Category: よっしーずボイス(ブログ)

ヘンな言葉「立って食事介助してはいけない」

ネットを見ていると
手段の目的化にたくさん遭遇します。

先日は、こんな書き込みを見かけました。
「立って食事介助してはいけない」
「立って食事介助してる施設はよくない」
etc.

確かに立って食事介助するよりは座って食事介助した方が良いです。
でも、座って食事介助すれば良いというわけでもありません。

大切なことは
立って介助してはいけない理由は何か
座って介助した方が良い理由は何か
ということを明確に認識できているかどうかということです。

理由を認識せずに
「立って介助してはいけない」と言われたから
座って介助しているだけでは
結局立って介助しているのと同じことをしてしまう場合もあります。
もしも
「自分は座って食事介助してるから良い介助をしている」
と思い込んでいるとしたら
いくら座って介助していても、かえって立って介助するよりたちが悪いとも言えます。

逆に
立って介助していても
座って介助できないからこそ
いつもより意識して介助しているのならば
それは立派な介助だとも言えます。

立って食事介助してはいけない理由は何でしょう?

上から見下ろした介助は相手に失礼?
相手の顔が見えない?

それもあるかもしれません。
心理社会的な意味だけでなく
生命に関わるリスクもあるのです。

(続く)

 

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ハウツー思考の弊害

「ヒトに関することで『こうすれば、ああなる』なんてことはない」
とは、養老孟司の言葉ですが
私も本当にその通りだと思っています。

ところが
ケアやリハの分野では
「こうすれば、ああなる」
「こういう時には、こうする」
という、ハウツー思考に基づいた対応が為されることも少なくありません。

例えば
「ムセたらトロミ」
「立ち上がりができない人には筋力強化」

トロミをつけたら、ますますムセるケースもありますし
立ち上がりができない人に筋力強化をしたら逆効果になるケースだってあります。
他にも、枚挙にいとまがありません。。。

対人援助職として働いていれば
困ることは山ほどあります。

本当は困った場面そのものに困りごとを解決するヒントがあるのですが
多くの場合に
「介助者を含めた困った場面」そのものを観察しようとするよりも
「困った場面を引き起こした対象者」に問題があると問題設定をして
その問題を解決するためには「こうしたら良い」という提案がなされがちです。

困りごとを引き起こしている対象者のために
なんとかしてあげたいといった善意の(でも独善の)気持ちから
あの手この手を試しても
良い結果が出せないと
必死になって対応した分、容易に反転、陰性感情が湧き上がります。

そもそもの問題設定が
「対象者の問題解決」なのですから
そこがズレています。

だから
良い結果が出なくて当たり前
陰性感情を抱いて当たり前
マイナスの悪循環になってしまう。。。

対象者は援助者の関与を含めた環境という横軸と
自身の人生という時間、縦軸とが絡み合う関係性に
反応し、働きかけをしています。
その結果が困ったカタチとして現れることもある。。。

それらの絡み合う関係性の観察・洞察、認識・判断を抜きにして
全てを対象者の問題として設定してしまうという独善
その独善性への自覚なく
自らの善意に基づいた行動の適否を検討することもなく
行動を一生懸命積み重ねれば積み重ねるほど
反転は激しく陰性感情は強く湧き起こってきます。

湧き起こった陰性感情を否定・抑圧すれば
介護うつやバーンアウトを引き起こしますし
否定・抑圧しない人は陰性感情を対象者に投影してしまいます。

今、虐待が問題視されていますが
虐待は結果として起こると考えています。

倫理や道徳、善意だけでは
対人援助はできません。
知識という武器を身につけなければ。

知識に基づいた観察・洞察・実践ができないと
安易にハウツー思考に頼ることになってしまいます。

本来は
知識に基づいた観察・洞察・実践ができるようになるために
自分自身が実践を通して学んでいかなくてはならないけれど
知識の習得とその時々での観察という最も地道な努力を放棄するから
ハウツー思考に陥ってしまう。
経験年数はあっても、経験年数に見合う観察・洞察を習得できないし
経験年数があればあるほど、地道な努力への抵抗を示すものです。
そして若手がその背中を見て同じように行動模倣する。。。
実習がccsに切り替わり、担当ケースの数が減り
自身の実践とともにPDCAを回した経験が少なくなれば
一層身近な対応例を規範とする人が増えるのは想像に難くありません。

