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その人らしさって何?

その人らしさって何?
そう尋ねられて端的に明確に言語化できる人は少ないものです。

その人らしさとは、特性のことです。
その人が繰り返し使ってきた行動のパターンのことです。

行動のパターンなので
パターンが良い結果となることも
そうでないこともあります。

認知症のある方の場合
前の記事で書いたように
特性が裏目に出ると生活障害というカタチに見えるので
単に判断力低下と職員が誤認してしまい適切に対応できない
しかも、職員がそのことを自覚できていない
認知症のある方が疑問を抑圧せざるを得ず
本当の問題が表面化しにくい
認知症のある方は表面的に職員の指示に従っても
本当の信頼関係が構築できにくい
というケースがかなりあります。

「その人らしさを大切に」と唱えている場合じゃありません。
繰り返し唱えることで事態が改善されることはありません。
唱える前に、まず概念の本質を理解することが大切です。
概念の本質を理解できれば観察・洞察への道が開けます。

 

・・・ さて、ここでお知らせです ・・・

今月と来月は
記事の更新を月1回とさせていただきます。
どうぞご了承ください。
 

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その人らしさは両刃の剣

リハやケアの分野で
「その人らしさ」という言葉を聞いて
プラスのイメージを抱く人は多いと思いますが
さて、「その人らしさ」って何ですか?

「その人らしさを大切にする」「その人らしさを尊重する」
とは、リハやケアの分野でよく聞く言葉ではありますが
私たちのどういう言動がその人らしさを大切にすることで、
どういう言動がその人らしさを尊重していないことなのでしょう?

リハやケアの分野あるあるなのは
なんとなく喧伝されていることに乗っかってしまいがちなことです。
具現化する努力よりも唱え合うことで満足してしまいがちなことです。

本来、「その人らしさ」にプラスもマイナスもありません。
「その人らしさ」がプラスに働くかマイナスに働くのかを
決定づけるのは、その時の状況です。

認知症のある方の場合に
物事をきっちり遂行するタイプの方が
きっちり遂行するよりも優先すべきことを判断できずに
周囲にとってちょっと困った行動に見えることもあります。
 
例えば、集団でのActivityの後に
自身が座っていた椅子をきちんと机の中に入れてくださり
その隣の椅子も同様に片付け、さらにその隣の椅子も。。。と
「きちんと片付ける」ことに集中してしまい
なかなかお部屋に戻れなくなってしまったり。

例えば、他者への気遣いを行動で示すタイプの方が
自分が座るように促された席に職員を座らせようと思って
違うところに移動して何をどうするのかわからなくなってしまったり。

その人らしさがあるがために
動作干渉となってしまい、近時記憶の低下によって
そもそもの目的、何をする予定だったのかがわからなくなってしまう
他者に助けを求めることができなかったり
周囲に誰もいなければ自分でなんとかしようとしてドツボにハマってしまう
。。。ということもよくあることです。

その人らしさは諸刃の剣となって現れる

「その人らしさを大切にする」
「その人らしさを尊重する」
と言う人は多いですが
私には具体的に現実的に何をどうすることを意味しているのかがわかりません。
だから私はこれらの言葉を使ったことはありません。

そのかわり、その方自身が大切にしていることは何なのか
普段の場面から観察・洞察するようにしています。
長年大切にしてきたであろうことがプラスに働くようにActivityを選択したり
長年大切にしてきたであろうことがどのように生活障害というマイナスのカタチで
反映されているのかを観察するようにしています。
そうすれば、生活障害を援助するにあたり
より適切な介助を、より適切な言葉を選び、より円滑に
大切にしてきたこととイマ、ココですべきことを両立させる働きかけが可能となります。

さて、あなたに質問です。
「その人らしさって何ですか?」
端的に明確に答えられますか?

