Tag: コミュニケーション

ICD11を意識して会話・観察する

会話も大切な情報源ですが
目的を持たずに会話しているだけだと
大切な情報をどんどん聞き落としてしまいます。

リハやケアにおいて
会話することの意義は
会話を通して、その方の状態を把握することにあります。
決して、単に笑わせるためでも時間をつぶすためでもありません。
その方の話に合わせて聞いているだけでもわかることは多々あります。

「従命可だから年相応の物忘れ」「お話ができるから認知症じゃない」
なんて安易な言葉を聞くことがなくなる日が1日も早く来ることを祈っています。

年相応であってもなくても
忘れっぽいなら、その程度や現れ方の把握が必要ですし
そもそも「認知症である」「認知症ではない」
といった診断ができるのは医師だけです。
私たちは医師ではないから診断はできません。
私たちは援助職ですから、的確な援助が行えるために状態把握が必要です。
確定診断があってもなくても同じです。
確定診断があった方がより状態把握がしやすくなるだけです。
より広くより深く状態把握ができれば
それだけ的確な援助ができるようになります。

そうならないためには
2022年に発効された、 _ICD11_ の定義にある7兆候を意識すると良いと思います。
・記憶
・遂行機能(実行機能)
・言語
・注意
・社会的認知・判断
・視覚的理解・認知
・精神反応速度

記憶については
近時記憶を意識するのはもちろんですが
再生と再認の可否についても意識して会話・観察することも大切です。
対応の工夫に直結するからです。

アルツハイマー型認知症では
その場の会話は円滑にできたとしても
実際の行動が伴っていないこともあります。
たとえば、車椅子のブレーキをかけ忘れたり
フットプレートから足を下さずに立ちあがろうとしたり。
スタッフが先に声かけをしたり介助してしまうと
貴重な情報を得られる場面を逃してしまうことになります。

 

 

 

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HDS-RとMMSEの扱い方・留意点

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HDS-Rを施行すると、怒り出してしまう方がたくさんいます。
(怒り出すということも大事な情報ですが)

検査は大事ですが
検査しなくても観察から検査と同等の洞察ができれば
認知症のある方の心身の負担を減らすことができるとずっと思っていました。

そのため
HDS-Rやかなひろいテストをする一方で
日常生活や会話の質的内容や行動との照合をずっと行なってきました。

HDS-Rの項目の意義を理解できるようになり
生活場面への反映についてそれなりに洞察ができるようになり
だんだんと観察だけでもかなりHDS-Rの予測がつくようになり
生活場面への反映についてもわかってきたので
HDS-Rの検査場面でちょっと1工夫することも始めました。
詳細は 「対応に役立つHDS-Rの工夫」 をご参照ください。

ところが、
これだけ認知症の普及啓発がなされている現状でも
実際に働いている職員の中には
「リハに支障がない」「従命可」「会話が弾む」「気遣いができる」「冗談が言える」
という程度の根拠で
「認知症じゃない」「年相応の物忘れ」などと、
安易に無責任な判断をする人がまだまだ多いという現実にびっくりしています。

「ちゃんとお話ができるから認知症じゃない」
という言葉を幾度聞いたことでしょう。
この言葉はその裏側に
「認知症になるとちゃんとお話ができない」
という思い込み・偏見があるからこそ、言える言葉です。
そんなことは決してありません。
HDS-R3/30点の方が
「こんなバカな俺に優しくしてくれてありがとう」と言ったり
HDS-R0/30点の方が
「俺はよ、ここがよ(頭を指さして)こうだから(指をくるくる回す)」
と発言されたりします。

年相応の物忘れと判断された方のHDS-Rは10点
認知機能低下に言及もされず、しっかりした方と言われていた方の
HDS-Rは5点ということもありました。

これだけHDS-Rが低いと明らかに生活に影響が生じいるはずなのに、
認知機能低下が見落とされている。。。
ご家族や生活の支援をする看護介護職は困っているのに
一部のリハ職はまったく気づいていないという。。。

