仕事に必要なことは仕事で出会う

仕事で困ることは良いことなんです。

仕事そのものが自己研鑽の場にもなり得ます。
自身のブラッシュアップに必要な知識と技術には
対象者との出会いというカタチを通して遭遇します。

今の知識ではわからない、あるいは整合性のある説明が困難なケースや
仮説をもとにアプローチしてみたが、思ったほどの効果が現れなかったり
そんな時に、今一度、最初に戻って情報収集を行います。
観察場面を増やしたり
関連知識を調べたり
そうすると、見落としていたことに気がついたり
新たな展開に気がつくことができたりします。

ピンチはチャンス
成長へのステップアップへのチャンス
なんです。

ところが
ピンチをピンチとして受け止めることを回避する人たちもいるんです。
自分が困らないように
事実を捻じ曲げて事実と異なる解釈に基づいた対応を行い
しかも、PDCAを回さないから永遠に知らんぷりをすることができる、という。。。
それもまたその人たちの、まさしく自己責任ですけれど。。。
(そういう人たちの上司であれば話は別ですが)

そのようなあり方しかしてこなかった人たちが
中堅やベテランと呼ばれる年齢になった時の姿をよく知っています。
ずっと学ぶことから逃げていたので学ぶことがもうできなくなっているんです。
今更研修にも行けなくなります。
論文や図書や職能団体からの情報収集もしていないので
一般的な潮流を知ることすらない。。。
外の世界に触れることがないので自己防衛に徹することが可能なんだと思います。

困ることは辛いけれど、困ることができるというのは良いことなんです。
困ることすらできないような人になっちゃいけません。

今のリハの報酬体系では
対象者の方は、セラピストを選ぶことができません。
自分や自分の大切な人は、知識と技術がある信頼できるセラピストに担当してもらいたいじゃないですか。

もしかしたら、
臨床1年目の人は
職場に慣れることで精一杯、担当したケースのリハで精一杯で
生活の場も変わっていたりしたら
社会人1年目として初体験のことばかりで
毎日が必死で勉強するなんて余裕もなく
帰宅したらバタンキューの毎日かもしれません。

今が大変で辛いかもしれませんが
そういった日々に鍛えられてる最中なのだと思って頑張ってほしい。
かくいう私も1年目は大変でした。
ToDoリストを作ると、項目ばっかり増える一方で
なかなか項目を減らすことができずリストを確認することすら苦痛だったことを覚えています。
そんな私でもいつしか「よっしーさんは仕事が早い」と言われるようになりました。
 
私が初めて老健に勤務した時には
老年期なんて分野がなくて、成書も文献もなくて、まったくの手探りで仕事をしていました。
目の前の方だけが頼りでした。
でも、それが良かったのでしょうね。
目の前の方から学ぶという臨床姿勢を鍛え直されたのだと思います。
良いと言われていることはまずやってみる。
やり方がマズくて効果が出ないのでは失礼だし申し訳ないから
的確に実践できるように準備をする。
そこまでしてやってみたのに効果が出ない時には
目の前の方には適切ではないと判断する。
何がどうよくなかったのか考える。
効果が出た時にも何がどう良かったのか考える。
そうするしかなかったとはいえ、今思えば最も適切な実践でした。

自分のできなさを自覚できていれば
必要な時に必要な出会いがあります。
本や文献だったり情報だったり研修会だったり人だったり。
それらのきっかけを作ってくれるのは、目の前にいる対象者の方です。
対象者の方に善き実践ができる過程を通して自身の成長にもつながるのです。
リハビリテーションというのは、徹頭徹尾、対象者の方との協働作業なので
対象者の方に善き結果が出る、行動変容が起こる時には必ず自身にも行動変容が起こります。

そうやって、対人援助職として鍛えられていきます。
だから、困ることは良いことなのです。
困ることがないのは、精神的にはラクなのかもしれませんが
そこから、もう成長できないということを意味しています。

私は、OTとして40年働いてきましたが
今だに困り考え情報収集を蓄積しながら働いています。
そして日々発見を重ねています。

対象者の能力の素晴らしさ、人間の脳を含めた身体の働きの可塑性の素晴らしさに目を見張る日々です。

 

