ふと、伝承と教育ということを考えていました。
どんなコトでも起こりうるのだと思いますが。。。
モノゴトが広まっていく過程において
伝言ゲームのワナに陥ってしまうことがあるのだと思います。
たとえば
徳利からお酒を注ぐ時に
どこからお酒を注ぐかというと
とんがっている方が注ぎやすいというのではなくて
とんがっている方を上向きにして注ぐのだそうです。
徳利の口を相手に見えるようにして
とんがっている方を上にすると
相手からは、徳利の口が宝珠の形に見える
だから、とんがっていない方からお酒を注ぐのだそうです。
お酒を酌み交わす相手の幸福を願ってお酒を注ぐという意味があるのだそうです。
それから
宮大工のお弟子さんは
作業場のお掃除が仕事だった。
まずできることといったら、お掃除だというだけではなくて
片付けながら、道具を観ることができる。
どんな風に仕事をしていたのか、その一端を垣間みることができる
掃除しながらものすごい勉強になる。
決して面倒なことをお弟子さんにさせてるわけではない。
昔は
朝起きたら子どもが玄関周りのお掃除をするのが役目の1つだったとか。
その時々で玄関周りの様子は違うから
状況をよく観て綺麗にする
綺麗にするためには状況を観て
風向きなんかも考えないと
いつまでたっても綺麗にならない。
つまり、観察力と判断力をトレーニングしてから
一日を始めるという「予習」的な意味合いがあったんじゃないかな。
表面的なカタチだけは伝えられて
でも本来の意味が伝わらずに
下手すると表面的にだけ捉えられて
「よりラクなやり方」を重視されて本来の意味が抜け落ちたり
お弟子さんの勉強になるようにという本来の意図が誤解されてブラック判断されたり
子どもの発達上重要なことよりも机上学習ばかり推奨されてしまったり
そんなことがあったんじゃないかな。。。と思うことが最近ありました。
意味がこぼれ落ちて表面的なことしか伝わらず
誤解された意味とカタチが後世に伝わってしまう
その結果、大切なことが欠けていってしまう
本来「ワザ」の仕事は、感覚つまり対象との相互作用に明敏であることが求められます。
作業療法はどうなんだろう?
知識の集積は以前よりも格段に進んでいると思います。
でも本質において、どうなんだろう?
表面的なことが伝わっていても意味がとりこぼされていることはないのだろうか?
だとしたら、どうしたら良いのだろうか?
そんなことを考えさせられました。
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