ひとつには
認知症、認知機能低下という概念の理解ができていない職員側の問題がありますし
他方
他者に合わせようとして生きてきた方、他者に合わせるタイプの方は
自主的に起こす行動が少ない場面だと
認知機能低下が目立ちにくいという傾向があります。
たとえば、困った時わからない時には
誰かに尋ねて返ってきた答えの通りに対応する方や
自分から何かしようとはせず指示があるまではじっと待っている方は
その場では「穏やかな方」「良い方」といった判断がなされがちで
記憶の連続性が低下していたとしても
行動特性から表面化しにくいので見落とされてしまいます。
また、俗に言う地頭の良い方、元来認知機能が高かった方は
記憶の連続性が低下しても逆症や計算ができるので
これまた見落とされがちです。

「同居しているご家族は認知機能低下によって生活支援で困っていても
 たまに来るご家族には理解してもらえないことも多い」
と言われるゆえんです。

MMSEを施行する時に
MMSEはHDS-Rとは違って、検査項目が記憶だけではない
という前提条件を見落としていると
得点結果だけで判断してしまい、状態を見誤ります。
同じ30点満点のテストでも、
得点結果が同じ20点であったとしても
どの項目で失点してどの項目で得点したかは全く異なります。

実際に
他院でMMSEが10点代後半、疎通も良好で礼節も保持されていた方で
他院からのリハサマリーに認知機能低下への言及がまったくなかった方とお話をしていたら
1分前にした説明を忘れてしまっていたので
HDS-Rをとったら10/30点だったということがありました。
遅延再生も見当識も0点でした。そのかわり計算や語想起は満点だったという方もいました。

得点結果だけで判断してはいけないのです。

HDS-RとMMSEの違いを認識した上で使い分ける
そして、失点項目と得点項目に着目する
わからない時にどんな風に対応するのかということを観察しておくと
日常生活で困難に遭遇した時の行動パターンが予測できて
対応方法を明確化することに役立ちます。

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検査結果は表裏一体/できないできる一体

目標設定の記事で
評価と治療の乖離
検査結果を対応に活かせていない という内容を書きました。

せっかくですので
もうちょっと具体的に書きますと
HDS-R18点の方とHDS-R3点の方に同じ声かけをしているとか
構成障害のある方に折り紙を提供して
「ここをこうしてこうやって」と説明しているというようなことは
認知症のある方や高齢者を対象とした現場でよくよく見られることです。

しかも
それで指示通りに実行できないと
簡単に「疎通困難」とか「認知症だから」と言ったり
折り紙のほとんどをセラピストが仕上げて「頑張りましたね」と言ったり
認知症のある方の手をセラピストが動かしている状態にしていたり
というのも現場あるあるです。。。

本当にそれで良いのかなぁ。。。?
 
うまく言語化できないけど
「どこか違う」「何か良くない」と
漠然とした違和感を抱いている人も少なからずいると思います。

HDS-R18点であれば、遅延再生に一部得点できたりヒントで答えられることが多いでしょうし
HDS-R3点であれば、遅延再生はヒントを出しても答えられないケースが多いと思います。
つまり、近時記憶障害の程度が違う、記憶の連続性が異なるので
リハ場面で諸々の説明をする時には配慮が必要です。
HDS-R18点の方の場合では
最初に1回説明するだけで「何をどうやるのか」リハ中の20分間覚えていられても
HDS-R3点の方の場合では
説明を数分しか覚えていられないので
工程を簡略化し、その工程を終えるたびに同じ説明を繰り返す配慮が必要です。
ところが、現実には
HDS-Rをとって「認知症重度」と判断しているのに
認知機能が低下していない方と同様の対応をして
その結果、認知症のある方が工程を遂行することができないと
「やっぱり認知症が重度」と判断を上塗りするだけのセラピストは多いのです。。。
いやいや、対応を変えなきゃ。でしょうに!
そうすると「ちゃんと優しい声かけをしてる」って言うのです。。。

構成障害とは
全体と部分、部分と部分の位置関係を認識し再現する能力の障害のことですから、
「ここをこうしてこうやって」と見本を見せながら説明しているつもりであったとしても
隣にいるセラピストの折り方と自身の折り方を照合させながら動作することを要請しています。
構成障害がある方に対して、できないことをさせていることになってしまっています。
再現できなくても認識はできる方は大勢いますから
「自分がやろうとしてもできない」体験を反復強調させていることにもなってしまっています。
ところが「ここをこうしてこうやって」が適正な説明だと思い込んでいる人も多いのです。
構成障害のある方にとって最も困難な説明なのに。。。
  
