Tag: 作業療法

作業のもつ非言語的側面

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プロとして
作業を扱えるのが作業療法士であるならば
作業のもつ非言語的側面についても
明敏であることが求められると考えています。

評価法にしても
理論にしても
治療論にしても
欧米で発祥したものを日本に導入する
ということが多いですよね。

モチロン、それはそれで
学問としての作業療法の発展に寄与できるのだから
導入することにはやぶさかではありません。

でもそれらが
臨床として常に日本人の対象者に有効かというとどうなんでしょうか。

根本的に文化、在りようが異なっているのに
そのまま適用できるものなのでしょうか。。。

欧米流の明晰さ論理性や自己認識に関する在りようと
日本人に深く浸透している非言語的な感知や伝達や自己認識の在りようについて
臨床心理学者の河合隼雄は下記のように指摘しています。
「まずはその違いを認識し時間をかけて第三の道を模索することが否応もなく求められる」と。
それは、作業療法の世界においても同じだと感じています。

作業療法士が本来取り扱う作業-occupation-は、決して表面的なものではないと考えています。

河合隼雄が手段として用いてきた箱庭−言語と非言語の中間−という媒体の有用性と
その場に臨床心理士がいることの意味については
作業療法にも通じる部分があると感じています。

時代は、活動・参加へとなだれをうって動いています。
その経緯の問題は心身機能へのセラピストのこだわりではなくて
本質的には目標設定の不適切さや手段の目的化の問題であって
心身機能よりも活動・参加の重視といった誤解は問題のすりかえに過ぎないし
セラピストの先達がさまざまな困難の中にもかかわらず
積み重ねてきた知識と技術の伝承の危機に陥ることになってしまいかねません。
そんなことになってしまったら不利益を被るのは他でもない対象者の方です。

時代の要請は、チャンスでもありピンチでもあります。

活動・参加が注目されている今
本当に求められているのは作業療法士の作業療法士たる所以なんだと考えています。

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「言ってくれなきゃわからない」

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私の大好きな「ゲド戦記」に
コケばばが語るこんな言葉があります。

「(略)
いいですかね、もしわしの顔にちゃんと目がありゃ、わしにはおかみさんに目があるのがわかる。
そうじゃないですかね。もし、おかみさんが目が見えなくても、わしにはそれとちゃんとわかる。
もし、おかみさんがあの子みたいにひとつしか目がなくても、反対に三つ目があっても、それもこっちにはわかる。
だけど、わしのほうに見る目がなかったら、相手に目があるかどうかは言ってくれなきゃわからない。
(略)」
ー ゲド戦記 最後の書 帰還 p.81より ー

相手に言葉にして尋ねることも言葉にして確認することも大切で必要だけれど
言葉だけに頼ったり強調されたりするのは、臨床的な意味でどうかと思う。

1つには言ってもらわないと、わからないのはどうかと思うし
もう1つは言葉以外の聴き方や確認をとりこぼしてしまうおそれがあると思います。

そういうことって
もう既に起こっているように感じられてなりません。

私たち作業療法士が扱う作業の本質としてのoccupationは
言葉によって分離されたものではない。
言葉も言葉以外のものもすべて包含した「場」のことです。

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臨床あるある(昔とった杵柄は要注意3)

ちょっと待った

もうひとつ、根本的に見落とされていることがあります。

人は明確に「やりたいこと」を希求して生きている人ばかりではない
ということです。

人によっては
「求められていること」をやることに重点を置くタイプの方もいますし
「生きること」「暮らすこと」に必死だった方も大勢おられます。

そういった方に
「やりたいことを尋ねる」だけでは、たとえこちらが意図していなかったとしても
その方の生き方を結果として否定してしまうことにもなりかねません。
少なくともそのように受けとめられる可能性については事前に十分に考慮しておく必要性があります。