ハウツー思考は、たまたま当たることもあるだけです。
「寄り添ったケア」というケアの崇高な理念にも逆行するものです。
虐待の温床でもあります。

結果として起こっている虐待を
「してはいけない」
と表面的に規制しても、虐待が隠蔽・陰湿化するだけで
本質的な解決にはならないと考えます。

ハウツー思考から脱却し
自身の関与を含めた場面の観察を徹底すれば
時間はかかっても結果として虐待を減らすことにも寄与できると考えています。

そのためにも
ハウツーに頼らなくても
場面の観察・洞察がきちんとできる人が増えなければ。。。

作業療法のギョーカイでは
「作業療法理論が必要」という人は少なくないけれど
本当かなぁ?

理論よりも先にもっと必要なのは
場面の観察・洞察が的確に行える、結果が出せる、臨床能力だと考えています。
理論はその次の段階で選択すべきものです。

理論だけあったって
認知症のある方に今何が起こっているのかを
解き明かせないのだとしたら
ピンポイントで適切な対応ができるわけがない。

認知症のある方の暮らしを支えるということに関して
移動や食事を含めたADLであれ
生活障害であれ
BPSDであれ
「どうしたら良いのか?」という本人・ご家族の切実な訴えに対して
改善・解決の道筋を具体的・現実的に提示できる臨床能力こそ
今、最優先で求められているものであり
磨かなければならないものであり
後進に伝えなければならないワザだと考えています。

そして
ワザが依拠するのは作業療法理論などではなくて
対象者が抱える病気そのものへの知識と
人間に関する心身の基本的な知識と
ICFが提示している相互関係論です。

基本の地道な習得と活用した実践の積み重ねができないから
安易な方向を選択・誤認するということがあちこちで起きている
その一つが、
現場あるあるな誤った常識であり
ハウツー思考なのだ
と感じています。

 

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記録は予習・復習が大事

私は勤務開始前に必ず前日の記録を確認します。
休み明けには休み中の記録に全て目を通します。

経過を把握する
ということが大事だと考えているからです。

今は電子カルテが導入されているところが多いと思いますし
当院でも使用していますが、本当に便利、助かります。

多部門の記録が一元化して表示されるので
経過の把握が容易です。

特に多忙なPSWとご家族とのやり取りの状況が把握できることや
処方の変更、検査結果などが即座に反映されるので
他職種とお互い話ができる時間を調整しなくても
すぐに確認できるので本当に便利です。

逆に
他職種から私の記録をもとにした会話が進んでいくこともあって
記録をちゃんと読んで把握してもらえるという実感があるから
記録も疎かにできないな
読んでもらうに値する記録を残さないと。と感じています。

そんな話をある人としていたら
「記録も予習・復習が大事」
と言われて、ハタと膝を打ちました。
本当にそう。。。
記録は活用しなくては。

記録は実践の証でもあるけれど
実践に役立てるため

一人ひとりの経過を把握していないと
その場しのぎのやっつけ仕事になってしまいます。
もちろん、心身の状態を見れば何があったのか推測することもできますが
その場合でも確認の根拠は必要です。

