感謝の気持ちでいっぱいです

イメージ_猫

すごく嬉しいことがありました。

ある研修会が企画されて
主催者と「ぜひたくさんの人に参加してほしいね」という話になり
過去に講師をお引き受けした研修会を主催された方々に連絡を取ってみました。

すっかりご無沙汰していたので半ば恐る恐るという気持ちもありましたが
実際には、ご周知へのご協力をご快諾いただけただけでなく
とても暖かいお言葉までいただき感謝の気持ちでいっぱいです。
こんな機会でもなければ、なかなかご連絡をすることもありませんでしたが
こんな風にしてもう一度ご縁が紡がれたことをとても嬉しく思いました。
還暦ってこんなことも起こるんだなーと感慨深い思いがいたしました。
  
ご縁の紡ぎ直しと新たなスタート
これから、どこかで出会う誰かとの新たなご縁ができることも楽しみです (^^)

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誤学習できる=正学習できる

中核症状とBPSD

誤学習できるということは
正の学習もできるということを意味します。

学習はできる
その方向がプラスの方向か、マイナスの方向かの違いで
その違いは、食形態・食具・介助方法含めた食環境の適否にあります。

食事介助を拒否する方
食事中の大声が止まらない方
口を開けてくれない方
ためこんで飲み込んでくれない方
たくさんの方が食べられるようになりました。

私は食べ方の観察ができるようになりました。
食べ方に反映されている困難も能力も特性も洞察することができるようになりました。
だから、重度の認知症のある方でも正の再学習を援助することが叶います。

逆に言えば
「〇〇という状態の人にどうしたらよいでしょうか?」
というカタチの質問には答えられません。
〇〇という状態を直接見てみないとわかりません。
食事介助を拒否するといっても、拒否する必然は人によってまったく違うからです。

食事中の大声が止まらないといっても、大声が出てしまう必然はまったく違うからです。
Aさんは、オーラルジスキネジアがあることを介助者側がまったく気がついておらず
適切な介助ができていなかったからであり
Bさんは、ポジショニングの不適合によって顎がズレてしまっていたからでした。

かきこみ食べをするからと、小さなスプーンを提供されても結局、かきこみ食べをしています。
Cさんは、上肢操作能力を十分に発揮できずにいてその代償としてかきこみ食べをしていたし
(手の問題)
Dさんは、とりこみ方を誤学習していたために代償としてかきこみ食べをしていました。
(口の問題)

口を開けてくれないと言われていた方の中には
Eさんは、原始反射様の動きが出ていることを介助者側が気づかず、口の中に食塊を入れられ続けてきたので口を開けるタイミングを図ることができなくなっていたし
Fさんは、パウチ状の栄養補助食品を押されることで水分と栄養を摂取していたので開口すると舌がパウチの口の形状に合わせてUの字型になってしまっていましたし
Gさんは、口輪筋が硬くなっていたので自身では食べる意思はあっても、おちょぼ口のようになってしまい開口できませんでした。

ためこんで飲み込んでくれないと言われた方は
Hさんは、口腔期が長い方で食塊が口の中に残っているから口を開けないだけでしたし
Iさんは、誤介助誤学習のために舌が板のように硬くなり送り込みができなくなっていましたし
Jさんは、オーラルジスキネジアのために送り込みに時間がかかっていました。

Aさん〜Jさん皆さん20分程度で完食できるようになりました。
皆さん状態像はまったく違いますし
私の対応も人それぞれ、変化に応じた対応をしていきました。

「大声 → 声を出さなくなる対応」
「かきこみ食べ → 小さなスプーン」
「口を開けてくれない → 開けてもらえる声かけ」
「溜め込んで口を開けてくれない → 口を開けてもらうスプーン操作」
などの「〇〇という時には△△すれば良い」というようなハウツーは、あるわけがないのです。

かつて、養老孟司が人に対して「あぁすればこうなる」なんてものはない
と喝破しましたが、なぜか、認知症のある方に対してみんなが求めているのが「ああすればこうなる」です。
そして、あまたある本や研修で伝えられているのも「〇〇という時には△△する」です。
だから、結果が出せないし
仮に、結果が出せたように見えても、いつの間にか別の問題が出てくるのです。
そのようなケースを繰り返し繰り返し見聞きしているはずなのに、
自身の思考回路や対応に疑問を持てずにいるのです。

