Category: 素朴な疑問 不思議なジョーシキ

対人援助職の業(ごう)

認知症のある方の生活障害やBPSDに対して
多くの人が誤解していると思います。
   
生活障害やBPSDというのは、実は、表面的な表れです。
何の表れかというと、
症状や障害・能力・特性・環境(介助者の言動を含めて)が錯綜して現れているのです。
ですが、多くの場合に、錯綜している現実を観察せずに
見た目の表れにすぎない、生活障害やBPSDだけを切り取って見て
「帰宅要求・徘徊・暴言・暴力」などとレッテルを貼って
「どうしたら(それらが)無くなるのか」と悩んでいるのです。

残念なことに
このような思考過程は現場あるあるです。

帰宅要求のある方に対しては
「タオルを畳ませる」「飲食を提供する」「気持ちをそらせる」
などの対応が効果的とされています。
必死になって帰宅要求している認知症のある方に向き合うことなく
その場をしのぐ対応をすることで
帰宅要求がなくなったという経験が蓄積
されてきたからだと考えています。

認知症のある方の生活障害やBPSDというカタチには
症状や障害・能力・特性・環境(介助者の言動も含めて)が錯綜して反映されています。
生活障害やBPSDは単に能力が低下したから起こっているわけではありません。

ところが
まず、最初の生活障害やBPSDが起こっている場面そのものを観察しようとする人は
とても少ないのが現実です。

観察しようとしても
「認知症のある方の困りごとを援助しよう」という意図ではなく
「表面的に職員にとっての困りごとをなくそう」という意図を持って
観察してしまう人はとても多いものです。
意図のベクトルが真逆です。
 
私たちは意図に基づいた観察をしているので、
職員中心の意図であれば得られる洞察結果は職員中心のものにしかなりません。

援助(認知症のある方中心)と強制・支配(職員中心)は
コインの裏表のようなもので、
援助であれば強制・支配にはなり得ず
強制・支配であれば援助にはなり得ない。
そして、裏表は容易に入れ替わってしまいがち
なものです。

よく言われる言葉のひとつに
「時間があればそうしたいけど時間がないから仕方ないのよ」
という言葉があります。
確かに私たちの手は2本しかありません。
今はどの施設のどの職種の人もみんな忙しい。
時間に余裕をもって働けている人の方が圧倒的に少ないのではないでしょうか。
確かに忙しくて気持ちがあっても実際にはできないことも多々あるでしょう。
ですが、本当に時間さえあれば適切にできるのでしょうか?
私が過去幾多の人たちと働いてきましたが
時間を言い訳にする人で時間があった時に適切に関与しようとしている人に
あったことがありません。
忙しくてもちゃんとしようとする人はするし、しない人はしないのです。
忙しい以外にもっと根本的なところでできない理由があるのです。
そして、多くの人は実は無意識には自分ができないことをわかっている。
わかっているからこそ、多忙を言い訳に、防衛機制として否認し合理化しています。

仮に
援助の視点を明確にしながら観察しようとしても
知識がなければ(概念の本質を理解していなければ)
的確に洞察することは難しいものです。
的確に洞察できなければ的確な判断ができようはずもありません。
的確な判断ができたとしても
その判断をカタチにして見せられる技術が伴わなければ机上の空論となってしまいます。

援助の視点をぶらさないようにすればするほど
いくつもの段階で自分自身のできなさに直面させられることになるのです。
これは本当に辛いことです。
その辛さを経てようやく行動変容を促すことができる段階に達することができます。
本当に認知症のある方の行動変容を促すことができる人は
そこに至る過程での辛さを嫌というほど体験しています。

耳障りの良いスローガンを唱えるだけでは
行動変容を促すことなどできようはずがないことを身に染みてわかっています。

抽象論や総論を語りたがったり
スローガンを連呼する人を私が信用できない理由がそこにあります。

そして、その段階に達してもなお、いえ、その段階に達したからこそ
常に援助と強制・支配がどんなに入れ替わりやすいのか
日々の場面場面で自戒し自制することの厳しさを思い知らされるものです。

一部では
認知症のある方への対応はかなり蓄積されてきたと言われているようですが
私はとんでもないことだと強く感じています。
もう一度、援助の視点・原点に立ち返って組み立て直さないと
本当に真摯な人が辛くなるだけで現状は一向に改善されず
理念と実践の乖離や言行不一致なことに疑問を抱けない人の声だけが大きくなり
結果として、認知症のある方とご家族の余分な困難がいつまで経っても改善されないようなことになりはしないかと心配しています。

