Tag: 臨床あるある

対人援助職の業(ごう)

認知症のある方の生活障害やBPSDに対して
多くの人が誤解していると思います。
   
生活障害やBPSDというのは、実は、表面的な表れです。
何の表れかというと、
症状や障害・能力・特性・環境(介助者の言動を含めて)が錯綜して現れているのです。
ですが、多くの場合に、錯綜している現実を観察せずに
見た目の表れにすぎない、生活障害やBPSDだけを切り取って見て
「帰宅要求・徘徊・暴言・暴力」などとレッテルを貼って
「どうしたら(それらが)無くなるのか」と悩んでいるのです。

残念なことに
このような思考過程は現場あるあるです。

帰宅要求のある方に対しては
「タオルを畳ませる」「飲食を提供する」「気持ちをそらせる」
などの対応が効果的とされています。
必死になって帰宅要求している認知症のある方に向き合うことなく
その場をしのぐ対応をすることで
帰宅要求がなくなったという経験が蓄積
されてきたからだと考えています。

認知症のある方の生活障害やBPSDというカタチには
症状や障害・能力・特性・環境(介助者の言動も含めて)が錯綜して反映されています。
生活障害やBPSDは単に能力が低下したから起こっているわけではありません。

ところが
まず、最初の生活障害やBPSDが起こっている場面そのものを観察しようとする人は
とても少ないのが現実です。

観察しようとしても
「認知症のある方の困りごとを援助しよう」という意図ではなく
「表面的に職員にとっての困りごとをなくそう」という意図を持って
観察してしまう人はとても多いものです。
意図のベクトルが真逆です。
 
私たちは意図に基づいた観察をしているので、
職員中心の意図であれば得られる洞察結果は職員中心のものにしかなりません。

援助(認知症のある方中心)と強制・支配(職員中心)は
コインの裏表のようなもので、
援助であれば強制・支配にはなり得ず
強制・支配であれば援助にはなり得ない。
そして、裏表は容易に入れ替わってしまいがち
なものです。

よく言われる言葉のひとつに
「時間があればそうしたいけど時間がないから仕方ないのよ」
という言葉があります。
確かに私たちの手は2本しかありません。
今はどの施設のどの職種の人もみんな忙しい。
時間に余裕をもって働けている人の方が圧倒的に少ないのではないでしょうか。
確かに忙しくて気持ちがあっても実際にはできないことも多々あるでしょう。
ですが、本当に時間さえあれば適切にできるのでしょうか?
私が過去幾多の人たちと働いてきましたが
時間を言い訳にする人で時間があった時に適切に関与しようとしている人に
あったことがありません。
忙しくてもちゃんとしようとする人はするし、しない人はしないのです。
忙しい以外にもっと根本的なところでできない理由があるのです。
そして、多くの人は実は無意識には自分ができないことをわかっている。
わかっているからこそ、多忙を言い訳に、防衛機制として否認し合理化しています。

仮に
援助の視点を明確にしながら観察しようとしても
知識がなければ(概念の本質を理解していなければ)
的確に洞察することは難しいものです。
的確に洞察できなければ的確な判断ができようはずもありません。
的確な判断ができたとしても
その判断をカタチにして見せられる技術が伴わなければ机上の空論となってしまいます。

援助の視点をぶらさないようにすればするほど
いくつもの段階で自分自身のできなさに直面させられることになるのです。
これは本当に辛いことです。
その辛さを経てようやく行動変容を促すことができる段階に達することができます。
本当に認知症のある方の行動変容を促すことができる人は
そこに至る過程での辛さを嫌というほど体験しています。

耳障りの良いスローガンを唱えるだけでは
行動変容を促すことなどできようはずがないことを身に染みてわかっています。

抽象論や総論を語りたがったり
スローガンを連呼する人を私が信用できない理由がそこにあります。

そして、その段階に達してもなお、いえ、その段階に達したからこそ
常に援助と強制・支配がどんなに入れ替わりやすいのか
日々の場面場面で自戒し自制することの厳しさを思い知らされるものです。

一部では
認知症のある方への対応はかなり蓄積されてきたと言われているようですが
私はとんでもないことだと強く感じています。
もう一度、援助の視点・原点に立ち返って組み立て直さないと
本当に真摯な人が辛くなるだけで現状は一向に改善されず
理念と実践の乖離や言行不一致なことに疑問を抱けない人の声だけが大きくなり
結果として、認知症のある方とご家族の余分な困難がいつまで経っても改善されないようなことになりはしないかと心配しています。