もちろん、このような対応をしているセラピストに悪意があるわけではなく
単に知識がなかったり、概念の本質を理解できていないことによって
本当は適切な対応でないことを自覚できていないに過ぎません。

  だからこそ、厄介とも言えますが。。。
  まさに、
  「地獄への道は善意で敷き詰められている」

  「天国には善行が満ち、地獄には善意が満ちている」
  わけです。。。

HDS-RやMMSEをすることが評価でもなければ
立方体透視図模写テストや五角形模写課題をすることが評価ではありません。
「検査=評価」ではないのです。

HDS-Rや立方体透視図模写テストなどの検査は、
ふだん能力低下に直面せずに暮らせている人に対して
「できない、わからない、困った」ことに直面させる体験でもあります。
そのような辛い体験をさせてまで得た結果なのだから対応に活用しましょう。
私たちは評論家ではないのですから。

評論家なら、
「HDS-Rが1桁で重度の認知症」
「立方体透視図模写テストが全然できなかったから構成障害重度」
と宣って終わりで良いでしょうけれど
私たちは評論家ではなくて、援助者なのですから。

それら検査結果を踏まえて
「じゃあ、どうするのか」が問われているのです。

リハとは、「じゃあ、どうするのか」の協働作業です。
「認知症だから、どうするのかが難しい」わけではありません。

「HDS-R3点だった」
という結果から「どうするのか」が出てくるわけがありません。
「じゃあ、どうするのか」を具現化できるためには
能力を見出し活用することが必須です。
「HDS-R3点だった」ということは、
1)3点はとれた
2)尋ねたことの枠組みで答えることができた
ということでもあります。
ここに、能力を見出すヒントがあります。

そしてこれって、実は
検査に限らないし
リハの場面設定に限らないし
食事介助でもポジショニングでもBPSDへの対応でも言える
ことですし
もっと言うと認知症のある方に限らないと思うのです。

 

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説明の仕方・説明の受け方

ある時、道に迷ってしまったので尋ねました。
「この道をまっすぐ行くとバス通りに出るからそこを左折」
私は初めての場所だったので『バス通り』がわかりません。
そんな気持ちが顔に出たのでしょうか、隣にいた少し年配の方が
「この道をまっすぐ行って一つ目の信号を左折」と教えてくださいました。

あーなるほどなー。と思いました。
相手の状態を把握し、理解しやすい言葉を使えるかどうか。
最初に教えてくれた人も間違った説明をしたわけではありません。
その説明で理解できて助かった人だっていると思います。

説明が上手というのは
相手の状態に応じて適切な言葉を選べる
か、どうかということなんだなーと
説明を受ける立場になって再確認。

同じ日に全くの別件で説明を受ける機会があり
その人の説明の仕方とその根幹にある思考過程に触れることになりました。
聞き手・尋ね手の立場として、
説明者の状態に応じて適切な質問のカタチで尋ねることの重要性
を再確認させられました。

説明と同意は、介護保険サービスや医療を提供する時にも受ける時にも必須の過程です。
双方の立場で説明の場にたくさん立ち会ってきました。
さすがだなーと思ってパクらせてもらった説明の仕方もありますし
そうなるよなー仕方ないよねと思ったこともありますし
それはマズイでしょうと思ったこともあります。

説明と同意という過程が形骸化してしまうというのは
いろいろな因子が関与していると思いますが、 日本的でもある と感じました。
 

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対人援助職の業(ごう)

認知症のある方の生活障害やBPSDに対して
多くの人が誤解していると思います。
   
生活障害やBPSDというのは、実は、表面的な表れです。
何の表れかというと、
症状や障害・能力・特性・環境(介助者の言動を含めて)が錯綜して現れているのです。
ですが、多くの場合に、錯綜している現実を観察せずに
見た目の表れにすぎない、生活障害やBPSDだけを切り取って見て
「帰宅要求・徘徊・暴言・暴力」などとレッテルを貼って
「どうしたら(それらが)無くなるのか」と悩んでいるのです。

