Tag: コミュニケーション

カタチとハタラキ



様々な分野で
リハの知識と技術の蓄積が進んでいるのは本当に素晴らしいことだと思う。

たくさんの方の地道な日々の臨床の積み重ねの恩恵を
私も手にし、そして、次の世代へ手渡せる過程に関与できることに感謝しています。

同時に
蓄積と伝承が良い面だけで起こっているわけではないことを危惧しています。

私は認知症のある方を対象にして働いていて
食事をはじめとするADLやコミュニケーションについて
目の前の事実に対して観察と洞察と実践とその後の考察を重ねてきました。
その結果、確実に言えることがあります。

カタチにはハタラキが反映されている。

そのハタラキを観察し洞察することが治療的環境として作用する。

カタチだけを見て
正常から逸脱したカタチを問題として認識して
カタチを修正・正常化しようとするような関与の在りようは
たとえ、善意からであったとしても
結果的には反治療的環境として作用してしまいがちです。

私たちは常に「関与しながら観察」しています。
傍観者として関与することも可能だし
こちらに合わせることを要請する者として関与することも可能だし
本来の意味での援助者として関与することも可能です。

そして、その「関与」の在りように応じて
対象者の方も応答するから
在りようというのは観察の入り口として
本来は、どれだけ重要視されてもおかしくないことです。

私が食事介助において
適切な食形態を選択することと
適切なスプーン操作をすることの重要性を言っているのは
それらができて初めて、対象者の方の本来の食べる能力を
観察するための入り口に立てるからなんです。

対人援助職は
意思として援助者として関与したいと願っていながらも
結果として、無自覚のうちに要請者として関与してしまっている、
そうすり替わってしまう危険性を内在している職種なのだということに対する警鐘が為されにくい

たとえば
食事介助に関して言えば
本来の食べる能力を観察する前に
何とかして食べさせよう、飲み込んでもらおうと考えてしまうことにすり替わってしまう。

すり替えは容易に起こりやすく自覚しにくい
ということが潜在する大きな問題だとも感じています。
このことについては、別の記事で考えをまとめてみるつもりでいます。
今は、カタチとハタラキに絞って書いていきます。

カタチには、その方の能力も障害も反映されている。

ところが、現実には目に見えるカタチを見て、正常なカタチと比較し
異なるカタチを正常化しようと取り組んではいるけれど
目に見える通常とは異なるカタチに反映されているその方の能力を観察・洞察し
その能力をより合理的に発揮できるように方法や環境を調整・適合・提供し
能力の発揮「過程」を観察・洞察しようとしている人は少ないと感じています。

立ち上がりができない方に
立ち上がりを練習させることはあっても
座り方を練習させるセラピストは少ない。

現実には
立ち上がりができない方は
往々にして、座り方も巧みにはできない場合が多い。

けれど、多くの場合に
立ち上がり方を見てはいても
その同じ場面で起こっている座り方は見れども観えずになってしまっている。

実は、その座り方に、そして立ち上がれないけれど立ち上がろうとしているそのハタラキにこそ
その方が立ち上がれるようになるための能力が反映されているのに。

認知症のある方が
口を開けてくれない、溜め込んでしまう、飲み込んでくれないという場合に
なんとか、口を開けてもらおう、飲み込んでもらおうという在りようで接してしまうと
そもそも、どのように食塊を認識し、こちらのスプーン操作に適応しているのか
見れども観えずになってしまい
食べる過程において、嚥下の機能解剖に沿った観察ができずに
口を開けてくれなさ、飲み込んでくれなさに現れている能力を
結果として、見落としてしまうことになってしまいます。

口腔ケアで
開口に協力してもらえないと
ケアを断念してしまうか、無理やりケアをしようとするか、可能な範囲にとどめておくか
にとどまってしまい
協力してもらえなさに反映されている、その方の能力と障害を見れども観えずになってしまって
次へ進めるはずのステップに踏み出せなくなってしまう。