 

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すぐ怒る方への対応その2

私が大好きな「ゲド戦記」
(映画じゃなくて原作の方です)
なかでも「帰還 ゲド戦記最後の書」は何回も繰り返し読んでいます。

ファンタジーなんだけど
驚くくらい現実を反映してもいます。
臨床心理学者の河合隼雄の本で紹介されていて
それから読み始めたのですが、もっと早く出会えていたら。。。と思った本です。

テナーとコケばばとのやりとりがものすごく深くて鋭くて。。。
テナーという女性は昔ある国の女王として奉られ深い闇の世界に暮らしていました。
コケばばは魔法使いではなく女まじない師として暮らしています。
この本では「知と力」の暗喩として「魔法」が登場します。
ちょっとコケばばの言葉を引用します。
 
・・・・・・・・・・・・・
p.81より
「(前略)
もし、わしの顔にちゃんと目がありゃ、わしにはおかみさんに目があるのがわかる。そうじゃないですかね。もし、おかみさんが目が見えなくても、わしにはそれとちゃんとわかる。もし、おかみさんがあの子みたいに一つしか目がなくても、反対に三つ目があっても、それもこっちにはわかる。だけど、わしの方に見る目がなかったら、相手に目があるかどうかは言ってくれなきゃわからない。
(後略)」
・・・・・・・・・・・・・

言ってくれなきゃわからない

まさしく、まさしく!
見る目があるから相手のことがわかる。
見る目がなかったら相手に言ってもらわないとわからない。

認知症のある方のほうから
何を怒っているのか解説してくれることはありません。

認知症のある方のほうから
食事介助ではここが食べにくいのでこうしてくれたら食べやすくなると
解説してくれることもありません。

こちらに見る目があれば
何を怒っているのかがわかるし
どこが食べにくくなるかもわかるし
だから、どうしたら良いのかもわかるのです。

臨床能力を高めるうえで最も大切なことは、見る目を涵養することなんです。
検査やバッテリーや理論や論文の読み書きは観察の視点を増やすことはあっても
観察力を磨くことに直結はしていません。
観察力を磨くことに直結するのは基本的な知識の習得です。
ここで怠られがちなのが、概念の本質を理解する力です。

「構成障害って何?」と尋ねられて
端的に明確に即答できる人がどれだけいるでしょうか?
「遂行機能障害って何?」と尋ねられて
端的に明確に即答できる人がどれだけいるでしょうか?
「目標って何?」と尋ねられて
端的に明確に即答できる人がどれだけいるでしょうか?

往々にして、専門用語を使ってはいるけれど
専門用語の概念の本質を理解していなかったりします。
だから、日頃の臨床場面で
五角形模写テストや立方体透視図模写テストをしたり
トレイルメイキングテストをしているのに
端的に明確に即答できなかったりするのです。
目標を目標というカタチで設定できずに方針や治療内容を目標として設定してしまうのです。
HDS-RやMMSEをとっても
日頃の臨床場面で記憶の連続性がどの程度あるのかを根拠にした声かけができなかったりするのです。

端的に明確に答えられないということは
わかっていないということなので
わかっていないから目の前で起こっている事象からそれらの障害を観察することができないのです。
(時々、わかってはいるけど言葉にできないだけ。と言う人もいますが、それはあり得ません。
 わかった気になっているだけなので言葉にできないのです。)

目の前で怒っている方が何に怒っているのかを
観察できないのは、こちらの能力不足のせいで
認知症のある方が怒るには怒る必然性があって怒っています。
その必然性は、その時その場のその関係性の中にいるあなたにしかわからない。
私たちは専門家としてそれだけの責務があるのです。

「あの人はすぐに怒る」
確かにそうかもしれません。
でもそれって専門家でなくてもその程度のことはわかりますよね?
怒りという形で表現しているもの、怒りに反映されている能力と困難と特性を把握できるから専門家なのではないでしょうか?

認知症だから
能力が低下しているからすぐに怒る。とは限りません。
むしろ能力があるからこそ、すぐに怒る方だっています。
見当識と記憶が曖昧になると
現実の体験・感情と、過去の体験・感情が混同されてしまうことも起こり得ます。
そこを解きほぐさないと。
どうしたら良いのかは、その次の話です。

たいていの場合に
専門家としてすべきことをすっ飛ばして
「どうしたら良いのか」悩んでいるわけです。。。
だから、適切な解を見出せるわけがない。

私は生活障害の場面から
反映されている能力と障害と特性を観察しています。

障害を観察するには認知症固有の知識も必要ですが
臨床家としての基本的な臨床態度は
どの障害・疾患・分野でも共通しているものだと考えています。

認知症に関する質問を受けて
私が危機意識を抱いているのは
これって本当に認知症限定のことなんでしょうか?ということです。
認知症はOTが対象としてから、まだまだ蓄積が少ない分野です。
だから表面化しているに過ぎないのではないでしょうか?

 

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「ムセたらトロミ」はやめましょう!