そして
私だって、まだまだではありますが
今、本当に必要とされている理念と実践を結びつける思考過程を
ある程度は言語化することができるようになったので、
このサイトや講演や執筆活動を通して公開・伝達しています。

私には地位も名声もありませんが
本質を追求しようとする姿勢は持っています。
この広い世界のどこかに必ずいるはずの受け止めてくれる人に向かって声をあげています。
どうぞこの声が届きますように。
そして届けるに値する実践を私が為し続け言葉を紡ぎ続けることができますように。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4947

口を開けてくれない方への口腔ケア

口腔ケアを嫌がる方は案外多くいらっしゃいます。
「認知症だから口腔ケアを嫌がる」というのは安易な考え方です。
認知症のある方それぞれに嫌がる必然があります。

最も多いものは、過去の不適切な口腔ケアを再認して拒否するというケースです。
それって当然ですよね?
口の中というデリケートな部分に対して侵襲的な刺激があれば防御するのは当然です。

だとすると、
侵襲的でない口腔ケアをどうしたら良いかと考えることになります。
ここでよくある誤解が
〇〇さんの口腔ケアへの拒否や抵抗をどうしたらなくせるか
ということを考えたり話し合ったりしがちなことです。
まず最初にすべきことは
〇〇さんが嫌がっている口腔ケアの場面そのものを観察し直すことです。

そうすると
実は言語理解力が低下していて
声かけだけでは
「歯磨きをしてもらうために口を開ける」ということを認識できない
でも
歯ブラシを見てもらう、
あるいは歯ブラシを横に動かす動きを見てもらうことで
「歯磨きをしてもらうために口を開ける」ことを認識できることに
私たちが気がつくことができます。

現場あるあるの誤解は
強引で無理矢理といった侵襲的でない、適切なケアを提供しようと考えて
懇切丁寧な声かけという言葉に頼った対応をする
声かけは丁寧でも、いきなり歯ブラシを口の中に突っ込む

というものです。
声かけを理解したかどうかの確認もしていません。
それではびっくりして嫌がって当たり前です。
視覚情報の提示によって口腔ケアに協力していただけるようになる方は大勢います。

まず、歯ブラシを認知症のある方の目の前に提示して、見たことを確認します。
その後に、歯ブラシを左右に動かしながら「歯磨きしましょう」と声をかけます。
これだけで嫌がっていた方が大きく開口してくださることは多々あります。

大きく開口してくれない場合でも
少しでも開口してくれるなら、開口してもらえたところから可能な範囲で
歯をブラッシングします。
そうするとだんだんと開口が大きくなるので、ブラッシングの範囲を広げていきます。
奥歯を上からブラッシングすることができるようになれば
奥歯の裏側をブラッシングすることも可能になります。
奥歯の裏側をブラッシングできれば、手前に戻ってくることで
前歯の裏側もブラッシングが可能となります。

それでもやっぱり開口してくれない方もいます。
口輪筋が硬くなっていたり力が入ってしまっている場合です。
そのような場合はいきなりブラッシングをするのではなく、
自身の指に歯磨きティッシュを巻きつけ
口唇を小さく丸く円を描くようにマッサージします。
するとだんだんと口輪筋の緊張が緩んできます。
一番多いのが下唇の下あたりが硬くなってしまっているケースが多いので
下唇と歯の間に指を入れることができたら、そのまま指を左右に動かします。
ここまでできれば次第に開口できるようになります。

もう一つ
「口を開けてくれない方への口腔ケアをどうしたら良いか」
という命題に潜在する本質的な課題があります。
それは次回に。
  

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4931

体験送り@介助

ポジショニングや食事介助は
適切に行えれば効果がその場で出ることはもちろんですが
次の機会にも良い影響を与えるものです。

例えば
ポジショニングを朝適切に設定できれば
次に体位変換をする時にも身体はリラックスしていて
スムーズにポジショニングが設定できます。

逆に
ポジショニングを適切に設定できなければ
次に体位返還をする時に身体の筋緊張が亢進したままなので
余分な力を必要としたり
上手く設定できなくて修正も大変で時間がかかってしまいます。

