということとは別問題
むしろ、わからないからこそ、目標設定することに意義があります。
これは次の記事で述べていきます。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/5016

目標を目標というカタチで設定する

目標設定について
養成校でも臨床指導者からも職場の先輩からも
概念理解と技術面の両面をきちんと教えてもらったことのある人の方が
少ないのではないでしょうか。

目標を目標というカタチで設定できることが非常に重要なのに
目標設定なんて簡単とか
目標設定が曖昧でも臨床をちゃんとやってれば問題ないとか
思われてるんじゃないかなーと思います。

たとえば
・「活動に参加を促す」
・「現状維持」
また、下記のような実施計画書を見たこともありました。
・「目標:関節可動域の改善・筋力の改善 
  方針:関節可動域の改善・筋力の改善  
  治療内容:関節可動域訓練・筋力増強訓練」
・「認知症だから目標を共有できない」として目標の欄が空欄

これら「なんちゃって目標」がまかり通っているのは、現場あるあるです。
「あ、自分もそうだ」と思った方は
後輩や学生に指導するときに説明できなくて内心困ったことがあるのではありませんか?

でも、ちゃんと説明できなくて
「言葉にするのは難しいけどそのうちだんだんわかってくるよ」とか
「だいたい良いんじゃない」とか
言ってしまったことがあるのではないでしょうか?

内心、モヤモヤとした気持ちを抱きながらも
日々の忙しさに紛れて後回しになってしまい、そのままになってしまったとか
職場の先輩や友人に相談したけれど納得のいく答えがもらえなかったこともあって
そのままになってしまったということだってあるのではないでしょうか。

「冒頭のなんちゃって目標のどこが悪いのか、わからない」という人は
ちゃんと教えてもらえる機会がなくて
「目標とは何ぞや?」ということをわかっていないのです。

ぜひ、こちらのサイトの_目標設定について_を読んでみてください。
きっとお役に立てると思います。

少なくとも
「これは目標だ」「これは目標じゃない」と
目標とそうでないものの区別がはっきりとつくようになります。
つまり、目標の概念を明確に理解できるようになります。
概念の本質を理解する体験ができるのです。

この体験はとても重要です。

臨床で最も重要な観察・洞察を的確に行えるようになるために
自身の内なるものを科学的であるように涵養していくための
最初の出発点は概念の本質を理解することだからです。

誤解している人が多いなーと思うことは
「科学的=多数の論文を読む」
「科学的=最新の知見を多数知っている」
「科学的=理論を使用している」
ことだと思っている人の多さです。
もちろん、それらの努力を否定はしません。
しないよりはした方が良いでしょう。
でも、多数の論文をいくら読んだって、
最新の知見をいくら知っていたって
いくら理論武装したって、
肝心の目の前にいる対象者の方が良くならなければ意味がありません
 
ここが重要なんです。
私たちは臨床家ですから臨床能力を高めるための手段として、
論文を読んだり最新の知見に触れたり理論を学んだりするのであって
それらが目的ではありません。
(私がよく言う、手段の目的化が起こっているのです)

かつて、「OTは科学的じゃない」という批判を受けた時に
おそらく、焦ってしまって努力の方向を間違えてしまったのだと思う。

だから、多数の検査をしても
目の前にいる対象者の方の言動から障害と能力を観察・洞察し損ねてしまう臨床家や
検査はしても、その結果を対応や治療に活用できない臨床家が
多いのではないでしょうか?
 
その証拠に
HDS-Rをとっても、その結果を声かけの工夫に活かせない臨床家が多すぎです。
HDS-Rをとることが目的化してしまい、どのように日々の臨床に活用するのかという
観点が欠落し、肝心の実践が為されていないことが多々あります。

立方体透視図模写テストや五角形模写課題をしても
「構成障害とは何ぞや?」という問いに明確に答えられなかったり
トレイルメイキングテストをしても
「遂行機能障害とは何ぞや?」という問いに明確に答えられなかったりします。
そんな状態で認知症のある方に
何が起こっているのか観察も洞察も出来ようはずがありません。
だから「〇〇という人にどうしたら良いの?」というカタチの質問が
あふれかえる。。。
 