そして
私だって、まだまだではありますが
今、本当に必要とされている理念と実践を結びつける思考過程を
ある程度は言語化することができるようになったので、
このサイトや講演や執筆活動を通して公開・伝達しています。

私には地位も名声もありませんが
本質を追求しようとする姿勢は持っています。
この広い世界のどこかに必ずいるはずの受け止めてくれる人に向かって声をあげています。
どうぞこの声が届きますように。
そして届けるに値する実践を私が為し続け言葉を紡ぎ続けることができますように。

 

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潜在する課題「口を開けてくれない」

タイトルを見て気がつきましたか?

「口腔ケアの時に口を開けてくれない」
「食事介助の時に口を開けてくれない」
といって質問されることは多々あります。

私は常々
問いの中に答えがある
答えが出ない時には問いを問い直す
ことが大切だと考えています。

「開けてくれない」という相談事の根底には
無自覚ではあっても、前提として
「開けてくれて当然なのに」
という相談者の気持ちが反映されています。
相談するくらいですから
真摯に業務に向き合っていることは伝わります。
相談者の善意を疑うものではありませんが
相談者の心のどこかに主客転倒が生じているから
「くれない」という言葉が発せられるのです。
言葉には発する人の意思が反映されてしまうものです。

「開けてくれない」という言葉は
前提として相手が自分の介助に「合わせる」ことを要請しているから
出てきてしまう言葉です。
本来であれば
自分の方が対人援助のプロとして
相手に合わせられるはずなのに。

  ヨーロッパの諺に
  「地獄には善意が満ちているが、天国には善行が満ちている」
  という言葉があるそうです。
 
自分の方が相手に合わせようと思えば
「口を開けようとしない」のか
「口を開けられないのか」を観察・洞察しようとします。
そして
「開けようとしない」のであれば、
開けようとしない相手にとっての必然がありますから
その必然を観察・洞察します。
「開けられない」のであれば、
開けられない必然を観察・洞察します。
どうしたら良いのかは、その次の話です。

口を開けてくれない
口を開こうとしない
口を開けることができない

文章で書かれたものを読めば違いがあることがわかると思います。
でも、現場では多くの場合に、これらを一緒くたにして、ひっくるめて
「口を開けてくれない」と問題設定しているのです。

「(口を開けてくれて当然なのに)口を開けてくれない」
と問題設定した段階で
自身の介助の正当性について
疑問や不安を抱いていない
ことを表明しているも同然です。
自身の介助の正当性に疑問や不安を抱いていないということは
認知症のある方の「口を開けてくれなさ」そのものを観察していないとも言えます。

これは本当に現場あるあるの主客転倒です。
二重の意味での主客転倒です。
介助に協力させることを心のどこかで考えている
観察せずに対応を考える
これでは効果が出る方法論を提供できるはずがありません。

多様な対象者の状態にあわせて、介助の多様性を提供するのではなく
対象者の方が、多様な介助者の多様な介助方法に適応してくれている。。。
対象者の状態の多様性を観察することで何が起こっているのかを洞察するのではなくて
介助者の推測に対象者を当てはめようとする。。。

多様性を失っているのはいったいどちらなのでしょう?

でも
このような現状が生じてしまうことにも理由があって
対人援助職という職業そのものが抱える業(ごう)の様なものがあるのです。

この問題については次の記事で。
  

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口を開けてくれない方への口腔ケア

口腔ケアを嫌がる方は案外多くいらっしゃいます。
「認知症だから口腔ケアを嫌がる」というのは安易な考え方です。
認知症のある方それぞれに嫌がる必然があります。

最も多いものは、過去の不適切な口腔ケアを再認して拒否するというケースです。
それって当然ですよね?
口の中というデリケートな部分に対して侵襲的な刺激があれば防御するのは当然です。

だとすると、
侵襲的でない口腔ケアをどうしたら良いかと考えることになります。
ここでよくある誤解が
〇〇さんの口腔ケアへの拒否や抵抗をどうしたらなくせるか
ということを考えたり話し合ったりしがちなことです。
まず最初にすべきことは
〇〇さんが嫌がっている口腔ケアの場面そのものを観察し直すことです。