対象者の方が
飲み物を飲んでいてムセたら
すぐにトロミをつけている人はとても多いですよね?
それはもうやめましょう!

やめるべき理由は
1)その方がどのように飲んでいるのか観察していない
  その方の飲食の能力も困難も把握していない
2)ムセる人にはトロミをつけるべしと
  教わったことを漫然と実行しているだけ
3)トロミという粘性の高いものを摂取させられると
  かえってその方の摂取能力を阻害してしまう場合が多い
です。

確かに
トロミをつけた方が良い状態の方もいますが
トロミをつけるよりも先に修正すべき介助者の対応が
為されていないこともあります。

例えば
覚醒不良のまま摂取させている
口腔内が汚染されたまま介助している
痰がらみのまま摂取させている
頸部後屈位のまま摂取させている
足底設地為されていない
注意散漫な状態のまま介助している
不適切なコップ介助をしている
不適切な1口量を摂取させている
オーラルジスキネジアの自己抑制のタイミングを見ずに介助している
などなど。。。

上記状態を改善させずに
ムセたらトロミ、さらにムセたらもっとトロミをつける。。。
現場あるあるではありませんか?

かつて
200ccのお茶にトロミ剤を大さじ2杯つけている場面に
遭遇したことがありますが
飲めませんよ?
同じ粘性で飲めるかどうか、飲んだ時の感覚を知るためにも
ぜひ、試していただきたいものです。

おくりこみにパワーはいるわ、
咽頭のあたりにこびりついた感覚がするわ、
嚥下した後も違和感がずっと続きます。

私たちは
その違和感を解消しようとして
唾液を繰り返し飲み込むことで解消することができますが
さて、該当する対象者の方々はそこまで実行できるのでしょうか?

寝たきりに近いと
口唇や舌、口腔内が乾燥してしまいがちです。
そのような方の咽頭付近にトロミのついた飲み物が
貯留し続けることで細菌感染の温床となる危険性はないのでしょうか?

誤解を招きたくないのではっきり言いますが
トロミ剤が悪いと言っているわけではありません。
必要な方には必要なトロミをつけた飲み物を提供すべきです。
悪いのは
「ムセたらトロミ」
「うまく飲み込めない方にはトロミ」
という漫然とした対応・パターン化した対応です。

例えば、認知症のある方は
睡眠導入剤や抗不安薬、抗精神科薬を処方されることも多々あって
オーラルジスキネジアのある方は少なくありません。
 
オーラルジスキネジアのある方の飲食介助は、実はとても難しいものです。
準備期や口腔期に問題が生じていますが、
咽頭期には問題がないことの方が圧倒的に多いのです。

ところが、オーラルジスキネジアがあることにすら気づかずに
「なんか食べにくそうだから、トロミをつけてみようか」
とトロミがつけられてしまい
口腔期に一層の負担をかけて、結果、
おくりこみができずにため込んでしまうというのは現場あるあるです。

  講演などの質疑応答で
  「ため込んでしまって飲み込んでくれない人がいるのですが
   どうしたら良いのでしょうか?」
  という質問をいただくことはよくあります。

  ためこむというのは、おくりこみ困難の結果として起こっていることですから
  本来は「送り込むのに時間がかかる」という事象として観察・判断すべきです。
  そのような問題設定ができれば
  「現在の食形態は口腔期に負担をかけている」
  「楽に送り込める食形態を選択しよう」と考え直すことができます。

  対象者自身の食べ方そのものを観察・洞察するのではなく
  介助者にとっての介助困難を対象者の問題と認識してしまう傾向がある
  という根本的な大きな問題が現場には存在しているのですが
  明確に把握し危機意識を抱いている人がどれだけいるのでしょうか。

ムセ→トロミ
という漫然とした根拠のないパターン化した対応は、もう卒業しましょう。

立ち上がれない→筋力強化
という漫然とした根拠のない対応と、同じコトが違うカタチで起こっています。

大切なことは
その時々の対象者の方の状態をきちんと観察・洞察することです。

 

 