評価と治療が乖離している

ハウツー的対応が跋扈するわけです。

その方に対して何をどうしたら良いのかは
その方に今、何が、起こっているのかを洞察できれば
自然と一本道のように浮かび上がってくるものです。

どうしたら良いのかと
考えたり、悩んだりする時点で
状態像を把握できていないということを示しています。

この時すべきことは
どうしたら良いのかを人に尋ねることではなくて
対象者の状態像把握に立ち戻ることです。
状態像の把握ができるためには観察・洞察することです。
観察・洞察ができるためには知識が必要です。
知識というのは
「構成障害という言葉を聞いたことがある」
「構成障害は立方体透視図模写テストをして確認する」
ということではなく、
構成障害という概念の本質を理解できていることが求められます。

目標設定もまったく同じなんです。
 
「目標とは何ぞや?」ということが理解できていないのに
適切に目標設定ができるわけがない。
よく言われる誤解が
「学生や若手だと経験がなくて将来像がわからないから目標が立てられない」と
目標の中身・内容の問題にすり替えられてしまうことですが
ここでも「問題設定の問題」が起きています。
だから、いつまで経っても適切に目標設定できるセラピストが増えてこない。
将来像がわからない、確信が持てないからこそ、目標を設定することに意義があるのです。
(このことについては別の記事で述べたいと思います)

目標設定の基礎は3時間あれば習得可能です。
基礎さえ教えてもらえたら、後は自分自身で蓄積・修正ができるようになります。

そして
今まで曖昧にしていた目標の概念理解が可能となると
リハ領域で曖昧にしていた諸々の知識の概念理解を
自己修正しようとする意思が働くようになります。
仮に、多忙のために先送りしていたとしても
機会が巡ってきた時に「これだ!」ということがピンとくるようになります。

まさに、一事が万事

ひとつの表面的な事象を理解するということは
同時にその表面的な事象を下支えしているメタ認識の理解も行う
ことになるからです。

これらの過程は
まさに、私たち自身の Re-Habilis(再び適する) です。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/5012

ADL低下予防の実践に際して

皮肉だなーとは思いますが
本当に予防できた時って、その効果を誰にもわかってもらえなかったりします。
起こると予測されたことを未然に防げた、つまり、現実には起こらなかったことだから。

私は認知症のある方の
一見、できないというカタチで現れる行動に反映されている能力を見出し活用する
ということをとても大切にしてきました。

そして同時に
一見、できるというカタチで現れる行動に反映されている困難を見出し最小化する
ということもとても大切にしてきました。

わかりやすいのが食事場面です。
食事を自力摂取できている方だと
どんな風に自力摂取可能なのかという質的側面を見落としてしまいがちです。
ものすごい把持の仕方をしていても、
代償的な取り込みをしていても、
「今、自分で全量食べられる」という状態だと「問題なし」と認定され
現在の過剰代償という認識も
将来起こるかもしれない困難があると予測することも
将来起こるかもしれない困難を最小化するための手立てを今とっておくことも
いずれも「何言ってんの?」「ちゃんと食べてるじゃない」としか認識されずに
対応が後手に回ってしまいがちです。
そして、思った通りの事態が生じても、
過去に指摘したことについては忘却の彼方となっていて
議論が進まず、いちゃもんをつけられたとしか受け止めてもらえなくなったりということも
現場あるあるです。

特に食事介助というのは
ご本人にとっても介助者にとっても大変な場面ですから
できるだけ自力摂取を推奨したいものです。
こんな時に説得力があるのは、過去にいた対象者の方の状態像を引き合いに出して説明することです。

  研修会では「事例があるとわかりやすい」のは
  テーマ問わず職種問わず、共通してよくいただく感想でもあります。
  抽象的な説明を具体的にイメージすることが容易となるからです。
  写真や動画があるとわかりやすい、納得感があるというのも同じ理由です。
  ましてや、文化の変容で本を読まない人が増え
  文字情報から視覚的情報を自身で構築するという体験が乏しい世代にとっては尚更です。
 (当人は体験したことがないので説明してもわからないという
  暗黙の前提要件を共有化できないところを踏まえた説明が必要となります)
  
〇〇が起こることを未然に防ぐために△△するというのは、抽象的説明です。
しかも〇〇が起こる恐れがあるということすら知らない人にとっては余計です。
具体的にイメージできないので、「理屈ばっかり言って」と受け止められかねません。
そこで、共通体験として共有できている事例を引き合いに出して状態像を説明すると
聞く耳を持ってもらえることがあります。
  
「Aさんは最初食事自力摂取できていたけど、だんだん食べこぼしが増えたじゃない?
 あれってスプーンと手指のフィッティングの問題で、
 フィッティングの問題を解決すれば自力摂取が続いていた可能性が高いの。
 今、BさんがAさんと同じ状態だからスプーンの柄にこういう工夫をしてるんだ。」
 