そうすると
実は言語理解力が低下していて
声かけだけでは
「歯磨きをしてもらうために口を開ける」ということを認識できない
でも
歯ブラシを見てもらう、
あるいは歯ブラシを横に動かす動きを見てもらうことで
「歯磨きをしてもらうために口を開ける」ことを認識できることに
私たちが気がつくことができます。

現場あるあるの誤解は
強引で無理矢理といった侵襲的でない、適切なケアを提供しようと考えて
懇切丁寧な声かけという言葉に頼った対応をする
声かけは丁寧でも、いきなり歯ブラシを口の中に突っ込む

というものです。
声かけを理解したかどうかの確認もしていません。
それではびっくりして嫌がって当たり前です。
視覚情報の提示によって口腔ケアに協力していただけるようになる方は大勢います。

まず、歯ブラシを認知症のある方の目の前に提示して、見たことを確認します。
その後に、歯ブラシを左右に動かしながら「歯磨きしましょう」と声をかけます。
これだけで嫌がっていた方が大きく開口してくださることは多々あります。

大きく開口してくれない場合でも
少しでも開口してくれるなら、開口してもらえたところから可能な範囲で
歯をブラッシングします。
そうするとだんだんと開口が大きくなるので、ブラッシングの範囲を広げていきます。
奥歯を上からブラッシングすることができるようになれば
奥歯の裏側をブラッシングすることも可能になります。
奥歯の裏側をブラッシングできれば、手前に戻ってくることで
前歯の裏側もブラッシングが可能となります。

それでもやっぱり開口してくれない方もいます。
口輪筋が硬くなっていたり力が入ってしまっている場合です。
そのような場合はいきなりブラッシングをするのではなく、
自身の指に歯磨きティッシュを巻きつけ
口唇を小さく丸く円を描くようにマッサージします。
するとだんだんと口輪筋の緊張が緩んできます。
一番多いのが下唇の下あたりが硬くなってしまっているケースが多いので
下唇と歯の間に指を入れることができたら、そのまま指を左右に動かします。
ここまでできれば次第に開口できるようになります。

もう一つ
「口を開けてくれない方への口腔ケアをどうしたら良いか」
という命題に潜在する本質的な課題があります。
それは次回に。
  

 

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「認知・認知の人・認知のある方」

バリデーションセミナー2012

ギョーカイ用語のようになっていますよね。
「認知・認知の人・認知のある方」
文脈から認知症や認知症のある方のことを言っているのはわかりますが
これって、とってもヘンな言葉です。

私は地域の公民館に伺って講演をすることもありますが
ある時、講演終了後に一人の方が近寄ってきて
「すみません。質問があるんですけど」と言われました。
「認知とか認知の人、認知のある方っていう言葉がありますが
 これって変な言葉ですよね?」と尋ねられました。

まさに!まさに!

お気づきの方もいるかもですが
私はいつも「認知症のある方」という表現をしています。
だから、尋ねてくださったのだと思います。
この表現は、英語の「People with Dementia」「People who have Dementia」の直訳です。
英語表現のすごいところは、ちゃんと「人+認知症」として明確に区分けしているところです。
そもそも「人」がいて「認知症」になったということが明確に表現されています。

ところが、日本で一般的に使われる認知症高齢者という言葉だと
「人と病気が混在・一体化」「人が形容詞化」「病気に修飾された人」として
表現されています。

「認知・認知の人・認知のある方」って日本語としても成立していませんし。
認知という精神機能と生きている人間とを並列表現するのもおかしいし
認知があって良いじゃないですか。認知が無ければ困るじゃないですか。
英語にするともっとハッキリわかると思います。
「cognition・People of cognition・People with cognition」
もはや、何を言いたいのかわかりません。。。

言葉は概念を表すものなので
こういう言葉を使っていながら「人として接する」というのは論理矛盾しているんじゃないかしら。

言葉を大切にするということは、概念を大切に取り扱うということです。
医療・保健・福祉従事者が「認知・認知の人・認知のある方」と言うのは
「私は概念をきちんと取り扱えません」と公言しているも同然なんですけどね。。。

私たちは対人援助職のプロとして養成されてきましたが
質問した人だって、何かの職業のプロです。
だからこそ、「言葉と概念の食い違い」に気がついて質問されたんじゃないだろうか
と感じました。

 

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その人らしさって何?

