認知症のある方は能力を発揮しながら暮らしている
という認識に立つと考えを新たにすることが多々ありました。
無自覚のうちにしていた援助を明確に見直すことができるようになりました。
たいていの人は
介助をする時には、介助者への協力を得るということを前提として考えています。
多分多くの人は違和感や疑問を感じないんじゃないかな。
私も前は何にも感じず考えずにもいたことです。
そこが実は対応の工夫を検討する上で問題になってくるところなんだと考えています。
認知症のある方は
環境を常に感受しています。
介助者の存在は環境を構成する1因子として認識しています。
でも
介助する側の人は、私の介助に抵抗しないで、協力してほしい
と暗黙のうちに考えその上で声をかけている。
認知症のある方は
認知機能障害が重度になればなるほど
同時並行的な対象の認識が困難になるから
対象と介助者と同時に認識して対応するのは難しいことなのです。
例えば
食事介助の時には、私は黒子役
食塊認識を明確に促すために、必要最小限の関与しかしません。
声かけも必要最小限。
私への反応がある時には応答する程度にとどめます。
服を着る時にも
感受・認識して欲しいのは、「服」であって「私」ではない。
認知症のある方にとって
今、すべきことの「対象」(食塊とか服とか)が主役で私は黒子役
三項関係を意識して
認知症のある方が対象を感受・認識・関与しやすいように
私が関わる
本質的なこと、
認知症のある方は能力が低下していると捉えるか、能力の不合理な発揮と捉えるか
この違いによって、引き起こされてくる在りようは非常に大きくて
じゃあどうしようという具体的な方法論はその次に成り立つことなんだけど
巷間、話題になるのは枝葉の部分ばかりのように感じられてなりません。
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