そうすると必ずスプーンの柄に工夫をした時としない時とで食べ方が違うということに
気がついてくれる人が出てきます。
このような体験の繰り返しをすると
「よっしーさんの言うことには必ず意味がある」
 (この言葉を言われた時にはすごく嬉しかったです)
ことをわかった上で実行してもらえるようになります。
  
でも、みんながみんなそうじゃないことだって現場あるあるですよね。
そうなるとここで温度差が出てきてしまいます。
工夫したスプーンを使わないから食べこぼしが増えたのに
食べこぼしが増えたのは「認知症のせい」「認知症が進行したから」
という理由づけをされてそれでおしまい。ということも現場あるあるです。
食環境の重要性の認識がなければそのような思い込みに一層の拍車がかかります。
そのような職場環境だと、予防するために為した
さまざまな実践の意味も効果もわかってもらえることはほぼないと言えるでしょう(^^;

でも、諦めないでほしい。
大切なことは、あなた自身の言動を通して世界に表明することだから
誰にわかってもらえなくても
助けてもらった対象者自身にすら理解してもらえなくても
あなたの実践には意味がある。
今は誰にも理解されず辛い気持ちはよくわかるけど
この体験は必ず後になって、線を結ぶことにつながる
だから自身の実践の確度・精度を高めることの方がずっと重要

  点と点がどんな線を結ぶかは、後になってからでないとわからない
  ということはあちこちで言われていますし
  まさにそうだと思う。

ADL低下予防に取り組む時には
本当に効果的な実践ができた時には
そして周囲の人の理解が及ぼない時には一層
効果があったからこそ誰にもわかってもらえないものだという心構えをしておくこと
皮肉なことに
本当に大切で有効な予防策を実践できた時ほど理解してもらえないものなのだと
予め心構えをしておくことが
自身の心を守ることにもつながります。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/5008

Cheer ! 陰ながら心から

中島みゆきの「ファイト!」と「宙船」の歌をぜひ聴いてほしいと思います。

働いていると、いろいろなことがあるじゃないですか。
詳しく説明しなくてもツーカーで分かり合える人と出会えたり
頑張っている人の踏ん張りを見聞きして自分も頑張る勇気をもらえたり
一方で
胸糞悪いことも、理不尽なことも
一生懸命な人が辛い思いをするだけだったり
足を引っ張られたり、悪者にされたり

そういうのも、頑張ってるからこそ。なんだよね。

大切なことは、自己表明なんだと思ってます。
わからんちんにじゃなくて、世界に対しての。
私はこうしています、こう在りたいですと、世界に対して、自分自身に対して、表明する。
(表明とは言葉だけじゃなくて行動も含めています)
だから、わからんちんにわかってもらう必要なんて全然ない。
ただ、わからんちんにも言った方が良い時もあるとは思う。
「私は表明した。あとはあなたの選択。選択した責任はあなたにある。」という意味で。
もしも、その人の中でアンテナがちょこっとでも立っていたら
今すぐには無理でも、後になって伝えられた言葉を思い出して真正面から受け止めてくれることがあるかもしれない。

以前に勤めていたところで
あんまり話をしたことがなかった(実は私はあんまり信頼していなかった)人から
「よっしーさんて、対象者や家族の悪口は絶対言わないものね」と言われたことがあって
びっくりしたことがあります。

どんなOT人生を送るかは、自分で決めて選ぶことができます。
そして、言葉にすることで、行動に示すことで、自身の選択を表明することができる。
変な言い方に聞こえるかもしれないけど、
表明すると、そして表明に足る実践を続けていると
状況が変わったり(本当にありえないような変化が起こったこともありました)
実現の機会に遭遇することが本当に起こりました。

これはどういうことなのか、わかりません。
神様が願いを叶えてくれたのか
世界が聞き届けてくれたのか
たまたまそういう巡り合わせだったのか
巡り合わせは実はたくさんあったのに気づかずに過ぎてきたことを自分が気づけるようになったのか
自分が変わったから周囲を見る自分の視点が変わって同じ景色を見ていても異なるように見えたのか
何が起こっていたのかはわからないけれど、
私の相手は私であって、わからんちんじゃないってことだと思う。

時には、闘えなくなることだってあるし、漕いでた手が痛くて動かせない時だってあるし
冷たい水の中でじっと耐えてることが最善のことだってあると思う。
でも、今、手応えがなくても先が見えなくても、奥歯を噛み締め涙を堪えても
それは、頑張ろうという志を持ってるからこそ
そう在りたいという願い、そうせざるをえない志を持っているからこその辛さ
その願いや志が崇高であればあるほど、そんな容易く実現できるわけがない。
だから、表明し続けないと。