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ムセの起こるパターン 前提

イメージ_お堀

ムセの起こるパターンは
大きく分けて二つあります。

もともと、摂食・嚥下5相の咽頭期に問題がある場合と
本来の問題は口腔期にあって
咽頭期は二次的に引きづられて能力低下をきたした場合の二つです。

そうはいっても
「何を言ってるんだ?」と思われるかもしれませんね。
まず、喉頭の動きをきちんと観察してみてください。

生活期にある方の場合
例え、ムセがなくても
喉頭の挙上はさまざまなパターンが見られます。
1回で完全に挙上することもあれば
2回目の完全挙上で完全嚥下する場合もあれば
3回目の挙上で完全嚥下する人もいます。
挙上と挙上の時間的間隔もバラバラだったり定期的だったり
不完全な複数回の挙上を繰り返す人もいますし
食べ始めと食べ終わりで変わることもよくあります。

次に
口腔期の動きを観察します。
開口した時に、舌が後方へ引っ込んでいませんか?
(通常は、開口した時に舌尖は下の歯のすぐ裏側に位置しています)
スプーンで前舌を押した時に、舌が硬くなっていませんか?

舌が後方へ引っ込んだり硬くなっている方は、思っている以上にたくさんいます。
実際に食事介助しているのに、
目で見て、手で感じているはずなのに気がつかないだけです。
自分の興味がないから注意を向けることができないために
「見れども観えず」になっているのです。

通常、舌はしなやかに動くものです。
しなやかに動けるから、口腔内に散らばった食塊を再形成して
咽頭まで送り込むことができるのです。

  講演の後などによく質問されるのが
  「ためこんでしまって飲み込んでくれないのですが、
   どうしたら良いでしょうか?」

  という質問です。
  ためこんでしまう というのは、結果として起こっていることです。
  本来は 送り込みが困難 という事象の結果を見ているのです。

私の経験では
舌がかまぼこ板のように硬くなってしまっている方もいました。
舌も筋肉です。
筋肉が板のようになっては本来の多様な動きどころか
咽頭まで送り込むのが大変困難になってしまいます。

ためこんでいたり、飲み込みに時間がかかる方がいたら
口腔期と咽頭期をもう一度観察し直してみてください。

 

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対応に困った時にすべきこと

認知症のある方の言動のあれこれに対して
どう対応したら良いのか
困ってしまうことってあると思います。

そんな時にどうしていますか?

ここって、ものすごく誤解が多いところです。

ひとつは
どうしたら良いのか、考えたり話し合ったりすること

  きちんと観察・洞察ができていれば
  どうしたら良いのかは自然と浮かび上がってくるものです。

もうひとつは
認知症のある方の困りごとではなく
私たちスタッフの困りごとを改善しようとすること

  根本的なところで、すり替えが起こっているのです。

私は
認知症のある方が困っている場面そのものの観察に立ち返ります。
自身の関与も観察しなおします。

 自身の観察に自信がなければ言語化・文章化する
 いったん、自分の頭の中を外に出して(まさしく)見える化すると
 良いと思います。

不思議なもので(まさにだからこそ、と言うべきか)
一から観察し直してみると、見落としていた箇所に気がつけて
そこからブレークスルーの道が開けてきます。
後になってわかるのですが
実は、ポイントほど見落としていたり、見間違えているものなのです。。。

認知症のある方のBPSDや生活障害は
認知症のある方ご自身にとっても
ご家族やスタッフにとっても困りごとではありますが
同時にその困りごとそのものに解決へのヒントが存在しています。

一見、困りごとというカタチで表れる事象には
障害や症状や困難だけではなくて、同時に、能力も反映されているからです。

反映されている障害、症状、困難と能力を観察するのです。
(そのために知識の習得・概念の本質の理解が必要なのです)

そうすると
私の言語・非言語の関与も含めた環境に対して
認知症のある方がどのように感受し、判断し、応じていたのかを洞察することができます。

ここまでできれば
じゃあ、どうしたら認知症のある方と私たちが
お互いに困ることなく
能力を発揮しあって
イマ、ココという「場」で過ごせるのか
ということは自然と浮かび上がってくるものなのです。

対応の工夫は、考えることではないのです。

イマ、ココで何がその方に起こっているのか は
同じ方でもその時々で異なります。
言葉にして聞いてみないとわからないこともある一方で
言葉では表せないことや
言葉によって迎合や追従を無自覚に要請してしまうこともあります。

観察って
カンタンに思われているし
科学的ではないと思われていて
蔑ろにされがちですが
観察ほど、観察者の能力が求められるものはありません。
観察者の静かでかつ能動的な関与が求められるからです。
知識がなければ、見落としたり見間違えたりしてしまいます。
自身の言動に無自覚であったりコントロールできなければ
認知症のある方の能力を引き出すことは難しくなります。

同じ場面でも観察者が異なれば、得られる情報の量も深みも異なります。

観察は「客観性に欠ける」「科学的ではない」と言われがちですが
本当にそうでしょうか?
認知症のある方の状態はその時々で変動します。

検査やバッテリーをとった時といつも同じ状態ではありません。
検査やバッテリーは、確かに施行時の障害を明確に示してはいますが
施行時以外の状態像の異なる他の場面に検査結果を適用・援用することのほうが
現実的な根拠に欠けるのではありませんか?
 