その人らしさって何?
そう尋ねられて端的に明確に言語化できる人は少ないものです。

その人らしさとは、特性のことです。
その人が繰り返し使ってきた行動のパターンのことです。

行動のパターンなので
パターンが良い結果となることも
そうでないこともあります。

認知症のある方の場合
前の記事で書いたように
特性が裏目に出ると生活障害というカタチに見えるので
単に判断力低下と職員が誤認してしまい適切に対応できない
しかも、職員がそのことを自覚できていない
認知症のある方が疑問を抑圧せざるを得ず
本当の問題が表面化しにくい
認知症のある方は表面的に職員の指示に従っても
本当の信頼関係が構築できにくい
というケースがかなりあります。

「その人らしさを大切に」と唱えている場合じゃありません。
繰り返し唱えることで事態が改善されることはありません。
唱える前に、まず概念の本質を理解することが大切です。
概念の本質を理解できれば観察・洞察への道が開けます。

 

・・・ さて、ここでお知らせです ・・・

今月と来月は
記事の更新を月1回とさせていただきます。
どうぞご了承ください。
 

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「ムセたらトロミ」はやめましょう!

対象者の方が
飲み物を飲んでいてムセたら
すぐにトロミをつけている人はとても多いですよね?
それはもうやめましょう!

やめるべき理由は
1)その方がどのように飲んでいるのか観察していない
  その方の飲食の能力も困難も把握していない
2)ムセる人にはトロミをつけるべしと
  教わったことを漫然と実行しているだけ
3)トロミという粘性の高いものを摂取させられると
  かえってその方の摂取能力を阻害してしまう場合が多い
です。

確かに
トロミをつけた方が良い状態の方もいますが
トロミをつけるよりも先に修正すべき介助者の対応が
為されていないこともあります。

例えば
覚醒不良のまま摂取させている
口腔内が汚染されたまま介助している
痰がらみのまま摂取させている
頸部後屈位のまま摂取させている
足底設地為されていない
注意散漫な状態のまま介助している
不適切なコップ介助をしている
不適切な1口量を摂取させている
オーラルジスキネジアの自己抑制のタイミングを見ずに介助している
などなど。。。

上記状態を改善させずに
ムセたらトロミ、さらにムセたらもっとトロミをつける。。。
現場あるあるではありませんか?

かつて
200ccのお茶にトロミ剤を大さじ2杯つけている場面に
遭遇したことがありますが
飲めませんよ?
同じ粘性で飲めるかどうか、飲んだ時の感覚を知るためにも
ぜひ、試していただきたいものです。

おくりこみにパワーはいるわ、
咽頭のあたりにこびりついた感覚がするわ、
嚥下した後も違和感がずっと続きます。

私たちは
その違和感を解消しようとして
唾液を繰り返し飲み込むことで解消することができますが
さて、該当する対象者の方々はそこまで実行できるのでしょうか?

寝たきりに近いと
口唇や舌、口腔内が乾燥してしまいがちです。
そのような方の咽頭付近にトロミのついた飲み物が
貯留し続けることで細菌感染の温床となる危険性はないのでしょうか?

誤解を招きたくないのではっきり言いますが
トロミ剤が悪いと言っているわけではありません。
必要な方には必要なトロミをつけた飲み物を提供すべきです。
悪いのは
「ムセたらトロミ」
「うまく飲み込めない方にはトロミ」
という漫然とした対応・パターン化した対応です。

例えば、認知症のある方は
睡眠導入剤や抗不安薬、抗精神科薬を処方されることも多々あって
オーラルジスキネジアのある方は少なくありません。
 
オーラルジスキネジアのある方の飲食介助は、実はとても難しいものです。
準備期や口腔期に問題が生じていますが、
咽頭期には問題がないことの方が圧倒的に多いのです。

ところが、オーラルジスキネジアがあることにすら気づかずに
「なんか食べにくそうだから、トロミをつけてみようか」
とトロミがつけられてしまい
口腔期に一層の負担をかけて、結果、
おくりこみができずにため込んでしまうというのは現場あるあるです。

  講演などの質疑応答で
  「ため込んでしまって飲み込んでくれない人がいるのですが
   どうしたら良いのでしょうか?」
  という質問をいただくことはよくあります。

