Category: ホントにあった体験談

グループワークの功罪

グループワークには、グループワークの良さがあるし
「三人寄れば文殊の知恵」もあるとは思います。

他者の視点や考え方を知り
自身の思考を再構築することにもなりますし
協働作業を通して課題を達成するという体験も貴重です。

でも、それはベースに
参加メンバーに知識が教授・共有されているという前提があってこそ
成り立つ話だと思います。

以前にあるところで
認知症に関する一般の入門者向けの研修で
徘徊している方への対応をグループワークで検討させるように
みたいなほんわかとした依頼があって
その時は、依頼先におかしなことだと意見提出したことがあります。

一般の入門者向けの研修なんだから
きちんとした知識を提供することが最優先だということ
「徘徊している方」といっても、その方なりの徘徊する必然は千差万別で
話しかけ方とかも千差万別でひとくくりにはできないこと
適切な対応は自然と浮かび上がってくるもの
どうしたら良いのかは本来考えるものではない。
どうしたら良いのかわからない時は観察に立ち戻る
こちらが勝手に「あぁなのかな?」「こうなのかな?」と
勝手に推測するのは一番やってはいけないことだと。

グループワークって、偽の達成感を味あわせることもできてしまうんですよね。

達成すべき課題が明確で
ファシリテーターが優秀であれば
有意義なグループワークも可能
ですが
やってみたらわかるけど、案外難しいものです。
そうでないことも多々あります。。。

ましてや入門者同士が何を話し合えるというのでしょう?
知らない人同士が楽しく会話できてなんとなく達成感があって。とか
日頃の愚痴や不安を共有できた。とか
というパターンもあるのか、グループワークは楽しい!なんて人もいますが
達成すべき課題の達成度はどうだったのでしょう?
成果物は抽象論にとどまり明確には出せなかったけど
いろんな人と話せて楽しかったなんて本末転倒です。

たぶん、根本的な問題は
教えるべきことを教えられないという現状があるのだと思う。

そこには、二つの問題があって
認知症は脳の病気なんだから、
本来は、まず知識と技術で解決すべきことを解決しなければ
その人に寄り添うなんて大それたことはできないということが理解できていない。
だから、心意気、真心、優しさなんて
よくわからない、曖昧な、でも耳障りの良いことで対応できると思われている。
 
もう一つは
普段、現場でハウツー的対応しかしていないから
抽象化・言語化できないので他者に的確に伝達できないし
その自覚もできていないこと

徘徊している見知らぬ人に遭遇したら
警察通報の一択です。
警察官が来るまでの間、安全なところで待っていただけるように
余計な不安感を抱かせないように
してはいけないことは明確にあります。
望ましい対応は、その方その方によって異なりますから
それは会話をしながら探らなくちゃいけない。
その探り方は、基本の実践ができた次の段階で学ぶものです。
よく知りもしない人同士が話し合うようなことではないんです。。。
例えて言うならば、
道路で倒れている人がいました。
どうしたら良いのかを教えるのではなくて
どうしたら良いのかを考えましょうというグループワークを
救命救急の初心者コースを受講しにきた人にやらせるようなものです。
怖い、怖い。。。

対人援助職を養成する立場にいる人が監修していた部分でしたが
こういう人に教えてもらうんじゃ、学生も本質を理解することができなくて当然
現場に出てから困るだろうな。。。と思いました。

ずいぶん昔ですが
老健に実習に来た介護学生に
学校で認知症のことをどんな風に教わったのか尋ねたところ
「否定しちゃいけないって教わりました」と言われました。
そのほかは?って尋ねたけど
「それだけです」って。 
  
(まぁ、学生の言うことですから教えてもらっても
 咄嗟には答えられなかったということもあるかも知れませんので
 いくつか確認しました。)
近時記憶障害とは?
4大認知症とは?
ということも教えてもらっていなかったということがありました。
それじゃあ、現場に出てから困るよね。
どうして良いかわからなくて当然だと思いました。