食事介助や口腔ケアにおいても
適切な介助ができれば
対象者の持っている能力が発揮されるので
対象者も食べやすくなり
介助者も負担が減って楽になります。

その能力発揮は次の介助場面でも発揮されるので
どんどんと楽になっていくものです。
ポジティブな体験送りを認知症のある方とスタッフの協働で行えるようになります。

逆に言えば
無理矢理食べさせたり、歯ブラシをいきなり口の中に突っ込んだりするような
介助者の行為は、その場では仕方ないと言う人もいるかもしれませんが
感情記憶は蓄積していきますし
重度の認知症のある方でも再認できる方は大勢います。
(たとえ、言語表現力が限定していて言葉にしなくても
 感受している可能性は大いにあります。)
歯ブラシを口の中に入れるという特定の場面で
前回の苦痛な感情を伴う体験を再認できるからこそ拒否する
という方もいるのです。
この局面だけを切り取って、拒否するのは認知症で理解できないから仕方ない
拒否しても口腔ケアはせねばならないと考えて無理矢理口腔ケアをしていては
いつまで経っても口腔ケアに協力してもらえないどころか
ますます悪循環になって口を開けてくれなくなったり、
口腔ケアをしようとするスタッフの指を噛んでしまうことすら起こりえます。

ネガティブな体験送りをスタッフがしてしまっているのです。

その方それぞれに苦痛でない方法、受け入れやすい口腔ケアの模索を考えるべきです。

  「わかっちゃいるけど、時間がないからできないのよ」
  と言う人は時間があってもできない人です。
  その場の1分を惜しんで長期的に10分の時間を所用するように
  なっていることがわからずに「大変」「忙しい」と言う人です。
  適切なポジショニングを実現できて、
  その意義も実感できている人はきちんと実行しないではいられません。
  適切なポジショニングをできれば設定に必要な時間は短縮されます。
  どんどん短縮されるものなのです。
  食事介助でも口腔ケアでもまったく同じコトが違うカタチで起こっています。

次の人にマイナスの体験を送ってしまうことも起こり得ます。

対象者と次の人が大変な思いをしながらでも
もう一度食べる再学習を促すことができれば
プラスの良循環が起こります。
つまり適切な介助ができない人のツケを
対象者と適切に介助できる人が払わされるという構図になっているのです。

食事介助もポジショニングも生活期の初期にはさほど目立ちません。
対象者自身のレジリエンスが高いからです。
軽度の方が短期的に利用する施設ではなく
特養(介護老人福祉施設)や長期入院・入所・利用が可能な施設において
当初はそうでもなかったのにレジリエンスの低下とともに表面化してくることがわかると思います。

逆に言えば
「そんな人はいないから関係ないもん!」ではなくて
予防的に適切な対応ができるようにきちんと申し送りができることが大切です。
きちんと申し送る。。。というのは再現性を担保できる
ということです。

つまり、自分自身で常に適切に対応できるからこそ
対象者のポイントが把握できていて
なおかつ、他職員が対応し損ねてしまいがちなポイントも把握できている
そこを明確に言語化したり視覚化することができる
ということを意味しています。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4906

その人らしさは両刃の剣

リハやケアの分野で
「その人らしさ」という言葉を聞いて
プラスのイメージを抱く人は多いと思いますが
さて、「その人らしさ」って何ですか?

「その人らしさを大切にする」「その人らしさを尊重する」
とは、リハやケアの分野でよく聞く言葉ではありますが
私たちのどういう言動がその人らしさを大切にすることで、
どういう言動がその人らしさを尊重していないことなのでしょう?

リハやケアの分野あるあるなのは
なんとなく喧伝されていることに乗っかってしまいがちなことです。
具現化する努力よりも唱え合うことで満足してしまいがちなことです。

本来、「その人らしさ」にプラスもマイナスもありません。
「その人らしさ」がプラスに働くかマイナスに働くのかを
決定づけるのは、その時の状況です。

認知症のある方の場合に
物事をきっちり遂行するタイプの方が
きっちり遂行するよりも優先すべきことを判断できずに
周囲にとってちょっと困った行動に見えることもあります。
 
例えば、集団でのActivityの後に
自身が座っていた椅子をきちんと机の中に入れてくださり
その隣の椅子も同様に片付け、さらにその隣の椅子も。。。と
「きちんと片付ける」ことに集中してしまい
なかなかお部屋に戻れなくなってしまったり。

例えば、他者への気遣いを行動で示すタイプの方が
自分が座るように促された席に職員を座らせようと思って
違うところに移動して何をどうするのかわからなくなってしまったり。