今日一日
より良いリハが実践できるために
記録の予習・復習が大事だし
予習・復習に値する記録が書けるためには
実践が大事。

やってもいないことは書けるはずがありません。

記録には実践が反映される

大雑把な記録は、大雑把な観察や実践を反映しているし
ポイントをつかんだ記録は、ポイントをつかんだ実践を反映しています。

実践ー観察ー記録
どこか、1つの部分でも努力をすると
その努力が適正であれば、他の部分もつられて改善されてきます。

実習生や若手は
良い記録から学ぶことが多々あるはずだし
指導する立場のスタッフは
良い記録を残すことで伝えることができることも多々あると感じています。

 

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ヘンな言葉「なじみの関係」2

リハやケアの分野で
常識のように言われ為されていることでも
吟味・検討すると、とてもおかしなことがあると記載しました。

その一つが
「なじみの関係」

認知症のある方を担当したら
毎朝部屋を訪問して挨拶に行く。とか
信頼関係を作ってからリハをする。とか

でも
私たちは毎朝顔を合わせているから
なじみの関係だから
相手を信頼しているわけではありません。

相手の言動や志など
信頼に値すると感じた何かに共鳴して信頼するわけで。

つまり、信頼関係は結果としてできるので
結果と目的を混同させるのは
現場あるあるですが、やっちゃいけないことでもあります。

ただし
本当はおかしなことなのに
ある分野で長く言い伝えられてしまっているには
相応の理由があるとも考えています。

その多くは、おそらく
部分的に効果があった体験がそれなりの数の蓄積があり
その体験が意味する本当の概念を知らずにいたために
誤認が起こってしまった。と考えています。

その概念の誤認を説きおこし
正確な知識をもとに本当の概念を明示することが必要
だと考えています。

そこで本題

「なじみの関係」は「再認+プラスの感情記憶」

この人といると
楽しい・安心できる・癒される。。。など
プラスの感情が湧き起こる。
感情記憶は残るし
「誰か」ということを再生できなくても
顔を見たり、名前を言われたりすれば
「この人だ!」と再認することができる。

人によってプラスの感情が湧き起こりやすい方向は異なります。
Aさんは楽しさに
Bさんは安心に
Cさんは癒しに。。。

再認しやすいきっかけは
人により時期により状況によっても異なります。

目の前にいる認知症のある方が
どんなコトにマイナスの感情を抱きやすく
どんなコトにプラスの感情を抱きやすいのか
評価・アセスメント・状態把握することが最優先で行うべきことであると考えています。

毎朝挨拶をしようがしまいが、本当は無関係で
たまたま毎朝の挨拶がその時の相手のキモだった
そしてそういうケースがある程度あった。。。ということだったのではないかしら?

だって
重度の認知症のある方でも
礼節保持されている方はとても多いし
それなのに認知症というだけで、ぞんざいな対応をするスタッフもまだまだいるし

そもそも
テレビで何らかの事件が起こった時に
被害者であれ加害者であれ
「ちゃんと挨拶する人」というコメントが必ずと言っていいほど流れるのは
それだけ私たちの社会の根底に「挨拶」が大切とすり込まれているのではないかしら?

だから
余計に
目の前にいる方にどうしたら良いのか
何もわからない、できない時に
すぐにできることとして「挨拶」が取り上げられてしまった

そして
部分的にでも効果的な体験の蓄積があり
現場では効果的な対応が切実に求められていたために
概念と実践のすり合わせを行う過程で「間に合わせ」が生じてしまった。。。
のではないかしら?

ハインリッヒの法則は
事故だけに限らずに適用されるように感じています。

事故は起きる必然がある
だからこそ、予防できる事故もある

ヘンな常識は伝わる必然がある
だからこそ、バージョンアップできる
正当な常識として生まれ変わらせられるものもある
そう考えています。

 

