目標達成の可否に向き合う

目標を目標というカタチで設定できないと
目標達成の可否に向き合うことができません。
漫然としたリハの提供に陥り、自己修正の機会を失います。
ここに目標は「記述の仕方が問われるべき」「目標を目標というカタチで設定できる」ことの意義があります。

「ワールドトリガー」という漫画の28巻で
麓郎の問いに対して、ヒュースが師の教えをもとに答えるシーンが出てきます。
「目標達成の期限を決めなければ
 成功か失敗かの判定を無限に先送りすることができる」
「現実的な反省や改善は望むべくもありません」
「期限を切るのは結果と向き合う手段の1つ」
という言葉が出てきます。

このシーンに出てくる麓郎の目標は
チームとしては「A級昇格」個人としては「個人ポイント8000点」
と目標というカタチできちんと設定されています。
ところが期限を決めていなかったのです。

じゃあ、私たちはどうでしょう?
短期目標、長期目標を設定しますが
期限が来た時に(リハ計画書を更新するたびに)
目標の達成可否を見直しているでしょうか?

「現状維持」「移動能力の維持」などという記述にとどまっていると
目標を目標というカタチで設定できていないので
期限が決められてはいるが(3ヶ月ごとに記録更新)
結果に向き合うこと
目標達成に向けての対応が
成功か失敗かの判定を無限に先送りして

現実的な反省や改善ができていない
ということはありませんか?

リハ計画書の書式というカタチが
為すべき記載内容、為すべき実践を要請している
のに
書式に合わせた記述をしないと(その必要性が認識できないと)
単なる更新、機械的な事務処理に終始してしまいます。
  
優秀な臨床家は、常に自身の関与の適不適を確認しながら実践しています。
その確認ポイントを明確に自覚しているものです。
だから、目標の概念理解を学んでこなかったとしても
優秀な臨床家であれば、少なくとも、自身の目標設定に関して自信がない、不安だ、という自覚があるものです。

目標を目標というカタチで記述できる
ということは、実は臨床能力と相関があるのです。

目標なんか、それらしく書いておけば良いというものでは決してありませんし
また、本人のやりたいことを目標とすべきとか、内容が大事とか言う人もいますが
それは目標を目標というカタチで設定できて初めて言えることですし
目標というカタチで設定できてPDCAを回してさえいれば
いずれ自然と、かつ、必ず内容も伴う目標が設定できるようになるものです。

カタチがナカミを担保するのです。
  
日々の多忙さや、切実に求められることの多さから
目標設定は後回しにされがちかもしれませんが
臨床能力を自分自身で育てていく上で必須のものです。

臨床能力を自身で育てていけないと
理論や最新のツールといった外部の情報に過度に依存するようになります。
(まさしく理論武装をするわけです)
理論やツールに対象者を当てはめるのではなくて
対象者の利益のために理論やツールを活用すべきです。
活用できるように自身の内的な能力、臨床能力を高めるべきです。

目標を目標というカタチで設定できるようになれば
PDCAサイクルを回せるようになるので
結果として
目標を達成できるようになるために
個々の対象者に応じて
自身の関与の適否を自身で判断し
より良い関与ができるように
対象者の情報の不足している部分が具体的にわかるようになるので
自分で情報を収集できるようになり
自己修正ができるようになります。

つまり
自分で自分をより良い臨床家に育てていけるのです。

このような臨床姿勢こそ
卒前卒後を通して、生涯を通して、涵養し続けるべきものだと考えています。

 

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