暮らしから障害を観る

私たちは「私」という固有のメガネで目の前に起こることを見ている。
誰もこの「私」というメガネを外すことはできない。
はずしたら「私」が「私」でなくなっちゃう。
無色透明のありのままを見ることはできない。

当たり前のことなんだけど
この当たり前のことからスタートしていくと
認知症のある方への対応について
一見常識として定着していることでも
ものすごくおかしなことだということに気がつけるようになることってたくさんあるんです。

医師はその職業の特性上、疾患を診ています。
私たちリハスタッフは、障害と能力のプロとして要請されているし
仕事の場が地域、在宅へと展開されればされるほど
対象疾患が急性的ではなく慢性に経過するものであればあるほど
暮らしから障害を観ることが要求されてきます。

この観点を忘れちゃいけないんだと、日々感じています。

障害から暮らしを観るのではなくて、暮らしから障害を観るのだと。

最初に暮らしがあるのだということを。

介護保険の利用者の方に対して
「活動・参加」が焦点化されてきているのは、とても良いことだと思う。

ただ、気をつけなくちゃいけないことが
ときどき置いてきぼりにされているような気がしてなりません。

廃用にならないように、引きこもりから脱することができるように
家から出る機会を模索しましょう
って、流れにときどき違和感を感じることもあります。

もともと、いわゆる活動的な方で外出が好きで。っていう方が
高齢に伴い、あるいは種々の障害によって、外出しなくなり
って言うんだったら、お出かけしましょうよって誘う
あるいは、お出かけできるように働きかけることはとても重要なことだと考えています。

けれど、もともとあんまり人と関わるのが好きではなくて
ひとりで静かに過ごす時間が好きで
そういう方に対して、外に出て人と交流しましょうって働きかけるのはどうかなーと思うのです。

どんな風に過ごしてきたか、過ごすことを望むか。ということは
まさしくその方その方によって、まったく違っていて、良い悪いの問題で語れることではありません。
年をとって、廃用にならないように、認知症にならないように、という観点から
暮らしぶりを変えるのは、一歩間違うと、たとえ結果としてであったとしても
今までのその方の暮らし方、生き方をも否定することになりかねません。
それって本末転倒ではないでしょうか。

高齢者に対して量的改善だけを求めるのは、生きものとしての人間の否定につながりかねない。
ICFの活動・参加は、誰かの指標にもとづいて奨励されているものではなくて
その方お一人お一人の援助のために作られた概念であるということを決して忘れてはいけない
正しい暮らし方、望ましい暮らし方などがあるわけがない

介護予防、生活習慣病予防というのは手段であって目的ではない
障害から暮らしを観るのではなくて、暮らしから障害を観る
介護予防できれば、認知症予防できれば、生活習慣病予防ができれば
より自分らしく暮らすことができやすくなる

暮らしが先

そこを取り違えてしまっては、いけないのだと強く感じています。 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3497