肝心なことは、口先だけじゃダメ。
当たり前だけど。
だって、「自分は口先人間だ」って世界に表明してることになっちゃうから。

今、辛い思いをしながらも、頑張っている人たちに伝えたい。
頑張りが無駄になることは決してない。
望んだ結果になることばかりじゃないけど
真摯な努力は確実に自身の成長につながっているし
別の場所で頑張っている誰かがちゃんと見ていてくれてる。
仮に、誰にもわかってもらえず、本当に孤独な思いに潰されそうな時があっても
世界に表明しているのだから、それで良いのです。
そうやって、崇高な志や願いを実現するに足る実践力が磨かれていくように感じています。

時には休んでも
時には後退りしても
願いや志を捨てさえしなければ
状況を変えられるだけのチカラがつくか
状況の方が変わってくるか
いずれにしろ、機会は巡ってくるから
その時に十分にチカラを発揮できるように牙を研いでおく。
ハタからは沈黙と思われても、自分にとって雌伏の時期を過ごせば良い。

「るろうに剣心」の中で
「捨てたものは見つからないが、失くしたものはきっと見つかる」というセリフがありました。

正確には
「まあ しかし 長い人生 何かを失うコトは常につきまとうもの 捨てなければそれでいいんじゃ」
「失ったものは再び不思議と見つかったりもするが 捨てた物は再び不思議と拾えた例がない」
というオイボレのセリフのようです。

だから、頑張れ〜!
私も頑張る〜!

一見、悪いことに見える良いことも
良いことに見える悪いこともあるから
OT人生ってわからないものです。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4999

「普遍性という名の幻想」を読んだ

片付けをしていて見つけました!
「普遍性という名の幻想 日本の作業療法における文化的コンテクストの重要性」
20年以上前の論文ですが、この論文の内容は今も色褪せることはありません。

2003年に発刊された、OTジャーナルVol.37No.4に掲載されています。
著者は、Michael K Iwama 氏
英題は、Illusions of Universality The Importance of Cultural Context in Japanese Occupational Therapy

著者は、日本生まれのカナダ育ち
そして、太平洋の東西それぞれでOT学生を教えた経験をもとにして記された論文です。
「東洋と西洋は根本的に文化が異なる」
「西洋で開発された理論は西洋文化を基盤としている」
「日本は西洋由来の理論を型だけ導入して意味を見失っている」
「日本の文化に立脚して理論を変容させるべき」
といったところが要旨でしょうか。

まさしく!まさしく!

西洋と東洋の違いについて、そして今後の展望としてその融合について、かつて河合隼雄も述べていました。

私自身も大人になってから、ちょこっとだけ英会話を習った時に強烈に感じたことがあります。
例えば、「そこにリンゴがあるから食べな」と家族に伝える時に
日本人であれば、そこに幾つのリンゴがあるかは言明しません。
1個だろうが、2個だろうが、個数に触れることはありません。
ところが、英語では「There are two apples. 」と個数を言明します。
英語は、見たまま事実を言語化するんだ。。。と感じました。
日本語では、リンゴが幾つあるのかは見ればわかることだからそこには触れない。
「あんた、食べな」に言葉の力点が置かれていて、言語に省略しかも無自覚の省略がある。

例えば、同じことは臨床場面でも起こっています。
OTが何かしらのActivityの工程を説明する時に多くの人が
「ここをこうしてこうやって」と説明しているのではないでしょうか?
ここがどこなのか、こうするとはどうすることなのか、こうやるとはどうすることか
言葉では何も説明せず、動作で説明をしています。
つまり、相手がきちんと工程を見ているということを暗黙の前提として説明を行い
かつ、相手も説明を受け入れています。

つまり、動作的説明が先行し、言語的説明が後に回っている。
もっというと、視覚情報主体の説明をしている。
言葉に対する力点の置き方が違っています。

大昔、ちょっとした知り合いがアメリカでSEをしていた時に
「超能力者じゃないか」って言われたそうです。
言葉で説明していないことも理解する。。。そう思われても納得できます。

また、会話中に関係性の中で言語化するのが日本語ですが、
関係性に関わらず、自身の表明として言語化するのが英語です。
例えば、「昨日、この本を買わなかった?」「Did’nt you buy the book?」という問いかけに対して
日本語では「うん、買わなかったよ」「ううん、買ったよ」
英語では「Yes,I bought the book.」「No,I didn’t buy the book.」