OTだけじゃなくて、
ポジショニングも、食事介助もそうですけど
対人援助職の養成・教育・伝達の問題って本当に大きいと思います。

このことに関連して最近見つけたサイト
ふくしま国語塾の「指導」には
はっきりと書かれています。

  昨今の教育界では、「教えない教育」なるものが流行っています。
  知識・技術を与えない。しかし個性は求める。
  その結果、たとえば感想文を書かせれば、
  面白かったです、悲しかったです、など
  没個性の文章ばかりになる。
 
  知識・常識。型・技術・方法。
  これがあればこそ、
  自己表現と他者理解が可能になります。
  表現力や読解力を身につけさせたければ、
  まず、知識・技術を与えること。
  与えることをためらわない。
  その先でこそ、個性は輝きだすのです。

分野は違えど
知識・技術を教えることの必要性は共通しています。
知識と技術がないのに、どうやってちゃんと対応しろと言えるのか
本当に理解できません。。。

「認知症のある方に少しでも力になりたい」と
願うならば、その願いを支えるに足る知識と技術がなければ
役に立てるどころか、逆効果や迷惑になることすら起こり得ます。

  昔だったら
  実習の時に、
  「気持ちだけじゃダメなんだ」「知識と技術がなければダメなんだ」
  と自分の未熟さを痛切に体験・実感させられたものです。
  今は学生に成功体験を求められ求めさせるから
  学生はかりそめの成功体験を学んでしまう。。。
  就職して社会人として、一人の職業人として
  初めて自身の未熟さに向き合うことになり
  それはその人にとっても、周囲にとっても大変なことだと思います。

脳卒中後遺症のある方に少しでも力になりたいと
願う人がいくら願ったとしても、知識と技術がなければ逆効果になります。
かつては、過剰に安静をとらせて寝たきりになってしまった。
その反動もあって、過剰にがんばらせすぎて今度は痛みや拘縮を起こしてしまった。
寝たきりがいけないからと離床が推奨され、今度は座らせきりという問題が起きた。
それらを踏まえて、適切なリハが提供できるように
専門家としてのリハ職が要請されるようになった。

同じ脳の病気である認知症にも同様のことが起こっています。
昔は「恍惚の人」が代表するような時代もあった。
その反省も踏まえて、反動のように、優しく否定しないような対応が推奨された。
それだけでは対応しきれないということがわかってきていて
適切な対応とは何か?ということが問われるようになってきている。
 
今はまだ水面下での動きに留まっていて表面化してはいないけれど
「優しい対応をしてもそれだけでは認知症の問題は解決できない」
ことが誰の目にも明らかになってきているのではないでしょうか?
本当の専門家としての対応が要請されるようになってきている。

歴史から学ぶことって、とても大切なのではないでしょうか?

 

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ポジショニングの本質@褥瘡予防

認知症のある方や生活期にある方の褥瘡予防において
ポジショニングはとても重要な意味があります。

ただし、その意図を的確に実現できているか
見直すべき時期にいるとも考えています。

現場あるあるなのが
良い姿勢を作ろうとして
無理矢理最大可動域を設定しようとして
クッションをぎゅうぎゅうに詰め込んでしまう方法論です。
そのようなやり方では、一見見た目拘縮予防のために
最大可動域を保持しているように見えても
クッションを外した途端にキューッと身体が縮こまってしまっていませんか?
筋がリラックスした結果として、最大可動域を実現できているわけではなく
外力として無理矢理最大可動域を設定しているのですから
外力がなくなれば元の木阿弥も当然です。

良い姿勢を作るのではなくて
結果として良い姿勢になるように
そのココロは過剰な筋緊張からの解放です。
過剰な筋緊張から解放されれば筋組織の中を通っている毛細血管を拡張させ
血流を改善することが叶います。

