Tag: コミュニケーション

意思疎通困難な方とのコミュニケーション6



まず、暮らしの援助をするために協働して行うことの理解を得る
そのためのコミュニケーションを考える時には
1)自分のノンバーバルな表出をコントロールする
2)その場の状況や場面を評価し可能であれば修正する
3)伝える言葉は明確にシンプルに
4)視覚情報を提示する
5)アメありとアメなしを使い分ける
というような工夫をしています。

4)視覚情報を提示する

・言葉だけにとらわれずに伝わりやすい方法を考える

言語理解力は低下しても
視覚的理解力は保たれている方は大勢います。

「何を言ってもわかってくれない」という声も聞きますが
実は「言うからわかってくれない」ということもあるんです。

言うのではなくて、示すことで伝える

百聞は一見に如かず

目で見てとる能力が保たれているのなら
今がどういう状況か
どこに行ってほしいのか
何をしてほしいのか
視覚情報をメインに提示するようにします。

言葉だけで歯磨きをしましょう
というよりも
実際に目の前に歯ブラシを見せて
「歯磨き」と言うだけの方が
開口がスムーズになる
といったようなことはヤマほどあります。

私たちが
できないところに着目すればするほど
その人のできなさがよくわかるようになります。
でも、そのような在り方では、その人の困りごとを援助することはできるようにはならない。

どうしたら伝わるのか
どんなことならわかるのか
できることを探していく
できなさにすら、反映されている能力を見出せるようになればなるほど
その人の困りごとをピンポイントで援助することができるようになります。

その過程を積み重ねて行った結果
〇〇さんには、
こんな風にしたら伝わりやすい
こんな風に関わったら理解がスムーズ
ということが明確になっていく。

意思疎通困難と言われている方は
何も通じないわけではない。
通じる部分は必ずあります。

そのきっかけの一つが
視覚情報の提示。ということなんです。

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意思疎通困難な方とのコミュニケーション5



まず、暮らしの援助をするために協働して行うことの理解を得る
そのためのコミュニケーションを考える時には
1)自分のノンバーバルな表出をコントロールする
2)その場の状況や場面を評価し可能であれば修正する
3)伝える言葉は明確にシンプルに
4)視覚情報を提示する
5)アメありとアメなしを使い分ける
というような工夫をしています。

3)伝える言葉は明確にシンプルに

・形容詞や副詞よりも、名詞+動詞中心で表現する

形容詞や副詞は気持ちが入ると使いたくなってしまいますが
何をどうしたら良いのか、ということは案外曖昧に伝えてしまうことにもなりかねません。

「ちゃんとパンツを下ろしましょう」
というような声かけは、実は曖昧表現なので行動化しにくいものです。
「パンツを膝下まで下ろしましょう」
というような声かけであれば「何を、どこまで、どうする」ということが明確です。

私たちは、「ちゃんとパンツを下ろす」のは
これからここでおしっこをするから
パンツが濡れないようにしなくては
そのためには膝下まで下ろせば大丈夫かな
と経験上、つまり、行動と記憶の積み重ねによって
「何を、どこまで、どうする」ということを
瞬時に判断、多くの場合に無自覚のうちに行うことができています。

「ちゃんと」という副詞が意味する行動を明確に言語化するには
名詞+動詞を主体とした言語表現を心がけるといいと思います。

このことに気がついて
自分の声かけを見直し始めた当初、
いかに自分が普段、忖度してもらっていたのか、忖度していたのか
ということに気がついて愕然としたことがありました。

・単語中心に構音明瞭に発言する

「ご飯」「トイレ」「あっち」など、単語中心に言うことも多々あります。
そこで気をつけているのは、決して大きな声を出すことではなくて
構音明瞭に話す、相手が聞き取りやすいように話す、
伝わりやすいように明確に話す、ということです。

意思疎通困難と言われている認知症のある方に
聞き間違いは、とても多くみられています。
1文字のズレどころではなくて、どうしたらそんな風に聞き取れるのかわからないくらい。
だから、聞き間違いという認識が持ちづらいのだと思いますが。

自己修正を始めた時には
自分がいかに無自覚に、言いたいように話していたのか
どれだけ構音曖昧なままに話していたのか
ということに気がついて愕然としたことがありました。。。

誤解のないように補足しますが
私は基本的には敬語を使う人間ですが
「敬語を使うべき」とも「単語で話すべき」とも考えていません。

その時その場のその関係性において
相手が理解しやすいような言語表現を具体的に明確に論理的に考える
ということを大切にしています。

その過程において
意思疎通困難と言われている方でも
単語中心で話しかけると伝わることがとても多い
ということは、意思疎通が不可ではなくて低下ということを示しています。
「不可」と「低下」では、意味がまるきり違います。
低下だったら、できることを考えればいい。

