朝日新聞のある記事が目に留りました。
『「奥さんはキレイな人?」若年認知症の妻に問われ、夫は』
http://digital.asahi.com/articles/ASK4T5SYYK4TPTFC00V.html?_requesturl=articles%2FASK4T5SYYK4TPTFC00V.html&rm=400
記事によると
週に数回、妻に「奥さんはキレイな人?」と尋ねられるのだそうだ。
夫は、いつもどう応じたらいいのか、悩むとのこと。
友人たちは、妻を混乱させないように「大丈夫」とその場をおさめる。
妻もひとまず落ち着く。
かつては戸籍謄本を見せたり、結婚式の話を聴かせたりもしたとのこと。
話を合わせようとしようかとも思うが、それでは夫婦の距離が遠くなってしまうようで言えないと
記事には夫の揺れる心の内が記載されていた。
私は直接には、その方のことを知らない。
だから、無責任なことは言えない。
でも、夫が「どういう言葉を返すのが適切なのか」真剣に悩んでいることは伝わってくる。
友人たちの対応も自分の対応も納得できるとは感じていないが
どう考えたらよいのか逡巡していることは伝わってくる。
「混乱」「落ち着く」という言葉だけでは
今ひとつ状況が伝わってこないが
だからこそ、私ならこの夫に
「どうしてそんな風に思ったの?」と尋ねることを勧めるだろう。
「どうして」という言葉がキツい、問いつめるように受けとめられる可能性があるとしたら
「どんなところでそう思ったの?」という表現をするだろう。
妻が繰り返し尋ねるという言葉には
何かしらの思いや意図が明確に現れている
たとえ忘れてしまったために同じ言葉を繰り返すにしても
その都度ある一定の見方・感じ方をしているということを表しているのだから
「何と言う言葉を言うか」を考えるよりも
まず、「どうしてそう思ったのか」率直に尋ねてみたい。
言葉に込められた妻の気持ちがどんなものなのか
尋ねられれば答えてくれるのではないだろうか。
私にこんなに親切にしてくれる人だったら
奥さんだってきっとキレイで良い人なんだろうと思った。とか。
奥さんが羨ましいと思った。とか
それは聞いてみないとわからないから。
それによって答える言葉だって変わってくる。
「大丈夫」と
その場をおさめようとする人たちは善かれと思って対応してくれていることを
妻はしっかりと感じ取っていて
内心夫からの返事を聞きたいと思ったとしても
それ以上は言葉にしないように気遣っている可能性だってあるし
(多くの人は誤解してるけど、その場のことはよく理解できて配慮できる方はとても多い)
だとすると「その場がおさまる」ことが良いことなのだろうか?
「その場をおさめる」ことを優先しなくちゃいけない時もあるだろうけれど。。。
自分の気持ちや考えを表現しようとしているのだということをどう考えたら良いのだろうか?
「混乱しないように」という目的は誰のための目的なのだろうか?
混乱とその後の分かち合いは、双方にとってとても辛い
その後に訪れる悲嘆の分かち合いも、双方にとって辛い体験になる
けれど
生きるということは、辛いことにも嬉しいことにも遭遇するものではないだろうか?
嬉しいこと、楽しいことだけが起こる人生なんてあるだろうか?
認知症があろうが、なかろうが
誰もが辛さと嬉しさとその他諸々の感情を抱いて生きていく
だとしたら
考えるべきは表現しかけた感情や考えを
途中でおさめることではなくて
表現しきれるように援助するには、どうしたらよいのか
表現した後で訪れる辛い感情をどのように分かち合えるのか
ということなのではないだろうか
辛い感情を分かち合えるかもしれない
辛い感情を受けとめようとすると思う
そういう信頼が根底にあるかどうかということも問われているのではないだろうか
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