Tag: リハビリテーション
たとえば
Aさんに対する食事介助の方法を
他スタッフへ伝達する時には
いきなり伝達しないで
まず、自分の中で方法を言語化してみます。
次に
自分が言語化した方法で介助してみる。
そうすると
言語化しそこなった部分があることに気がつけます。
実は、その部分をきちんと「言語化できてから」
伝えることが大切だと思っています。
言語化できていないけど
なんとなくやっていて自分はできている
この部分が再現性のキモだったりする
ということがよくあるわけで (^^;
自分の動作や行為を言語化する
って案外難しいものです。
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たいていのリハスタッフは
実習において
担当したAさんの目標の適・不適は教えてもらえるけど
Aさんを通した目標設定の過程の体験学習はしていない。
目標が悪いって指摘されても
どう修正したらいいのかは教えてもらえない。
悪い目標と良い目標の違いを教えてはもらえない。
だから
目標設定について
漠然とした知識で臨床に向かうことになる。
根本的には
このことがいろんな状況を生み出している
そんな風に感じています。
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ICFについて
いろいろと言う人もいるけど
ICFを理解して活用できたら
リハの在り方が変わります。
評価はICFでも
治療の組み立てがICIDHになっちゃってる人って
まだまだ多いみたいですが。
原因を探索する…というのは
ICIDHの考え方であって
必然がある…と考えるのは
ICFに依拠した考え方です。
そして
ICFって仏教の縁起と同じ考え方でもあるのよ。
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原因などないけど必然がある
この違いがわかりますか?
認知症のある方のBPSDを含めた生活障害には
そうするだけの必然があるのです。
原因ではなくて。
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先日の静岡でのセミナーで
「何が起こっているのか」観察することの重要性を
お話しました。
SDATアルツハイマー型認知症で80歳代、大声という
診断名も年齢もBPSDも同じケースを3例紹介しました。
「大声」という主訴は同じでも
実は
現れ方は全然違っていて
対応の工夫も全然違っている
ということを説明したつもりです。
視点を固着させずに
「何が起こっているのか」観察することが重要なのです。
そして
観察することができるためには
知識が必要なのです。
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オーラルジスキネジアのある方には
疾患に関わらず認知症がある程度進行してくると
かなりの割合で出会うことになります。
ここで私は
オーラルジスキネジアの原因探索を考えたりしません。
オーラルジスキネジアがあったとしても
暮らしやすくなるように…ということを考えます。
そこで一番気をつけなくてはならないのが
食事なのです。
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リハ職は障害の専門家
でもそれってウラを返せば
能力の専門家でもあるってことなんだよね。
とりわけ
作業療法士は能力に関して
医学と暮らしの橋渡しができる専門家。。。のはず。
声高らかにそのことを叫ぶのではなくて
日々の実践を通して
「やってみせる」ことができる専門家。。。のはず。
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最重度の認知症のある方でも
生きている限り能力がある。
私はそのことを信じています。
信じる…ということは盲信する
ということではなくて
実感をもって信頼している
ということなんです。
こうやって書くと
当たり前に思うでしょう?
でも
対応の方法論のベースが
「できなくなった」
「やらないとできなくなる」
である場合がとても多いように感じています。
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