実際には、検査・バッテリーは実施はしても、
その結果を対応に活用することは少ない。
検査・バッテリーはすべきことだからしているだけで
検査は検査、実践は実践と乖離している。
実践に活かすための検査とはなっていない。
例えば、
HDS-Rはとっても
その結果を対応に活かしてはいない
五角形模写課題はしたけれど
その結果をどう対応に活かすかは考えていない
というパターンだって多いのではありませんか?

私たちは評論家ではない
援助職なのに。。。

おそらく
無自覚には本当は感じている、わかっているのだと思います。
観察・洞察の有効性と実践の困難さを。
だからこそ否定する。

きちんと観察することの重要性や
観察するに値する知識の習得、本質の理解の必要性
自身の言動が無自覚に伝えてしまうことの意識化の重要性も
そのためには日々の地道な努力の蓄積が必要なことも

本当はわかっているけれど
大変なことだから、努力が必要なことだから、無意識に回避しているのでは?

観察が客観性や科学性に欠けるのではなく
欠けると言っている人の観察力が客観性や科学性に劣っているのであって
観察そのものが客観性や科学性に劣るものではないのです。
精度の高い観察を知らなかったり実践できない人が否定しているのです。

  いわゆる、抵抗と防衛です。

人文科学としての作業療法は
検査やバッテリーをとることで科学的であろうとするのではなくて
長い職業人生を賭けて
観察・洞察の確かさ、客観性、科学性を磨いていくのが本筋なのではないでしょうか?

そういった本当に地道な努力の蓄積よりも
各種の検査やバッテリーを数多く行うことのほうが
簡単だし、カッコ良いし、最先端をいってるように見えるし。。。
とか。。。?

認知症のある方の対応に困った時
結果として、表面的に現れる生活障害やBPSD
例えば、「歩けないのに立ち上がる」「帰宅要求が激しい」といった表現では
観察しているとは言えないのです。

観察とは
「歩けないのに立ち上がる」「帰宅要求が激しい」のは
どのような環境で
何をしようとしているのか
スタッフの関与はどのような非言語で
どういった言葉で関与したのか
を踏まえて
それらの言動に反映されている、
記憶や見当識やコミュニケーション能力、遂行機能などの障害や能力や特性を
まさしく観て察することです。

多くの人は、この過程をすっ飛ばしています。

表面的な事象への対処、つまり、
「どうしたら、立ち上がらなくなるか、帰宅要求がなくなるのか」を
考えています。

その時、その場での、その関係性の中での認知症のある方 を観察せずに
スタッフの困りごとをなくそうとして考えるのです。
だから、ハウツー的対処がはびこります。。。

「帰宅要求があったら、タオルたたみをさせる」
「お茶を飲ませる」etc。。。

これらは、気をそらせる対処にすぎません。
確かに、気をそらせた結果、帰宅要求を忘れてしまい、帰宅要求がなくなる
というケースはあるでしょう。

でも、こういった方法論に走ると
「いかに気をそらせるか」ということを
無自覚のうちに目的とするようになり
どれだけ上手に気をそらせるかを考えるようになり
上手に相手を騙すことや言いくるめることが良いケアということになってしまいます。
そんなバカなことがあるはずがありません。

認知症のある方に寄り添ったケアという理念の真逆の対応を追求することになり
非常に大きな矛盾した働き方をスタッフに要請することになります。
誠実で良心的なスタッフほど、辛い日々を送ることになります。。。

あちこちの現場で起こっていることではありませんか?

