「認知症のある方に寄り添ったケア」は
ケアの理念として語られています。
理念が実践とリンクしているかどうか
照合しながら自らの実践を吟味している人は、
たぶんとても辛い思いを抱いているのではないでしょうか。
理念や理想が高ければ高いほど
目の前の事象に自分が関与する仕方、実践との隔たりを
否応もなく感じると思う。
先の例で言えば
「帰りたい」という方に対して
どのような対応が為されているのでしょうか?
「帰りたい」と言う言葉には
帰って何をしたいのかという切実な気持ちがある。
イマ・ココで起きていることではないにしても
その切実な気持ちがあるということをまず認識して
その上でその気持ちに共感することが
「認知症のある方に寄り添ったケア」なんじゃないかな。
入り口の前に立ち
入り口の扉を開けることなんじゃないかな。
「帰りたい」という言葉の不合理さという判断のもとに
気持ちを逸らすことを目的として
「お茶でもいかが?」「タオルをたたんで」「今日はもう遅いから」
などという声かけをすることが本当に「寄り添ったケア」なのかな?
私たちの腕は2本しかないから
「ごめんね。今はこっちをしなくちゃいけなくて」
という場合が必ずあると思う。
それはやっぱり「ごめんなさい」だと思う。
今は、どの分野の人も、どこで働いていようとも
とても忙しい日々を送っていると思うから
「忙しくて話が聞けない」
という現実も確かにあると思う。
でも、本当にそれだけかな?
時間があるにもかかわらず
私たちがとれる方策として
「お茶を飲んで」「外は寒い」「また今度」などと
話をすり替えてはいないだろうか?
「帰りたい」という気持ちを聞くのではなくて
「帰りたい」という言葉を言わせないように
しているのではないだろうか?
それって
本当に「認知症のある方に寄り添ったケア」なのか?
自己欺瞞に陥って悩んでいる人は少なくないだろうと思う。
違うかな?
自己欺瞞に陥るのがイヤだから
理念と実践の乖離について、自覚しないで済むように
気がつかないようにしている。
そういう人も少なくないだろうけど。
現実の要請として
自覚的に時間稼ぎをする場合だってあると思う。
問題は無自覚に
「認知症のある方に寄り添ったケア」と言葉で語りながら
行動として真反対のことをしている場合だと感じています。
認知症のある方にとっても
ケアする人にとっても
良いことはない。
問題を抑圧して、見えなくしているだけ
認知症のある方に能力があれば
問題の抑圧に協力してくれることもあると思う。
でもそれは、認知症のある方が私たちに寄り添ってくれているから
成り立つ対応なんじゃないかな。
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