現場における作業療法という問い

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Occupational Therapy を日本語で 作業療法 と言います。
でも、とても誤解がある言葉でもあります。

作業=手工芸ではありません。
作業=楽しみでもありません。
それらは、本来の作業の一部にしか過ぎません。

ある作業療法士は
ADL>労働>余暇という優先順位がある
と言っていましたが
まさしく、このことを私は自分自身の身をもって痛感しました。

実は私は、昨年、座骨神経痛を発症し一時期休職するほどの状態でした。
寝返りできず、座っていられず、間欠性跛行著明で5M連続歩行困難な状態でした。
私は映画を観るのが大好きですが
その時には映画のえの字も思い浮かびませんでした。
まず、座って食事ができる、仰向けで眠れる、寝返りができる
これらのことができるようになった時には本当に嬉しかったことを覚えています。
毎日暮らすことが必死でした。
生活がかかっていますから、仕事のことは気にはなりますけど
それどころじゃなかったというのが本当のところです。
職場復帰して少し慣れた頃から映画のCMを見た時に
あぁ、映画観たいなぁと感じるようになり
その時になって、あぁこんなことを感じることができるようになったんだ
と思ったものです。

作業療法士だからと言って
手工芸や楽しみという視点からだけ、治療や評価を考えるのは
occupation の枠組みを自ら狭めてしまう恐れがありますし
解決・改善できるはずの対象者の暮らしの困難に対処せずに
手工芸や楽しみという視点で実践することしかできないとしたら
対人援助職の在り方として適切なのでしょうか?

このあたり、現場では大きな深い混乱が生じているように感じられてなりません。

認知症のある方に対して
どう対応してよいかわからない。という声をよく聞きますが
そのような場合には、本当は評価ができていない。
どう評価してよいかわかっていないのです。
評価できていないから、どうしたらよいのか、わからない。
対応つまり治療がわからないのではなくて、評価の問題なのです。
でも、なぜか、問いのカタチとしては、評価の問題が出てこない。

作業療法についても同じコトが違うカタチで現れているように感じられてなりません。

作業をどう提供するか、作業とは何か
というカタチでいろいろなコトが言われていますが
結局は作業療法士として、どう評価するか曖昧なことが本質の問題なのではないか。

私たちは自分自身の問題でありながら
問いのカタチを取り違えている。
だからコタエを掴み損ねている。
今本当に必要なことはコタエの模索ではなくて、問いをもう一度問い直すこと
なのではないでしょうか。

そして、なぜ、問いのカタチを取り違えてしまってきたのか
なぜ、そのことに自覚がないのか
そこにも、根深い問題があるように感じています。 

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