説明は後。体験が先。
私の持論です。
たとえば
認知症のある方への対応の工夫をきちんと検討したいという人もいれば
正直に言うと、まだまだ「認知症だから仕方ない」って思い込んでいる対人援助職もいます。
「認知症になっちゃえば本人は何もわからないからいいわよね」
そんな風に言っちゃう人がまだいるのも現実です。
どうしたらそういう人たちに話を聞いてもらえるのか。
どんな風に説明したらよいのか。
一生懸命、考えてるのに暖簾に腕押し。。。
そんな体験をしたことのある人は決して少なくないと感じています。
私は体験が先。なんだと考えています。
対応の違いによって
認知症のある方の言動に違いがある。
そういう体験をするのが先。
説明は後。
なぜなら
そのような人たちは
過去に(自分が)いろいろ頑張っても認知症のある方に行動変容はみられなかった
という体験の蓄積があって
今のような「仕方ない」という判断をしているのです。
ここで自らの方法論の検証をしないで
自分は頑張ったという(方法論の是非はともかく、確かに頑張られたんだとは思います)
正当性の上に立って
認知症だから仕方ない。と判断している。
つまり
このような状態にある人に対して
表面的に「こうしてみたらいい」と言っても
その人なりの体験の蓄積に基づいた結果として起こっている判断なので
他者からの説明というカタチで表面的に判断を変えることを促そうとしても
依って立つ根拠となる体験が異なるので
概念の食い違いが起こっているから、言葉が通じない状況になってしまいます。
まずは
その人の今までの体験とは異なる体験がありえるんだという
もう1つの現実の存在を体験してもらうことの方が先なんだと考えています。
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