同じコトが違うカタチで現れている。

皮肉なことに
知識と技術の蓄積が進むほど
本来、その蓄積を支えてきたはずの観察・洞察という過程が抜け落ち
表面的なハウツーというカタチでの伝承になってしまう。。。

「〇〇という状態像の方がいるんですけれど、どうしたらいいでしょうか」
このような問いというカタチは、そのような思考過程で臨床に臨んでいるというハタラキの表れでもあります。

カタチにはハタラキが反映されている

ハタラキを知るためにカタチを観察・洞察する

対象者の方にとっても
私たち対人援助職にとっても

私たちは常に相互関係の場に存在している。
だからこそ、ICFという相互関係論に依拠した実践によって
相互にハタラキを変え
結果として、カタチすら変わることが可能なんだと考えています。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4262

食事介助で意思疎通が改善



意思疎通困難な方によくあるのが
食事介助のスプーンに、うまく協力しながら食べ物を取り込むことが難しかったり
立ち上がり介助の時に、介助者に協力しながら動くことが難しかったりする
というケースです。

口を閉じるタイミングがズレたり
立ち上がる時に車椅子のアームレストにしがみついたり
多分、誰もが一度や二度は、そういう場面に遭遇していると思う。

結局のところ、同じコトが違うカタチで現れているだけなんだと実感しています。

相手やスプーンという対象や環境に
自らの身体をうまく適合させる
ということが難しい。

このような場合に
通常の方法をどれだけ繰り返してもできるようにはならない
「ちゃんと食べてね」と言ったり
「ちゃんと立ってね」と言ったりすることは
善意からの発言であったとしても、結果的には、むしろ逆効果になってしまうと感じています。

混乱せずに入力しやすいように
刺激の量と質を調整させながら環境調整する(声かけや介助方法を工夫する)
ことが肝要だと考えています。

食事介助をして
食べられなかった方が食べられるようになると
意思疎通も改善されていく
口腔ケアをして
ケアに協力できるようになると
意思疎通も改善されていく
というケースをたくさん経験していますが
同じコトが違うカタチで起こっているだけなんだと感じています。

食事介助や口腔ケアは
工程がシンプルで結果が明白だから
自分の関与のフィードバックが得られやすい
何がどう良くて、何がどう悪いのか、PDCAを回しやすい

過程において
特性も能力も把握しやすい

この方は
こっちの奥歯で噛むから
Kポイントは反対側を使おう
口腔ケアのブラッシングは奥歯の上面をブラッシングすると開口しやすい
といったことをこちらが把握できているというのは、多分、相手にも伝わっている

把握した上で介助しているのと
把握せずに介助しているのとでは全然違う。

普通に話していても
こちらの話を深く理解して聞いてくれているのか、そうでないのか
って、かなりわかるんじゃないかな。
それと同じだと思う。

口腔ケアという場面での
介助する・されるという相互体験・相互作用を経た上で
「歯磨きします。口を開けてください」という声かけで
スムーズに開口してくださるようになったのだと思う。

「こうすれば開口スムーズ」というハウツーではなくて
その場面において、相手の状態を把握し援助するという「体験」は
目に見えるのは「口腔ケア」だけれど
まさしく、ノンバーバルコミュニケーションの過程そのもの

ADLは、カタチとしての項目の下支えとしてノンバーバルコミュニケーションがある
二重構造になっている。

認知症のある方に
その人らしさを発揮してもらおうと
何か、Activityに取り組んでもらうのも良いけれど
特別なことをしなくても
ADLそのものを援助することが、同時にその人らしさを発揮してもらうことにもなっていると感じています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4257