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声かけの工夫

5本箸

基本中の基本ではありますが
参考になる方もいると思うので掲載します。

認知症のある方に声をかける時には
言語理解力に合わせた声かけをしています。
つまり、まず最初に言語理解力を評価できている必要があります。

ところが
現実には、この過程をすっ飛ばしている人がとても多いのです。
その時その場での言語理解力に応じた対応をしていないので
拒否されたり、合目的的な言動を促せないのは当然です。
逆に言えば
その時その場での言語理解力に応じた対応をすれば
拒否されることが減り、合目的的な言動を促せるようになります。

どういうことかというと
たとえば、認知症のある方をトイレ誘導しようとして腕を引っ張る人もいます。
もちろん、この時職員は無理やり強く引っ張るわけではなく動作介助の一環として行うわけです。
ところが、その方の立場に立ってみれば
自分で歩くことはできるのに
「トイレ行きますよ」と言われてトイレに向かおうとしていたのに
足を出すより先に腕を引っ張られて怖かった、だから余計に足が前に出なかった
すると、余計に腕を引っ張られたから「嫌!怖い!」と発言した。

似たような場面を見聞きしたことのある人は少なくないと思います。

上述の場面には職員側の問題が複数あるわけですが
それは別の機会に説明するとして
ここでは、言語理解力の評価に的を絞って記載していきます。

 

 

1)まず、アイコンタクトをとる
2)行動の目的を説明する
  (場合によってはここを割愛することもあります。
   目的の言葉ではなく、手段・方法の言葉を使った方が良い場合など)
3)行動を1工程ずつ分けて何をしてほしいか説明する
4)行った行動が適切であったことを伝える

たとえば
車椅子からベッドに移乗してほしい時には
いきなり「〇〇さん、ここ(手すり)につかまって立ってください」と言うのではなく
1)「〇〇さん」と正面から顔を見ながら声をかけます。
2)ここは〇〇さんの言語理解力に応じて方法を選択します。
  「ベッドに移ってください」もありだし
  「こちらにおかけください」もありだし
  「(ベッドをポンポンと叩いてから)どうぞ」もありです。
  目的の言葉ではなく手段・方法の言葉を使った方が良い場合は割愛します。
3)ここも〇〇さんの移乗能力と言語理解に応じて言葉を選択しますが
  「操作対象を眼で見ることを促す」
  「1工程ずつ分ける」
  「必要であれば最小限の言葉と手差しで伝える」
   例:手すりにつかまることが必要であれば、「どうぞ」と言いながら手すりを手で指し示す
     手すりをつかんだことを確認してから
     「どうぞ」と言いながらベッドを指し示す
4)「完璧です」「バッチリです」「OKです」「ありがとうございました」など
  笑顔で端的な言葉で「行った行動が良かった」ことを伝えます。

認知症のある方への声かけの工夫とは「優しく」「丁寧に」「否定しない」などの接遇に限りません。
「こちらのベッドに移乗していただいてもよろしいでしょうか」
という表現では理解・遂行できない方もいます。
そこだけを切り取って「認知症だからできない」と判断して移乗を全介助してはもったいないです。

本来、人は誰でも生きている限り能力を発揮しています。
ただ、能力は状況によりけり、発揮されるものです。
支持的な環境ではできることでも、プレッシャーのかかる環境ではできないことはよくあることです。
人の成長成熟とは、どんな環境であっても能力を発揮できるようになっていくことです。
認知症という病気であっても、かつてはその過程にいたのです。
たとえ認知症が進行しても限定した環境であれば、できることは多々あります。
認知症のある方がどれだけ円滑に能力を発揮できるかは
私たちが、その限定した環境をいかに見出し、適切に調整できるか、ということにかかっています。

 

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「その人らしさを大切にする」提案(1)

「その人らしさを大切にする」という言葉をよく聞きますが
よくよく考えるととても難しいことです。
  
そもそも、「その人らしさ」って何でしょうか?
どういう言動がその人らしさを大切にすることで
どういう言動だとその人らしさを大切にしないことになるのでしょうか?

ここを明確にできなければ
「その人らしさを大切に」と「言う」ことはできても「する」ことはできません。

耳に心地良い言葉だと
スローガンのように声高に唱えられるだけで
どうしたら具現化できるのかという道筋が示されなくても
「唱える=実践できる」かのように誤解させられてしまうかもしれませんが
理念は唱えるものではなく、実践する際の指針となるべきものです。
ところが、どのように実践に際して指針として扱い
どのように具現化してきたのか
具体的に現実的に説明できる人ってどれだけいるのかな?