言葉には発話する人の意思や思考過程が反映されます。
私は海外に旅行したことも留学したこともないので西洋文化を知りませんが、
根本的なところで日本とは違うのだろうと推測はしています。

かつて、日本では西洋に追いつけ追い越せ精神で、西洋技術を果敢に取り入れ、しかも、日本流にアレンジして活用するのが得意だったと聞いてきました。
でも、この論文の著者は「OTは違う」と言明しています。
北米発祥の理論を型だけ導入して、理解できないまま臨床で扱って困惑していると述べています。

その具体例として、OTの定義を挙げています。
OTの定義をスラスラと答える人はたくさんいたけれど、定義を丸暗記しているだけだったと。
この具体例は本当によくわかります。
かつての私もそうでした。
特に学生時代には、高校の部活の仲間によく尋ねられたものです。
「今、何の勉強してるの?」「作業療法って何?」
そこで定義を答えるという。。。しかも、違うんだよなぁと思いつつ。。。
そして尋ねた人も「これ以上は聞いちゃいけない」と暗黙のうちに察してそれ以上は突っ込まないでくれたという。。。
今の私なら、「その人の良い面を良い方向に活かすことを通して暮らしの困難を解決する援助」と言えます。
「OTは難しい」「OTって何だろう?」とOT同士で語り合いたがる人は少なくありませんが
そんなことしたって答えは出てきません。
答えは日々の臨床の中で結果を出すことを積み重ねることで導き出されるものだからです。
(この問題は後日改めて記載します)

話をもとに戻しますが、
自分の仕事を自分の言葉で語れない
もっと言うと本質的には
語るに足る実践ができている人が少ない
ということが大問題のなのだと思います。
定義を丸暗記して答える、丸暗記するくらいですから真面目なのはわかります。
でも答えてはいますが、表面的で型どおり。
聞いた人だってわかったようでわからない。
その言葉には、目の前にいる人の血肉が通っていないからです。

海外からの知識を輸入する時も同様のことが起こっていると著者は言っています。

まさしく!まさしく!

最新の理論を知っている、複数の理論を知っていることがさもOTとして優秀であるかのように振る舞う人も少なくありませんが、目の前にいる対象者に対して結果を出す方が先です。
認知症のある方に対して、生活障害やBPSD・食事介助・ポジショニング・身体リハ・Activityについて
既存の理論が使えた試しがありません。
臨床で使えない理論を有り難がったって意味ないし。

同じコトが違うカタチで起こっているのが目標設定です。
養成校の教員や実習の指導者で目標設定を明確に教えられる人がどれだけいるでしょうか?
教えられないということは、自分が実践できていないということを表しています。
臨床で適切に目標を設定できるために教えるんじゃないのかな?
そのために目標の概念を教えるんじゃないのかな?
いくら目標の概念を諳んじることができたって
臨床家としては使えなきゃ意味がないのでは?
知っている風を装ったって実践で活かせなかったら意味がないのでは?
目標設定で困る学生は山ほどいますし
教えられなくて困っている指導者も山ほどいます。
困っている人のことをちゃんと見ていないから目標の概念をたくさん教えることにエネルギーを注いだりするんじゃないかな?
そしていつの間にか、目標設定に困っている自分自身から目を逸らし
「認知症だから目標設定ができない」なんて平気で言えちゃうようになってしまうんじゃないだろうか?

まさしく、この論文で著者が指摘したことは、
定義、目標設定、実際の臨床場面とカタチを変えてあちこちで今も起こっているのです。
著者は20年以上前に危機意識を持ってこの論文を書いたそうですが
実際には状況はもっと悪化しているのではないかと感じています。

「意味のある作業」を大合唱するOTもいますが、あまりに表層的過ぎます。。。
本来、意味のない作業なんてありません
賽の河原の石積みだって、シーシュポスの神話にだって、虚しい作業という意味があります。
「意味のある」という言葉に託された深みをどれだけ理解して使っているのでしょうか。。。

最後に
著者の記した言葉を記載してこの記事を終わりにします。
  
「OTはクライアントの社会的コンテクストを重視し、彼らがその中でoccupationの新たな意味を発見することを援助することを生業としている」
 
「日本の作業療法に緊急に必要なのは、西洋から導入した理論やモデルを批判的に評価し、日本で使えるように適応、変化させるのと同時に、日本人にとって意味のある新しいモデルを作ることである。臨床現場、クライアントの文化的コンテクストより理解された情報からボトムアップで浮かび上がった新しいパラダイムが必要である。」

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4992