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偉大なるマンネリの効用

作業に語らせる:輪くさり

マンネリというと
ネガティブなイメージがつきまといます。

本来、マンネリという状態には
プラスもマイナスの意味合いもありません。
私たちが勝手にマンネリは良くないと思い込んでいるだけです。

認知症のある方には
同じことを同じように繰り返すことで
安心して取り組んでいただける場合が多々あります。

感情記憶は蓄積される
再認ができる方は大勢います。

認知症のある方のこういった特性は
プラスの方向にもマイナスの方向にも作用します。

「できた」
「面白い」
「懐かしい」
ポジティブな感情は蓄積されるし
できた体験を通してポジティブな感情を想起することもあります。

「できなかった」
「困った」
「わからなかった」
ネガティブな感情は蓄積されるし
できない体験を通してネガティブな感情を想起することもあります。

重度の認知症のある方でも
だからこそ
その方の特性と能力に合致したActivtyを行うときには
ものすごく集中して夢中になって行っています。

「少し、休憩しましょうか?」
と言っても耳に入らないくらい。。。
そういう体験をしたことのある人は
きっとたくさんいるのではないでしょうか?

もちろん時間感覚の低下といった要素もあるでしょうけれど
それ以上に、「自分が自分で在る」ことを
体験できているという実感を欲しているのだと思います。

マンネリを良い方向で活用する

根拠なく長年言われているから行っていること
河野大臣は深夜の会見を「前例主義」と言っていましたが
リハやケアの分野でも悪しき前例主義はたくさんあります。
それらをきちんと吟味・検討すると
思いも掛けないブレークスルーの道が開けます。

そして
その道は、対象者の状態を詳細に把握する
ということと決して無関係ではありません。

 

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いろいろなことをすると良い刺激になる?

作業に語らせる:輪くさり

ヒポクラテスの誓いは
「まず第一に患者を傷つけないこと」
と言う言葉から始まると聞いたことがあります。

私は医師ではありませんが
対人援助職として、この言葉は肝に銘じています。

良いことをしようとするよりも
悪いことをしないようにする

認知症のある方に対して
多様なActivityを提供することには疑問を抱いています。

MCIの方には通用することもあるかもしれませんが
重度になればなるほど現実には難しい。。。
その方ができることは限定的になってきますし
日々暮らすだけでその都度一生懸命どうしようかと考えています。

「私、カラオケは大好きよ。
だって、考えなくていいんだもの。」

この言葉を聞いた時の衝撃を忘れることはありません。

考えなくても楽しめること
新しいことを覚えなくてもできること
嫌いなことや苦手なことを頑張らなくてもいいこと

余暇活動は楽しんでリフレッシュできることの方が大事だと思いますし
治療的な意味合いを考えても
失われてしまった能力は努力してもできるようにはならないのだから
潜在している能力や不合理な現れに反映されている能力を見出し
より合理的に発揮してもらえるような援助を考えることの方が大事だと思います。

普通に考えて、大の大人が
文系の人に「数学は論理的思考のトレーニングに役立つから毎日やりなさい」
理系の人に「漢文は文学的素養を高めるために役立つから毎日やりなさい」
と言われてできますか?

子どもは自分自身でも何が適しているのか分からないから
さまざまな体験をすることに意義があるし
ネガティブな体験からもポジティブな体験からも学んで
自身の成長に役立てるようにする意義もあると思います。

でも
高齢者は?
まして重度の認知症のある方は?

説明された工程を理解し、覚えて、実践する
新しいことを覚えることは
近時記憶障害のある方にとって最も苦手なことです。
まして、自分の不得意な分野のことは。

私たちが認知症のある方に接する以前に
既に認知症のある方は暮らしの場面で
さまざまな失敗体験・喪失体験を重ねています。

余暇活動において
まして治療的な場面において
余分な失敗体験・苦手な体験をすることの意義が
私には理解できません。

目の前にいる方には
長年の人生経験で培ってきた特性がある
たとえ重度の方でも生きている限りできることがある。

いろいろなことを提供する
と言うことは、つまり、そのかたの特性も能力も把握できていないから
という側面があるのではないでしょうか?