関与できたことしか観察できない



ハリー・スタック・サリヴァンという精神科医の言葉で
「関与しながらの観察」という言葉があります。

この言葉の重みを感じる今日この頃ですが
最近、意味をもう一段深く理解できるような体験が続いています。

関与できたことしか観察できない
関与できないことは観察できない
関与できるから観察できる
だから関与しながらの観察が重要

例えば
認知症で意思疎通曖昧な方の口腔ケアを行う時に
その方の能力がわからないと適切な関わり方ができないので
口腔ケアを行うことがとても難しくなってしまいます。

仮に
開口してもらえたとして
硬口蓋(舌先で触れる上の顎の部分)に
白色の乾いた痰が付着していることが見えたとしても
実際に口腔ケアをしてみると
上の歯の裏側には茶褐色に変色した乾いた痰を拭い取れたりする。

口の中を見ることができなければ
硬口蓋に付着した白色の乾いた痰が付着していることを見られない
実際に口腔ケアができなければ
歯の裏側に付着した茶褐色の乾いた痰が付着していることを見られない

開口してもらえるような関わり方ができて初めて
硬口蓋に付着した痰を見ることができる

例え、開口してもらえたとしても
口腔ケアに協力してもらえるような関わり方ができなければ
硬口蓋に付着した痰を見ることができても
歯の裏側に付着した痰を見る、存在を知ることができない

実際には存在しているけれど、自分が知らない、見えないのと
実際に存在していないのとでは、全く違う

自分の関わり方、知識と技術の深度に応じて
その方の状態の見え方が異なってくる

口腔ケアは、
結果が明白だから、とてもわかりやすいけれど
同じことが違うカタチでいろいろな場面で現れているのだと実感しています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4254

自己効力感



自己効力感とは
カナダ人の心理学者アルバート・バンデューラによって
「自分が行為の主体であると確信していること
自分の行為について自分がきちんと統制しているという信念
自分が外部からの要請にきちんと対応しているという確信」として
自己に対する信頼感や有能感のことだと提唱されたそうです。

介助、とりわけ食事介助って
自己効力感を高めもするし、結果として低めてしまう恐れもあるのだと感じることがあります。

臨床あるあるなのが
なんとか食事を自力摂取している方だと
全量は食べられずに少し残してしまうこともあると思います。
その時にどうするか。

あと少しだから。。。と介助することってありませんか?
気持ちは本当によくわかります。
そうしたくなりますよね。

でも
意思表示をきっぱりと明確にできる方が
自分の意思で「もういらない」と言ったのに
(もう少し食べられる?)と言われてしまうというのは
どのように受け止められているのかな。。。

普通に考えて
家族と一緒にご飯を食べていて
「もういらない」って言われた時に
「あとちょっとだから食べてよ」って言うのかな?
あんまり量が食べられなくて
「もういらない」って言われたら
「もう少し食べたら?」って言うんじゃなくて
「どうしたの?具合悪いの?」って心配するのが先なんじゃないかな?

肺炎後の回復過程において
いきなり全量摂取は目指さずに
その方の意思表示に従って「いらない」「もうたくさん」と言われたら必ず終了する
という対応をすることはよくあります。
1/3しか食べられなくても、あと一口で食べ終わる時でも
「はい。じゃあ終わりましょう」ときっぱり終わりにします。
それでもだんだんと摂取量は増えていく場合がほとんどです。

増えない場合には、他の要因がある。
食べさせないから食べられなくなる。わけじゃないし
食べさせれば食べられるようになる。わけでもなくて
食べることの援助をするから食べられるようになる。

その方が
「食事」という対象に対して
関わって、感じて、どうするか判断して、表現する
一連の過程を1つのループとして完結するように援助する。

無理やりループを大きく広げるのが援助ではなくて
どんなに小さくても、ループがループであるように援助する。

食事で感じられる、満腹感、空腹感、美味しさ、満足って
とても根源的なものだから
自己効力感と密接に関与しているんじゃないかな
と感じる今日この頃です。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4251