私は
「その人らしさ」とは、その方が繰り返し使ってきた言動のパターンと捉えています。
「その人らしさを大切にする」とは、その方が繰り返し使ってきた言動のパターンに沿って応対するようにしています。

たとえば
人には解決のパターンや受け入れやすい説明の傾向があります。
・明るく前向きに
・論理的で明確
・周囲への同調
などなど。
その人固有の解決のパターンに沿って説明したり対応したりするようにします。

再認可能な帰宅要求をした方にはきちんと説明をしていますが
その説明の仕方もその方に応じて変えています。
明るく前向きに考える方には、明るく「今日はお泊まりなんですって」
論理的な対処をされる方には、「十分なお世話ができるようにここに入られました」
周囲への同調という対処をしてこられた方には、「ここにいる他の皆さんも一緒にお泊まりされます」などなど。
その方固有の対処パターンに沿った説明だと再認しやすくなります。

「その人らしさを大切にしましょう」と「言う」のではなく「する」提案(2)は次の記事で。

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開口してくれない方への口腔ケア:じゃあどうするか?

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関与の適切さが担保されていれば
開口してくれない、開口できない、という行動には
口唇を開けてくれない、開けられない、
もしくは、
歯を噛み締めていて開けてくれない、開けられない
と大きく分けると2つのパターンがあるこちに気がつくと思います。
  
まず、どちらなのか、
口唇を開けることと顎を開けることのどちらが困難なのかを把握します。
この時に同時に頸部や体幹、上肢などのアライメントと筋緊張も把握します。
口を開けてくれないのではなくて
開けたくても開けられない
姿勢の問題、ポジショニングで対処すべき問題もあるからです。

意外に多いのが
顎の開閉は可能でも口唇閉鎖のままというケースです。
口輪筋に力が入ってしまっているので開口したくてもできない状態です。
そのような時には、介助者の示指を口唇中央にそっと当てて円を描くように動かします。
この時穏やかな口調で「くちびるが楽になります」と語りかけます。
すると口唇閉鎖が緩んできますから
「そうです。いいですね。その調子です。」と語りかけます。
   
口輪筋が十分に緩めば、すぐにその方の手続き記憶を確認しながら(前記事参照)
前歯もしくは奥歯からブラッシングを始めます。
口輪筋がまだ硬くて少ししか開口しない場合には
緩んだ部分から介助者の示指を口唇の内側にいれて
決して無理やりはしないで、可能な範囲で円を描くようにマッサージを行います。
すると、だんだん口輪筋が緩んでくるので口角や下唇の裏側など
まだ緩んでいない部分のマッサージを行います。
(この時に 口唇小帯 の部分は避けるようにしましょう。)
口輪筋が十分に緩んだことを確認できたらブラッシングが可能となります。

次に口唇は開いても歯と歯を噛み締めてしまっていて開口できない
顎がしっかり閉じてしまっている場合の対応について記載していきます。
口唇を開くことはできるので一部でも歯を見ることは可能です。
その見えている可能な範囲で(無理に範囲を広げずに)歯をブラッシングします。
穏やかな口調で
「歯を磨きますよ」「歯が綺麗になります」「お口の中がさっぱりします」
などの感覚や感情に働きかける声かけをしながらブラッシングをします。
すると、前歯からだんだんと奥の方に歯ブラシを移動させることが可能となります。
奥歯の表側をブラッシングできたら十分に時間をかけると緩みを感じられると思います。
緩みを感じたら奥歯の上側をブラッシングします。

相手の身体とのノンバーバルコミュニケーションをとりながら介助するのです。
緩んでいない→まだなのね、じゃあこれ以上は無理やりはしない→介助という動作で相手に伝える
口腔ケアという介助というを通して
相手の身体反応という行動と自身の行動というコミュニケーションを行うことです。

当然、昨日はすぐに緩んだのに今日はなかなか緩まない
ということだって起こり得ます。
人間ですから。
逆に自身の介助だって、昨日はきちんと感受できたのに今日はちょっと強引だったかも。
ということだって起こり得ます。
人間ですから。
状況だって違うでしょうし。

  大切なことは
  常に毎回100%の完璧な実践が為されることではなくて
  常に毎回自覚できていること。
  少なくとも自覚しようと意思することです。
  その時起こった事実をきちんと感受し自身の認識を自覚しようと意思することです。
  この過程にゴールはありません。
  イマ、ココでの言動には
  カコ、タシャとの関係が顕在的にも潜在的にも反映されるものだからです。