HDS-Rが0/30点だったり
検査すらできなかったり
その場の会話が成り立たなかったり
介護拒否や介護抵抗の強い方や
大声や暴言暴力のある方などの重度の認知症のある方でも能力を発揮しながら暮らしています。

ただ、その能力発揮が不合理なだけなので合理的に発揮できるように援助すれば良いだけです。
だから、食べることの困難を協働して克服し、もう一度食べられるようになるのです。

認知症のある方や生活期にある方の場合に
食べる困難の多くは、実際には不適切な食事介助に適応した結果つまり誤介助誤学習が原因です。
誤学習ができるということは、正の学習もできるのです。
たくさんの方がもう一度食べられるようになる過程を協働してきましたが
そのたびに思うことは、
どんなに重度の認知症のある方でも能力を発揮しながら暮らしているということです。

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アイソカルゼリーたんぱくプラスが発売されました

ネスレさんから
アイソカルゼリーたんぱくプラスという商品が発売されました。

なんと!
この小さなゼリー1個で100kcal・タンパク9.5gが摂れます。
今までのアイソカルゼリーはタンパク3.0gでしたから
すごい商品ですよね。

味もちゃんとブドウとパインの味がします。
テクスチャーは、ちょっともっちりしてるから、
しっかりと舌で硬口蓋に押し付けて食べることが要請されます。

アイソカルゼリーは
介助方法に応用が効くのもオススメです。

食事介助において
スライス法も使いますが、必要に応じてもっといろいろな介助方法をしています。


(写真を撮るためにスプーンがちょっと傾いていますが)
こんな風に、あえてスプーンの先にだけ少しこんもりと食塊を載せることで
準備期の改善(上唇での取り込みを強化)がスムーズになることがあります。

また、スプーン介助で変なクセ(誤介助誤学習)がついてしまっている方の場合には
箸でゼリーをつまんで介助することでとりこみ方を変え食べ方の再学習もできます。

栄養的に、このゼリーを食べて欲しいけど
形態的に、ちょっと難しいようなケースでも


上の写真のように
スプーンで崩してよく潰してから提供すれば食べられるようになるケースもあります。

商品の詳細はこちらをご参照ください。

発売元のネスレさんのサイトにも掲載されています。
アイソカルブランドサイト
アイソカルゼリーたんぱくプラス紹介サイト
もご参照ください。

 

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かきこみ食べ→小さいスプーン?根底にある問題

かきこみ食べをする方ってよくいると思いますが
対応としてどうするかというと
たいていの場合に
かきこみ食べをしないようにと、箸や小さいスプーンが提供されるかと思います。
でも、それでかきこみ食べが解消されたかというと
小さいスプーンでもかきこみ食べをしてるんですよね。。。
当初の問題設定に対して実効的な対策となっていないのに
そこはスルーされるという。。。
そして、かきこみ食べも解消されないし
当初、なかった別の問題、例えば、吸い込み食べや誤嚥といった問題が
新たに出現してしまいます。
実際に、「かきこまずにすくって食べるトレー」で紹介した方は
かきこみ食べ→小さいスプーン→もっとかきこみ食べ→誤嚥性肺炎に至っていました。。。
現場あるあるです。。。

こういった、パターン化した対応ができるということは
〇〇という時には△△する、というパターン化した思考回路がベースにあるわけで
パターン化した方法論を単に当てはめているだけで
目の前にいる方の状態像を的確に把握できているわけではないのです。
根本的な問題はここにあります。

逆に言えば
先の記事で紹介したトレーだって万人に通用する方法論ではありません。
当然のことですが。
ただし、紹介した事例にはドンピシャ!的を射た対応だった、
つまり、事例の状態像を的確に把握できていたことの証左だったわけです。

蛇足ですけど
別のかきこみ食べをしていた方には
全介助で食塊のとりこみの練習をしたこともあります。
かきこみ食べをせざるを得ない必然が
上肢の操作能力にあるのか、口腔機能にあるのか、私はきちんと判断しています。
私は必ず、最初にその方の食べ方の総体を観察していますが
多くの人は、かきこみ食べをしているという判断が先にあって
その方の食べ方の総体を観察しないという現実があります。

多くの人は
自身の気になるところしか、見ていません。
観察が不十分なんです。
やることばかり考えるけれど、やる前に観なければ。
でも、観るに足る知識がないから観ることができない。
だから、やることで補償(防衛機制)してるんです。
これは、食事介助に限らず、
認知症のある方への声掛けやリハやポジショニング、Activityの提供などなど
対応全般に言えることです。