褥瘡というと
その見た目から筋の挫滅や壊死などを思い浮かべるかと思いますが
褥瘡学会の定義を確認します。
「身体に加わった外力は骨と皮膚表層の間の軟部組織の血流を低下、あるいは停止させる。
 この状況が一定時間持続されると組織は 不可逆的な阻血性障害に陥り褥瘡となる。」

この定義を図示・簡略化すると
褥瘡とは外力によって血流阻害が生じた結果として起こる
外力とは圧迫と剪断力である
となります。

ところが
現実には軟部組織の毛細血管の血流阻害を引き起こすものには
もう一つあって
それが「拘縮」です。
拘縮の状態とは、ある筋もしくは筋群が
一定の方向に長時間収縮し続ける状態ですから
当該筋の中を通る毛細血管が潰されてしまって血流阻害が起こります。
図示すると下記のようになります。

つまり
褥瘡予防のためには
血流阻害を改善することが肝要で
そのために、1)圧迫 2)剪断力 3)拘縮 への対応がポイントとなります。
栄養補給も重要ではありますが、
血流阻害された状態では、いくら栄養付加しても効果がない
血流阻害が改善されて初めて意味をもたらすものとなります。
対象の方は高齢者が多いので、その方にとっての適量を見極めないと
高タンパクによる腎機能障害を引き起こしかねません。

 

褥瘡を予防し改善していくためには、前述した通り
1)圧迫 2)剪断力 3)拘縮 に対する対応がポイントです。
  
1)圧迫に対しては除圧
2)剪断力に対する商品としては、現段階では ジェルトロン が最善だと思います。
  商品特性については_こちら_をご参照ください。

   以前に他社の新品の褥瘡予防クッションを使っていたのに
   褥瘡ができてしまった方がいて
   ジェルトロンを10日間使用しただけで
   褥瘡が完治した方がいました。
 
3)拘縮予防については 筋緊張緩和が必要です。
これらいずれにも、姿勢は関わってきます。

褥瘡予防・改善の合言葉は「血流確保」!
そのための除圧、体位交換であり、座り直しであり、使用クッションの見直しであり
ポジショニングなのです。

ポジショニングというのは、とても重要ですが
何のためのポジショニングなのということが、現場では確認されないままに
「良い姿勢を作らなければ」という思い込みで為されていることが多々あります。
そして、その結果、効果がないどころか逆効果になっている。
ところが、善意のもとに為されていることだから
為されたことの適否についての検討が行われにくい。。。
現場あるあるです。
そして、どんどん拘縮がひどくなっていくけれど
すべてが対象者の状態のせいになってしまう。。。
「褥瘡予防のために良い姿勢を作ろう!
 クッションで最大可動域を保とう!」
という誤った実践が拡大再生産されてしまう。。。

リハやケアの分野での
誤解、手段と目的の混同やすり替えは本当にいろいろなところで散見されています。

知らないが為に
というよりも、中途半端な知識によって
善意が逆効果になっている現状をとても悲しく思います。

現状改善の方策は2つ

ひとつには
知識を学ぶ過程において
概念の本質を理解する という体験を担保することです。

中途半端な知識、聞きかじりの知識と概念の本質を理解する
ことはまったく異なります。

もうひとつは
目の前にいる対象者の方の言動を虚心に観察することです。
先入観や思い込みによって
見たいように事実を脚色して見るのではなく
事実を事実として観ることのトレーニングです。

現場あるあるなのが
まず観察するよりも先に
過去の似たような事例に対して有効だった方法論を思い浮かべながら
観察してしまう在り方です。

つまり、観察よりも判断が先にあるのです。
状態像の明確な把握よりも
ハウツーを当てはめる方法論が蔓延っています。

概念の本質を理解する
事実を事実として観察する
すると、本来はどうすべきだったのか、ということが浮かび上がり
適切に対応することができるようになり
従来の方法論との違いやその意味を明晰に認識できるようになります。

 

 