誤嚥性肺炎後回復の対応と考え方



認知症のある方や生活期にある方で
誤嚥性肺炎になってしまった後のリカバリーについて書いてみます。

1)不顕性誤嚥の予防ー口腔ケアの徹底
2)体力勝負ー焦らず・疲れず・食べる
3)食形態の選択
4)食事介助の工夫

ポイントはこの4つだと考えています。

そして、最も重要なことは、
どんな風に食べているのか、その食べ方に反映されている能力と障害・困難と特性を把握できる
つまり、アセスメント・評価・状態把握であり
アセスメント・評価・状態把握ができるためには
食べることと認知症の両方の知識に基づいた観察ができることだと考えています。

 

1)不顕性誤嚥の予防ー口腔ケアの徹底

誤嚥性肺炎肺炎の治療で
禁食にする場合とそうでない場合があるかと思いますが
禁食にした場合でも大切なのは口腔ケアです。

痰の自己喀出ができる方も
吸引をしてもらっている方も
たとえ経口摂取していなくても口腔ケアが必要です。

口腔内の清潔と湿潤を保持するために
歯のある方は必ず歯をブラッシングする
舌苔がある方は除去する
痰が硬口蓋(上顎)にこびりついていれば除去する

口腔ケアは、どうしても後回しになりがちではありますが
誤嚥性肺炎後、体力が低下していると不顕性誤嚥に罹患しやすいので
体力が戻ってきたら、ある程度大雑把でも不顕性誤嚥にならずに済みますが
(もちろん、どんな時でも口腔ケアは必須ではありますけれど)
体力が低下している時に、口腔ケアが不十分で口腔内が汚いと唾液が汚染されてしまいます。
その唾液を誤嚥してしまえば、どんなに抗生物質を点滴しても、吸引しても
イタチごっこになってしまって、なかなか治癒できないという状態になってしまいます。
いったん、解熱したのに、また熱発してしまうということも起こり得ます。

その意味で、食べた後だけではなくて食べる前の口腔ケアも必要です。
特に口腔内の粘調痰は誤嚥を引き起こしやすいので
必ず除去してから食べていただくようにしてください。

意思疎通が困難な方には
言葉だけに頼らずに、視覚情報を明確に提示することが有効です。
例えば、歯ブラシを目の前できちんと見せる。歯ブラシを左右に動かしながら「歯磨き」と言う。
実際には、総入れ歯の方の口腔ケアなどで歯ブラシを使わない方であっても
「歯ブラシ→歯磨き→開口する」ことをイメージしやすくなる場合も多いです。
口腔ケア用のスポンジを目の前で提示すると「飴」と誤認されやすく
舐めたり吸われたりしてしまってかえって開口しにくくなってしまう場合もあります。


また、いろいろな工夫をしても、
どうしても口腔ケアに協力していただけない場合もあるかと思います。
そのような時には殺菌作用があると言われている緑茶や紅茶を食後に摂取していただきながら
ケアに協力してもらえるように、どのようにしたら可能になるのかを探っていきます。

Kポイントを利用して開口を促すことも行いますが
「口を開けさせる」ためにKポイントを使うのではなくて
「開口のきっかけ」としてKポイントを活用すると考えています。
できるだけKポイントを使わなくても開口維持してもらえるように関与していきます。

認知症の状態が進行していれば
理屈ではなくて感情・感覚に働きかける声かけをします。
例えば
「歯磨きをしないと虫歯になっちゃいますよ」ではなくて
「歯磨きをすると口の中がスッキリさっぱりしますよ」と言うようにしています。

 

2)体力勝負ー焦らず・疲れず・食べる

誤嚥性肺炎後は体力が低下しているので
最初は数口食べるだけでも疲れてしまうこともあります。
疲れ切ってしまえば、意欲が低下してしまったり、この次に食べる体力がなくなってしまいます。

食べることも、筋肉が働いた結果として可能になることなので
食べることはエネルギーを摂取するというインプットの反面、
全身の運動というエネルギーのアウトプットでもあります。