このような対応は
リハやケアの本質ではありません。
ただし、暮らしに近い場面ほど
時間稼ぎとして、その場しのぎとして
一時的に用いざるを得ない場面は出てきます。
時間稼ぎ、その場しのぎの引き出しを多く持っているにこしたことはありません。
ただ、やる方が
「今は本質的な対応はできない」
「時間稼ぎとして、お茶をにごすことをしている」
「本質的な対応ではなく、しのいでいる」
という自覚を持ってその場しのぎをすべきです。

ところが
いつの間にか、その場しのぎと本質とを混同したりすり替えている。。。
関与するスタッフ自身が何をしているのかわからなくなってしまっているのが
1番の問題だと思います。

ピンチはチャンス

対応に困った時ほど
実は、自らの成長の機会でもあります。

今までの自分の在り方をもう一段高め深めるチャンスなんです。

観察・洞察は技術です。
技術であれば習得可能です。
技術であるから「感受」が関与しますが、

「伝達」も可能ですし「指導」もすべきです。
ただし、その技術が凄ければ凄いほど、習得には時間がかかります。
習得までの過程でイヤというほど自身のできなさに直面させられるでしょう。
でも、その先があるのです。

生活障害やBPSDというカタチの現れを
認知症のある方が
能力をより合理的に発揮できるようになった結果として解消されていく時には
認知症のある方だけでなく
必ず、スタッフの側にも行動変容が起こります。

そうやって、職業人として鍛えられ、高められていきます。

 

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声かけ再考:感覚ー判断ー行動

イメージ_紫陽花

認知症のある方に対してトイレ誘導をする時に
どんな声かけをしていますか?

「トイレに行きましょうか?」と尋ねた時に
認知症のあるAさんが「ううん、行かない」と答えたから
トイレ誘導しなかったのに
別の職員が「おしっこ出る?」と尋ねたら
Aさんが「出る」って答えて誘導されてた。
さっき尋ねた時には「行かない」って言ったじゃん。なんで?
みたいな経験をしたことはありませんか?

答えは
感覚ー判断ー行動  を踏まえた声かけの有無です。

認知症のある方によって、その時々によって
違和感を感じる ー 尿意と判断できる ー 尿意を解消するための手段としての行動
もぞもぞする  ー おしっこ     ー トイレに行く(連れて行って)
のどの段階で理解できるのか、表現できるのかが異なります。

その方が理解できる言葉の段階を踏まえて尋ねることが重要です。

その方が「もぞもぞする」ことしかわからないのに
トイレに行きましょうか?では理解できなくて断られて当然です。

この時に大切なことは
「よろしければお手洗いにご案内いたしましょうか?」
と敬語で丁寧な言葉使いで尋ねることではないのです。

そして多くの場合に
認知症のある方の言語理解力は変動します。
昨日は理解できていたことが今日は理解できなかったということもありますし
尿意を訴えなくなってしまった方が再び尿意を訴えるようになることもあります。

変動の幅、その方の最大能力と困難な時の能力とを踏まえて
イマ、ココでの能力を確認しながら声かけを選択する

その時その時で
声かけの理解の段階を把握した上で意図的に選択した言葉で尋ねる

ということができるかどうかが重要なのです。

認知症のある方に対して
声かけの重要性を否定する人はいないと思います。
ただ、声かけについては
接遇的な意味合いでしか捉えていないのではないでしょうか。

私は、接遇的な意味合いではなくて
(接遇を否定しているわけではありません)
障害と能力の観点から
声かけについて捉え直すこと
ここでは、概念の階層性を確認しながら対応する
ことを提案しています。

クリスティーン・ブライデン氏の言った
「私たちとあなた方の世界に橋をかける」
ということを
「あなた方の立場」からも
少しでも現実化・具現化していきたいと思っています。

 

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私がしている音楽鑑賞の進行

音楽鑑賞というActivityについて
個々の方それぞれの能力と特性を発揮できるような援助をするために
私がしている工夫をご紹介します。

歌はもちろん人それぞれ好き嫌いがありますし
歌の楽しみ方も人それぞれ
音楽の世界に浸ってしんみりと聴き入りたい方もいれば
ワイワイ盛り上がるのが好きな方もいます。

集団で音楽鑑賞をする場合には
進行する人の中で、ある一線を明確化しておくと
参加している認知症のある方もいろいろな歌とその楽しみ方を
お互い許容してもらえるように感じています。

それでは実際の進行ですが
まず最初は
こちらからいろいろな曲目を提示します。
だいたい有名どころの懐メロや流行歌を提示します。
そこで曲の聴き方に注目して観察します。
好きな曲や聞き覚えのある曲は
前のめりになって聞いたり、表情も違っています。