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「帰りたい」と言われたご家族は

認知症のある方に
「帰りたい」と言われたご家族は
「まだ帰れないのよ!」と答えることが多いようです。

ご家族も困ってしまって、
あるいは病院や施設に迷惑をかけないようにと慮ってか
なんとか言って聞かせようと思ってのことなのかもしれません。

私はそんな時には
「まだ帰れないんだって」と答えてください
と伝えています。

「まだ帰れないのよ」という言葉は
認知症のある方の立場に立ってみると
ご家族が施設・病院職員の側に立ってしまったように感じられて
認知症のある方VS施設・病院職員+ご家族みたいな構図として受け取られて
疎外感を感じてしまうんじゃないかなーと思っています。
言い方によっては
「まだ帰れるわけないじゃないの。
 どうしてそれがわからないの?」
というニュアンスを伝えてしまうかもしれません。

「まだ帰れないんだって」という言葉は
ご家族の判断ではなく、帰れないのは施設・病院の判断なのだ
というニュアンス
を伝えることができます。
(実際に判断するのは施設・病院の側ですし)

認知症のある方が「ご家族は自分の味方」だと感じられるように
現実問題としてはご自宅に帰るのが難しかったとしても
「まだ帰れないんだって」と言うことで
気持ちは認知症のある方の側にあるのだと
暗黙のうちに伝えてほしいと思います。

 

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卒後養成の課題

イメージ_猫

実習がクリニカルクラークシップ(CCS)に移行したことに伴い
今後就職先での卒後養成をどう組み立てていくかということが
ますます問われるようになると考えています。

資格のない学生が
安心して安全に体験学習が行えるようにするために
卒前の実習がCCSへ移行するのは理の当然なのでしょう。

一方で
従来型の実習に比し、どうしても主体的な取り組みとはなりにくい構造でもあります。
つまり、学生としての体験学習はしたが
一人の療法士としての体験学習をしていない人を
どのように職場で従事させるか、養成していくかという問題が起こります。

職場によっては
かなりシステマチックに卒後養成に取り組んでいる施設もあるようですが
今後卒後養成の充実度のばらつきが顕在化してくるのではないでしょうか。

今はどの分野の人も忙しい日々を送っている人ばかりだと思います。
一方で働き方改革が進められ(このこと自体はもっともなことですが)
皮肉にもより一層時間的制約が厳しくなったと感じている人もいるのではないでしょうか。

私が就職した頃に比べると
論文をオンラインで読めるようになったり
本も多数出版されるようになり、動画も付属していたり
研修会も協会や士会以外の民間の研修会主催団体が多数出てきて
学ぶ環境はものすごく豊かになってきたと感じています。

学ぼうとする人はどんどん学べるような環境が整ってきている一方で
そうでない人もますます増える構造にある。。。

  どんな世界もピンキリですし
  2:6:2の法則もありますし
  自己責任ですから言ったってキリがないし
  
組織として、専門職としての最低限担保したいラインを
どこに置くのかが
問われるようになってきたのではないでしょうか。
もう既に作業療法士は居てくれればありがたいという職種ではなくなっています。

大きな規模の施設にも、小規模の施設にも
個々それぞれの課題が顕在化されつつあるのではないでしょうか。

あちこちで開催される研修会の大多数が机上の知識伝達型です。
専門職として、知識の習得は必須ではありますが
「聞いたことがある」レベルにとどまってしまうようでは
臨床家として実践に活用できているとは言えません。

認知症の分野で言えば
基礎的な知識提供型や実践紹介などは数多くあれど
それらを結びつける一番肝心な
知識をどのように活かすのか
知識と実践を結びつける臨床思考解説型の研修会は
とても少ないのが現状です。

