「どうせムリでしょ」と対人援助職が内心思っていながら
表面的に笑顔を取り繕い「頑張りましょう」と表面的に「言う」ことは
最も重要で最も必要な過程を通り越して
結果だけを表面的になぞっている
つまり、手段の目的化をしているだけです。
当然、そのような対応では効果が出るはずもありません。
ところが手段の目的化をしている人は
「私はこんなに頑張ったんだけど効果が出ないのは
やっぱり認知症だから仕方ないよね」
と誤認しがちです。
頑張りどころも頑張り方も
私に言わせればズレてるけれど、
当人にとっては頑張っている(まさしく)ので
結果として誤認するしかないというのも理解はできます。
賛成できないけど。
そういう人には
異なる体験が必要です。
「重度の認知症のある方でも変わるんだ」
そういう体験ができた後で
認識と対応を変えられる人もいる。
変えられない人は
どこまで自覚できているかはともかく
変えたくない、自分は変わりたくないという強い思いと
その思いに至る必然性があるということ。
単にラクして良い目を見たいという人もいるかもですが (^^;
それはないよね。
ラクして良い目を見られるのは
対象者の状態が軽度で心身ともに余力がある方だと思う。
それにしたって
対象者に負担がかかっているわけで。。。
今「問題が表面化しない」からといって
「問題がない」わけではない。
そこを見据えたうえで
いろいろな事情を総合的に勘案して
「問題を先送りする」という判断は有りだとは思いますが
誤認・混同・無自覚とは全然違います。
手段の目的化は
ケアの現場のあちらこちらで散見されています。
それはきっと今に始まったことではなくて
ずっと潜在化していたことなのだろうと感じています。
必要に迫られて作ったマニュアルが次のマニュアルを生む
ということにならないように
目の前に起こることに誠実に対処していく
そこから地道に積み重ねていく
課題も解決への道も
常に目の前に展開されている
そう感じています。
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