この段階では
集団の凝集性を高めることと
参加された方の心身の状態の確認をします。
(もちろん事前に情報収集してありますが、最新の状態確認をします)
私が主導権をとった進行をします。

次に、あらかじめ作っておいた歌手一覧を見せながら
この中だったら誰の歌を聴いてみたいですか?とお一人ずつ尋ねます。
具体的に選べるように視覚情報として提示しながら尋ねていきます。
この時に、進行を止めないように、いろいろな歌をオートで流すようにしています。
 
  今は私一人で最大16名の方を対象に
  精神科作業療法として集団活動を実施していますから
  歌を視聴する流れを止めて、一人ずつ尋ねると
  せっかく高めた集団凝集性がなくなってしまい
  注意集中も保たれず
  不安になって帰宅要求などの訴えが出てきて
  集団活動が成り立たなくなってしまいますから
  このような工夫をしています。

この時に
「聞きたい歌を教えてください」と言葉で尋ねても
思い出せないから答えられない方でも
歌手名を提示されれば、名前から歌手を想起できる方は大勢います。

つまり、再生ではなく再認に働きかけています。
なおかつ、聴覚情報ではなく視覚情報として提示しています。

曲は、歌手名から検索した3曲くらいを
言葉で提示してその中から選んでいただいています。
曲名を聞けばどんな歌かイメージできる
再認できる方が多くいらっしゃいます。

最初にこちらからランダムに提示した時に
特に聞き入っていた歌手や曲があればこの時に追加で提示することもあります。

人によっては
お気に入りの歌手のお気に入りの曲がありますから
そのような時には、こちらから歌手名や曲名を提示せずに
オープンクエスチョンで
「聞きたい歌手は誰ですか?」
「聞きたい歌があれば教えてください」
と尋ねるようにしています。
再生可能な方にはなるべく再生を促す尋ね方をしています。

毎回、同じ歌手の同じ歌を選ぶ方もいれば
その時々で違う歌手の違う歌を選んだり
90歳代の方がキャンディーズや松田聖子を知っていたり
70歳代の方がピンクレディーを毎回必ずリクエストされることもあります。

こちらの問いかけに答えていただくことで
自然に会話の機会を設けることもできます。
ただし、近時記憶が低下している方が多い場合には
会話で長く時間を取ってしまうと注意集中が途切れてしまうので
集団を構成する方たちの状態に応じて
問いかけの仕方や回数にも注意しています。

また近時記憶が低下していると
(当院では1分前のことも忘れてしまう方が大勢います)
画面に映った歌手の名前や曲名を聞いてはいても忘れてしまいますから
曲の間奏の時には必ず歌手名と曲名を伝えるようにしています。
「あ、そうそう、この歌手だった」「この歌だった」
と思い出していただけるように。
これも再認に働きかける工夫です。

歌手や曲にまつわるエピソードを伝えるか
どの程度どんな風に伝えるかも
その時に集団を構成する方たちの状態に応じて判断しています。
基本はあんまり余分に私が話さないようにしていますが
近時記憶がもう少し保たれている方や注意集中が可能な方が多ければ
曲のイントロや終了直後にエピソードを伝えると
再認できることの幅が増えたり
その方が知っているエピソードを語ってくれたり
思い出話をしてくれたりなどの良い面もあると思います。

場面設定の基本として
重度の認知症のある方でも注意集中が保ちやすいように
集団の中で症状や障害が目立ちにくいように
と考えています。

音楽鑑賞ですから、途中で集中が途切れても目立たないし
口ずさみながら聞いても不自然ではないし
参加形態に幅があり自由度があるのが良いなぁと思っています。

誘導する時にも
「リハビリ」「OT」「活動」という言葉は使わずに
「歌を聞く会」「五木ひろしの歌を聞く」「美空ひばりの歌を聞く」
というように具体的にイメージしやすいように声かけしています。
その方が大好きな歌手や曲があれば、その歌手名や曲名を言って誘導しています。

「歌の会」というと
「歌は好きだけど、人前で歌うのは絶対イヤ」と拒否されることも多々あります。
「歌わない、聞くだけ」と歌わなくて良いことを担保していますし
そのイメージが伝わるように、あえて前の席ではなく後方の席へ誘導することもあります。
もちろん、歌いたくなったら口ずさんでもいい
(今はコロナ渦なのでマイクをお渡しすることはなくなりましたが)
歌いたい方には前に出てきてマイクを持って歌っていただいていました。

