原因と思っていたことが
実は、結果だったということも起こり得ます。
盲信してしまうのは本当に怖いと感じています。
正常より低下しているような状態を目の前にすると
どうしても、その低下が原因と判断してしまいがちですが
実は、結果だったということも起こり得ます。
例えば
食事場面において
喉頭挙上の動きが悪いという事実があったとして
その事実をどれだけ科学的に客観視できるように
テクノロジーが進歩するのはとても良いことだと思います。
けれど
「喉頭挙上の動きが悪い」という事実があるということと
「喉頭挙上の動きが悪い『から』上手に食べられない」という『原因』とは別の話であって
『事実』と『原因』と混同してはいけないと考えています。
もしかしたら
その『事実』は他の何らかの理由や必然があって『結果』として起こっているのかもしれません。
今まで視覚化できなかった『事実』を明確化できるようになったからといって
そして、その『事実』が通常とは異なるからといって
目の前の困難が『事実』によって引き起こされているとは限らない
他の理由や必然があって
『結果』として起こっている『事実』なのかもしれません。
その判断は私たち人間にしか、できない。
認知症のある方や生活期の方の食事介助においては顕著です。
不適切なスプーン操作を続けていると
認知症のある方が本来持っている準備期の能力低下をきたしてしまうので
結果として口腔期が乱れてしまい
次に咽頭期が低下してしまいます。
ところが、
適切なスプーン操作を続けると
認知症のある方が本来持っている準備期の能力発揮を促すので
口腔期の能力が戻り
咽頭期まで戻ってくる
ということも現実に起こっています。
認知症のある方の咽頭期の能力低下という『事実』は
『原因』と思われていたけれど
実は、不適切なスプーン操作の『結果』だった
ということが現実に起こっているのです。
だからこそ、変えられることもある。
そして
同じコトが食事介助以外の場面でも違うカタチで起こっている。
科学技術の進歩によって
今まで知ることができなかったことを平等に誰もが認識できるようになるのは
素晴らしいことだと思う。
でも
事実と原因と結果とは違う
原因と思われていたことが
実は結果だったということも起こり得る。
思考回路が因果関係論的なICIDHに染まっていると
どうしても新事実発見→原因発見→原因改善のように考えてしまいがちだけれども
相互関係論的なICFの思考回路を習得することによって
新たな知見を過大評価も過小評価もせずに
事実を事実として組み込んだ現状認識、評価、アセスメントに結びつくのだと考えています。
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