カタチとハタラキ

様々な分野で
リハの知識と技術の蓄積が進んでいるのは本当に素晴らしいことだと思う。

たくさんの方の地道な日々の臨床の積み重ねの恩恵を
私も手にし、そして、次の世代へ手渡せる過程に関与できることに感謝しています。

同時に
蓄積と伝承が良い面だけで起こっているわけではないことを危惧しています。

私は認知症のある方を対象にして働いていて
食事をはじめとするADLやコミュニケーションについて
目の前の事実に対して観察と洞察と実践とその後の考察を重ねてきました。
その結果、確実に言えることがあります。

カタチにはハタラキが反映されている。

そのハタラキを観察し洞察することが治療的環境として作用する。

カタチだけを見て
正常から逸脱したカタチを問題として認識して
カタチを修正・正常化しようとするような関与の在りようは
たとえ、善意からであったとしても
結果的には反治療的環境として作用してしまいがちです。

私たちは常に「関与しながら観察」しています。
傍観者として関与することも可能だし
こちらに合わせることを要請する者として関与することも可能だし
本来の意味での援助者として関与することも可能です。

そして、その「関与」の在りように応じて
対象者の方も応答するから
在りようというのは観察の入り口として
本来は、どれだけ重要視されてもおかしくないことです。

私が食事介助において
適切な食形態を選択することと
適切なスプーン操作をすることの重要性を言っているのは
それらができて初めて、対象者の方の本来の食べる能力を
観察するための入り口に立てるからなんです。

対人援助職は
意思として援助者として関与したいと願っていながらも
結果として、無自覚のうちに要請者として関与してしまっている、
そうすり替わってしまう危険性を内在している職種なのだということに対する警鐘が為されにくい

たとえば
食事介助に関して言えば
本来の食べる能力を観察する前に
何とかして食べさせよう、飲み込んでもらおうと考えてしまうことにすり替わってしまう。

すり替えは容易に起こりやすく自覚しにくい
ということが潜在する大きな問題だとも感じています。
このことについては、別の記事で考えをまとめてみるつもりでいます。
今は、カタチとハタラキに絞って書いていきます。

カタチには、その方の能力も障害も反映されている。

ところが、現実には目に見えるカタチを見て、正常なカタチと比較し
異なるカタチを正常化しようと取り組んではいるけれど
目に見える通常とは異なるカタチに反映されているその方の能力を観察・洞察し
その能力をより合理的に発揮できるように方法や環境を調整・適合・提供し
能力の発揮「過程」を観察・洞察しようとしている人は少ないと感じています。

立ち上がりができない方に
立ち上がりを練習させることはあっても
座り方を練習させるセラピストは少ない。

現実には
立ち上がりができない方は
往々にして、座り方も巧みにはできない場合が多い。

けれど、多くの場合に
立ち上がり方を見てはいても
その同じ場面で起こっている座り方は見れども観えずになってしまっている。

実は、その座り方に、そして立ち上がれないけれど立ち上がろうとしているそのハタラキにこそ
その方が立ち上がれるようになるための能力が反映されているのに。

認知症のある方が
口を開けてくれない、溜め込んでしまう、飲み込んでくれないという場合に
なんとか、口を開けてもらおう、飲み込んでもらおうという在りようで接してしまうと
そもそも、どのように食塊を認識し、こちらのスプーン操作に適応しているのか
見れども観えずになってしまい
食べる過程において、嚥下の機能解剖に沿った観察ができずに
口を開けてくれなさ、飲み込んでくれなさに現れている能力を
結果として、見落としてしまうことになってしまいます。

口腔ケアで
開口に協力してもらえないと
ケアを断念してしまうか、無理やりケアをしようとするか、可能な範囲にとどめておくか
にとどまってしまい
協力してもらえなさに反映されている、その方の能力と障害を見れども観えずになってしまって
次へ進めるはずのステップに踏み出せなくなってしまう。

同じコトが違うカタチで現れている。

皮肉なことに
知識と技術の蓄積が進むほど
本来、その蓄積を支えてきたはずの観察・洞察という過程が抜け落ち
表面的なハウツーというカタチでの伝承になってしまう。。。

「〇〇という状態像の方がいるんですけれど、どうしたらいいでしょうか」
このような問いというカタチは、そのような思考過程で臨床に臨んでいるというハタラキの表れでもあります。

カタチにはハタラキが反映されている

ハタラキを知るためにカタチを観察・洞察する

対象者の方にとっても
私たち対人援助職にとっても

私たちは常に相互関係の場に存在している。
だからこそ、ICFという相互関係論に依拠した実践によって
相互にハタラキを変え
結果として、カタチすら変わることが可能なんだと考えています。

 

 

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