知識の伝達は知識伝達
ハウツー的実践はハウツーとして
乖離された伝達がなされがちな現状があります。

ポジショニングしかり、食事介助しかり、Activityしかり。。。

また
先の記事 でも書いてきたように
問題設定の問題というのは認知症の分野で頻出していますし
おそらくOTの関与する他の分野でも潜在しているはずです。

臨床家は
結局のところ、OJTで育っていくものと感じています。
知識と技術は、その時々で深め広げていくもの。

限られた時間とエネルギーの中で
どうしたら、良い作業療法士を育成できるのか
問題設定の問題に絡め取られずに
手段と目的の混同やすり替えに自覚的になれるようにするために
どうしたら良いのか

あるあるなのが
スローガンを立てることですが
混同しないようにしましょう、すり替えないようにしましょう
といくら唱えても改善できるはずがありません。

混同していない人、すり替えない人は
混同やすり替えをしている人がすぐにわかりますが
混同している人は、混同していない人との区別ができません。
混同しないことがどういうことかわからないので
行動を修正することもできません。

まさしく、混同するなと言うのではなく
混同しないように指導することが必要なのです。

メタ認識の問題ですが
現場で切実に必要なのに
研修会で教えてくれることはありません。
それどころか、研修会で混同の具体例を開陳されることのなんと多いことか。。。

私が
どの分野にも共通する、臨床家として
最低限必須の、これだけは習得させるべきと考えているのは
目標設定です。

目標設定さえ、目標というカタチで設定できれば
なんちゃってOTにならずに
自分で自分を育てていける
対象者の不利益を回避することができると考えています。

目標設定は
学校で習ったけど、わかったようなわからないような。。。とか
実習中に指導者に尋ねても
「そのうちわかるよ」
「頭ではわかっているけど言葉にできないだけだから気にしないでいいよ」
などと励まされてるんだか、誤魔化されてるんだかわからない。
いった体験をしてきた。。。とか
実は、自分の目標設定って自信がない。。。とか
後輩や学生に教えるのに困ってる。。。という人でも
目標を目標というカタチで設定できるように
自分でトレーニングをすれば良いだけです。

しかも、目標を目標というカタチで設定できるようになるということは
目標設定の上達と同時に
概念の本質を理解し、実践に活かすという
メタ認識・メタ能力を向上させる
ことにもなります。

メタ認識・メタ能力そのものをトレーニングすることは難しいけれど
目標設定の過程を通して
メタ認識・メタ能力をトレーニングすることは可能です。

若手作業療法士には、一石二鳥!
超オススメですよ (^^)

本当に概念の本質を理解し、実践に活かすことができる人は
目標となんちゃって目標の区別ができます。

リハやケアの分野で蔓延している
「一見正しそうで、よくよく考えるとおかしなこと」にも
気がつけるようになります。
本来はどうすべきだったのか、わかるようになります。
そして、おかしなことなのにどうして広まってしまったのか
ということもわかるようになります。

でも、概念の本質を理解し、実践に活かすことをしていない人は
「みんなが言ってるからおかしくないじゃん」
「言葉遊びなんじゃないの?」
としか、思えないのです。
そして、目標となんちゃって目標の区別がつかないのです。

私としては、
卒後養成のいの一番に、目標設定のトレーニングをオススメします。
仮に、組織として取り組みがなかったとしても
たった一人、自分一人だけでもトレーニングすることが可能です。

目標設定やそのトレーニング法については、
すでに記事にしてありますので
あちこち検索してみてください。

 

 

 

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声かけ再考:感覚ー判断ー行動

イメージ_紫陽花

認知症のある方に対してトイレ誘導をする時に
どんな声かけをしていますか?

「トイレに行きましょうか?」と尋ねた時に
認知症のあるAさんが「ううん、行かない」と答えたから
トイレ誘導しなかったのに
別の職員が「おしっこ出る?」と尋ねたら
Aさんが「出る」って答えて誘導されてた。
さっき尋ねた時には「行かない」って言ったじゃん。なんで?
みたいな経験をしたことはありませんか?