奥歯の上側をブラッシングできるということは
わずかであっても歯と歯の噛み締めが減少し、顎が開いたことの証左ですから
そうなれば、もう大丈夫です。
決して焦らずにここできちんと時間をかけて
「いいですね。歯がすごく綺麗になります。」と声掛けしながらブラッシングすると
もっと大きく開口できるようになりますから
奥歯の裏側もブラッシングできます。

噛み締めがきつくて上述の対応でも困難な時にはKポイントを刺激します。
いきなり指を口の中に突っ込もうとすると噛まれてしまいますから
緩んでいる口唇の間から示指を入れて
下の歯の表側と頬の間を通って奥歯まで指を入れてから
歯ぐきの内側に示指を入れて該当箇所を押します。
すると開口してもらえます。
これは最後の手段として、できるだけ上ふたつの方法で
開口してもらえるように関与していきます。

口腔ケアに協力してもらえない、開口してもらえない
時には、必ずその方にとっての必然があります。(理由や原因ではなくて必然)
   
まず、開口してもらえない場面そのものをきちんと観察する情報収集から始めましょう。
「開口してもらえない時には〇〇する」というようなハウツーは卒業しましょう。
その時その場でのその関係性において関与していくことができるようになるために
まず、今、その方に何が起こっているのかを洞察できるように
そのために自身の「行動」というもうひとつの言葉(自覚的に選択された行動)で働きかけ
対象者の「反応行動」というもうひとつの言葉をきちんと聴くことから始めましょう。

 

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開口してくれない方への口腔ケア:介助の問題

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開口してもらえないと口腔ケアが難しくなります。
すると、往々にして「どうしたら開口してもらえるか?」
という問いが立てられます。

そうではなくて
まず、口腔ケアを促した時にどのような反応が返ってくるのか
どんな風に口を開けてもらえないのか
どんな風に拒否をするのかを
きちんと観察することから始めることが必要です。

驚くべきことに、この部分をきちんと観察している人は
ものすごく少ないと言っていいでしょう。
逆に、きちんと観察している人は
所属組織の中で現状把握のあまりの乖離に
とても困っているのではないでしょうか。
  
言葉にならないもうひとつの言葉、行動をきちんと観察しましょう。
何が起こっているのかを観察し
習得してきた知識をもとに洞察しましょう。
 
同時に、有効な情報を得るためには
まず、こちらが適切な促しをできていることが必要です。
臨床でおろそかになりがちなのは
・声はかけてもアイコンタクトはしていない
・歯ブラシをきちんと見せることなく口の中に歯ブラシを突っ込む
という関わりです。
このような介助では、口腔ケアを拒否して当たり前だと思いますし
仮に、今は口腔ケアを受け入れてもらえたとしても
後になって対象者の「相手に合わせる」能力が低下した時に
蓄積した「感情記憶『嫌だな』」を想起して拒否することになっても当然だと思います。
そしてその経過への配慮なく問題視してしまう。。。

口腔ケアをする時には
必ずアイコンタクトを促してから、次に声かけ
歯ブラシを見せて、
対象者がきちんと歯ブラシを見たことを確認してから
歯ブラシを横に数回動かします。
  この動作は、言葉という聴覚情報だけではなく視覚的情報を提示することで
  「歯磨きをする」ということはどういうことなのか、再認を促しています。
それから「あー」と言ったり「いー」と言ったりします。
歯磨き→「大きく開口する」ことが
その方の「歯磨き」という手続き記憶であれば「あー」と声をかけ
口腔内に歯ブラシを入れて奥歯から磨き始めます。
歯磨き→「前歯から磨き始める」ことが
その方の「歯磨き」という手続き記憶であれば「いー」と言って
前歯からブラッシングを始めます。