こういうことを言うと
「認知症のある人は、そんなことわかんないでしょう」と言う人が出てくるものですが (^^;
そう言う人は認知症という病気の理解ができていないから、そんな風に言えるんです。

認知症のある方ご本人が「バカになった」という言い方をよくされますが
決して「バカ」になったのではありません。
あくまでも「障害」として、
新しいことが覚えられなくなったり、遂行機能障害が出てくるだけで
「判断力」の全てを喪失したわけではありません。

「やりたいことは何ですか?」と尋ねて答えられない方に対して
「やりたいこと」を想起しやすいような工夫は必要です。
そうすることによって答えられるようになる方もたくさんいるでしょう。

でも一方で
暗黙の前提要件となっている
「人は、やりたいことを明確に希求して生きるものだ」という命題は
本当に吟味されてきたのでしょうか?

この前提となっている命題は、本当に万人に当てはまるものなのでしょうか?

そもそも
「やりたいことをやる」のは何故なんでしょうか?
「作業をすることで元気になる」のは何故なんでしょうか?

「やりたいことができるようになって嬉しい」ということは
単に表面的な意味だけなのでしょうか?

活動・参加に大きく旗が振られるようになった今
「何をするのか」という根拠が求められています。
その1つに本人のやりたいことをもってくることは、よくわかります。
いろんな意味で。

でももう一歩深く考えてみれば、
目をつぶってきた本当には、わからないことがあったりするのではないでしょうか。

もしかしたら、必死になって「やりたいこと」を探すことによって
もう1つの本質的な問いかけを避けていたりはしないでしょうか。

「やりたいことはない」
この答えにその方の一端が現れてもいます。
それなのに、やりたいこと探しから始めるのでしょうか。。。

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臨床あるある(昔とった杵柄は要注意2)

ちょっと待った

臨床上、圧倒的に多いアルツハイマー型認知症のある方は記憶の連続性が低下していきます。
病状の進行に伴い、遠隔記憶が保たれていても近時記憶は低下していきます。
いわゆる、昔のことは覚えていても最近のことは覚えられないという状態像になります。

認知症のある方に
「何かやりたいことはありますか?」
「得意なこと、好きなこと、趣味は何ですか?」
そう尋ねられて答えるのが、かつて若い頃に得意だったこと、好きだったこと、趣味だったりしますし
「今は何もできないから」「今は何もしていないし」
そう答える認知症のある方に「かつて」のことを尋ねる作業療法士だっているでしょう。

こんな風に尋ねることそのものは悪いことではありません。
でもその答えをそのまま鵜呑みにしてActivityを提供するのは考えものです。

「かつて」は、好きだった、得意だった、趣味だったことが
「今」も、同じようにできるとは限らない。からです。

アルツハイマー型認知症のある方は
多くの場合、当初は記銘力低下が主体で構成障害や遂行機能障害は目立たないことがよくあります。
ある程度、病状が進行するとそれらの障害も進行してきます。
そうすると「かつて」できていたことも「今」できなくなる、混乱することになってしまいます。
基本的なADLが自立していても、このような状態像になってくることが少なくありません。
つまり日々それなりに内心不安を抱えながらも巧みに回避しながら暮らせていたのに
何か作る段になって明確に失敗体験に直面してびっくりしてしまう。ことになりかねません。

また、提供者側が構成障害や遂行機能障害について無頓着であると
こういった失敗体験の意味がわからないまま「優しく」「丁寧に」「怒らないで」対応しようとして
かえって傷を広げてしまうことにもなりかねません。

同じ脳の病気によって障害が起こる脳血管障害後遺症を考えるとおわかりいただけるかと思います。
動かない右手で、かつてしていた趣味を提供してみたら、できなかった方に対して
どんなに優しく、丁寧に、怒らないで接したとしても、できないという状況は何も変わりません。
こんな時にそのまま提供し続けるでしょうか?
方法を変えることが容易であれば、「異なる方法」で行うという選択肢もありますが
認知症が進行していると「新たな方法」つまり「同じことを違う方法で行う」ことを学習することは困難です。
このような状態でも、そのまま提供し続けられますか?