  ためこむというのは、おくりこみ困難の結果として起こっていることですから
  本来は「送り込むのに時間がかかる」という事象として観察・判断すべきです。
  そのような問題設定ができれば
  「現在の食形態は口腔期に負担をかけている」
  「楽に送り込める食形態を選択しよう」と考え直すことができます。

  対象者自身の食べ方そのものを観察・洞察するのではなく
  介助者にとっての介助困難を対象者の問題と認識してしまう傾向がある
  という根本的な大きな問題が現場には存在しているのですが
  明確に把握し危機意識を抱いている人がどれだけいるのでしょうか。

ムセ→トロミ
という漫然とした根拠のないパターン化した対応は、もう卒業しましょう。

立ち上がれない→筋力強化
という漫然とした根拠のない対応と、同じコトが違うカタチで起こっています。

大切なことは
その時々の対象者の方の状態をきちんと観察・洞察することです。

 

 

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心身の使い方は重度の認知症でも改善できる

人は生き物ですから
どうしても老化は起こります。

老化の一環として量的低下も起こります。
若い頃は記憶力が良かったのに
年をとるとめっきり落ちてしまったとか。
かく言う私も高校生の頃は部活の先輩も後輩も含めて
みんなのお誕生日と電話番号を覚えていたものですが
今は、とっても無理!
覚えることは選択肢にもあがりません。
まず、スマホを取り出しています。

老化は生き物としての宿命です。

アンチエイジングも一つの考え方ですが
それにしたって不老不死というわけにはいかないので
限界があるものです。

であるならば
なるべく心身の機能を維持できるように考えるだけでなく
衰えていく心身と上手に付き合う方策を考えても良いのではないでしょうか。

流動性知能が衰えても、結晶性知能は維持されやすい
とはよく言われていることです。

流動性知能をトレーニングするのではなく
結晶性知能を活用できるようにする

今や覚えていなくても
PCやスマホを開けば情報を得ることは容易です。
人に要請されるのは、情報の真偽や適否を見定めることです。

結晶性知能を活用する
まさしく、智慧や叡智が求められている。
その点において(背景は真逆であったとしても)
認知機能が低下しても暮らしていくことと
情報の海に溺れずに仕事をする、生きていくことに
大きな変わりはないように感じています。

鶴見俊輔は
「耄碌を濾過器として考える。
 大事なことだけ残してあとは忘れていく。」(要旨)
と言っていましたっけ。

それと同じことが身体にだって言えると思うのです。

筋力という量的低下はあっても
身体協調性を高めて対応力を維持していく

食べることに関しての協調性を維持できるような食事介助を意識する

喉頭挙上能は、介助によって相当変わります。
もちろん、対象者固有の病態による場合もありますが
生活期にある方の場合には多くは不適切な介助による誤学習が原因です。
だからこそ、介助を変えると食べ方が変わる
喉頭挙上できなかった方でも完全挙上できるようになります。

立ち上がりに関しても
なかなか立ち上がれずに生活が不便になってきたら
腰背部の同時収縮を使わない立ち上がり方に変えていく

もちろん、重力に負けない+体重を支えられるだけの筋力は必要ですが。
ボディビルダーにならないと暮らせないわけではありません。
MMTで5ないから立ち上がれないわけではありません。
どこまで筋力を鍛えなければいけないのか
その根拠もなしに、立ち上がり100回なんてやっていると
「漫然としたリハ」と言われちゃうんじゃないでしょうか?

結果として起こっていることだけを見て
老化、筋力低下と判断するのではなくて
年老いたとしたら、その年老いた状態なりに、その時々に応じて
リ・ハビリス(再び適する)の援助となるように

高齢期において
筋力低下・廃用論が吹聴され流布していますが
本当にそうなんでしょうか?