残念なことに
このような思考過程は現場あるあるです。

帰宅要求のある方に対しては
「タオルを畳ませる」「飲食を提供する」「気持ちをそらせる」
などの対応が効果的とされています。
必死になって帰宅要求している認知症のある方に向き合うことなく
その場をしのぐ対応をすることで
帰宅要求がなくなったという経験が蓄積
されてきたからだと考えています。

認知症のある方の生活障害やBPSDというカタチには
症状や障害・能力・特性・環境(介助者の言動も含めて)が錯綜して反映されています。
生活障害やBPSDは単に能力が低下したから起こっているわけではありません。

ところが
まず、最初の生活障害やBPSDが起こっている場面そのものを観察しようとする人は
とても少ないのが現実です。

観察しようとしても
「認知症のある方の困りごとを援助しよう」という意図ではなく
「表面的に職員にとっての困りごとをなくそう」という意図を持って
観察してしまう人はとても多いものです。
意図のベクトルが真逆です。
 
私たちは意図に基づいた観察をしているので、
職員中心の意図であれば得られる洞察結果は職員中心のものにしかなりません。

援助(認知症のある方中心)と強制・支配(職員中心)は
コインの裏表のようなもので、
援助であれば強制・支配にはなり得ず
強制・支配であれば援助にはなり得ない。
そして、裏表は容易に入れ替わってしまいがち
なものです。

よく言われる言葉のひとつに
「時間があればそうしたいけど時間がないから仕方ないのよ」
という言葉があります。
確かに私たちの手は2本しかありません。
今はどの施設のどの職種の人もみんな忙しい。
時間に余裕をもって働けている人の方が圧倒的に少ないのではないでしょうか。
確かに忙しくて気持ちがあっても実際にはできないことも多々あるでしょう。
ですが、本当に時間さえあれば適切にできるのでしょうか?
私が過去幾多の人たちと働いてきましたが
時間を言い訳にする人で時間があった時に適切に関与しようとしている人に
あったことがありません。
忙しくてもちゃんとしようとする人はするし、しない人はしないのです。
忙しい以外にもっと根本的なところでできない理由があるのです。
そして、多くの人は実は無意識には自分ができないことをわかっている。
わかっているからこそ、多忙を言い訳に、防衛機制として否認し合理化しています。

仮に
援助の視点を明確にしながら観察しようとしても
知識がなければ(概念の本質を理解していなければ)
的確に洞察することは難しいものです。
的確に洞察できなければ的確な判断ができようはずもありません。
的確な判断ができたとしても
その判断をカタチにして見せられる技術が伴わなければ机上の空論となってしまいます。

援助の視点をぶらさないようにすればするほど
いくつもの段階で自分自身のできなさに直面させられることになるのです。
これは本当に辛いことです。
その辛さを経てようやく行動変容を促すことができる段階に達することができます。
本当に認知症のある方の行動変容を促すことができる人は
そこに至る過程での辛さを嫌というほど体験しています。

耳障りの良いスローガンを唱えるだけでは
行動変容を促すことなどできようはずがないことを身に染みてわかっています。

抽象論や総論を語りたがったり
スローガンを連呼する人を私が信用できない理由がそこにあります。

そして、その段階に達してもなお、いえ、その段階に達したからこそ
常に援助と強制・支配がどんなに入れ替わりやすいのか
日々の場面場面で自戒し自制することの厳しさを思い知らされるものです。

一部では
認知症のある方への対応はかなり蓄積されてきたと言われているようですが
私はとんでもないことだと強く感じています。
もう一度、援助の視点・原点に立ち返って組み立て直さないと
本当に真摯な人が辛くなるだけで現状は一向に改善されず
理念と実践の乖離や言行不一致なことに疑問を抱けない人の声だけが大きくなり
結果として、認知症のある方とご家族の余分な困難がいつまで経っても改善されないようなことになりはしないかと心配しています。

そして
私だって、まだまだではありますが
今、本当に必要とされている理念と実践を結びつける思考過程を
ある程度は言語化することができるようになったので、
このサイトや講演や執筆活動を通して公開・伝達しています。

私には地位も名声もありませんが
本質を追求しようとする姿勢は持っています。
この広い世界のどこかに必ずいるはずの受け止めてくれる人に向かって声をあげています。
どうぞこの声が届きますように。
そして届けるに値する実践を私が為し続け言葉を紡ぎ続けることができますように。

 

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潜在する課題「口を開けてくれない」

タイトルを見て気がつきましたか?