以前に「再生と再認」の可否を確認する
という説明をしましたが
再生と再認の可否の確認しておくと、対応の工夫にものすごく活用できます。
重度の認知症のある方でも再認可能な方はとても多いものです。
(そしてこのことは、あまり知られていない)
また、手続き記憶は残りやすいと言われていますが
ADLはまさしく手続き記憶の宝庫です。
だからこそ、介助者が対象者の手続き記憶ではなく
自身の手続記憶で対応してしまいがちで、しかもそのことに無自覚なのです。
介助者の手続き記憶と対象者の手続き記憶の違い
(たとえば、歯をどこから磨くか)は手続き記憶だからこそ自覚しにくい
(違って当たり前なのに)ということはもっと強調されて然るべきものです。
そして手続き記憶のズレは強烈な違和感を生じさせるものですが
介助者自身は「手続き記憶のズレ」という体験を
受けたことがないのでさらに自覚しにくい。
その結果、自身の手続記憶を押し付けてしまい
拒否や介助への適切な協力をしてもらえないことになってしまいます。
そこで自身の関与を振り返ることができないと
対象者に「介護抵抗」「介助拒否」というレッテルを貼って
「関係性の中で生じている問題」を「対象者の問題」にすり替えてしまう。。。
本当に現場あるあるです。

「認知症のある方に寄り添ったケア」という理念を具現化するとは
声高に唱えることなんかではなくて
こういう日々のケアひとつひとつに誠実に向き合うことです。
介助者自身の手続き記憶を自覚する
対象者の手続き記憶を模索することから始めましょう。
「あなたの歯磨きの手順はこうですか?」
と言葉ではなく動作介助というもうひとつの言葉で尋ね
対象者が開口するか、もっと強く拒否をするのか、
言葉ではない、反応行動というもうひとつの言葉を聴きとります。

適切な関与とは
決して、単に敬語を使うことをはじめとする接遇にとどまりません。
もちろん、接遇の重要性を否定するものではありませんが
認知症は脳の病気ですから
もっと障害や能力という観点での対応が必要です。
そして、再認という能力発揮を促せるようになるためには
生活歴や手続き記憶、特性という情報収集が本当に必要です。
  
でも、実際の現場では
「その人らしさを大切に」
「その人に寄り添ったケア」
と声高に唱えられることはあっても
実際にそれらの情報の活用の仕方について具体的に説明を受けたことは
あんまりないのではありませんか?
だから、認知症の普及啓発がこれだけ進んできているのに
講習の内容が旧態依然とした理念の提示や
スローガンの提示程度にとどまってしまっていて
現場で必死になって本当に「認知症のある方の役に立てるように」働こうとしても
じゃあ、どのように考えたら良いのか
本当に役立つような指針が得られなくて、辛くて、あまりに辛いからこそ、
そのうち初心に目をつぶって目の前の現実に押し流されてしまうことを
選ぶしかなかった人だっているのではないかと思います。

そんな人に向けて
このサイトがありますし、こちらのサイトもあります。
  
次の記事では、じゃあどうしたら良いのか
開口してくれない方への口腔ケアについて
具体的に記載していきます。

 

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「脱!ハウツー」のススメ

私がすごく疑問に感じるのは
「その人らしさを大切に」「認知症のある方に寄り添ったケア」
と唱えられることはあっても
実際の実践は、単にハウツーの当てはめをしているだけというケースが多いことです。
「〇〇という時には△△する」
これのどこが、その人らしさを大切にしていることなのか、寄り添っているのか
私にはさっぱり理解できません。
ハウツーは個別性の真逆にあるものです。
そもそも、どういう言動がその人らしさを大切にしていることで
どういう言動が寄り添ったケアではないのか
具体的に現実的に考えていくと、とても難しいことです。

たとえば
帰宅要求がある方に対して
「お茶を飲んでいただく」「タオルを畳んでいただく」
などの気をそらす対応が為されています。

諸般の事情で、そうするしかない時だって、もちろんあるとは思います。
そのような時には、望ましい対応でも適切な対応でもないことを自覚した上で
気をそらせる対応をするしかないからするのだと自覚しつつ行えば良いのです。
けれど、実は、
「気をそらせる=良い対応」と思い込んで為されている場合が多いのではないでしょうか?
帰宅要求に対して、気をそらせるような対応は
決して望ましい対応でも適切な対応でもありません。
だって、もしも上述の対応が良い対応だとしたら
どれだけ上手く気をそらせられるか、どれだけ上手く誤魔化せるか
ということが良い対応ということになってしまいます。
そんなバカなことがあるはずがありません。

認知症と人権擁護がご専門の齋藤正彦医師は
「微笑みながら徘徊したり帰宅要求を訴えている人はいない。みんな必死だ。」
とおっしゃっていました。
本当にその通りだと思います。