その人らしさがあるがために
動作干渉となってしまい、近時記憶の低下によって
そもそもの目的、何をする予定だったのかがわからなくなってしまう
他者に助けを求めることができなかったり
周囲に誰もいなければ自分でなんとかしようとしてドツボにハマってしまう
。。。ということもよくあることです。

その人らしさは諸刃の剣となって現れる

「その人らしさを大切にする」
「その人らしさを尊重する」
と言う人は多いですが
私には具体的に現実的に何をどうすることを意味しているのかがわかりません。
だから私はこれらの言葉を使ったことはありません。

そのかわり、その方自身が大切にしていることは何なのか
普段の場面から観察・洞察するようにしています。
長年大切にしてきたであろうことがプラスに働くようにActivityを選択したり
長年大切にしてきたであろうことがどのように生活障害というマイナスのカタチで
反映されているのかを観察するようにしています。
そうすれば、生活障害を援助するにあたり
より適切な介助を、より適切な言葉を選び、より円滑に
大切にしてきたこととイマ、ココですべきことを両立させる働きかけが可能となります。

さて、あなたに質問です。
「その人らしさって何ですか?」
端的に明確に答えられますか?

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4925

ムセって何?

認知症施策

食事介助の現場の多くで
ムセは、指標のひとつになっています。

食べる能力の指標だったり
食べることを中止すべきかどうかの指標だったり

現場あるあるなのが
食事中に強く激しくムセこんだら
「あー!ダメダメ!その人、もう食べさせないで!」
という声が飛ぶこともよくありますよね?

食事介助中も
ムセの有無を気にしている人は多くいますが
さて、「ムセって何?」って尋ねられて
きちんと答えられる人は圧倒的に少ないのが現実です。

  構成障害重度とか遂行機能障害があるとか
  言う人は多いけれど
  構成障害とはなんぞや?遂行機能障害とは何?
  って尋ねられて明確に答えられる人は案外少ないものです。
  専門用語として言葉は知っていても概念の本質を理解していない
  だから観察できないし、何が起こっているのかの洞察もできないから
  BPSDや生活障害に対して適切な対応ができないのと
  まったく同じコトが違うカタチで
  食事介助の場面でも起こっているのです。
  だからどうしたら良いのかわからない。。。
  でも、これらは私たちの側の問題なので
  私たちが変われば違う現実が現前する可能性があるのです。

ムセは誤嚥のサインですと言うかもですが
身体のどこがどう機能してるから誤嚥のサインだと説明できますか?

もう一度、お尋ねします。

ムセって何?

 

 

 

 

 

 

答えです。

ムセとは、
気管に食塊などの異物が侵入した時に
声帯を激しく内外転させ
呼気のパワーで喀出させようという働きです。

誤嚥のサインであると同時に異物喀出作用でもあるのです。

現場あるあるの誤解が
「強く激しいムセ=誤嚥の酷さ」という誤解です。
これはもうホントに根深い誤解です。

強く激しいムセ=異物喀出能力の高さ なので
強く激しくムセる方がいたら、ムセを手助けして
しっかりとムセ切っていただくことが大切です。
ムセ切った後に声の清明さを確認できれば食事を再開できます。

ムセにおいて
最も怖いのが、サイレントアスピレーション ムセのない誤嚥です。
運動もしくは感覚の障害でムセることができない状態です。
ムセないのと、ムセることができないのとは、まったく違うのです。

ムセの激しさと誤嚥のひどさが比例しているわけではないのです。

ムセの激しい方よりも、気をつけなくてはいけないのは
弱々しくしかムセられない方のほうなんです。
弱々しいムセとは、異物喀出作用の弱さを示しています。
 
「弱々しいムセ=大したことのない誤嚥」という誤った認識で
食事介助を続けてしまう人は大勢いますが
異物をきちんと喀出しきれていない状態のまま食べさせている 
というとても危険な状態を作ってしまっていますし
そのことに自覚がないという二重の意味でとてもリスキーなんです。。。

言い換えれば
食事介助において
あまりにもムセの有無が過大視させられていて
もっと観察しなければならないことが見逃されてしまっているのです。

ムセは結果として起こっているので
どのような食べ方をしている結果としてムセたのか
というところをこそ、観察する必要があります。
(ところが、そうしていない人の方が圧倒的に多いのです)