「やりたいことを尋ねる」ことは必要不可欠です。
でも、認知症のある方の場合に
その尋ね方が言葉に頼り過ぎていると、結果として逆効果になってしまうこともあります。
認知症という病態に起因することなので、十分に気をつけることが求められます。

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臨床あるある(昔とった杵柄は要注意1)

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多かれ少なかれ経験している人は少なくないと思います。

昔とった杵柄
手続き記憶の活用
としてActivityを選択する。
あるいは認知症のある方から「やってみたい」「昔は好きだった」と言われて提供する。

ところが、実際にやってみたら
上手にできない。ほとんどOTRがやっている。表情も険しくなる。怒り出す。。。etc. etc.

認知症の状態が軽い方であれば、こういうことは少ないかもしれませんが
ある程度進行している認知症のある方には要注意なんです。
昔とった杵柄は意味がないというわけでは決してありませんし
病状が進行した認知症のある方はActivityができないというわけでもありません。
(HDS-R0/30点の方でも、いわゆる「意味のある作業」が遂行可能な方もいます。
個人的にはあんまり使いたくない言葉ですけど ^^;)

ただし、「要望を聞く」「やりたいと言ったことをやる」という観点でしか対応できないと
結果として、認知症のある方に逆効果を招きかねません。
(認知症という病態を考えれば当たり前のことなんですが。。。
このことに関しては後日詳述します)

認知症のある方は
一日暮らすだけでも、日々さまざまな困難に遭遇し
失敗体験や喪失体験を重ねていることも少なくありません。

プラスアルファとしてのActivityで
失敗体験や喪失体験の反復・強調体験を
たとえ、結果的にであったとしても、させてしまうことだけはないように
どんなに気をつけても気をつけ過ぎることはないと感じています。

ヒポクラテスが言ったように
「まず、第一に患者を傷つけないこと」

良かれと思ってスタートするのではなくて
悪いことをしないように気をつけながらスタートする

これは私の流儀ですから、別に周囲は関係ないのですけれど
昨今の風潮を眺めていると、ちょっと声高に言いたくなる時もあったりします (^^;

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現場における作業療法という問い

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Occupational Therapy を日本語で 作業療法 と言います。
でも、とても誤解がある言葉でもあります。

作業=手工芸ではありません。
作業=楽しみでもありません。
それらは、本来の作業の一部にしか過ぎません。

ある作業療法士は
ADL>労働>余暇という優先順位がある
と言っていましたが
まさしく、このことを私は自分自身の身をもって痛感しました。

実は私は、昨年、座骨神経痛を発症し一時期休職するほどの状態でした。
寝返りできず、座っていられず、間欠性跛行著明で5M連続歩行困難な状態でした。
私は映画を観るのが大好きですが
その時には映画のえの字も思い浮かびませんでした。
まず、座って食事ができる、仰向けで眠れる、寝返りができる
これらのことができるようになった時には本当に嬉しかったことを覚えています。
毎日暮らすことが必死でした。
生活がかかっていますから、仕事のことは気にはなりますけど
それどころじゃなかったというのが本当のところです。
職場復帰して少し慣れた頃から映画のCMを見た時に
あぁ、映画観たいなぁと感じるようになり
その時になって、あぁこんなことを感じることができるようになったんだ
と思ったものです。

作業療法士だからと言って
手工芸や楽しみという視点からだけ、治療や評価を考えるのは
occupation の枠組みを自ら狭めてしまう恐れがありますし
解決・改善できるはずの対象者の暮らしの困難に対処せずに
手工芸や楽しみという視点で実践することしかできないとしたら
対人援助職の在り方として適切なのでしょうか?

