問いを問い直す

認知症のある方への対応にしろ
食事介助への提案にしろ
生活期にある方へのポジショニングにしろ
私のさまざまな提案の根底に通底しているのは
現行の在り方への疑問です。

問いを問い直す

アーシュラ・K・ル=グウィンの「西のはての年代記III ヴォイス」という本に
「心の中の神が石の中の神を見る」
「はかりしれない謎に理にかなった思考を寄せる」
「われわれの探す迷子の羊は真の問いだ
 羊の体のあとに尻尾がついてくるように
 真の問いには答えがついてくる」
という言葉が出てきます。
まさしく!まさしく!

いわく
現場では多くの人が、
認知症のある方の大声や暴言、介護抵抗といったBPSDが
「どうしたら出なくなるか」
「どうしたらなくなるか」
という問いを立て、その問いに答えようと多様なハウツーが主張・展開されています。

でも本当は
「何に対して怒っているのか」
「何が嫌だと表現しているのか」
を尋ね、共有化することが最初の問いなのではないでしょうか。

どうしたらBPSDがなくなるのか
という問いは目標設定が適切にできるようになれば
(現実には大変な困り事ではあったとしても)
解決の視点としてはおかしなことだと気がつけるようになります。
 「BPSDがなくなる」というのは行動ではないので目標にはなり得ないからです。
  詳細は目標設定についての記事を検索・ご参照ください。

問題設定の問題、問いを間違えていたのです。
だとしたら、問いを問い直せば良いだけです。

尋ね方にはまず言葉で尋ねることが重要で
その尋ね方にも知識と技術が必要ですが
その際の知識と技術が明確化されていないのが私たちの側の問題の一つです。
また、言葉ではなく「介助というもう一つの言葉」で
「もしかしたら〇〇ということが嫌で怒っていたのですか?」
「△△という方法なら大丈夫でしょうか?」
と尋ね確認する過程も必要で、この過程にも知識と技術が必要ですが明確化されていません。
これも私たちの側の問題です。
(いずれに対しても私はあちこちで知識と技術の側面から提案をしています)

これらの過程の問題が解決されていないので
紋切り型の対応やハウツーが希求されるしかないのだと思います。
でも、そのような対応では実際の現場で
「うまくいかない」体験を必ずしているはずなんです。

認知症のある方への現場では
いろいろなことが混同され切り分けられていないという側面もあります。
そこを整理することが必要だと考えています。
・善意であれば正しい結果を出せるわけではない
・対人援助は関係性の中で為される行為であるからこそ
 援助者側の困難が対象者の問題として投影されてしまう
・援助は強制や独善とは同じコインの裏表
 容易にすり替わりがちで
 援助であれば強制や独善にはなり得ず、強制や独善であれば援助にはなり得ない
・援助者側の都合は否定されるものではないが、混同されるべきものでもない
・対象者の言動を的確に観察・洞察できている援助者は思った以上に少ない
・安易な紋切り型の対応、ハウツーへの希求は
 受講者側だけでなく研修会主催者や講師側にも根深く位置づけられているため
 拡大再生産されてしまう

これらの現実をきちんと見つめ、整理し直すことが必要だと考えています。

紋切り型の対応やハウツーの当てはめを卒業できるように
こちらでの記事をはじめ自身のサイトや著書や講演を通して具体的に提案をしています。
困っている方はぜひご参照ください。
   
卒業できるようになるには、
知識も技術も必要ですし体験学習の蓄積という時間も必要です。
技術を習得・実践・活用できるようになるまでの過程で
時には自身の未熟にいやというほど直面させられることもあるでしょう。
でもその先があるのです。

実践の過程を支えてくれるのは
認知症のある方が良くなっていく過程の協働体験そのものです。
認知症のある方がなんとか問題解決しようとする意思と
不合理な形であったとしても発揮されている能力の発露に触れることです。

そこを知れば、もう決して元の在り方や考え方に戻ることはできません。

 

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