  観察し損ねているから
  何が起こっているのか、わからない。
  だから、「ムセないようにゆっくり介助しましょう」
  と言うことしかできず、安全に食べてほしいと願いながら
  ムセをなくす介助ができなかったりします。
  私は「ゆっくり」ではなくて、
  たとえば
  「2回の喉頭完全挙上で完全嚥下しているから
  必ず2回目の挙上を目で見て確認してください」
  のように伝えています。

  ゆっくり介助すると言われても
  どこをどう介助するのがゆっくりなのかわかりませんよね?
  副詞を使った言語化では気持ちを込めることはできても
  状態や行動の明確化がされにくいので
  再現性の担保をすることは難しいのです。
  私は基本、副詞を使わずに
  名詞と動詞を使って言語化するようにしています。
  名詞と動詞で言語化できない時には
  観察できていないのです。

ムセは、
喉頭挙上の能力低下で起こることも確かにありますが
生活期の臨床現場で最も多いのは
咽頭期の本来の能力は保たれているのに
口腔期の能力低下によって二次的に咽頭期の能力低下が起こる場合であり
しかも、この場合の口腔期の能力低下が
誤介助誤学習によって引き起こされるケースが圧倒的に多い
ということはほとんど知られていません。

CVA後遺症急性期などのケースでは摂食・嚥下リハは必須ですが
高齢者や生活期にいる方にとっては
摂食・嚥下リハよりも食事介助と介助中の観察の方が重要です。
そして、食事介助に気をつけるだけで食べ方が改善されるケースは
日常茶飯事、枚挙にいとまがありません。
もっと言うと、摂食・嚥下リハをいくら頑張っても
漫然とした食事介助が為されれば、
効果が出ないどころか逆効果になってしまうことすら起こり得ます。

古くて新しい食事介助の問題について
問題は多数あって、しかも錯綜している現実を
これからの記事で解きほぐしていきます。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4878

ポジショニングの本質@褥瘡予防

認知症のある方や生活期にある方の褥瘡予防において
ポジショニングはとても重要な意味があります。

ただし、その意図を的確に実現できているか
見直すべき時期にいるとも考えています。

現場あるあるなのが
良い姿勢を作ろうとして
無理矢理最大可動域を設定しようとして
クッションをぎゅうぎゅうに詰め込んでしまう方法論です。
そのようなやり方では、一見見た目拘縮予防のために
最大可動域を保持しているように見えても
クッションを外した途端にキューッと身体が縮こまってしまっていませんか?
筋がリラックスした結果として、最大可動域を実現できているわけではなく
外力として無理矢理最大可動域を設定しているのですから
外力がなくなれば元の木阿弥も当然です。

良い姿勢を作るのではなくて
結果として良い姿勢になるように
そのココロは過剰な筋緊張からの解放です。
過剰な筋緊張から解放されれば筋組織の中を通っている毛細血管を拡張させ
血流を改善することが叶います。

褥瘡というと
その見た目から筋の挫滅や壊死などを思い浮かべるかと思いますが
褥瘡学会の定義を確認します。
「身体に加わった外力は骨と皮膚表層の間の軟部組織の血流を低下、あるいは停止させる。
 この状況が一定時間持続されると組織は 不可逆的な阻血性障害に陥り褥瘡となる。」

この定義を図示・簡略化すると
褥瘡とは外力によって血流阻害が生じた結果として起こる
外力とは圧迫と剪断力である
となります。

ところが
現実には軟部組織の毛細血管の血流阻害を引き起こすものには
もう一つあって
それが「拘縮」です。
拘縮の状態とは、ある筋もしくは筋群が
一定の方向に長時間収縮し続ける状態ですから
当該筋の中を通る毛細血管が潰されてしまって血流阻害が起こります。
図示すると下記のようになります。

つまり
褥瘡予防のためには
血流阻害を改善することが肝要で
そのために、1)圧迫 2)剪断力 3)拘縮 への対応がポイントとなります。
栄養補給も重要ではありますが、
血流阻害された状態では、いくら栄養付加しても効果がない
血流阻害が改善されて初めて意味をもたらすものとなります。
対象の方は高齢者が多いので、その方にとっての適量を見極めないと
高タンパクによる腎機能障害を引き起こしかねません。

 