立ち上がりにおいても
食事介助においても
筋力強化をしなくても
立ち上がれるようになる
喉頭挙上が改善するということに当たり前のように遭遇しています。

impairmentは治せないが、disabilityは改善できる。

身体はつながっている
解剖学的にも生理学的にも連続性があります。

連続性があるという身体の働きのメリットを活用できるような
リハビリテーションの実践が求められていると考えています。

 

 

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違いを体験する→認識できる

わかる ということには、果てがない。

逆に
わからないからできないし
わからないからやってしまう

昔、老健で勤務している時に
「なんでよっしーさんが食事介助すると点数(介護報酬)が取れて
 私が介助すると点数が取れないの?」
とあるスタッフが陰で言っているのを聞いたことがあります。

あぁ、この人は
自分と私の介助に違いがあるのがわからないんだなぁと思いました。

わかる、ということは
白と黒の間のグレーの色調の解像度がよりきめ細やかに認識できる
ということでもあります。

ムセさせずに食塊を口の中に入れることができる
という意味では、その人と私の介助に違いがないように
まさしく見えたのでしょう。

でも、私にはその人と私の介助の違いがわかります。
私が実践していること、意識しながら介助していることを
その人がしていないことがわかります。
その介助の違いによって、対象者の食べ方も違ってきていることを
摂食・嚥下5相のどこがどう違うのかと具体的に説明することもできます。
  
熱心な人であれば、直接私に聞いてきます。
「どうしたらよっしーさんみたいに介助できるんでしょうか?」
そう聞かれたらちゃんと答えます。

でも聞いてこない人に対して
いくら言葉で説明しても
自身の介助を修正してくれることにはつながりません。

その人の中では ちゃんと介助してるつもり だからです。

このような場合には
ちゃんと介助しましょうと言うのではなく
「ちゃんと介助する」体験と「ちゃんと介助していない」体験とを
対比させて体験させることが重要です。

説明より体験
違いがわかっていないのだから
まずは、違うということを実感してもらわないと。

技術職の強みは
違いを実感させられる体験学習を提供できる ことにもあります。

学ぶということは変わるということです。
卒後養成においては
各々の職場で対象者の方への対応が改善されることが目的です。

  ここでも往々にして
  卒後養成プログラムがあるから実施する
  というように、目的達成のための手段の適否の検討ではなく
  手段の目的化が起こりがちです。

  目的と手段を混同している人が卒後養成の担当になると尚更です。。。

職場のスタッフの傾向が把握できていれば
提供すべき体験が自ずからわかります。
より効果的な体験の提供の仕方も自ずから浮かび上がってきます。
必要な準備も芋づる式に浮かび上がってきます。

職場でポジショニングの勉強会を開催した時には
担当者やポジショニングをきちんとできているスタッフに
「何が足りないか?」「何を言って欲しいか?」も確認しました。
私だけでは見落としていることもあるかもですし
私と同じ見解であれば、ふだん相当実践できていないことの確認ができます。

知識編では
現場あるあるの誤解と本当に起こっていることを明確に言語化し
実践編では
私の介入前後で対象者の身体の変化を実際に触って感じてもらいました。
その上で
どうしたら再現できるのか
手順とポイントについて明確に言語化し
再現しようとして、し損ねているポイントについても言語化しました。

あるスタッフは
「よっしーさんに言われた時には正直なところ「?」って思ったの。
 でも、やってみたら本当にその通りだった。
 ごめんなさい。」
と吐露してくれました。

まさしく、
「聞いたことは忘れる
 見たことは思い出す
 体験したことは理解する

今まで、適切でない方法論を教えられてきて
長い間そのやり方を行なってきたという体験が誤認を蓄積させているのです。

多くの人は
教えてもらった通りに実践しても
効果がないという体験をしているはずなのですが
疑問を抱く人は少ないものです。

教わってきたことをやってるし
周囲の人がみんな同じことをしているから
目の前で起こっていることを「見れども観えず」にしている自覚が
生まれにくいのかもしれません。

だから
体験学習が有効です。
ピンポイントでの体験学習。

こちらの関与によって対象者に変化が生じる
という事実を現前させることです。

ポジショニングは比較的、体験が容易ですが
食事介助は体験と説明を切り離した方が体験学習がスムーズに進みます。
食事介助は
観察のポイントが多数あり、そのポイントが流動的だから
今まで食べ方を観察していない人が実際の食事の場面で観察することは
とてもハードルが高い、難しいことだからです。

まずは、知識の提供
:知る
次に、職員同士の食べさせっこ
:違いを感じる
最後に、対象者の介助の違いによる変化を動画に撮って説明する
:観察する

これらが的確にできるためには
まず、自分自身が適切な介助ができることが前提要件です。
自分が実践できていないことを他者に教えることはできません。

そして
実践の深みに応じて言語化できるようになる。
ここにも果てはない。。。

 

 

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