食べていただきたいのはヤマヤマですが
その時に介助者の側が焦らずに
食べられる分を無理し過ぎずに食べていただくことが大切です。

1回量を把握しながら
少しずつ増えていけるように
想定より少なくても「頑張って食べた」ことを喜びあえるように励ましてください。

ふだん臥床しているお部屋から出て食堂などの異なる環境で食べることも
心理面では良い刺激にはなりますが、一方でいきなり長時間の離床は
食べる体力・気力までも低下させてしまいかねませんので注意が必要です。

病院に勤務していれば血液検査の結果を確認しながら関与できます。
特に、炎症反応を示すCRP、総蛋白TP、アルブミンALBの値は必ず参照していますし
易疲労にならないように、適正な1回量を把握するためにも
顔色・表情・活気・声量や声のハリについて注意深く観察をしています。

食べさせるのではなくて
今の状態でも、ラクにスムーズに食べられる形態と量そして離床・臥床のバランスについて検討しつつ関与していきます。

 

3)食形態の選択

食べやすい形態は様々です。
その方の食べ方をよく観察して食形態を選択することが一番のポイントとなります。

一見、咽頭期の低下に見えて、
実は口腔期の易疲労が主要問題で咽頭期は二次的に引っ張られて低下している
という状態像の方は、とても多くいらっしゃいます。
「ムセたらトロミ」という安易な発想からは卒業しましょう。

後述しますが、
「どんなものなら食べられるのか?」という問いを立てるのではなくて
「どんな風に食べているのか」を嚥下の機能解剖の知識に沿って観察することから始めます。
観察できれば必然的に「今はこの形態なら食べやすい」「この形態では食べにくい」「この形態では危険だ」という判断が伴ってきます。

誤嚥性肺炎後は体力低下していますし、禁食期間があれば内蔵に負担をかけないように
いきなり食形態を元に戻すのではなくて段階的に食形態を上げていくことが望ましいと考えています。
(断食後には段階的に食事内容を元に戻していきますよね)

今は液体の栄養補助食品も個体の栄養補助食品も様々なものが販売されています。
施設環境によって、用意できる栄養補助食品は限られてしまうかもしれませんが
食感というテクスチャーと栄養の両面から食形態を選択できるように
栄養士さんとの情報交換・連携が求められると考えていますし
また、栄養士さんとの情報交換がスムーズに進められるように
最低限の情報はこちらも知っておいたほうが良いと考えています。

 

4)食事介助の工夫

必要であれば、最初にシリンジを使用することもあります。


液体の栄養補助食品をこのシリンジを使って
一口量を1cc・2ccから始めたケースもありました。


易疲労が顕著な時や身体の環境適応が混乱している時には
上唇で取り込まなくても食べられるように
ゼリー状の栄養補助食品を箸で臼歯の上に載せて食べていただくこともあります。

大切なことは、嚥下の機能解剖の知識をもとに
目の前にいる方の食べ方をよく観察することです。
観察できれば、今、その方がどんな風に食べているのかがわかります。

どのような障害・困難があって
でも、能力をどんな風に発揮して頑張って食べているのか
食べにくい、食べようとしないという状態には必然があります。
同時に、「限定した」環境(場面・食形態・食事介助)であれば食べられる
ということを意味します。

私たちができることは「限定した環境」を見出し、援助すること。
そうすると、重度の認知症のある方でも、能力がありさえすれば、体力を消耗しすぎていなければ
限定した環境から、だんだんと多様性のある環境にも適応できるようになっていく。
つまり、食形態を上げられるようになっていきます。

意思疎通困難、食事介助困難と思われていた方でも
食事介助を通して、意思疎通も改善されるというケースにも数多く遭遇しています。

誤嚥性肺炎後にもう一度口から安全に食べられるようになるためには
あるいは誤嚥性肺炎に罹患しないように予防しながら口から食べていただくためには
アセスメント・評価・状態把握こそが重要です。

impairmentの評価は必要ですが
人間の身体は形態的にも機能的にも連続性があります。
脳血管障害などの具体的なアクシンデトがない認知症のある方や生活期の方においては
咽頭期の問題は咽頭期固有のものではない場合もあります。