認知症のある方が
今、楽しめること、特性と能力を発揮できること
それが何なのかを具体的に提供できることが
本当の作業療法士なのだと考えています。

 

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Activityと構成障害「工夫の考え方2」

作業に語らせる:輪くさり

もう一つの工夫の考え方です。

輪くさりではなくて
違うActivityを検討する場合

輪っか単体を作ることはできる。
ということは
1つの対象で
1つの工程であれば
平面から立体を形作ることはできる
ということを意味します。

だとしたら
できることはたくさんあります。

輪っか単体を
端と端をきちんと重ねてのり付けできるということは
両手の協応が可能ということを意味します。

例えば
あんでるせん手芸の紙巻き作り
最初にまとめて紙巻を作り
次に出来上がった紙巻をティッシュペーパーの空き箱につけて
小物入れを作ります。

冒頭の写真のように
なんとか輪くさりを作ろうとこれだけ試行錯誤した、
試行錯誤できるということは
それだけ集中できるということを表しています。

案の定、紙巻を上手に集中して作り続けることができました。

いろいろなActivityを知っていることは悪いことではありません。
ですが、Activityに対象者を合わせるのではなくて
対象者にActivityを合わせるのです。

対象者の良いところを良い方向に発揮できるように
Activityの場面設定を工夫したり
Activityの種目を選択します。

それぞれのActivityには、遂行に必要なActivityそのものが要求する能力があります。
この段階では、要求される能力にプラスもマイナスも意味づけはありません。

ところが、今、目の前にいる対象者にとって
選択されたActivityはプラスにもマイナスにも変わり得ます。

誰にでもいつでも「使える」Activity
万人に有効なActivityなどあり得ません。

マイナスに作用することがないように
できればプラスに作用するように
どのように考え、どのように工夫するのか
きっちりと言語化して説明できることと
(少なくとも自分の中で言語化できていること)
きっちりと実行して結果を出せることが
とりわけ、作業療法士には求められていると感じています。

作業療法士で他職種への説明の必要性を唱える人は多いけど
結果を出す、実行できることの重要性を強調する人が少ないのが
私にしては本当に不思議なことですが。。。

なぜなら
ピンチはチャンス
結果が出せない時こそ
出せない必然がある。

自分の認識をもう一段深めたり広げたりするチャンス
自分に必要な知識と技術を習得するチャンスでもあるからです。

 

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Activityと構成障害「工夫の考え方1」

作業に語らせる:輪くさり

この方の作り方から
輪っか単体を作ることはできるけど
「輪の中に紙を通す」ことができない
ということがわかりました。

机の上という平面で
立体と平面の異なる2つの対象の操作が難しい

構成障害があるから
隣で見て真似をするということも難しい

もしも
声かけや場面設定という介助の工夫を考えるならば
「優しく声をかける」「何回も繰り返し説明する」ではなくて

こんな風に
輪くさりを棒にぶら下げて
「立体」であることを「空間の中で」強調して
視覚的に提示します。

その上で
「輪っかの真ん中に通して」という声かけをします。
紙を通すことができれば
輪っか単体を作ることはできます。

声かけだけに頼らない
対象者にとっての「対象」をより明確に視覚的に認識しやすいように
「場面」という環境設定を工夫します。
声かけは端的に。

もちろん
このようなケースは臨床あるある。だとは思いますが
人により時期により、状態像はさまざまです。
この方の場合にはこの方法でできるようになった
できるようになる環境設定への考え方を説明しました。

目の前の方のやり方、でき方、できなさを
きちんと観察することから始めます。

きちんと観察する。。。というのは
言語化できるくらいに観察する。ということです。

その言語化された表現だけに絞って
その通りに実行して再現できるかどうかを自己確認します。
言語化された表現だけに従って実行した時に再現できなければ
その部分が観察し損ねた部分です。
観察力を磨こうとする人におすすめする方法です。
この方法はActivityはもちろんADLなどすべての行為に応用できます。

では、次の記事で
もう一つの工夫。
輪くさり以外の課題に変える場合について記載します。

 

 

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