褥瘡を予防し改善していくためには、前述した通り
1)圧迫 2)剪断力 3)拘縮 に対する対応がポイントです。
  
1)圧迫に対しては除圧
2)剪断力に対する商品としては、現段階では ジェルトロン が最善だと思います。
  商品特性については_こちら_をご参照ください。

   以前に他社の新品の褥瘡予防クッションを使っていたのに
   褥瘡ができてしまった方がいて
   ジェルトロンを10日間使用しただけで
   褥瘡が完治した方がいました。
 
3)拘縮予防については 筋緊張緩和が必要です。
これらいずれにも、姿勢は関わってきます。

褥瘡予防・改善の合言葉は「血流確保」!
そのための除圧、体位交換であり、座り直しであり、使用クッションの見直しであり
ポジショニングなのです。

ポジショニングというのは、とても重要ですが
何のためのポジショニングなのということが、現場では確認されないままに
「良い姿勢を作らなければ」という思い込みで為されていることが多々あります。
そして、その結果、効果がないどころか逆効果になっている。
ところが、善意のもとに為されていることだから
為されたことの適否についての検討が行われにくい。。。
現場あるあるです。
そして、どんどん拘縮がひどくなっていくけれど
すべてが対象者の状態のせいになってしまう。。。
「褥瘡予防のために良い姿勢を作ろう!
 クッションで最大可動域を保とう!」
という誤った実践が拡大再生産されてしまう。。。

リハやケアの分野での
誤解、手段と目的の混同やすり替えは本当にいろいろなところで散見されています。

知らないが為に
というよりも、中途半端な知識によって
善意が逆効果になっている現状をとても悲しく思います。

現状改善の方策は2つ

ひとつには
知識を学ぶ過程において
概念の本質を理解する という体験を担保することです。

中途半端な知識、聞きかじりの知識と概念の本質を理解する
ことはまったく異なります。

もうひとつは
目の前にいる対象者の方の言動を虚心に観察することです。
先入観や思い込みによって
見たいように事実を脚色して見るのではなく
事実を事実として観ることのトレーニングです。

現場あるあるなのが
まず観察するよりも先に
過去の似たような事例に対して有効だった方法論を思い浮かべながら
観察してしまう在り方です。

つまり、観察よりも判断が先にあるのです。
状態像の明確な把握よりも
ハウツーを当てはめる方法論が蔓延っています。

概念の本質を理解する
事実を事実として観察する
すると、本来はどうすべきだったのか、ということが浮かび上がり
適切に対応することができるようになり
従来の方法論との違いやその意味を明晰に認識できるようになります。

 

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4855

卒後養成の課題

イメージ_猫

実習がクリニカルクラークシップ(CCS)に移行したことに伴い
今後就職先での卒後養成をどう組み立てていくかということが
ますます問われるようになると考えています。

資格のない学生が
安心して安全に体験学習が行えるようにするために
卒前の実習がCCSへ移行するのは理の当然なのでしょう。

一方で
従来型の実習に比し、どうしても主体的な取り組みとはなりにくい構造でもあります。
つまり、学生としての体験学習はしたが
一人の療法士としての体験学習をしていない人を
どのように職場で従事させるか、養成していくかという問題が起こります。

職場によっては
かなりシステマチックに卒後養成に取り組んでいる施設もあるようですが
今後卒後養成の充実度のばらつきが顕在化してくるのではないでしょうか。

今はどの分野の人も忙しい日々を送っている人ばかりだと思います。
一方で働き方改革が進められ(このこと自体はもっともなことですが)
皮肉にもより一層時間的制約が厳しくなったと感じている人もいるのではないでしょうか。

私が就職した頃に比べると
論文をオンラインで読めるようになったり
本も多数出版されるようになり、動画も付属していたり
研修会も協会や士会以外の民間の研修会主催団体が多数出てきて
学ぶ環境はものすごく豊かになってきたと感じています。

学ぼうとする人はどんどん学べるような環境が整ってきている一方で
そうでない人もますます増える構造にある。。。

  どんな世界もピンキリですし
  2:6:2の法則もありますし
  自己責任ですから言ったってキリがないし
  
組織として、専門職としての最低限担保したいラインを
どこに置くのかが
問われるようになってきたのではないでしょうか。
もう既に作業療法士は居てくれればありがたいという職種ではなくなっています。

大きな規模の施設にも、小規模の施設にも
個々それぞれの課題が顕在化されつつあるのではないでしょうか。

あちこちで開催される研修会の大多数が机上の知識伝達型です。
専門職として、知識の習得は必須ではありますが
「聞いたことがある」レベルにとどまってしまうようでは
臨床家として実践に活用できているとは言えません。