この問題はとても根深くて
「帰宅要求→気をそらせる」対応は単に表面的に表れているだけで
それよりも根本的な問題があって、
「帰宅要求→どうしたらおさめることができるか」
という発想のもとに対応の工夫が展開されてきた
そしてそのようなハウツー的対応への疑問や改善提案が
為されてこなかったことにあると考えています。

それって、下図のような思考過程(本当は思考ですらない)
で為される対応です。
帰宅要求だけを切り取って、どうしたら帰宅要求がなくせるか
考える。という対応です。

私が実践し提案してきていることは、まったく違うことです。

上図の通り、まず、きちんと情報収集をします
目の前に起こっている、一見すると不合理な言動、
たとえば、帰宅要求をしている場面そのものをきちんと観察します。
(この過程がすっ飛ばされている、不十分過ぎることが圧倒的に多い)
知識があれば、その場面に反映されている、
その方の能力と障害と特性を見出すことができます。
見出すことができれば、その方に今、何が起こっているのかを洞察することができます。
洞察することができれば、どうしたら良いのかを判断することができます。
それは、自然と一本道のように浮かび上がってくるものです。
あとは、その判断を具現化できる技術があれば良いだけです。

錯綜した現実を解きほぐす
そのためには、知識が必要です。
知識がなければ、単に「何度も繰り返し帰りたいと言う」ことしかわかりません。
知識があれば、近時記憶障害があっても再認可能だからきちんと説明しよう。
という判断ができますし
説明する時には口調に気をつけて、伝わりやすい言葉を選択しよう。
といった、その方の特性も理解できているからこそ可能な判断ができます。

観察の解像度を上げる

きめ細やかに現実を解きほぐせるほど
より的確な対応がその時々、その方それぞれに可能になる所以です。

ポジショニングの現状とまったく同じコトが違うカタチで起こっているだけです。

どうしたら良いのかがわからないのではなくて
何が起こっているのかがわからないのです。
だとしたら、「自分にはわからない」という事実にきちんと向き合って
錯綜した現実を解きほぐせるように
情報収集からやり直せば良いだけです。
その繰り返しで、パッと観てパッと洞察できてパッと対応できるようになります。
知識を習得しようとしない人や情報収集の過程をすっ飛ばす人には
結局、何が起こっているのか皆目わからないでしょうし
その人ができていなくて、私がやっていることとの違いもわかりません。
本当に違うのは、実際にやっていることではなくて
実践を下支えしている観察・洞察なのです。

今、本当に問われているのは
どう対応するか、ではなくて
観察、洞察、評価が不十分だという、私たちの側の問題なのです。
だからこそ、今すぐにでも改善可能なのです。

「その人らしさを大切にする」
「寄り添ったケア」
という高邁な理念は唱えているだけでは決して実現できません。
理念は唱えるものではなく、実践の際のもう一つの指針となるものです。
どのように指針となるのか
理念がどのように対応の工夫に役立つのか
次からの記事でご提案していきます。

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ICD11を意識して会話・観察する

会話も大切な情報源ですが
目的を持たずに会話しているだけだと
大切な情報をどんどん聞き落としてしまいます。

リハやケアにおいて
会話することの意義は
会話を通して、その方の状態を把握することにあります。
決して、単に笑わせるためでも時間をつぶすためでもありません。
その方の話に合わせて聞いているだけでもわかることは多々あります。

「従命可だから年相応の物忘れ」「お話ができるから認知症じゃない」
なんて安易な言葉を聞くことがなくなる日が1日も早く来ることを祈っています。

年相応であってもなくても
忘れっぽいなら、その程度や現れ方の把握が必要ですし
そもそも「認知症である」「認知症ではない」
といった診断ができるのは医師だけです。
私たちは医師ではないから診断はできません。
私たちは援助職ですから、的確な援助が行えるために状態把握が必要です。
確定診断があってもなくても同じです。
確定診断があった方がより状態把握がしやすくなるだけです。
より広くより深く状態把握ができれば
それだけ的確な援助ができるようになります。

そうならないためには
2022年に発効された、 _ICD11_ の定義にある7兆候を意識すると良いと思います。
・記憶
・遂行機能(実行機能)
・言語
・注意
・社会的認知・判断
・視覚的理解・認知
・精神反応速度