答えは
感覚ー判断ー行動  を踏まえた声かけの有無です。

認知症のある方によって、その時々によって
違和感を感じる ー 尿意と判断できる ー 尿意を解消するための手段としての行動
もぞもぞする  ー おしっこ     ー トイレに行く(連れて行って)
のどの段階で理解できるのか、表現できるのかが異なります。

その方が理解できる言葉の段階を踏まえて尋ねることが重要です。

その方が「もぞもぞする」ことしかわからないのに
トイレに行きましょうか?では理解できなくて断られて当然です。

この時に大切なことは
「よろしければお手洗いにご案内いたしましょうか?」
と敬語で丁寧な言葉使いで尋ねることではないのです。

そして多くの場合に
認知症のある方の言語理解力は変動します。
昨日は理解できていたことが今日は理解できなかったということもありますし
尿意を訴えなくなってしまった方が再び尿意を訴えるようになることもあります。

変動の幅、その方の最大能力と困難な時の能力とを踏まえて
イマ、ココでの能力を確認しながら声かけを選択する

その時その時で
声かけの理解の段階を把握した上で意図的に選択した言葉で尋ねる

ということができるかどうかが重要なのです。

認知症のある方に対して
声かけの重要性を否定する人はいないと思います。
ただ、声かけについては
接遇的な意味合いでしか捉えていないのではないでしょうか。

私は、接遇的な意味合いではなくて
(接遇を否定しているわけではありません)
障害と能力の観点から
声かけについて捉え直すこと
ここでは、概念の階層性を確認しながら対応する
ことを提案しています。

クリスティーン・ブライデン氏の言った
「私たちとあなた方の世界に橋をかける」
ということを
「あなた方の立場」からも
少しでも現実化・具現化していきたいと思っています。

 

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他部門連携:ポジショニングのちょっとした工夫

他職種に
ポジショニングを説明する時に
設定した時の写真をとって
設定方法を書いて
注意事項も書くのですが
お部屋に掲示しても複数のクッションがあると
設定部位を間違えられてしまいます。

そこで
「対象に工程を語らせる」

クッションに
「どの部位にどう設定するのか」
書いたものをテプラで貼付してみました。

臥床時は赤色のテプラ、離床時は青色のテプラ
と色も変えて混同しないように工夫しました。

これでも間違えられることはありますが
頻度は激減しました。

設定方法について
質問したり確認してくれる人は良いのですが
「設定を間違える」という時点で
設定とその人の実践とに乖離があることがわからない
もしくは
乖離がきたすマイナスがわからない

ことを意味しているので
間違えるなと、言うのではなく
間違えにくいように、方法を提示する

ようにしています。

以前に何かの記事で
「施錠を忘れないように気をつけましょう」と言うのではなく
「施錠を忘れないような仕組みを考える」

という記事を書きましたが、その一例です。
 
再現性の担保についての工夫を
ポジショニングを例に紹介しました。

さて、
お気づきの方もいると思いますが
「対象に工程を語らせる」とは
認知症のある方への対応と同じことをしています。

そのココロについては、別の記事でお伝えします。

 

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筋力低下廃用論に惑わされない

中核症状とBPSD

高齢→廃用・筋力低下 といった論調は
一見正当のように見えるので
リハやケアの分野ではよく聞く考え方ですが
疑問を抱いたことはありませんか?

高齢者に「筋力低下」と判断して
「立ち上がり」をリハプログラムとして提供している方は
とても多いと思います。
筋力低下の判断根拠として本当にMMTをしましたか?
MMTがどの段階であれば筋力低下で、
どの段階であれば筋力OKなのでしょうか?