このことについては
「職場では敬語を使わないと怒られる」と困っている人もたくさんいるようで
その対応も含めて書きたいことがもっとあるのですが
いずれまた。

今はもう少し
意思疎通困難な方とのコミュニケーションについて
書いていきたいと思っています。

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意思疎通困難な方とのコミュニケーション3



まず、暮らしの援助をするために協働して行うことの理解を得る
そのためのコミュニケーションを考える時には
1)自分のノンバーバルな表出をコントロールする
2)その場の状況や場面を評価し可能であれば修正する
3)伝える言葉は明確にシンプルに
4)視覚情報を提示する
5)アメありとアメなしを使い分ける
というような工夫をしています。

一つずつご説明していきます。

1)自分のノンバーバルな表出をコントロールする

・アイコンタクトを得る

相手を漠然と見るのではなくて、相手の目をちゃんと見ることが大切だと思います。
臨床では、声かけはしていても、相手の目を見ながら声をかけているかというと
案外、疎かになりがちな部分だと思います。
相手がちゃんと「紛れもなく自分自身に言っているのだ」と認識しやすいように
アイコンタクトを得ることから始めています。
近時記憶の低下に伴い、モノゴトの経過や背景といった情報を忘れてしまう方にとって
とても大切なことです。

・相手のトーンに合わせつつも、キツい強い口調にならないように心がけます。

どんなに丁寧な言葉を使っても、その言い方がキツかったり強かったりすれば
感じ良いとは思えませんよね?
私は基本的には敬語を使うようにはしていますが
「敬語を使うべき」とは考えていません。
単語のみで話しかけることも多々あります。
相手の言語理解力が低下していれば敬語を使うことによって
かえって相手を混乱困惑させてしまうこともあるからです。
なぜ、敬語を使うのか、そもそもは相手への尊敬の念を伝えることが目的なのですから
尊敬の念はノンバーバルな表現で補うようにしています。

・身体の向きも、相手に向かい合うように心がけます。

顔を向けるというよりは、おへそを向けるという風に意識すると
身体全体が向かい合うようになると思います。
そっぽを向きながら言われてしまうと、
自分じゃない他の誰かに話しかけているように誤認されやすくなってしまいます。

・穏やかな表情で。

わざと明るく楽しそうにすることはないですが
少なくとも硬い表情だと相手を不安にさせてしまうと思います。
「あなたを困らせたりしない、大丈夫」
「あなたを助けたい、心配しないで」
と心の中で唱えれば自然とそのような表情になると思います。
「ケアは笑顔で」というスローガンではなくて
自分で自分の関与する意図を再確認することが近道のように感じています。

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意思疎通困難な方とのコミュニケーション2



私が認知症のある方とのコミュニケーションを考える時には
1)暮らしの援助をするために、協働することの理解を得る
2)何を言いたいのか理解し、会話そのもの、言葉のキャッチボールをする
大きく分けて、この二つの目的があると考えています。

いずれの場合にも
どんなに強調しても強調しすぎることはないと言えるのは
私たちのノンバーバルなアウトプットをコントロールすることだと考えています。

表情、声のトーン、声量、口調、物理的な距離、雰囲気や構え

基本は
相手に合わせます。

元気いっぱいな方なら、こちらも元気よく。
穏やかな物静かな方なら、こちらも控えめな声で。

認知症のある方が怒り出してしまう場合に
意外に多いのが、「わからなくて怒ってしまう」というケースです。

その時に
なんて言ったらいいのか、What を考えるだけでなく
どのように言ったらいいのか、How を考える
ということにも気をつけています。

言われた言葉ではなくて
言い方に反応して怒ってしまう
そういうケースは、非常に多くて
ノンバーバルを変えるだけでも、
火に油を注ぐこともなく、怒りを収めてくださることもまたとても多い。

私たち自らの
ノンバーバルなアウトプットを意識して使いこなす

これは鉄則だと考えていますし
まだ、公には言えませんが、
このような現実が示唆している事柄を
非常に興味深く思うところもあります。

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疎通困難な方とのコミュニケーション



認知症で疎通困難と一口に言っても
いろいろな方がいらっしゃいます。

たくさんお話しはするけど、会話が成り立たない方も
たくさん声は出るけど、言葉にならない方も
言葉も声も出ない方も
いろいろな方がいらっしゃいます。

私たちが認知症のある方とのコミュニケーションを考える時には
1)暮らしの援助をするために、協働することの理解を得る
2)何を言いたいのか理解し、会話そのもの、言葉のキャッチボールをする
大きく分けて、この二つの目的があると考えています。

