まず、状況を確認するようにしています。
いきなり、オープンクエスチョンで聞いても
答えが返ってくるわけはないから
クローズドクエスチョンで聞くようにしてます。
そうすると
見てはいたけど見落としていたことを(^^;
話してくれるようになる。
そこで、初めて、
こう考えてみたら?
こうしてみたら?
…って言えるようになる。
「見れども見えず」
されど
「見ればわかる」
5月 09 2012
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5月 08 2012
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5月 07 2012
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12月 08 2011
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12月 07 2011
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12月 05 2011
12/1(木)の記事「行為という自発的な場面の観察を」の続きです。
http://kana-ot.jp/wp/yosshi/176
私には忘れられない体験があります。
こちらが提供する活動に関しては、いつもやんわりとおことわり…。
後のほうの席で見学常連。
こういう方に対して、えてして職員側は
「なにかできることない?」
と現状を否定的にとらえがち。
「活動的になるように」対応策を考えよう
…なーんてことも少なくないんじゃないかしら?
でも、この方はとてもゆったりと中庭を眺めていらっしゃいました。
「鳥がなにかついばんでるから雨があがったんだな…と思って」
そう答えたその方のその時の表情を今でも覚えています。
豊かな場…というのは、1人1人違う。
こちらが設定した枠組みでは見落としてしまうことがある。
詳細はこちらに ↓
県士会サイト> 作業療法の魅力を語る> 作業療法を語る> 「私たち自身の在りようをみつめる」
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10月 26 2011
多くの場合、「どうしたらいいのか」カンファなどの話し合いをすることになると思います。
でも、
どうする…という方法論が話し合われても
何が起こっていたのか…という「場」についての振り返りがなされることは、あんまり多くはありません。
ほとんどないかも…ですね(^^;
けれど、モノゴトは関係性の中で起こります。
どのような状況で
どのような言動に対して
どのようなことが起こったのか
私たちは、「観察」という名目で
認知症のある方のあれこれを言いますが
物理的にも心理的にも環境因子の1つである自分自身の言動に対して
案外無自覚でいることが多いように感じています。
たとえば、こんなケース。
「車いすを押しますよ」と声をかけてから押したのに
Gさんたらいきなり怒り出してまったく最近怒りっぽいんだから!
Gさんの易怒性に対してどう対応したらいいかしら?
確かに声はかけたかもしれませんが
Gさんは認知症があります。
もしも、Gさんが「車いすを押される=自分が動く」という言葉を結びつけて予測することが能力的に困難な方だとしたら
その声かけは適切だったと言えるのでしょうか?
「問題」なのは、Gさんの易怒性ではなくて
Gさんの能力に合わせた声かけができなかった職員のほうが「問題」なのではないでしょうか?
もしも、職員が「Gさん、動きますよ」と声をかけていたら、もしかしたらGさんは怒り出さずに済んだかもしれません。
「現実」は、さまざまなコトをあぶり出します。
認知症のある方の能力も困難も特性も
それだけではなくて
援助しようとする側の能力も困難も特性も
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