「口腔ケアの時に口を開けてくれない」
「食事介助の時に口を開けてくれない」
といって質問されることは多々あります。

私は常々
問いの中に答えがある
答えが出ない時には問いを問い直す
ことが大切だと考えています。

「開けてくれない」という相談事の根底には
無自覚ではあっても、前提として
「開けてくれて当然なのに」
という相談者の気持ちが反映されています。
相談するくらいですから
真摯に業務に向き合っていることは伝わります。
相談者の善意を疑うものではありませんが
相談者の心のどこかに主客転倒が生じているから
「くれない」という言葉が発せられるのです。
言葉には発する人の意思が反映されてしまうものです。

「開けてくれない」という言葉は
前提として相手が自分の介助に「合わせる」ことを要請しているから
出てきてしまう言葉です。
本来であれば
自分の方が対人援助のプロとして
相手に合わせられるはずなのに。

  ヨーロッパの諺に
  「地獄には善意が満ちているが、天国には善行が満ちている」
  という言葉があるそうです。
 
自分の方が相手に合わせようと思えば
「口を開けようとしない」のか
「口を開けられないのか」を観察・洞察しようとします。
そして
「開けようとしない」のであれば、
開けようとしない相手にとっての必然がありますから
その必然を観察・洞察します。
「開けられない」のであれば、
開けられない必然を観察・洞察します。
どうしたら良いのかは、その次の話です。

口を開けてくれない
口を開こうとしない
口を開けることができない

文章で書かれたものを読めば違いがあることがわかると思います。
でも、現場では多くの場合に、これらを一緒くたにして、ひっくるめて
「口を開けてくれない」と問題設定しているのです。

「(口を開けてくれて当然なのに)口を開けてくれない」
と問題設定した段階で
自身の介助の正当性について
疑問や不安を抱いていない
ことを表明しているも同然です。
自身の介助の正当性に疑問や不安を抱いていないということは
認知症のある方の「口を開けてくれなさ」そのものを観察していないとも言えます。

これは本当に現場あるあるの主客転倒です。
二重の意味での主客転倒です。
介助に協力させることを心のどこかで考えている
観察せずに対応を考える
これでは効果が出る方法論を提供できるはずがありません。

多様な対象者の状態にあわせて、介助の多様性を提供するのではなく
対象者の方が、多様な介助者の多様な介助方法に適応してくれている。。。
対象者の状態の多様性を観察することで何が起こっているのかを洞察するのではなくて
介助者の推測に対象者を当てはめようとする。。。

多様性を失っているのはいったいどちらなのでしょう?

でも
このような現状が生じてしまうことにも理由があって
対人援助職という職業そのものが抱える業(ごう)の様なものがあるのです。

この問題については次の記事で。
  

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口を開けてくれない方への口腔ケア

口腔ケアを嫌がる方は案外多くいらっしゃいます。
「認知症だから口腔ケアを嫌がる」というのは安易な考え方です。
認知症のある方それぞれに嫌がる必然があります。

最も多いものは、過去の不適切な口腔ケアを再認して拒否するというケースです。
それって当然ですよね?
口の中というデリケートな部分に対して侵襲的な刺激があれば防御するのは当然です。

だとすると、
侵襲的でない口腔ケアをどうしたら良いかと考えることになります。
ここでよくある誤解が
〇〇さんの口腔ケアへの拒否や抵抗をどうしたらなくせるか
ということを考えたり話し合ったりしがちなことです。
まず最初にすべきことは
〇〇さんが嫌がっている口腔ケアの場面そのものを観察し直すことです。