私は認知機能障害もBPSDも重度の認知症のある方が入院する病棟で働いていますが
「もうこの方とは会話が成立しないんじゃないかな」
と思っていたら、ふとした時に会話が成立して驚いたことはヤマほどたくさんあります。
きっと似たような経験をしている方は、たくさんいるんじゃないかな。

諦めずに
思い込まずに
決めつけずに
その時その時で、状態を確認しながら対応することの大切さを感じています。

コミュニケーションをとるにあたって
具体的にどんな風に考えて
どんな工夫をしたら良いのか
少し整理しながら書いてみようと思います。

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評価とは何か@暮らしの支援4

ここにいていいんですか?

そのためには、常にPDCAを回し続ける
その中でも、最も重要なのは「C」なのだと考えています。

私たち専門家と呼ばれる人は、それなりの根拠と自負を持ってPlanし、Doしているはずです。
想定通りに適切だったか否かを確認することも大抵の人はしていると思います。

ただ、ここで落とし穴がふたつあって
ひとつには
現在の診療報酬の体制上
急性期、回復期、生活期といったそれぞれの期においては
多くの対象者の状態像をみることはできても
ひとりの対象者の「状態の変化」を継続的に長期的にみることは難しい現状があるという
暗黙の前提要件を自覚しにくいということがあります。

ふたつめには
「常識として定着しているものには異議を唱えづらい」
「常識として定着しているものには疑問を抱きにくい」
ものなので
目の前に厳然として存在している人よりも常識として提唱されているものに依拠してしまうと
「見れども観えず」
になってしまいがちです。

私は
立ち上がれるようになる、あるいは維持するためには
まずは座り方を練習することが重要だと考えていますが
そう提唱・実践している人に会ったことがありませんでした。

スプーン操作によって食べ方が変わる
食べ方は、介助者のスプーン操作と食形態の選択によって異なってくる。

認知症のある方の能力は
介助者が適切な声かけをすることによって見出されもするし
そうでなければ見過ごされてもしまう。

過剰代償による立ち上がり困難や食べ方の困難
生活障害やBPSDという場面にも能力が反映されていることがわからないと
たとえ善意の意思を持っていたとしても
能力を発揮させられないだけでなく
結果として、廃用や誤用にリハ職が関与することになってしまいます。

援助は関係性の中で行われる。
関係性の中で起こってくるコトを
関係性を吟味しないで対象者の状態像として切り取ってしまうという視点が
援助から使役へと反転させてしまうことの大きな要因だと考えていますが
その点に関して、検討がもっと必要なのではないでしょうか。

ハリー・スタック・サリヴァンの「関与しながらの観察」
スティーブ・ジョブズの「意図こそが重要」
彼らの言葉の重みを噛みしめています。

PDCAを回すときに
最も重要なのは「C」のCheckであり、また困難なのも「C」だと考えています。

「C」を行なっているようでも
表面的に陥りがちであり
「C」が的確に行えないと
「A」を有効に設定することもできなくなってしまいます。

つまり、自家撞着に陥ってしまう。
PDCAが機能しているように見えて機能していない。
自己検証が曖昧になっていることを自覚できなくなってしまう。

最初から誰でも「C」を的確にできるわけではないけれど
そうしようという「意図」を抱いていなければ習熟するようにはならない。
習熟するようになると、ますます「C」の重要性を否応でも認識するようになります。

より広く深く細やかに「C」ができるようになることで
評価の的確さを担保できる。

私が実習で感じた職業人としての怖さは
判断とその責任を負うということでした。
当時はこんな風に言語化できなかった。
もっと漠然とした曖昧な怖さで、何をどう気をつけたら良いのかわからなかった。

PDCAを回し続ける
「C」を機能させられるようになる。ということの重要性

「もののけ姫」の中でアシタカが言った
「曇りなき眼で見定め決める」
この言葉を言い切ったアシタカの強さを繰り返し思い出しています。

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評価とは何か@暮らしの支援3

ここにいていいんですか?