嚥下5相の中での関係性
身体と口腔器官との関係性
対象者本人と介助者との関係性
その時その場のその関係性において
能力を発揮しながら食べています。

口腔嚥下リハは、できるに越したことはありませんが
もっと重要なのは、食事場面そのものです。

私たちが上の歯で食塊をこそげ落とすようなスプーン操作をしていれば
認知症のある方、生活期にある方その方の本来の食べ方を見ることすら叶いません。
適切なスプーン操作をできるということは
認知症のある方、生活期にある方の食べ方を観察することができるようになるための入り口です。

このあたりについては
「食べられるようになるスプーンテクニック」(日総研出版)に記載しました。
喉頭の複数回挙上によって完全嚥下している方も多いのですが
この本にあるQRコードから動画を確認することもできます。
詳細はご参照ください。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4243

意思疎通困難な方とのコミュニケーション7

認知症施策

バタバタとした日々が続いていたので
すっかり更新が滞ってしまいました m(_ _)m
久しぶりの更新となりましたが、引き続きよろしくお願いします。

まず、暮らしの援助をするために協働して行うことの理解を得る
そのためのコミュニケーションを考える時には
1)自分のノンバーバルな表出をコントロールする
2)その場の状況や場面を評価し可能であれば修正する
3)伝える言葉は明確にシンプルに
4)視覚情報を提示する
5)アメありとアメなしを使い分ける
というような工夫をしています。

5)アメありとアメなしを使い分ける

行動分析学を勉強された方はご存知だと思いますが
行動変容を促す際には、かつて言われていたような「アメとムチ」ではなくて
「アメありとアメなし」を使うそうです。

ちょっと、言葉は悪いですけど、考え方として紹介します。

従来の「アメとムチ」は、
望ましい行動の直後に賞賛・報奨を与えることで行動を強化し
望ましくない行動の直後には叱責・罰を与えることで行動を弱化させるという考え方でした。

現在の「アメありとアメなし」では、
望ましい行動の直後に賞賛・報奨を与えることで行動を強化するが
望ましくない行動はスルーする、プラスもマイナスもないという考え方です。

お食事など何か日常生活上のことで今して欲しいことがある時に
何か曖昧なことを話してしまう場合には
何を話しているかわからないのに
話を合わせたり、問い直したりはせずに
「そうなんですね」
と確かに聞きましたということだけは伝えて
それ以上は深掘りせずに
「ところで〇〇は」として欲しい行動をできれば視覚情報とともに提示しながら示します。

ここで気をつけていただきたいことは
例えば「帰りたい」「ものがなくなった」など
意思表示がはっきりしている場合には別の対応が必要です。
そのような場合には、実は言語表出を促したほうが良いのです。
このことについては後日また。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4229

意思疎通困難な方とのコミュニケーション6



まず、暮らしの援助をするために協働して行うことの理解を得る
そのためのコミュニケーションを考える時には
1)自分のノンバーバルな表出をコントロールする
2)その場の状況や場面を評価し可能であれば修正する
3)伝える言葉は明確にシンプルに
4)視覚情報を提示する
5)アメありとアメなしを使い分ける
というような工夫をしています。

4)視覚情報を提示する

・言葉だけにとらわれずに伝わりやすい方法を考える

言語理解力は低下しても
視覚的理解力は保たれている方は大勢います。

「何を言ってもわかってくれない」という声も聞きますが
実は「言うからわかってくれない」ということもあるんです。

言うのではなくて、示すことで伝える

百聞は一見に如かず

目で見てとる能力が保たれているのなら
今がどういう状況か
どこに行ってほしいのか
何をしてほしいのか
視覚情報をメインに提示するようにします。

言葉だけで歯磨きをしましょう
というよりも
実際に目の前に歯ブラシを見せて
「歯磨き」と言うだけの方が
開口がスムーズになる
といったようなことはヤマほどあります。