そうすると
実は言語理解力が低下していて
声かけだけでは
「歯磨きをしてもらうために口を開ける」ということを認識できない
でも
歯ブラシを見てもらう、
あるいは歯ブラシを横に動かす動きを見てもらうことで
「歯磨きをしてもらうために口を開ける」ことを認識できることに
私たちが気がつくことができます。

現場あるあるの誤解は
強引で無理矢理といった侵襲的でない、適切なケアを提供しようと考えて
懇切丁寧な声かけという言葉に頼った対応をする
声かけは丁寧でも、いきなり歯ブラシを口の中に突っ込む

というものです。
声かけを理解したかどうかの確認もしていません。
それではびっくりして嫌がって当たり前です。
視覚情報の提示によって口腔ケアに協力していただけるようになる方は大勢います。

まず、歯ブラシを認知症のある方の目の前に提示して、見たことを確認します。
その後に、歯ブラシを左右に動かしながら「歯磨きしましょう」と声をかけます。
これだけで嫌がっていた方が大きく開口してくださることは多々あります。

大きく開口してくれない場合でも
少しでも開口してくれるなら、開口してもらえたところから可能な範囲で
歯をブラッシングします。
そうするとだんだんと開口が大きくなるので、ブラッシングの範囲を広げていきます。
奥歯を上からブラッシングすることができるようになれば
奥歯の裏側をブラッシングすることも可能になります。
奥歯の裏側をブラッシングできれば、手前に戻ってくることで
前歯の裏側もブラッシングが可能となります。

それでもやっぱり開口してくれない方もいます。
口輪筋が硬くなっていたり力が入ってしまっている場合です。
そのような場合はいきなりブラッシングをするのではなく、
自身の指に歯磨きティッシュを巻きつけ
口唇を小さく丸く円を描くようにマッサージします。
するとだんだんと口輪筋の緊張が緩んできます。
一番多いのが下唇の下あたりが硬くなってしまっているケースが多いので
下唇と歯の間に指を入れることができたら、そのまま指を左右に動かします。
ここまでできれば次第に開口できるようになります。

もう一つ
「口を開けてくれない方への口腔ケアをどうしたら良いか」
という命題に潜在する本質的な課題があります。
それは次回に。
  

 

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「認知・認知の人・認知のある方」

バリデーションセミナー2012

ギョーカイ用語のようになっていますよね。
「認知・認知の人・認知のある方」
文脈から認知症や認知症のある方のことを言っているのはわかりますが
これって、とってもヘンな言葉です。

私は地域の公民館に伺って講演をすることもありますが
ある時、講演終了後に一人の方が近寄ってきて
「すみません。質問があるんですけど」と言われました。
「認知とか認知の人、認知のある方っていう言葉がありますが
 これって変な言葉ですよね?」と尋ねられました。

まさに!まさに!

お気づきの方もいるかもですが
私はいつも「認知症のある方」という表現をしています。
だから、尋ねてくださったのだと思います。
この表現は、英語の「People with Dementia」「People who have Dementia」の直訳です。
英語表現のすごいところは、ちゃんと「人+認知症」として明確に区分けしているところです。
そもそも「人」がいて「認知症」になったということが明確に表現されています。

ところが、日本で一般的に使われる認知症高齢者という言葉だと
「人と病気が混在・一体化」「人が形容詞化」「病気に修飾された人」として
表現されています。

「認知・認知の人・認知のある方」って日本語としても成立していませんし。
認知という精神機能と生きている人間とを並列表現するのもおかしいし
認知があって良いじゃないですか。認知が無ければ困るじゃないですか。
英語にするともっとハッキリわかると思います。
「cognition・People of cognition・People with cognition」
もはや、何を言いたいのかわかりません。。。

言葉は概念を表すものなので
こういう言葉を使っていながら「人として接する」というのは論理矛盾しているんじゃないかしら。

言葉を大切にするということは、概念を大切に取り扱うということです。
医療・保健・福祉従事者が「認知・認知の人・認知のある方」と言うのは
「私は概念をきちんと取り扱えません」と公言しているも同然なんですけどね。。。

私たちは対人援助職のプロとして養成されてきましたが
質問した人だって、何かの職業のプロです。
だからこそ、「言葉と概念の食い違い」に気がついて質問されたんじゃないだろうか
と感じました。

 

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