認知症の分野で言えば
基礎的な知識提供型や実践紹介などは数多くあれど
それらを結びつける一番肝心な
知識をどのように活かすのか
知識と実践を結びつける臨床思考解説型の研修会は
とても少ないのが現状です。

知識の伝達は知識伝達
ハウツー的実践はハウツーとして
乖離された伝達がなされがちな現状があります。

ポジショニングしかり、食事介助しかり、Activityしかり。。。

また
先の記事 でも書いてきたように
問題設定の問題というのは認知症の分野で頻出していますし
おそらくOTの関与する他の分野でも潜在しているはずです。

臨床家は
結局のところ、OJTで育っていくものと感じています。
知識と技術は、その時々で深め広げていくもの。

限られた時間とエネルギーの中で
どうしたら、良い作業療法士を育成できるのか
問題設定の問題に絡め取られずに
手段と目的の混同やすり替えに自覚的になれるようにするために
どうしたら良いのか

あるあるなのが
スローガンを立てることですが
混同しないようにしましょう、すり替えないようにしましょう
といくら唱えても改善できるはずがありません。

混同していない人、すり替えない人は
混同やすり替えをしている人がすぐにわかりますが
混同している人は、混同していない人との区別ができません。
混同しないことがどういうことかわからないので
行動を修正することもできません。

まさしく、混同するなと言うのではなく
混同しないように指導することが必要なのです。

メタ認識の問題ですが
現場で切実に必要なのに
研修会で教えてくれることはありません。
それどころか、研修会で混同の具体例を開陳されることのなんと多いことか。。。

私が
どの分野にも共通する、臨床家として
最低限必須の、これだけは習得させるべきと考えているのは
目標設定です。

目標設定さえ、目標というカタチで設定できれば
なんちゃってOTにならずに
自分で自分を育てていける
対象者の不利益を回避することができると考えています。

目標設定は
学校で習ったけど、わかったようなわからないような。。。とか
実習中に指導者に尋ねても
「そのうちわかるよ」
「頭ではわかっているけど言葉にできないだけだから気にしないでいいよ」
などと励まされてるんだか、誤魔化されてるんだかわからない。
いった体験をしてきた。。。とか
実は、自分の目標設定って自信がない。。。とか
後輩や学生に教えるのに困ってる。。。という人でも
目標を目標というカタチで設定できるように
自分でトレーニングをすれば良いだけです。

しかも、目標を目標というカタチで設定できるようになるということは
目標設定の上達と同時に
概念の本質を理解し、実践に活かすという
メタ認識・メタ能力を向上させる
ことにもなります。

メタ認識・メタ能力そのものをトレーニングすることは難しいけれど
目標設定の過程を通して
メタ認識・メタ能力をトレーニングすることは可能です。

若手作業療法士には、一石二鳥!
超オススメですよ (^^)

本当に概念の本質を理解し、実践に活かすことができる人は
目標となんちゃって目標の区別ができます。

リハやケアの分野で蔓延している
「一見正しそうで、よくよく考えるとおかしなこと」にも
気がつけるようになります。
本来はどうすべきだったのか、わかるようになります。
そして、おかしなことなのにどうして広まってしまったのか
ということもわかるようになります。

でも、概念の本質を理解し、実践に活かすことをしていない人は
「みんなが言ってるからおかしくないじゃん」
「言葉遊びなんじゃないの?」
としか、思えないのです。
そして、目標となんちゃって目標の区別がつかないのです。

私としては、
卒後養成のいの一番に、目標設定のトレーニングをオススメします。
仮に、組織として取り組みがなかったとしても
たった一人、自分一人だけでもトレーニングすることが可能です。

目標設定やそのトレーニング法については、
すでに記事にしてありますので
あちこち検索してみてください。

 

 

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4793

ポジショニング設定の思考過程

生活期にある方に対して
ポジショニングを設定する場合に
どのように考え対応しているのか、お伝えします。

まず、最初にポジショニングを設定していない状態での
全身のアライメントを確認します。

そこで初めてポジショニングを設定する際の
優先事項が明確化される場合もあるし
最初に優先事項が決定していることもあります。

例えば
手指の拘縮が強くてハンドケアが行えないとか
頚部後屈が強くて誤嚥のリスクが高いとか
褥瘡治療のためとか

身体は解剖学的にも生理学的にも連続性があります。
身体は繋がっているので
必ず全身のアライメントを確認します。

その上で
判断・決定・合意・共有化された優先事項に則って
ポジショニングを行います。

現場あるあるなのが
設定する人が気になっているところだけ見てしまい
全身の関係性へ配慮なく設定してしまうことです。

  よくあるのが、
  膝関節の屈曲拘縮を予防しようとして
  頑張って過剰にクッションを入れて膝を伸ばしてしまうとか。
  あるいは、
  股関節の内転を予防しようとして両足の間に過剰にクッションを入れて
  足を広げてしまうとか。