私たちが
できないところに着目すればするほど
その人のできなさがよくわかるようになります。
でも、そのような在り方では、その人の困りごとを援助することはできるようにはならない。

どうしたら伝わるのか
どんなことならわかるのか
できることを探していく
できなさにすら、反映されている能力を見出せるようになればなるほど
その人の困りごとをピンポイントで援助することができるようになります。

その過程を積み重ねて行った結果
〇〇さんには、
こんな風にしたら伝わりやすい
こんな風に関わったら理解がスムーズ
ということが明確になっていく。

意思疎通困難と言われている方は
何も通じないわけではない。
通じる部分は必ずあります。

そのきっかけの一つが
視覚情報の提示。ということなんです。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4220

意思疎通困難な方とのコミュニケーション5



まず、暮らしの援助をするために協働して行うことの理解を得る
そのためのコミュニケーションを考える時には
1)自分のノンバーバルな表出をコントロールする
2)その場の状況や場面を評価し可能であれば修正する
3)伝える言葉は明確にシンプルに
4)視覚情報を提示する
5)アメありとアメなしを使い分ける
というような工夫をしています。

3)伝える言葉は明確にシンプルに

・形容詞や副詞よりも、名詞+動詞中心で表現する

形容詞や副詞は気持ちが入ると使いたくなってしまいますが
何をどうしたら良いのか、ということは案外曖昧に伝えてしまうことにもなりかねません。

「ちゃんとパンツを下ろしましょう」
というような声かけは、実は曖昧表現なので行動化しにくいものです。
「パンツを膝下まで下ろしましょう」
というような声かけであれば「何を、どこまで、どうする」ということが明確です。

私たちは、「ちゃんとパンツを下ろす」のは
これからここでおしっこをするから
パンツが濡れないようにしなくては
そのためには膝下まで下ろせば大丈夫かな
と経験上、つまり、行動と記憶の積み重ねによって
「何を、どこまで、どうする」ということを
瞬時に判断、多くの場合に無自覚のうちに行うことができています。

「ちゃんと」という副詞が意味する行動を明確に言語化するには
名詞+動詞を主体とした言語表現を心がけるといいと思います。

このことに気がついて
自分の声かけを見直し始めた当初、
いかに自分が普段、忖度してもらっていたのか、忖度していたのか
ということに気がついて愕然としたことがありました。

・単語中心に構音明瞭に発言する

「ご飯」「トイレ」「あっち」など、単語中心に言うことも多々あります。
そこで気をつけているのは、決して大きな声を出すことではなくて
構音明瞭に話す、相手が聞き取りやすいように話す、
伝わりやすいように明確に話す、ということです。

意思疎通困難と言われている認知症のある方に
聞き間違いは、とても多くみられています。
1文字のズレどころではなくて、どうしたらそんな風に聞き取れるのかわからないくらい。
だから、聞き間違いという認識が持ちづらいのだと思いますが。

自己修正を始めた時には
自分がいかに無自覚に、言いたいように話していたのか
どれだけ構音曖昧なままに話していたのか
ということに気がついて愕然としたことがありました。。。

誤解のないように補足しますが
私は基本的には敬語を使う人間ですが
「敬語を使うべき」とも「単語で話すべき」とも考えていません。

その時その場のその関係性において
相手が理解しやすいような言語表現を具体的に明確に論理的に考える
ということを大切にしています。

その過程において
意思疎通困難と言われている方でも
単語中心で話しかけると伝わることがとても多い
ということは、意思疎通が不可ではなくて低下ということを示しています。
「不可」と「低下」では、意味がまるきり違います。
低下だったら、できることを考えればいい。

このことについては
「職場では敬語を使わないと怒られる」と困っている人もたくさんいるようで
その対応も含めて書きたいことがもっとあるのですが
いずれまた。

今はもう少し
意思疎通困難な方とのコミュニケーションについて
書いていきたいと思っています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4213