私は過去に複数のALSの方を担当したことがありますが
筋力低下とは、まさしく力が入らない状態です。

CVA後遺症や認知症のある方など生活期にあって
「筋力低下」と判断された方々との状態は全く違います。

見た目、「立ちあがれない」からといって
「筋力低下」 とは限りません。

生活期にある方の場合
立ち上がり時に腰背部の筋肉が同時収縮を起こしてしまって
個々の筋力はあるのに総体として立てない身体
なっている例は枚挙にいとまがありません。

筋力が低下しているのではなくて
筋力の使い方、身体の働きが下手になっているのです。

以前、老健に勤務している時に
担当のPTが立ち上がりも含めた個別リハをやっていましたが
立ち上がりが自力で行えず、ずっと介助されていました。
その方に私が座る練習だけして、
立ち上がりは全介助で行うという

身体の使い方の再学習を行ったら
一人で立ち上がれるようになって
「あれ?立てた?」と驚かれたことがありました。
同じようなケースを多数経験しています。
 
老健ですから、個別リハの他にも生活リハとして
食事やおやつや排泄介助の時にも立ち上がれるように援助がなされます。
一日何回になるでしょう?
廃用ではないんです。

筋力強化や立ち上がりではなくて
身体の使い方の再学習を行って
立ち上がりができるようになったケースは枚挙にいとまがありません。
しかも、重度の認知症のある方でも可能です。

末梢の問題ではなくて
身体各部の協調性の問題、中枢の問題なんです。

立ち上がれない→筋力強化 という考え方は
身体協調性の低下を筋力で代償しようとさせるので
身体の使い方の再学習をせずに
立ち上がり100回なんて、効果がないどころか逆効果になってしまいます。

リハやケアの分野では
一見正当そうに見えて、その実不適切なことがたくさん流布しています。
「立ち上がり100回」もその一つです。
過剰な同時収縮によって
腰を痛めたり、身体が硬くなってADLが低下してしまいます。
今すぐにそんなことはやめて、
「座る練習」を取り入れていただきたいと思います。

立ち上がりができない方は
たいてい、座り方も上手にはできません。
どさっと後方にひっくり返るように座ります。

できないことを過剰努力させてやらせるのではなく
努力の方向を変えて、できることのでき方をよくしていく。

「座る練習」でのポイントは重心の移動方向を適切に導く ことです。
「立ち上がり」は全介助で
 力を入れない、踏ん張らない、身体の動きと重さを活用する ことがポイントです。
詳細はあちこちで記事にしていますから検索してみてください。

 

 

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私が行っている集団リハ@認知症治療病棟


 
私が集団を運営する時には
並行集団を活用しています。
同じ場所、時間を共有するけれど
人によって何をするかは違う。。。という集団です。

課題集団(全員が同じことをする)を用いる時には
参加形態に許容性のある体操や音楽鑑賞を行います。

認知症のある方に対して
レク的にゲーム的なActivityを導入しようと
することが多いようですが
ゲームって難しいんですよね。

どんな簡単なゲームでもゲームにはルールがあります。
ゲームを楽しむことができるためには
 1)ルールの説明を理解でき
 2)理解したルールを覚えておき
 3)覚えたルールに則って行動する
という能力が要請されます。
近時記憶障害が重度な認知症のある方には、実は最も苦手な課題なんです。
だから、私はゲームは行っていません。

今日は
精神科病院の認知症治療病棟で
2時間の精神科作業療法を重度の認知症のある方に対して
どのように組み立てて実践しているのか、お伝えします。

最初に音楽鑑賞を行います。
音楽鑑賞の導入では、誰もがよく知っている有名な懐メロを流して
私が主導権をとった進行をして集団凝集性を高めるようにしています。
その後、「私がしている音楽鑑賞の進行」で書いたように
参加者ごとにリクエストを尋ねていきます。

音楽鑑賞後には水分補給を行います。
水分摂取しながら鑑賞を継続できるように
オートで曲を流していきます。
この時に飲み物の準備や配膳・下膳を行います。
お一人お一人のペースで水分摂取していただきます。
それはメリットでもあるのですが、
どうしても集団凝集性が下がってしまうので
もう一度集団凝集性を高めるために体操をします。
手続き記憶を活用できるように
ラジオ体操第一とみんなの体操を行っています。