記憶については
近時記憶を意識するのはもちろんですが
再生と再認の可否についても意識して会話・観察することも大切です。
対応の工夫に直結するからです。

アルツハイマー型認知症では
その場の会話は円滑にできたとしても
実際の行動が伴っていないこともあります。
たとえば、車椅子のブレーキをかけ忘れたり
フットプレートから足を下さずに立ちあがろうとしたり。
スタッフが先に声かけをしたり介助してしまうと
貴重な情報を得られる場面を逃してしまうことになります。

 

 

 

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HDS-RとMMSEの扱い方・留意点

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HDS-Rを施行すると、怒り出してしまう方がたくさんいます。
(怒り出すということも大事な情報ですが)

検査は大事ですが
検査しなくても観察から検査と同等の洞察ができれば
認知症のある方の心身の負担を減らすことができるとずっと思っていました。

そのため
HDS-Rやかなひろいテストをする一方で
日常生活や会話の質的内容や行動との照合をずっと行なってきました。

HDS-Rの項目の意義を理解できるようになり
生活場面への反映についてそれなりに洞察ができるようになり
だんだんと観察だけでもかなりHDS-Rの予測がつくようになり
生活場面への反映についてもわかってきたので
HDS-Rの検査場面でちょっと1工夫することも始めました。
詳細は 「対応に役立つHDS-Rの工夫」 をご参照ください。

ところが、
これだけ認知症の普及啓発がなされている現状でも
実際に働いている職員の中には
「リハに支障がない」「従命可」「会話が弾む」「気遣いができる」「冗談が言える」
という程度の根拠で
「認知症じゃない」「年相応の物忘れ」などと、
安易に無責任な判断をする人がまだまだ多いという現実にびっくりしています。

「ちゃんとお話ができるから認知症じゃない」
という言葉を幾度聞いたことでしょう。
この言葉はその裏側に
「認知症になるとちゃんとお話ができない」
という思い込み・偏見があるからこそ、言える言葉です。
そんなことは決してありません。
HDS-R3/30点の方が
「こんなバカな俺に優しくしてくれてありがとう」と言ったり
HDS-R0/30点の方が
「俺はよ、ここがよ(頭を指さして)こうだから(指をくるくる回す)」
と発言されたりします。

年相応の物忘れと判断された方のHDS-Rは10点
認知機能低下に言及もされず、しっかりした方と言われていた方の
HDS-Rは5点ということもありました。

これだけHDS-Rが低いと明らかに生活に影響が生じいるはずなのに、
認知機能低下が見落とされている。。。
ご家族や生活の支援をする看護介護職は困っているのに
一部のリハ職はまったく気づいていないという。。。

ひとつには
認知症、認知機能低下という概念の理解ができていない職員側の問題がありますし
他方
他者に合わせようとして生きてきた方、他者に合わせるタイプの方は
自主的に起こす行動が少ない場面だと
認知機能低下が目立ちにくいという傾向があります。
たとえば、困った時わからない時には
誰かに尋ねて返ってきた答えの通りに対応する方や
自分から何かしようとはせず指示があるまではじっと待っている方は
その場では「穏やかな方」「良い方」といった判断がなされがちで
記憶の連続性が低下していたとしても
行動特性から表面化しにくいので見落とされてしまいます。
また、俗に言う地頭の良い方、元来認知機能が高かった方は
記憶の連続性が低下しても逆症や計算ができるので
これまた見落とされがちです。

「同居しているご家族は認知機能低下によって生活支援で困っていても
 たまに来るご家族には理解してもらえないことも多い」
と言われるゆえんです。

MMSEを施行する時に
MMSEはHDS-Rとは違って、検査項目が記憶だけではない
という前提条件を見落としていると
得点結果だけで判断してしまい、状態を見誤ります。
同じ30点満点のテストでも、
得点結果が同じ20点であったとしても
どの項目で失点してどの項目で得点したかは全く異なります。

実際に
他院でMMSEが10点代後半、疎通も良好で礼節も保持されていた方で
他院からのリハサマリーに認知機能低下への言及がまったくなかった方とお話をしていたら
1分前にした説明を忘れてしまっていたので
HDS-Rをとったら10/30点だったということがありました。
遅延再生も見当識も0点でした。そのかわり計算や語想起は満点だったという方もいました。

得点結果だけで判断してはいけないのです。

HDS-RとMMSEの違いを認識した上で使い分ける
そして、失点項目と得点項目に着目する
わからない時にどんな風に対応するのかということを観察しておくと
日常生活で困難に遭遇した時の行動パターンが予測できて
対応方法を明確化することに役立ちます。

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