同じコトが違うカタチで現れている。

例えば
高齢者によくある「立ち上がり問題」
こちらのブログでも過去に何度か記載してきましたが
片麻痺のある方、整形疾患などのある方で生活期で暮らしの困難を抱えている方や高齢者では
歩けるけれど自分ではなかなか即座に立ち上がれない
立ってしまえば立てるけれど自分では立ち上がりができない
という方がとても多くいらっしゃいます。

現状では
低運動→筋力低下→立ち上がり困難 という判断がなされ
筋力強化→筋力復活→立ち上がり可能 という仮説に依拠して
足腰の筋力強化や立ち上がり100回 という方法でのトレーニングが提供されている
ということがよくあるパターンだと思います。

私は、この考え方と方法論にはずっと違和感がありました。
なぜ、赤ちゃんは歩けなくても立ち上がれるのに
お年寄りや身体障害のある方は、歩けるのに立ち上がれないのだろう?
赤ちゃんは筋力強化をしなくても立ち上がれているのに。

私は長く老健に勤務していましたが
老健では積極的な離床と活動的な生活を提供しています。
さらにその上で専門家による個別のリハも提供しています。
それなのに、今まで立ち上がれていた方が立ち上がれなくなってしまう。
こういった現実に対し、為すべきことをしているにもかかわらず
低下してしまったのだから「本人の老化、能力低下」という判断が為されがちです。

ところが、
筋力強化をしても自力で立ち上がりができなかった方が
座る練習をしただけで自力で立ち上がれるようになった方がたくさんいらっしゃいます。

本人の能力低下ではない。ですよね?
再び立ち上がれるようになったのですから。

変わったのは、リハだけです。
ということは、リハの判断と方法論が不適切だった。ということになります。

これらの事実が示している新たな判断は
筋力低下によって立ち上がり困難になったかもしれないが
それは原因ではなくて、きっかけだったのではないか
ということです。

きっかけがなくなれば
立ち上がり困難という状態像も表面化しなくなる
という意味で筋力強化が有効だったケースもあるでしょう。
それを因果関係論であるICIDHの観点に立ったまま
一般化してしまった、そしてPDCAを回し検証されることなく
継承してしまい、適合させてしまった
というところに問題があると考えています。

相互関係論であるICFの観点に立てば
1)本人の病気・障害そのもの:老化による筋の弱化
2)能力による過剰代償:使える筋(主に背筋群)
3)不適切な介助への過剰適応:介助者や手すりを使用した引っ張り上げに呼応した背筋群の過剰使用
という悪循環が過去から長い間の蓄積として生じていて
表面的には「立ち上がれる」状態であったとしても
1)〜3)のバランスが崩れるほんのちょっとしたきっかけによって
「立てなくなってしまう」状態に陥ってしまう。

なんにせよ、「できない」よりは「できる」ほうが良いでしょうけれど
「できれば良い」というわけではありません。

筋力強化や立ち上がりのリハを行ったとしても
その方法論が上記の2)や3)を増長させるような「やり方」であったとしたら
結果的に、立ち上がりができなくなることにリハ職が関与してしまうことにもなってしまいます。

「できる」ようになったら
将来を見越して、より安全によりラクにできる異なる方法でも「できる」ように

それは
Re-Habilis 再び適する:リハビリテーションの理念そのものの具現化ではないでしょうか。

対象者の適応、つまり心身の働き、使い方
脳の回路の多様性を信頼し援助する。
ということなのだと考えています。

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評価とは何か@暮らしの支援2

ここにいていいんですか?

評価について
「検査=評価」という誤解が多いと感じています。
(この問題については改めて触れていきたいと考えています)

検査は一連の評価過程の一部に過ぎず
検査結果は評価に統合されるべきものです。

評価とは何か
今の状態像を明確化することであり
それは、単に病気や障害を原因として正常からの低下と「みなす」
ということではないと考えています。

複合したカタチで現れている現実の合理的あるいは不合理な言動から
1)病気や障害そのものによる困難
2)困難を能力発揮して代償しようとした結果
3)過去から現在において周囲の関係性との中で起こる過剰適応の結果
の区別を明確にすることであり
とりわけ「能力」を見出すことがポイントになると考えています。

多くの場合に
認知症のある方の生活障害は
1)病気や障害そのものによる困難と考えられていますが
実際には
2)困難を能力発揮して代償しようとした結果
によって起こっていることもたくさんあります。

認知症という状態像は
慢性・進行性の疾患によって引き起こされるので
1)病気や障害そのものによる困難 は改善することが難しい。
けれど
2)困難を能力発揮して代償しようとした結果
3)過去から現在において周囲の関係性との中で起こる過剰適応の結果
については
能力の不合理な方向への発揮の結果なので
能力を合理的な方向へ発揮することの援助は可能だと考えています。

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