同時に
訴えの多い方への対応や
歩行不安定な方の立ち上がりや
帰宅要求のある方への対応なども行いますが
できるだけ場の円滑な運営が行えるように
どうしたらその方たち一人一人が集中できるようになるのか
何かコトが起こってから対応するのではなく
コトが起こる前に、起こらないように、予防対応的に考えています。
(これについては、長くなるので別の記事でお伝えします)

同じ時間、同じ空間を共有するけれど
個々の方それぞれの能力と特性を発揮できるような援助をするために
私がしている工夫をご紹介しました。

  2時間の精神科作業療法を音楽鑑賞だけでなく
  他の要素も組み合わせ、個人ごとのActivity提供という
  並行集団としての展開もしていますが

  長くなるので、こちらも別の記事でお伝えしていきます。

私としては、こういった意図と配慮のもとに
音楽鑑賞の場面を運営・進行しているのですが
人によっては「ただ歌を聞かせてるだけ」「誰でもできる」と思うようで
実際、そう言われたことがあり
その時の態度がちょっとあんまりで
私もその時は若かったし、ちょうど良いきっかけもあったので
進行を変わってもらったことがあります。
そしたら、今まであんなに歌いまくっていた方たちが
(当時はコロナ渦ではないので)
まったく歌わなくなり、一気にシーンとしてしまって
その人は「あれ?あれ?」と言っていました。
 
前の記事「多訴の方への対応」で書いた通り、
実践している人には
「何をしているか」「何が起こっているのか」わかるけれど
実践していない人には
皆目わからないということが起こっているのです。

歌を聞かせるだけの人には
さまざまな配慮のもとに複数の意図を持って進行しているのを
目の前で見せてもらってもわからないのです。
  「OTの不安への答え」で書いたように
  紀伊克昌先生や古澤正道先生のデモンストレーションを見ても
  過去の私には何をしているのか、さっぱりわからなかったように
でも、実践している人には一目瞭然で何をしているのかわかる。

このことは、
生活期にある方への食事介助やポジショニング設定、立ち上がり・歩行介助
認知症のある方への対応全般について言えることです。
同じコトが違うカタチで、ありとあらゆるところで起こっているんです。

たかが音楽鑑賞、されど音楽鑑賞
その場をどれだけ豊かにできるかどうか
運営する人の意図によって全然違ってきます。

耳タコかもしれませんが
スティーブ・ジョブズの言うとおり
「意図こそが重要」なんです。

「歌わせる」「聞かせる」のか
歌を聞くことを通して能力発揮の援助をしたいのか
表面的には同じように見えて
その意図のベクトルは真逆です。
そしてその意図こそが伝わっているのです。

他のActivityでも、まったく同じことが違うカタチで起こっています。

どのActivityが良いのか、という問題ではないのです。
「何をやらせようか」という言葉が出た時点で答えは決まっています。
  (野村克也の言う「負けに不思議の負けなし」というわけです)
「何をしていただいたら良いかしら?」と言葉だけを丁寧な表現にしても
中身は同じですから答えも決まっています。

もちろん、悩む人は、日々のリハやActivityに困るから悩んでいるわけで
仕事に対して、いい加減な人ではないからこそ、出てくる悩みです。
でも、悩み方を間違えているんです。
 
対象者の状態像と特性が把握できれば
どんなActivityが適切なのか、それはなぜなのかが
明確に浮かび上がってきます。

浮かび上がってこない時には評価が曖昧なんです。
だから、評価に立ち戻れば良いのです。

でも、多くの人は
評価、状態把握に立ちもどることをせずに
「Aが良いか、Bはどうだろう?何が良いかしら?」と
悩むのです。。。
そこは本来悩むところではなくて、実行するところなんです。
状態把握、評価を。

認知症のある方のActivityの選択が難しいのではなくて
状態把握、評価が難しいと自身の現状に向き合うところなんです。

自身の評価困難という現状に向き合うことを回避して
認知症のある方のActivity提供の困難さに
問題設定をすり替えてしまう。。。OTの現場あるあるです。

評価と検査を混同する。
評価を状態像把握ではなくて、
MMSEやHDS-Rや立方体透視図模写テストなどのバッテリーをとる
検査をすることと混同・すり替えてしまうのも
OTの現場あるあるです。
 
「OTの不安への答え」にも書いたとおりで
こういったすり替えや問題設定の問題は
リハやケアの現場であらゆる場面で起こっています。
 

 

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