Tag: コミュニケーション
実は、認知症のある方で
オーラルジスキネジアがある方は
少なくありません。
そのような方でも自力摂取している時には
食べ方の問題はあまり表面化してきません。
ですが、何かの拍子で食事に介助を要するようになると
介助のしにくさ…食べにくさといった課題が
表面化するようになります。
たとえ、オーラルジスキネジアがあったとしても
ご自身で食べやすいように
全身を協調させることができていた
けれど、他者の介助に合わせることは難しい。
その方の食べ方に合わせて介助することが難しい。
このようなケースにはよく遭遇します。
ムセない=食べ方OK
食べこぼしがない=食べ方OK
ということではないのです。
問題が表面化していなくても
食べ方そのものの評価が大切なのです。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/894
適切な対応は自然すぎて
なんにもしていないように
なんにも考えていないようにすら思われるかも。
だからこそ、適切なんだけど。
でも本当は
いろーんな吟味を踏まえての対応だから
表面だけマネしようと思っても
吟味の過程を経ていない人には再現できない。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/891
不適切な介助も意味がある
最近はそう思うようになってきています。
しゃかりきになって
100%の適切な介助の「統一」を求めなくてもいいんだ…って。
モチロン、程度問題ではあるけれど
常に対象者に対して100%の適切な介助が行われなくても
ガッカリすることはない…って。
なぜなら
不適切な介助の体験があるからこそ
適切な介助の入力が際立つ
対象者の心身が「相違」を明確に感じ取れるなら
比較対照の相違という認識を
不適切な介助がもたらしてくれるのでは?
介助の100%の「統一」に心身のエネルギーを注ぐよりも
一回の介助の適切さが100%になるように
心身のエネルギーを注げばいいんじゃないか?
実は100%適切な介助ではなくて
88%くらいの適切さ加減に過ぎないのに
100%だって勘違いしていることが問題だったんじゃないか?
そんな風に考え、また、感じてもいます。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/883
明日は職場で新人研修「会議」を開催します(^^)
会議参加が必須の対人援助職でありながら
会議が何たるかを知らない
会議参加者の心得を知らない
意見提案するにあたっての知識と技術
会議を進行するにあたっての知識と技術
養成過程において、あるいは、卒後の研修において
教わったことのある人のほうが少ないという現実。。。
知識と技術は、日々の反復トレーニングによる積み重ねが大切ですが、基本的な事柄を知ってのうえでのこと。
私は、老健に勤務してから必死でビジネス本を読みあさりました。
誰も教えてくれなかったから必要に迫られて。
今、新人研修で教えていることは
私が若い頃に教えてほしかったなぁ…と思ったこと。
「会議」も然り。
「目標設定」も然り。
もっというと、論理的思考のトレーニングとか。
OTである前に社会人なんだもの。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/872
わからないのに
聴きもせずに
表面的にActovityを提供するということは
「あなたのためのActovity」ではなくて
私が困らないように何かやってほしいという意図を
暗黙のうちに、でも、明確に
対象者の方に伝えてしまっている
ということなのに。。。
どのレベルであったとしても
Actovityを提供する時には
自分の中で提供するに足る根拠を
明確に言語化できているということ。
最低限、援助として提供するならば。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/863
わからない時には
率直に聴けばよいのだと思う。
「あなたにとって
その場の何が大切なのですか?」
「あなたにとって
その場はどんな場なのですか?」
言葉にして聴くにしても
言葉にならない、もう1つの言葉で聴くにしても
理解したくて聴いたことには
必ず答えてもらえる。
答え方にはいろいろあるけれど。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/862
生活歴の聴取も
好きだったことの聴取も
その人を理解するための手段であって
提供する活動に直結するわけではない。
編み物を好きだったからといって
今編み物を提供することが
適切とはいえない。
散歩が好きだったからといって
今散歩を提供することが
適切とはいえない。
編み物のどんな面が
散歩のどんな面が
その人にとっての意味があったのか
その人にとっての意味は何だったのか
そのことをわからずに
見た目だけ提供したって意味は生まれない。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/860
私たちは対象者を評価するけれど
同じように
いいえ、時にはそれ以上に
対象者自身によって評価されていることを
忘れてはいけないのだと思う。
そのことも含めて
私たちは自分のレベル以上のことは
わからない
その時その場のその関係性において
起こったことの意味を
どれだけ自分がわかるか
まずは、そっちが大事なんだと思う。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/859
最近のコメント