その後、後半は鑑賞とActivityを並行して行います。
Activityは個人ごとに提供しています。
(書字やスクラッチアート、塗り絵、ちぎり絵、毛糸モップ、指編み、間違い探し等)

  役割分担してみんなで大きな作品を作る
  ということは、考えがあってやっていません。
  いずれ別の機会に説明します。

16名の集団に対して
音楽鑑賞とActivityを並行して提供し
Activityも個人ごとに提供するという二重の並行集団を作っています。
(今は半数の8名の方がActivityを実施しています)
16名の中には帰宅要求で落ち着かない方や
注意散漫な方や訴えの多い方もいますし
立ち上がって歩き出したら転倒のリスクのある方もいますし
褥瘡予防のために途中で除圧を目的とした介助立位の機会を設けたりと
私にも同時並行課題、注意分散能力を要求されるので大変ではありますが
だいぶ鍛えられてきました (^^;

最後は今日の流れを振り返った後に
締めくくりとしていつも同じ曲を流しています。
毎回同じ曲を流すことで「終わり」を印象付けることもできますし
スーパーでレジが立て込んできたら
ビートルズの「Help」が流れるのと同じように
看護介護職員へ「終わったからお迎えお願い」という合図にもなっています。

個人ごとに異なるActivityを提供するという並行集団を
円滑に運営するためのポイントは、準備をきちんと行うということです。
「段取り8割」ってよく言いますけど
まさしくその通りで
その方が遂行しやすいように
Activityの遂行方法を言葉ではなく場面に語らせる・対象に語らせる
ように準備しておく
 ということです。
(詳細はあちこちで書いていますので検索してください)

人によっては、
1分前のことも忘れてしまう方や
HDS-R実施困難な方でも

遂行方法を場面に語らせるように準備をしておけば
介助や声掛けをせずとも一人でActivityに取り組めることは多々あります
というか、それを念頭に考えています。。。

現場あるあるの誤解は
「HDS-RやMMSEの得点が低いからゲームに参加してもらったけど
 ペットボトルボーリングや輪投げや風船バレーもできない
 やっぱり認知症が重度だからしょうがないね」
というものです。

重度の方にゲームをさせたら、できなくて当然です。
仮に、できたとしても
一つひとつ何をするか指示されて、
その通りにしただけで、意味がわからなければ
その場褒められたとしても本当に達成感があるものでしょうか?

近時記憶障害が重度でも
手続き記憶の活用や遂行機能障害を的確に評価することによって
自身で行えるような場面設定の工夫の余地は生まれます。

 もしも、マンツーマンで個別で対応できるのであれば
 選択肢はもっと広がります。

 このあたりは、老健に勤務していた時に身体面認知面それぞれの
 自主トレ立案・提供を頑張ってきたことが
 下地となって役立っていると感じています。
 
並行集団でActivityを行えば
他人と比べる、比べられることがないので
実施に際して不安感が少しは減るのも良いところじゃないかな
と感じています。

 そもそも、並行集団って社会そのものなんですよね。
 いろいろな人がいる。
 いろいろなことをしている。
 ひととき、同じ時間と同じ場を共有している

Activityを導入するときに
多くの方がおっしゃいます。
「難しいことはできない」「私はバカだから」「不器用だから」

そう感じるに足るだけの失敗体験を積み重ねてきているのです。
だからこそ、Activityの仕上がりの綺麗さには留意していますし
ましてや、幼稚な下絵の塗り絵や輪投げなど
見た目が幼児向けのような課題を提供することは決してありません。

なお、この記事は
精神科病院の認知症治療病棟に勤務している作業療法士が
たった一人でどうやって
「集団」で
「2時間」の間
「対象者の方に有意義な作業療法」を
実施・提供・運営するかという観点で書いたものです。

職場環境や施設特性や対象者の状態像が変われば
また異なる方法論の方が適切ということになります。

 

 

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