  手指の拘縮が強いと、手指だけ見てなんとかしようとしてしまうとか。

クッションを外すと一気に元の姿勢以上に
手足がギューッと屈曲してしまうとか。

「だからクッションでちゃんと足を広げて伸ばさないと
 もっと拘縮がひどくなっちゃう」と誤認されていますが
事実は反対で私たちの対応がよくないのです。

誤ったポジショニングがなぜ漫然と行われてしまうのか。
原因は概念や知識の本質を理解した上で活用する
ということが為されていないと考えています。

筋の起始停止を思い出してください。

上肢も下肢も2関節筋はたくさんあります。
筋をリラックスさせずに
2関節筋の遠位部を無理やり伸ばせば近位部は逆に収縮するしかありません。

良肢位保持と唱えながら逆に関節拘縮を悪化させてしまうのです。
「身体が硬くてオムツ交換が大変」と言いながら
自分たちでオムツ交換が大変な身体にしているのです。

姿勢とは身体の働きが反映されています。
身体の働きが改善された結果として良い姿勢になるのであって
外力的に無理やり良い姿勢を作ると
効果がないどころか逆効果になってしまいます。 
(ポジショニングだけでなくROM訓練でも同じことが起こっています)
(目的と手段の混同、すり替えがここでも起こっています)

軽度の状態では、悪手の結果をすぐに見ることがないかもしれませんが
後になって悪手の蓄積のツケを対象者も周囲の人も払わされる。。。
食事介助の不適切なスプーン操作とまったく同じことが
違うカタチで起こっています。

介護老人福祉施設で働く人たちは
ものすごい拘縮を起こしてしまっている人たちを
たくさん見ているのではないでしょうか。

でも
私たちの対応が悪いのだとしたら
私たちの対応を変えれば良いだけです。
ここに希望もあります。

一見、強直かと思うような状態像でも
まだまだ筋の過剰収縮であって改善可能性がある方はたくさんいます。

手指の拘縮が強く、なかなか手指を広げることができず
上肢も下肢も伸展位で空中に突っ張ってしまうほど筋緊張亢進が顕著な方でも
全身のポジショニングをきちんと設定してから
手指にスポンジを装着すると上肢も下肢も手指も筋緊張が緩和され
股関節も膝関節の屈曲も容易になり
上腕を外転させることも容易となり
手指を開排させることも容易となった方がいらっしゃいます。

ポジショニングを設定する時には
必ず個々の対象者にとってのキーポイントがあります。
人によって
股関節の屈曲位確保だったり
側臥位設定だったり。。。
そこを明確化し、外さないようにします。

その上で
身体と身体、身体とベッドの隙間を無くすように
クッションや古タオルなどを設置します。
つまり、身体の姿勢・肢位保持する筋の機能を代償するのです。
そうすると筋の過剰収縮を防ぐことができ
結果としてリラックスした姿勢を設定できるようになります。

最後に手指にスポンジを装着すると
手指の筋緊張緩和も為され
そのことが同時に筋の近位部である上肢帯の筋緊張緩和にもなり
悪循環を脱却し、良循環が始まっていきます。

  ただし、全身のアライメントをきちんと観察することができないと
  適切なポジショニングは設定できません。
  ポジショニングが難しいのではなく
  アライメントを観察できていないのです。
  観察の眼を養うしかありません。
  近くに良い先達がいれば
  その人のワザをよく見て学んでください。
  良い先達がいなければ
  覚悟を決めて対象者の方から学んでください。

生活期の方のポジショニングとは
よく為されているように
良い姿勢を作るために
無理矢理足を広げたり伸ばしたりすることではありません。

その方の本来の可動域、本来の随意性が出現しやすいように
余分な筋緊張を緩和させること
ラクな姿勢を作ることなのです。

つまり
ここでも、改善・修正するのではなく援助する
という視点に依拠した対応をしています。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4802