人は環境の中にいる。
いろいろな構造物に囲まれているし
いろいろな人間関係に囲まれている。
自覚的にも無自覚にも甘受している情報はたくさんある。
アフォーダンスとは
環境の中に実在する行為の資源 と定義されている。
私たちは対人援助職として
対象者に対峙するけれど
同時に認知症のある方の側に立ってみれば
無数の環境の中の構成因子でもある。
認知症のある方は
私たちの言動を手掛かりの一つとして
環境認識し対応しようとする。
だからこそ
私たちの言動の意図がcontrolであれば、
通常は誰だって嫌がるものではないだろうか。
その表れが
ネガティブなパターンだと
表れ方だけを見て否定的な判断を下されがちだけど
そこだけ切り取ってしまえるものなのだろうか?
それに、通常、私たちが暮らしの中で
「え?」と思うような対応をされても
内心の思いを抑圧して表面的には追従することもあるのと同様に
認知症のある方だって合わせてくれることだってたくさんあるに違いない。
そこって現実に起こっていても評価されにくいところだと思う。
だけど、私たちが判断できないからといって
現実に起こっていないわけじゃない。
私たちが観えていないだけで
認知症のある方は必死になって対応しようとしている。
それは能力があるからこそできること
なんだと思う。
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