このあたり、現場では大きな深い混乱が生じているように感じられてなりません。

認知症のある方に対して
どう対応してよいかわからない。という声をよく聞きますが
そのような場合には、本当は評価ができていない。
どう評価してよいかわかっていないのです。
評価できていないから、どうしたらよいのか、わからない。
対応つまり治療がわからないのではなくて、評価の問題なのです。
でも、なぜか、問いのカタチとしては、評価の問題が出てこない。

作業療法についても同じコトが違うカタチで現れているように感じられてなりません。

作業をどう提供するか、作業とは何か
というカタチでいろいろなコトが言われていますが
結局は作業療法士として、どう評価するか曖昧なことが本質の問題なのではないか。

私たちは自分自身の問題でありながら
問いのカタチを取り違えている。
だからコタエを掴み損ねている。
今本当に必要なことはコタエの模索ではなくて、問いをもう一度問い直すこと
なのではないでしょうか。

そして、なぜ、問いのカタチを取り違えてしまってきたのか
なぜ、そのことに自覚がないのか
そこにも、根深い問題があるように感じています。

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OTRがOTRとして寄与する

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他の多職種との連携を考える時に大切なことは
作業療法士なんだから作業療法士として寄与する
ということだと考えています。

作業療法士のあるあるな傾向として (^^;
「心身両面をみられる」
「個別性をみられる」
ということを
抽象的・総論的・一般的にはアピールしても
個々の具体例に関して、とたんに逃げ腰になるという。。。(^^;
そしてその理由が
「こうすればいいというのはない」
「100人いれば100通りある」というありがちな逃げ口上で (^^;
だとしたら、
どう考えたらよいのか、
その考え方の道筋を提示すべきだと思うけど
明確に言語化している人の話を聞いたことがない。
その時の逃げ口上がまたあるあるな
「作業療法を説明するのは難しい」という。。。 (^^;

もうそろそろ、そういう自己欺瞞から卒業しませんか?

作業療法が技術である以上、
どうしても言語化できない部分って
確かに存在します。
「技」だから。

だけど、
言語化=明確化であり、
言語化=伝達可能化・再現可能化でもあります。

作業療法と作業療法士が
この日本に言葉として、つまり概念と実存を併せ持った存在として
誕生して50年

本当にこの先、
作業療法士として対象者の心身の健康増進に寄与できる
ということをアピールしたいと考えるなら
一人ひとりが自分のしていることを
明確に言語化するという不断の努力から始めないと
「口先OT」「抽象OT」と思われ
現実に具体的な場面では相談できない
と思われちゃうかも。

これから先は地域が主体となってくる。
いろいろな職種との連携が求められるようになってくる。

時には職種を超えての実践が要請されることだってあるでしょう。
そういう時って連携している職種が少ない時だったりする
実働部隊としてのメンバーが限定されていたりする

臨機応変に優先課題を判断して動くことが求められる時もある。

でも、本当に多くの職種が集まった時には
必ず「あなたは誰?」「あなたは何ができるの?」と尋ねられる
そしてできることを「言う」のではなく、実践「する」ことが求められる。

その時に職種として
作業療法士が求められる職種であるか
作業療法士として寄与できる職種であるか
作業療法士であるあなたができることをしてみせられる
という真価が問われるようになる。
そんな日はもうすぐそこまで来ている。

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「県士会の活動について」掲載されました

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「一般社団法人神奈川県作業療法士会の活動について」
の記事が同サイトに掲載されました。

県士会は
決して「研修会提供組織」ではありません。

現在はモチロン、将来の
神奈川県作業療法士会、同会員、ひいては県民の健康増進のために
さまざまな活動を行う「職能団体」です。
その一環として、研修会も開催しています。

今般、組織改編が行われました。
是非、引き続きのご支援ご協力をお願い申し上げます m(_ _)m

職能団体としての県士会活動については
「明解、納得、県士会」に於いて
「ナゾの3人組」?が説明しています。

こちらも是非お立ちよりください m(_ _)m

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