 
だからこそ、私たちが変われば対象者の方も変わるんです。

ここに、未来への希望があります。
私が情報発信する意義もここにあります。

つまり、養成の問題なんです。
 
私の話は具体的です。
聞いた人が汎化できるように思考過程を明確化しています。
自己努力を惜しまない人に必要な情報提供ができるレアな話です。
講演あるあるの
単なるハウツーではありませんし、
理想論・抽象論だけを語る(騙る)こともありません。
理想を具現化してきた事実をお伝えしています。

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認知症のある方へのActivity 現場あるあるの誤解その2

 

Activityって何のために認知症のある方に提供するのでしょう?

提供者側の考えによって
ずいぶん実態が異なるように感じています。

問題は
提供されたActivityについて
認知症のある方が
どのように感じ
どのように為していたのかを
どれだけ観察しているか
どれだけ確認しているか
どれだけ本音を語ってくれる関係性を構築しているのか
ということだと考えています。

知識があって
状態把握ができれば
適切なActivityを選択・提供できるだけでなく
提供した後の様子や発言から
何が起こっているのか
どうしたら良いのかもわかって適切に修正することができます。

選択・提供に悩む人は多いけど
事後確認・修正も大切だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

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認知症のある方へのActivity 現場あるあるの誤解その1

「認知症だから何かさせないと進行してしまう」
「徘徊しないように何かできることない?」
「やりたいことを尋ねたら何もないって言われた」
「やりたいことを提供したのにできなくなっていた」
「できないところは一緒にやるから大丈夫」

これらの言葉を
聞いたことのないOTも
言ってしまったことのないOTも
少ないのではないでしょうか?

私は未熟な時に、最後の言葉を言ってしまったことがあります。。。

認知症のある方で構成障害があると
隣で善意のOTが「ここをこうしてこうやって」と見本を見せても
再現できないケースが多々あります。
構成障害のある方に対して
「ここをこうしてこうやって」と見比べさせるのは
できないことを要請しているという非情な在り方です。
見本を見せてもできない認知症のある方に
動作介助をして何か作品が完成したとしても
認知症のある方に本当に達成感を感じていただけたことになるのでしょうか?
OTの脳みそが認知症のある方の手を動かしているに過ぎないのではないでしょうか?

大切なことは
構成障害を含めた障害像を把握し
代償という不合理な発揮も含めた能力を洞察し
「ここをこうしてこうやって」と言わなくても
認知症のある方が遂行できるActivityを選択・提供・環境調整できることであり
そして、目の前にいる認知症のある方自身にとっての意義を
傍にいるOTが感受し理解できることだと考えています。

認知症のある方へのActivity提供に関して
現場あるあるの誤解・課題について記載していきます。

 

 

 

 

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短期的なプラスを追うと長期的なマイナスを負う

認知症のある方への対応全般
生活障害やBPSDでも食事介助でも身体面のリハでもActivityでも
何についても言えることですが
短期的なメリットを追い求めて長期的なデメリットを作っている
つまり、自分で自分の首を絞めている
というのは現場あるあるです。

本当に適切な方策というのは
短期的にも長期的にも認知症のある方のメリットになるものです。

 

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桜が咲きましたね

11時30分になるところ…ということは

すっかり、更新がご無沙汰となってしまいました。
業務多忙により、お待たせしてしまい申し訳ありません。。。

桜が一気に花開きましたね。

新たな春が始まります。
きっと人それぞれの想いを胸にこの春を迎えられたことと思います。
頑張ってほしい。

老婆心ながら。。。
努力すれば願いが叶うわけではないけれど
努力が無駄になることなんて決してありません。

な、なんと!
私は今年還暦を迎えますが
(本当にあっという間でしたが。。。)
老年期なんて分野がなかった頃から働いてきて
ここまでしかできなかったなーという思いもありますけれど
積み上げてきたことには確信があります。
それは、なんといっても、目の前にいるたくさんの方から
有形無形に教えていただいたからこそ。

私は抽象論・理想論・総論を語ることに今も昔も興味がありません。
目の前にいる方に不利益なことは提供せずに済むように
できれば少しでも有益なことが為せるようにと必死でした。
今もきっとどこかにいる、必死でもがいている人の助けになるように
(それは過去のもがいていた私が最も欲していたものでもあります)
このブログを綴っていきます。
引き続きどうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m

 

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